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わが心の近代建築Vol.36 市ヶ谷記念館(東京都新宿区市ヶ谷)

こんにちは!
今回の建物探訪は、近現代史で最も大きな流れを見てきた建物より、かつての陸軍予科士官学校だった建物を、歴史的な部分のみ部分保存した市ヶ谷記念館について記載します
(今回は、イデオロギー的な部分もありますが、極力、避けて記載できればと感じております)

まず、この界隈は江戸期には徳川三大家の尾張徳川家の江戸下屋敷のあった場所。海抜31mにあり、江戸守衛の要とされ、明治維新後、国に返還ののち、1874年に京都兵学寮が移転し、1870年、市ヶ谷の地に陸軍士官学校が設立。

1874年、竣工当時の陸軍士官学校【Wikipediaより転載】
1907年当時の正門と士官学校【Wikipediaより転載】

その後、数多くに軍事施設が作られるも、その殆どが1923年の関東大震災で倒壊や焼失。新たに新時代の士官学校が求められ、1937年、現在A棟がある場所に、第一師団経理部設計、鴻池組施工により「1号館」が建設。新校舎は関東大震災の教訓を生かし、震災で堅強性と耐火性が注目された鉄筋コンクリート造とし、中央部分に塔屋を置く、左右対称の5階建て、地下部分には防空壕も設けられます。

竣工当時の旧1号館【Wikipediaより転載】

そののちの歴史を記載すると、同年8月、より広大な土地を求め、士官学校本科が、現在の神奈川県座間に移転。
1941年に予科士官学校が埼玉県朝霞に移転。
戦時中は陸軍省の参謀本部や大本営陸軍部などが置かれ、太平洋戦争時の指揮がこの地で行われます。
終戦後には、GHQに接収。
1946年5月から1948年11月まで「いわゆる」東京裁判の舞台として講堂が利用され、多くの歴史を見てきました。

「いわゆる」東京裁判が行われたころの1号館【Wikipediaより転載】

日本に返還ののち、1959年からは自衛隊の市ヶ谷駐屯地・市ヶ谷基地へ。
陸上自衛隊東部方面総監部や統合幕僚学校などが置かれ、1970年には作家三島由紀夫率いる縦の会が引き起こした籠城事件が起こり、バルコニー部分部分での三島由紀夫先生の演説を映像などで拝見された方も多いのではないかと思います。

三島事件で演説を行う三島由紀夫【Wikipediaより転載】

しかし2000年に防衛庁が六本木から市ヶ谷に移転する際、この旧一号館も老朽化したため、解体され、のちに現在の防衛省A棟が建てられます。
なお、1号館の解体に際し、歴史的な生き証人であったこの建物の保存を臨む声も多く、「いわゆる」東京裁判の舞台になった大講堂、三島由紀夫籠城事件の舞台になった旧陸軍大臣室、陛下の控室に使用された「旧便殿の間」と外観の車寄せとバルコニー部分などの部分が移築保存が決定。
保存工事の施工には設計じとおなじく鴻池組があたり、再利用できる部材は極力再利用されました。
が…
その規模はもともとの1/ 10と小規模なもので、大講堂も南北180°反対の側になるなどありましたが、近年では地下壕部分も公開され、「いわゆる」東京裁判の関係資料や軍刀などが保存展示されています。

たてものメモ
市ヶ谷記念館
●竣功:1937年
●設計:陸軍経理部建設課
●施工:鴻池組
●文化財指定など:―
●入館料:無料(ただし午後の地下壕見学ルートは¥700)
●写真撮影:一部不可
●交通アクセス:市ヶ谷駅より徒歩7分
●参考文献:
 ・歴史的背景についてはWikipediaを参照
 ・建物内についてはガイドさんの話を記載
●留意点:
公開は平日の午前の部、午後の部の2回のみで予約制。
著作権や安全的配慮で展示資料、映像など一部の録音/撮影が禁止

外観:
建築に関しては、車寄せ部分と旧大講堂、便殿の間(陛下御休所)、旧陸軍大臣室が保存。
竣工当時の写真を見ると大幅に小さくなったものの、現在も防衛省のシンボル的な建造物として、当時の時代背景を表すかのようなモダニズム的なデザインになっています。

玄関部分:
大時計は、1937年から解体時まで、激動の市ヶ谷台の歴史状況を見つめてきたもの。桜の花のオブジェは自衛隊設立時から飾られ長年シンボル的なものとして親しまれました。

