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わが心の近代建築Vol.37 野田市市民会館(旧茂木佐平治邸)/千葉県野田市駅
みなさん、こんにちわ‼
最近更新できていなかった、このnote。
今回はキッコーマン創業者の1人である茂木佐平治氏の邸宅として、東武アーバンラインの「野田市」駅近くにある、野田市市民会館を記載します。
まず、野田は、古くより醤油の産地として知られており、その歴史は江戸初期から。記録では、1661年、上花輪の高梨兵左衛門家が記録の残る最古のもので、18世紀になると、地元豪農や資産家を中心に醤油づくりが活発。1781年には醸造家7軒が醤油醸造仲間を結成し、醸造業の発達に尽力。18世紀までは江戸の町は関西産の醤油が盛んだったものの、19世紀には関東の濃口醤油が優勢になります。その当時の様子が、天保11年(1840)の関東醤油番付に遺されています
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特に野田は、関東平野で育まれた良質な大豆と小麦。江戸湾でとれる塩など、原材料の確保に適した土地で、潤沢な水と気候、江戸川の水運にも恵まれた地域として発展し、銚子と並ぶ一大産地になります。
なお、この邸宅の施主にあたる茂木佐平治家では、1782年より醤油醸造を開始。付近の住人から「茂木佐家」と呼ばれました。
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天保時代、飢饉や当主の死、店舗と蔵の焼失に見舞われた茂木勇右衛門家が再興を願い、野田愛宕神社に奉納したもので、当時の醤油づくりが描かれている
明治期になると、1877年に野田醤油構造組合を野田の醤油醸造仲間で結成。原料や商品の価格統制、展覧会への共同出品を行い、1877年に上野公園で開催された第一回内国勧業博覧会に野田の醤油醸造仲間らで出展。
組合内では醸造家同士の競争意識が高まる事により、野田の醤油醸造のレベルが躍進します。
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1917年には野田と流山の醤油醸造家8家が合同し、現在のキッコーマンの前身にあたる野田醤油株式会社が誕生。この時期から野田には、大きな工場を取り囲むように…
・野田商誘銀行(現在の千葉銀行の前身のひとつ)の設置
・鉄道開発(現在の東武アーバンライン)・
・興風会館の設立
・小学校開校
などのインフラ整備が行われ、野田は一大企業城下町に変貌を遂げます。
今回扱う野田市市民会館は、野田の醤油醸造家である(9代目)茂木佐平治の邸宅として1924年ごろに竣工。
(9代目)茂木佐平治(1891~1946)について説明すると、父の早世のため6歳で家督を相続。
幼年のため、祖母や支配人らが家業をけん引。
1917年の野田醤油株式会社設立の際には常務取締役に就任。
1927~28年に勃発した労働争議の際には全責任を負って交渉し、現在の労務関係の基礎を構築。
1943年に野田醤油株式会社の代表応取締役に就任します。
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邸宅には、茨城県古河の設計者の神原鍋太郎氏と棟梁の岡本善太郎氏があたりますが、この理由として、茂木家は取引相手だった酒問屋の吉田屋(茨城県古河)を通じ、その経緯で彼らが請け負ったと考えられます。なお、工事には古河の大工のほか、瓦は栃木で作成され、材木に関しては東京深川の木場から取り寄せられ、1922年には上棟式が執り行われました。
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が…
上棟が終わって僅か数か月後のこと。
大風で屋根が飛び、設計者の神原鍋太郎氏が絶命。また1923年には関東大震災があったため、邸宅の屋根などには再三にわたり増強がなされます。
なお、竣工は1924年ごろとなっていますが、その理由として、邸宅が完成する前、1924年1月1日の0:00という「子(ね)の年、子(ね)の月、子(ね)の刻」に入居。最終的に工事が完了したのは1925年でした。
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なお、邸宅の建築には、家相も使用。
これには福島県いわき市出身の家相見・中田龍堂(1862~1936)が担当。
氏は、現在の大網白里市で関学塾を開く傍ら、家相見としても活躍。大正半ば~昭和初期にかけ、多くの野田の醬油醸造家と関係を持ち、茂木佐平治邸以外に高梨兵左衛門家、茂木房五郎家などの家相も担当。晩年は病気療養のため福島に帰郷するものの、茂木家の相談なども担います。
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なお、茂木佐平治邸は、昭和1940~41年に大幅な改装をおっこなったのち…
茂木佐平治の手を離れる際に...
