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わが心の近代建築Vol.16 沼津御用邸記念公園(沼津御用邸西附属邸)/静岡県沼津

皆さんこんにちわ。
今回の投稿は、2021年に訪問したものの、写真がつかいものにならず、諦めていた沼津御用邸西附属邸...
思い切って、病み上がりの中、昨日再訪問して写真を撮り直して来ましたので、記載します。

まず沼津は、江戸期には東海道五十三次として沼津城が造られるなど、東海道の要衝として栄えましたが、明治期には、その温暖な気候や景観から人気に。
また、交通網も1889年に東海道線が開通し、アクセスも良くなり、一躍、別荘地として人気が高まり、大山巌、川村純義ら数々の著名人の別邸建築が置かれます。
特に御用医師を務めたエルフィン・ベルツにより、海水浴が推奨され、大磯海岸が日本初の海水浴場としてオープン。そんなベルツの薦めもあり、病弱だった明宮嘉仁親王(のちの大正天皇)の避寒の地として、川村純義らの尽力もあり沼津が選定され、沼津御用邸が造成されます。

歌川広重が描いた江戸期の沼津の状況【Wikipediaより記載】

沼津御用邸は現在の西附属邸の東側に造られ、御座所(居間)、御寝室、御食堂。湯殿などから構成される和風建築で、その後、増築工事が行われ、建築面積は当初の2倍に。また、御用邸では全国に先駆け、洋館が付けられ、その設計には宮廷建築課の片山東熊と河西徳三郎氏があたります。
この段階で建築面積は約5000㎡になり、室内は全部で100室以上という大規模なものでしたが、残念ながら、1945年の沼津大空襲で本邸部分は消失…
跡地、残されたのは、この西附属邸やごく一部のみになり、現在、本邸のあった場所には資料館などが建っています。

消失前の沼津御用邸御殿【パネル写真にょり転載】

消失前の沼津御用邸/洋館部分【パネル写真より転載】

消失前の沼津御用邸東付属邸【パネル写真より転載】

なお、今回紹介する西付属邸部分は、1903年に御幼少だった昭和天皇の御学問所として、赤坂にあった官舎を移築して造営。当初は御学問所の性格上、常住するための建物としてではなく、臨時的な仕様がされました。
皇室の慣わしで、皇太子と息子たちは離れて暮らすことが多かったものの、迪宮裕仁親王(のちの昭和大帝)は、沼津では父の明宮嘉仁親王(のちの大正天皇)ととも過ごすことが多く、昭和天皇は、この邸宅での幼き日々の思い出は心に深く残りました。

本邸洋館にて【パネルより転載】
(右から)明宮嘉仁親王(のちの大正天皇)、迪宮裕仁親王(のちの昭和t大帝)、淳宮雍仁親王(のちの秩父宮殿下)、侍従者と並んでいます。

 幼き日の昭和大帝と秩父宮殿下は、皇室の慣わしで、当初は教育係の川村純義伯爵邸に住み、一般教育を学び、冬の時期に沼津の川村純義別荘で過ごしましたが、伯爵亡き後は宮内省が別邸を買い上げ、賢所から建物を移築したものと融合。そののち、1922年に撞球室(ビリヤード場)が増築されて完成されました。
 戦後は本邸が消失しいてしまった為、西附属邸がそのまま御用邸がわりに使用されますが、建物の老朽化、環境の変化などにより1969年に沼津御用邸は廃止。1970年には、現在の沼津御用邸記念公園が誕生。
沼津市では造営100周年にあたる1993年より、建物の改修と庭園整備を行い、1994年より西附属邸の一般公開に至ります。
 修繕にあたり。建物本体はもちろん、瓦やガラス、建具や家具類など、できる限り創建当時の姿に復元。
 西附属邸は、(宮廷建築としては)小規模ながらも、謁見所などの公式な部分と住居部分が一体となった明治期の大規模木造建築の遺構としても全国的に見ても大変珍しいものになっています。
 そして2016年秋には、この地区は国指定名勝に選定されました。

【たてものメモ】
沼津御用邸西附属邸
●竣工年:1905年
●設計者:不詳
●交通アクセス:JR東海道線 沼津駅よりバス“御用邸"下車3分
●文化財指定:国指定名勝
●入館料:¥410
●写真撮影:可(商用厳禁)
●参考運兼:
・沼津の歴史関係についてはWikipediaを参照
・沼津市HP「沼津御用邸記念公園」より「西付属邸 内部のご案内」
・BS朝日放映「百年名家」より「沼津御用邸~大正天皇、昭和天皇の思い出の別荘」
など

正門:
こちらは、沼津大空襲を免れて生き残った部分になります。1906年に製造され、当時、御用医師を務めたドイツ人医師、エルフィン・ベルツ医師が薦めた業者の方が行い、ドイツのゾーリンゲンで鋳造されたものになっています。