大講堂(手前側から臨む):
この部分で、陸軍士官学校などの卒業式が行われます。
なお、「いわゆる」東京裁判時の舞台ともなり、入り口側から見ると玉座が非常に遠くにあるように見せていますが、美術でいうところの「一点遠近法」を使用しています。

旧大講堂 証言台付近から玉座を臨む:
証言台付近から見ると、玉座部分は思いのほか、深く作られていないことが判ります。前に置かれた台は「いわゆる」東京裁判で使用された証言台を復元したもの。赤ランプは証言を止める際に光る仕組みになり、証言が止められました。

証言台に立つ東條英機閣下【Wikipediaより転載】

旧大講堂 床部分:
床部分には7200枚のナラ材が貼られていましたが、そり・歪みが出て使用不可になった399枚以外はすべて当時のものを使用。
ところどころにある白い跡は部分保存工事を行う際に、テープで付けられた残りで、保存工事期間の長い年月貼られたまま、とれなくなったもの。
また白く囲われている部分は、現在の素材で戻されたもの。

旧大講堂 玉座に向かう階段(2012年撮影):
玉座に行く階段も、陛下が足のすわりがよいように、工夫が凝らされています。
まず下の段は、丁度御足の指の付け根あたりが盛り上がる形状になっており、上の段は反対に、御足の指の付け根あたりが窪んだ形状になっています。

旧大講堂 玉座:
士官学校があった時代に天皇陛下をはじめとした皇族の方の御臨席を賜る際に使用。まず、この部分の壁布は当時のもので手織り。床部分の組木は箱根勢区の職人の作品でチークなどを使用しています。

旧大講堂 舞台から臨む:
入口部分から客席まで、なだらかな下り坂が設けられ、これにより舞台から2階席を見た際、少しでも2階席の目線が陛下よりも下になるように工夫された配慮になっています。
ちょうど、玉座から2階席を見ると2階席を見下ろせるような錯覚を与えています。

いわゆる東京裁判時に使用された地図のレプリカ:
実際に使用された物ではないものの、裁判時に使用されたレプリカが被告人席側に掲げられています。


「いわゆる」東京裁判に使用された連合国側の旗:
こちらはレプリカの旗になりますが、
判事/裁判長側の席には、左から...
・インド
・オランダ王国
・カナダ
・グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス)
・アメリカ合衆国
・オーストラリア連邦
・中華民国
・ソビエト社会主義共和国連邦
・フランス共和国
・ニュージーランド
・フィリピン
の順に並んでいて、インドとフィリピンが一番端にあるのは、当時、まだ独立していなかったとも、最後に参加したからとも言われています。
また、オーストラリア出身のウェップ卿が裁判長に任命されたのは、各国のパワーバランス的な面で、一番差し支えない国だったからともいわれています。

旧大講堂 「いわゆる」東京裁判時の状況:
マッカーサー司令官の指示により、ニュルンベルク裁判に倣い、被告人の影ができないよう、この照明以外にも、シャンデリアが取り付けられ、照明が煌々と照らされ、その様は、外国人記者の方から〝照明地獄〟〝灼熱地獄〟と言われました。
なお配置として、真ん中の玉座にVIP座。舞台下に証言台が置かれ、右側に被告人席、左側には裁判長/判事席に宛てられました。

「いわゆる」東京裁判の状況【Wikipediaより転載】

「いわゆる」東京裁判の判事陣:
前方左から右へ
●ウィリアム・パトリック(イギリス)
●マイロン・C・クレーマー少将(アメリカ)
●ウィリアム・ウェップ裁判長(オーストラリア)
●梅汝璇(中国)
●イワン・M・ザヤノフ少将(ソビエト)
後方左から右
●ラダ・ビノード・パール博士(インドネシア)
●ベルト・レーリング博士(オランダ)
●エドワード・スチュワート・マクドゥガル(カナダ)
●アンリー・ベルナール(フランス)
●エリマ・ハーベー・ノースクロフト(ニュージーランド)
●デルフィン・ハラニーハラニーニョ(フィリピン)
となります。
この裁判に関しては、通称5人組と呼ばれる面々が牛耳り、デルフィン・ハラニーニョ判事に至っては、"バターン死の行進"の生き残りといい、全員死刑論を言い出す始末。
ただ、ラダ・ビノート・パール博士だけは真摯に裁判に臨みます。
パール博士の佇まいに触発されたベルト・レーリング博士に至っては、専門が国際法ではない点で辛酸を舐めることが多かったものの、法律家として真摯に応対、特に重光葵外相についてを、その人柄を高く評価。
釈放後、日本の外務大臣に返り咲き、奔走する姿を、遠くオランダの地で喜んだと言われています。