●1951~52年に「婦人室」が移築。
●1954年に「はなれ」を解体し新居の部材に利用。
●1956年に「書院」が東京都赤坂の宗教施設に移築。書院は赤坂に移築されたのち、再度名古屋に移築され、現在はあきる野市に現存しています(非公開)。
残ったほかの部分は新居が完成した1958年に野田醬油株式会社に移譲されたのちに野田市に寄贈。
茂木佐平治邸は整備され、野田市市民会館として結婚式場などに使用され、敷地内には野田市郷土博物館もおかれ、設計には日本武道館設計などを行った山田守が担当。現在の野田市市民会館の面積は、もともとの3/5程度に縮小されました。
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茂木佐平治邸は、市民会館に浮かれ変わったのち、市民に広く貸し出され、竣工当時は各家庭内で行われた結婚式も大きな会場で行われるようになり、こちらが利用。また、現在ではロケ地や将棋会場などにも使用されています。
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【たてものメモ】
野田市市民会館/旧茂木佐平治邸
●竣工年:1924年ごろ
●設計者:神原鍋太郎
●大工棟梁:岡本善太郎
●文化財指定:
・邸宅:国指定登録有形文化財
・庭園部分:国指定名勝
●交通アクセス:野田市駅より徒歩8分
●写真撮影:可
●入館料:(野田市郷土博物館含め)無料
●参考文献:
・野田の歴史について:野田市郷土歴史資料館HP
・野田市郷土資料館著「茂木佐平治邸の百年」
など
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薬医門:
瓦葺で銅製の雨どいを付け、左側には、くぐり戸を付け、壁の漆喰は、竣工当時はベンガラ塗で、何度も塗り替えられたもの。
額縁には「宏文苑」と書かれ、(9代目)茂木佐平治の戒名にちなんで命名。なお、署は当時の野田醤油株式会社の中野栄三郎氏によるもので、こちら側の門は、最上位の賓客をもてなすもので、年に数回も開かなかったとのこと。
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車寄せ:
手前側にある松は、台風などで傷んだため、支柱を建てて雪吊りで支えています。また、懸魚部分には、波と3匹の亀が描かれています。
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大玄関:
賓客中の賓客のために使用された玄関。
年間、数回使われるかくらいのもので、天井は格天井になって
おり、細かい桟を縦に配した「筬(おさ)欄間」を使用
左側に見える照明は、建設当時の姿をとどめており、奥側に見える衝立は、季節に応じて変更されていました。
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大玄関の衝立:
現在置かれている衝立は京都舞鶴出身の藤山鶴城(1870~?)の作品。氏は、京都府画学校で幸野楳嶺に学び、卒業後、上京して野村文挙に師事。衝立は建物とともに寄贈され、現在はレプリカを展示。
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平面図:
竣工当時の図面と比較すると、「ご婦人室」と「書院」「お離れ」が解体された姿になっています。また、茂木佐平治邸は大玄関のほかに、西門部分を通用口として、内玄関、帳場、下玄関…
計4カ所の玄関を所有していました。
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西門:
先述の薬医門は賓客中の賓客が訪問される以外は殆ど使用されず、家族らは、西側の門を使用。なお、門の右側に見える大きな建物は蔵で、左側は夜警室と炊事場、大きな煙突はボイラー室の煙突になります。
なお、こちらの門の額には市内の書家・山崎昇堂氏により、「市民会館」と書かれています。
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西門側の玄関:
左より、下玄関/帳場/内玄関と3つの玄関から構成。
家族たちは、通常こちらの玄関を使用。現在は下玄関部分は封鎖され、帳場の玄関は「市民つどいの間」の玄関として使用されています。
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内玄関:
子の玄関は、一般の来客や当主/夫人らが使用した玄関になり、天井は、大玄関と同じく格天井。
入って正面の襖を開けると、かつて存在した書院に続く廊下があり、右には応接室が、左には廊下を挟んで裁縫室があり、廊下に接して丸窓が特徴的。
なお、廊下は現在、倉庫として使用されています。
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「菊の間」:
玄関に接し、一般来客の応接に用いられた部屋。
この部屋を映した古写真は見つかっていないものの、昭和20年代にはピアノが置かれ、竣工当時は9畳間だったものの、現在は1畳分は板張りに変更。
床柱には唐木三大銘木のタガヤサンが使用されています。
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電話室:
野田市に電話が開局したのは1901年のこと。
茂木佐平治邸では「菊の間」脇には、電話室が用意され、この邸宅の中では珍しく、洋風の扉になっており、現在はピンク電話が置かれ、野田市市民会館を訪問された方に利用されています。
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「市民つどいの間」:
竣功当時は商売関係の部屋に用いられ、食堂や帳場部屋が配置、なお、食堂部分は待合室としても利用。
この室内は市民会館に生まれ変わった際、大幅に改造。
現在は「市民集いの場」として、市民交流の場として使用。また千葉県はもとより、周辺地域の建築物の貴重な資料が閲覧が可能。
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「上台所」:
板の間で、机部分は、天板の覆いを外すと、まな板に使用でき、右端部分のグリーンのタイルの箇所は昭和20年代の改良カマド。
現在は鉄板の上にガスコンロが置かれ、貸利用者の方が使用できるようになっています。
また、食器棚の引き出しも引き出し可能な状態になっています。
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五右衛門風呂:
上台にある扉から入ることができ、主に従業員が使用。
戦時中は家族も使用しました。
なお、窯の周りのモルタルは2007年に修繕されたもの。床に敷く下水板と蓋も、その際に制作されたものになります。
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ボイラー室:
主屋と同時期に建てられたもので、右手に台所や浴室があり、湯を提供することができました。
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更衣室:
浴槽と化粧室の間に位置。
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浴室:
家族用の浴室で、壁は、玄関の塀と同じく、「べんがら」色。天井部分は、紙片が網代で真ん中部分が格天井。格天井と網代の間には湿気のための空気抜けが設えています。
浴槽こそ竣工時と違うものの、建設当時からシャワーを付けており、先述のボイラー室で沸かした湯を利用。
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化粧室:
三面鏡が置かれ、こちらは9代目佐平治氏の妻・淑江夫人の嫁入り道具で饅柏の家紋が入っています。
また、座布団と座卓は茂木佐平治邸で実際に使用されたもの(化粧室で使用されたかは不明)
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洗面室:
床部分が寄木張りとなっており、天窓が設置(現在はふさがれている)。
なお、茂木佐平治邸時代には、理髪代が置かれ、近所から理髪師を招き、散髪が行われ、当時の写真を見ると、タイル部分は竣工当時のままになっています。
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「雪の間」:
元々は、配膳室として使用。
左奥の棚は、もともとは水屋で流しがあり、冷蔵庫が置かれていました。なお、1940年の最終工事で、水屋部分はタイル張りに天井には天窓が搭載。
なお、壁は聚楽壁に替えられたものの、照明の傘はそのまま残っています。
また、右側の欄間は中央部分に七宝が置かれ、両脇に伸びているのは丁字香。いずれも、おめでたい吉祥文様になります。
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「月の間」:
家族の居間として使用。
かつては神棚が付けられ、市民会館改造の際に撤去されました。1940年の改修時に畳の下に囲炉裏がほられ、掘りごたつになり、現在も畳の下に当時の姿が残っています。
なお、右側に見える窓は、改修時に取り付けられたもの。
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「桃の間」:
かつての仏間。
もともとは3畳間でありながら、天井部分は「折上げ格天井」と、和風建築で最上級のものとなっています。
市民会館に改造の際、仏壇と欄間の枠が取り外され4畳間に変更され、奥は押し入れに改造されました。
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中庭:
浴室~洗面所側と、「雪の間」~「桃の間」中庭部分には沓脱石(くつぬぎいし)が置かれ、降りて石畳の通路があるける仕組みになっています。
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中庭への通路:
この邸宅では、庭師の方が邸宅に入らずとも、庭園から中庭に抜けるよう、階段が設けられていました。
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「松の間」「竹の間」「梅の間」の廊下:
こちらの廊下は、1940年の改修情事の際に拡張され、畳が入れられました。なお、右側にある軒桁は長さ7間半(13.5m)の杉の磨き丸太によるもので、写真では非常に細かく割った竹を用いた「夏障子」が設えてあります。
日差しをふせぐほか、風通しにも配慮されたものになっています。
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「梅の間」:
「竹の間」同様、「松の間」(主人居室)の続き間としての役割を果たします。正面の欄間は変形の「七宝繋ぎ」のような形状。右側の欄間は、左サイドが「七宝文様」で真中部分が「中国格子」右サイドは「七宝」と「中国格子」のような文様になっています。
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「竹の間」:
「梅の間」同様、主人居室の続き間としての役割を果たします。正面側の欄間は「瓦当(がとう)文様」になっています。中国の秦~漢の時代に様々な図案が生まれましたが、こちらの瓦当文様にはすべて字が記載されています。これらの字が選ばれた理由は不明なものの、家の安泰や繁栄を祈ったものになっています。
右側の欄間は、周囲に中国格子のような文様があり、その間に亀甲が並んでいます。
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「松の間」:
床の間や違い棚、付書院が配されています。
なお、野田市市民会館になった当初は、全国的に各家庭観で行われた結婚式が、公共施設で行われることが多くなり、また全国的に結婚式場が少なかったことも相まって、こちらで挙式を上げた方も多く、近年では、3間続きという事から、各種イベントなどにも使用されています。
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「柳の間」:
「松の間」の裏手にある部屋。
納戸に使用され、季節の家具などをしまっていました。
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「楓の間」:
「竹の間」裏手に位置する部屋で、(9代目)佐平治氏夫妻の寝室に使用されました。
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「藤の間」:
「梅の間」裏にある10畳間。
この部屋に関しては、竣工当時の図面には書斎、あるいは子ども部屋と記載されているものの、実際にはどのように使用されたかは不明になっています。
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庭園の入口:
庭園部分は、有力な作者として、直接示す資料はないものの、赤坂の庭師「仙石」が有力と考えられます。
仙石家は代々庭師として活躍。
この邸宅の竣工時代は、仙石荘三郎/荘太郎親雄の活躍した時代で、野田の茂木七左衛門邸や高梨兵左衛門邸なども担当。
また佐平治とは東京品川の大井町にあった別邸の庭園なども行ってからの付き合いになります。
また、邸宅完成後に追加された庭園の渡り廊下も「仙石家」が担当し邸やことなどから、彼らの仕事と考えられます。
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庭園/大泉水:
庭園の南側に作られた箇所で、かつて存在した「書院」からの景観に配慮して作られた箇所。現在の「大泉水」という名前は国指定名称になった際につけられたもので、名前の由来になった池は東西30m、南北10mで西側には井戸があり、大きな雪見同労が立っていました。
なお、現在、池の水はすべて抜かれていますが、佐平治邸時代には、水を張ったり抜いたりしていました。
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庭園/芝庭:
芝庭部分は、もともとは書院があった個所で、茂木佐平治邸時代は当然ながら洋風の芝庭ではなかったものの、野田市市民会館になった際に変更。
正面に見える大きな石は、書院に使用された沓脱石になります。
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庭園/流れの庭:
主人室と続きの間の前に広がる庭園で、こちらも国指定名勝に選定される際に「流れの庭」と命名されました。なお、こちらの庭園は、かつて存在した書院との間にあり、いわば中庭の役割を果たしていました。
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茶室「松樹庵」:
この茶室は明治初期に、茂手木佐平治家によって建てられたもので、当時どこに立っていたかは不明だったものの、昭和期に解体され、1968年に個人宅に移築。
1983年に野田市に寄贈されたのち、こちらに移築。1984年より茶室として貸し出されました。
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茶室
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三畳台目の茶室
【編集後記】:
この邸宅は、個人邸宅→市民会館という珍しい経緯をたどった全国的にも稀有な存在になっています。これからも、この邸宅が末永く、市民の皆様に愛されていくことを願ってやみません。