西附属邸/正門部分

御車寄から表玄関部分を臨む:
御車寄は明治41年に増設されたもので、玄関屋根は、むくり破風と呼ばれる反り返ったもので、御殿建築の特徴をよく表しています。

御車寄の鬼瓦と懸魚:
鬼瓦は獅子口と呼ばれる古い形の鬼瓦で16紋の菊の紋が付けられています。また、中央正面の装飾材は懸魚と呼ばれるもので、ハート形のくり抜きがあるため、猪目懸魚と呼ばれています。

御車寄玄関正面:
御車寄の照明器具は洋風デザインのペンダント型になっており。近代和風住宅の特徴をよく表しています

玄関内部から臨む:
天井材は杉の木目材を使用して、柱や長押は檜材、数寄屋風書院造になっています。

内玄関部分:
こちらは、旧川村純義別荘部分で、西附属邸のほかの建物部分と構造が大きく違い、武家風になっています。

庭園側から旧川村純義別邸と賢所を臨む:
二つの違う様式の建造物を見比べられますが、入母屋造の邸宅が川村純義別荘部分になり、奥側が賢所を移築したものになります。
武家風の川村純義別荘部分と、賢所を移築した宮廷的な部分…
明らかに屋根の形状が違っているのも面白い所です。

西附属邸 全面の平面図【沼津御用邸公園のパネルより拝借】:
沼津御用邸は明治天皇の孫である裕仁親王(のちの昭和大帝)、雍仁親王(のちの秩父宮殿下)、宣人親王(のちの高松宮殿下)の御用邸とでぃて建設されたもので、もともとあった川村伯爵別邸を買い上げ、賢所の建造物を移築改修したものになっていて、左側が川村伯爵邸、右側の御座所などが賢所の建造物になっています。

女官応接:
女官の方が応接するために用いられた部屋です。
そのためか、床の間が配されています。

警衛内舎人:
女官応接と対になっており、この部屋は警備係の部屋になります。

物置:

前室:

主厨:
料理人の方の控室。

調理室:
天井真ん中部分には採光のためのトップライトになっており、調理室は火を使うため、安全のため、天井部分は鉄板が貼られています。

洗面所:
料理人用の手洗い場になっていて、流し部分には銅板が設えています。

浴室:
当時、天皇家に料理を提供する料理人は、身を清め、穢れを取るため、作業従事前には浴室で体を洗いました。

湯沸所:
御用邸では湯が沸かされることはなく、湯の提供は湯沸所で行われ、ここから調理場や浴室まで運ばれました。

内玄関:
この部分から、御用邸に勤務する者や出入りの業者などが出入りしました。

主膳室:
主膳(食品調達や食器管理、会食準備などをおこなう)の方の控室。

侍従候所:
侍従(身の回りの世話などを行う人)に就いた方の控室で、現在は展示室に活用されています。

侍従候所:
上記の部屋に綱らる部屋で2部屋で構成され、展示室に活用されています。

御日拝室/次の間
御日拝室の前室的な役割の部屋になっています。

御日拝室:
川村純義別荘部分を改築した部屋で、皇居の賢所(八咫鏡を安置している場所)の方角を向いている部屋。
大正天皇が崩御されてからは、この部屋で毎朝、貞明皇后が大正天皇を偲び、読経されていました。

供進所:
調理室で作られたものが運ばれ、皇族の食事の盛り付けや配膳がされた部屋になっています。
そのため、天井部分の真ん中には採光のためにガラス張りになっています。

御食堂:
川村純義別荘部分を改築した部分で、天井の竿縁部分が太くなっるなど、川村純義別荘部分の衣裳を大きく遺しています。
謁見所、2の間ともそうですが、畳の上に絨毯を敷き詰め、椅子と机を置いた形状になっており、当時の宮廷建築で多くみられる意匠になっています。
また、壁紙には真似合紙という柔らかいものの100年は保つと言われる断熱/防虫/防湿に優れたものが使用されています。
部屋の周りに4尺幅の折れ曲がりになった畳敷きの縁側が謁見所に繋がっています。

御食堂/丸テーブルと肘掛け椅子:
●丸テーブル:
直径120㎝という大きなもので、主材はケンポナシという木材で、明治期の高級家具には頻繁に使用された木材になっています。甲板は中心で一点に集まる放射状の寄木になっており、明治期の職人は「蜘蛛の巣張り」と呼んでいた技法です。
●肘掛け椅子:
皮張りで木材部分はクルミが使用され得ています。背もたれ部分に菊の御紋章が金箔で押してあります。
この椅子に関しては、宮中で食堂椅子として使用されていた物だと言われています。