「いわゆる」東京裁判を裁いたウェップ裁判長と各国判事【Wikipediaより転載】

2階部分から旧大講堂を臨む:
2階部分は、客席になっており、「いわゆる」東京裁判時には傍聴人席などに充てられ、特に、悲劇の外相と言われた廣田弘毅外相の2人の娘さんはこの席から裁判状況を見つめたことが伝えられています。また、先述の「一点遠近法」により玉座が遠く見えるようになっています。

旧便殿の間:
士官学校時には陛下の休憩室に用いられ、自衛隊時には陸上自衛隊幹部学校長室に使用されました。
この部屋の特徴として、陛下の休憩室であったため、部屋の中の陛下が人を招くことはないため、扉は内開きになっています。

旧便殿の間 冷気ダクト:
便殿の間は、壁が非常に厚くできているものの、中は空洞。
地下で冷やされた冷気がダクトを通じて冷風が入る仕組み。
少しでも室内を冷やす効果がありました。

旧便殿の間 応接室への扉:
便殿の間には応接室を備えており、引き戸になっています。
なお、残念ながら、応接室は移築されませんでした。

旧陸軍大臣室:
陸軍士官学校時代は、士官学校長室として使用。1941年以降は陸軍大臣室として使用され、陸上自衛隊時代は陸上自衛隊東部方面総監室として使用されました。
なお、1970年の三島由紀夫率いる「盾の会」の会が立て籠った通称「三島事件」には、総監を人質に立てこもりました。

旧陸軍大臣室からバルコニーを臨む:
三島由紀夫らは、バルコニー部分に出て、三島由紀夫が「檄文」を発表。しかし本隊は富士宮で演習を行っており、市ヶ谷駐屯地には後方支援部隊しか残っていませんでした。

旧陸軍大臣室 「盾の会」が傷つけた刀傷:
盾の会と警察がもめた際、盾の会が抵抗した刀傷が扉部分に遺されています。

御真影を飾る場所:
こちらには、陛下が臨席しない際には、陛下の御真影が掲げられていました

旧1号館の戦時中の使用状況:
ちょうど儀仗広場付近に地下壕が配置。
また、2階照明部分には陸軍大臣室が。2階右側には旧便殿の間が置かれ、塔屋の裏側には、いわゆる東京裁判で使用された大講堂が配置されています。

終戦当時の1号館の状況【展示パネルより転載】

地下壕内部:
1941年に大本営陸軍、陸軍省、参謀本部などの主要機関が市ヶ谷に集結した際、現在の儀仗広場下に1941年8月~42年12月の間をかけ防空壕が建設。
当時の地下壕には陸軍大臣室や通信室、炊事場、浴室などが設けられ、1945年8月10日に阿南惟幾陸軍大臣が将校らに前日の御前会議のポツダム宣言受託の旨を伝えました。
なお、地下壕に関しては資料が少なく、どのように使われたか不明な個所も多い場所でもありました。

地下壕の図解【防衛省大臣官房広報課 「大本営地下壕跡」から転載】

地下壕入り口:
地下壕には3か所ほど扉があり、有事の際には、その部分から関係者が入退場。また、入り口部分には爆撃に耐えられるように500㎏の鉄扉が設けられました。そして通風口上にはカモフラージュとして灯篭が置かれました。

地下壕トイレ跡:
壁際のあとは小便器が置かれた名残、床部分には大便器の配水も置かれていました。

地下壕 旧陸軍大臣室/通信室:
陸軍大臣室と通信室はともに置かれ、この部分から様々な指揮を出していました。なお、天井部分の針金のようなものは、かつての照明器具が掲げられた跡になります。

地下壕 受水槽/炊事場/浴室:
地下壕内の浴室は、かけ湯などで身支度を整える状況。また、奥に見える四角い箇所が受水槽になります。なお、地下壕は水浸しの状態ですが、受水槽から漏れ出しているといわれています。

【編集後記】
防衛省の歴史の「生き証人」が解体されてしまったのは、非常に残念なことですが、部分移築でも、日本の激動の歴史の舞台が遺された意義は大きく、これからも歴史を伝える施設として、この建物が残ることを願ってやみません。

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