2の間:
御食堂と謁見所の間に挟まれた部屋で、壁紙の真似合紙や重田野なども2部屋と同じものが使用されており、3部屋とも絨毯は、当時のものを解析して、織り方や柄など、当時の絨毯と同様に復元されました。
また謁見所との境部分の欄間は筬欄間という厚さ3㎜程度の障子が貼られています。

謁見所:
西御用邸部分で、最も公式な部屋になっており、執務が行われていました。
広さは10畳ほど。絨毯が敷き詰められ、中央部分には部分敷木の違うじゅうたんが敷かれています。

謁見所/書院部分:
1軒分あり、書院窓に貼られている障子の組子は非常に細かく美しい造りになっており、この部分から夕陽が差し込み、この部屋の見どころの一つになっています。

謁見所/飾り棚:
ガラスがついた飾り棚で、奉書などを入れるために用いられました。部屋のほかの家具類とは明らかに意匠が違うため、当初からのものでなく献上された品だと推測されます。

謁見所/玉座と謁見者用椅子:
●玉座:
馬蹄形の背もたれで肘掛けがつき、挽き物の時価足がついたクラシック様式になっており、不浄に高度な和風の伝統的な技法で作られています。
木部はケヤキ材に梨地仕上げになっており、金の高蒔絵で菊文を散らし、背枠の上中央と両端には御紋章が埋め込まれています。
裂地は濃紫色の西陣織で、八弁宝花文様の部分がビロード状になっており、ここから下に織り込まれている金糸が見え隠れしています。
●小椅子:
丸い背もたれに猫足の洋風クラシック仕上げですが、造りは和風。木部は呂色仕上げに切文様を金銀の高蒔絵で描き、裂地は玉座と同じですが、こちらには金糸が織り込まれていません。

中庭:
内廊下部分に挟まれた場所で、湯沸所から御料浴室に湯を運ぶために用いられた部分になります。
サツキの木の実を残し、一面には白い砂利が敷き詰められており、簡素な中にも気品差を感じさせています。

御座所:
居間として使用された部分で、10畳の広さがあり、同じく10畳の御寝室、8畳の御着換所から成立し、もともとは、この3部屋を総称して御座所と言われていました。
天井材はマツ、床柱はクロマツ、鴨居や長押に関してはアカマツが使用されていました。また違い棚はケヤキに着色し素漆で仕上げてある、西附属邸で最も色のある部屋になっています。

御寝室:
10条からなる部屋で、寝室部分に使用された部屋になっています。

御着替所:
御寝室と対になる部屋で8畳間からなり、着替えなどを行う部屋として使用。

御座所/小紋高縁:
御座所の部屋には白い縁(ヘリ)が使用されますが、小紋高縁というもので、宮廷関係者など限られた人にしか使うことの赦されない柄になっています

御座所/西側廊下部分:
縁座敷は1間、左側の入側縁は半間あり、注目したいのが照明部分で、真ん中についておらず、端に付けられていますが、田母沢御用邸でもそうですが、照明で頭をぶつけない様にという配慮からです。

御座所/西側廊下部分から見た光景:
庭先は松林になっており、この先は駿河湾になっています。

厠部分の洗面台

厠部分/小便器

厠部分/大便器

御玉突所:
ビリヤードは明治期、上流階級のたしなみでしたが、当時の政府高官や財閥家の邸宅にはビリヤード場を設けた例が多くあります。
この部屋は、昭和期には改変されましたが、改修工事時に当時の形に修復されました。
部屋の広さは20畳。床はじゅうたんが敷かれ、壁や天井部分には、御座所で用いられた間似合紙が使用。外観などではわかりませんが、ビリヤード台の下には土管を外枠にしてコンクリートが敷き詰められています。
これには、ビリヤード台を平衡に保つ目的があります。

脱衣場:
洗面台は当時のものではなく、後に取り付けられたものと推測され、明治期~昭和にかけての時代背景がうかがえます。

御料浴室:
浴槽は無く、江戸時代以降の係湯方式の浴室になっています。
約6畳の広さで、天井は杉材の竿縁天井。余暇と壁にはヒノキが使用。床は中央の排水溝に向け、やや傾斜している舟底型になっています。溝の下には堂の樋が埋め込まれ、真中には孔が開いていて、ここから床下に排水される仕組みになっています。

女官室:
一番左端に女官長室があり、合計3部屋で構成されています。

女官室と女官長室脇に置かれた電話室:

電話室に置かれた電話機:

女嬬室:
女官室の隣に2部屋並んでおり、部屋の掃除や衣類の繕いを行う方の部屋になっています。

【編集後記】
西附属邸部分は、1993年の改修から30年近く経っており、壁紙に所々、痛みがある状態。
今後、修繕されて素晴らしい景色を永遠に魅せてくれることを願って止みません。
私の住んでいるところからは、かなり遠いですが、宮廷建築にようあるように、空気が非常に澄んでいて、心癒され、また訪問したくなる、そんな場所でした。

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