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わが心の近代建築Vol.54 松山大学温山記念会館(旧新田邸)/兵庫県西宮市(甲子園口駅)
みなさん、こんにちわ。
今回は、先日訪問した大阪訪問より、松山大学温山記念館に浮いて記載します。
【甲子園口の歴史】
まず、1874年に大阪~神戸間が開通し、甲子園口駅が開通したのが1934年のこと。
それまでは神崎(現・尼崎)駅~西ノ宮(現・西宮)駅間に駅はありませんでしたが、1932年の吹田~鷹取駅電化計画に伴い、現在の甲子園口駅周辺の瓦木村では新駅開業に向けての大きな流れが沸き起こり、鉄道省では新駅開業のために土地の無償提供と駅設置費用に関しての全費用負担という条件を出します。
設置費用は当時の瓦木村収入の2年相当の92000円や提供する土地の利害も絡み難航。
鉄道省との交渉は2年にもわたり、最終的には、費用の大半を開通により大きな利益を受ける加賀土地株式会社が担い、5000円と駅北半分を下新田村が提供。
残りの費用2万円の費用を生み出すため以前から構想のあった甲子園口土地区画整理組合が1934年に設置され住宅街が造られ、関西の高級住宅地の一角を占める事となります。
なお、「甲子園口」は、甲子園での集客を見込んで付けられ。紺に位置では戦後になり、駅名にあやかり旧来のものから「甲子園口」と変わり今日に至りますが、今回記載する松山大学温山記念会館も、戦前期の宅地開発で生まれた建物になります。
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【施主 新田長次郎】
新田長次郎(1857~1936)に関しては、株式会社ニッタ創業者で20歳で大阪で修行。
10余年の歳月を経て日本初の動力伝動ベルト制作に着手、以降、ニカワ、ゼラチン、ベニヤ製造を手掛けるなど日本の産業発展に寄与。また学校操業などにも寄与し松山商業高校(現・松山大学)設立にも貢献したほか、有隣尋常小学校などの学校経営にも携わり、この邸宅は、1928年に自邸として建てられたもので、設計には娘婿である木子七郎氏があたります。
1989年に新田家より松山大学に寄付ののち、学生のセミナーハウス以外にも、ロケ地や一般公開など、広く使用されています。
なお、温山という名前は長次郎氏の雅号から付けられました。
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なお、邸宅を設計したのは木子七郎(1884~1955)で、父親には日光田母沢御用邸や沼津御用邸などに関わった木子清敬の四男として生まれ、東京帝国大学卒業ののちは大林組に入社し、退所後は木子七郎建築事務所を設立。
作品は上記の理由もあり、ニッタ関連のものや愛媛県に所在する作品も非常に多く、主な代表作として、愛媛県庁庁舎、萬翠荘(久松家住宅)、山口萬吉邸(現・九段ハウス)などがあります。
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【たてものメモ】
松山大学温山記念会館
●竣工年:1928年
●設計者:木子七郎
●文化財指定:国指定登録有形文化財
●写真撮影:可
●入館料:無料
●交通アクセス:JR神戸線 甲子園口駅より徒歩10分
●参考文献:
・甲子園口の歴史に関してはWikipediaを参照
・松山大学温山記念会館 貸与レジュメより転載
・内田青蔵 監修「死ぬまでに見たい洋館の最高傑作Ⅱ」
など
●留意点:
邸宅見学は事前に申請用紙に記入の上、予約して公開。
学生使用時などは見学できないのでご注意ください。
【外観部分について】
甲子園口駅を抜け、武庫川女子大学方面に向かうと、大きな門扉が見えますが、それが今回扱う、松山大学温山記念会館になります。
なお、邸宅に関しては、一見すると木造建築に見えますが、鉄筋コンクリート造りになっています
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また、正面部分は、赤いスパニッシュ瓦を使用。
1階部分右側と2階玄関口上部にはスパニッシュ建築の特徴でもある3連アーチ窓を使用しており、左側に見える2階建ての別棟は蔵になっています。
また、スパニッシュ様式でありながら灯篭が見えるなど、和のテイストも巧みに乗り入れられた作品にもなっています。
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また、庭園側から臨むと、赤屋根の真ん中部分に煙突が建ち、左側部分は大きな三角屋根の中世の教会建築を思わせる造りになっており、右側部分は町屋建築風の設えで、和洋折衷の様式を巧みに使用しています。
1階部分にはスパニッシュ瓦の庇が付けられ、ピロティ部分には吐水口が設けられています。
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吐水口部分に描かれた動物はライオンとなっており、古くからタロットカードなどにも用いられ、力の象徴とされています。
また、タイルは緑色のモザイクタイルを使用しています。
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【玄関部分】
玄関部分を見ると、2本の円柱に囲まれ、出入り口部分は、コの字型にタイルが貼られ、網戸に関しては後付けとのこと。
左側に見えるものは、牛乳瓶の底のようなデザインになっておりロンデルというもの。
わが国で使用される例は稀有なものになります。
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また、玄関口を囲むタイルはイスラム風の文様がしつられており、濃紺の差し色以外は薄いブルーやグリーン、黄土色、白と板明るい色を使用。このタイルに関しては発見された石膏型などから、我が国のモザイクタイルの創業者といわれた山内逸三氏の作品であることが判明しました。
扉部分にも玄関前のタイルと同じく、八芒星が描かれています。
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【平面図】
平面図を見ると、温山記念会館は、各部屋ともセミナー室や会議室などとして利用。学生の使用していないときに限り、一般公開されています。
邸宅は2階建て地下1階、地下部分にはボイラー室などが配置されています。なお、構造は先述のように鉄筋コンクリート造となり、阪神淡路大震災にも被害は微少なものでした。
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【1階表玄関/階段ホール部分】
表玄関部分からみるとアールのある壁面部分には、ニッチが設けられています。その下部にはタイルが貼られており、こちらも山内逸三氏の作品。それらは上下のボーダータイル収まる形で、アールに併せて貼られています。また、左側にみられるのは、セントラルヒーティングのラジエータ。温山記念会館では、竣工当時からラジエータが完備され、地下室にボイラー室が備えられていました。
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また、床面を見ると、ボーダータイルがヘンリボーン状に貼られており、ホール部分と玄関土間の段差にはチューブライニングのボーダータイルが見事に収まっています。
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玄関ホール部分には、階段が備え付けられており、階段部分は2階との吹き抜け。手前の天井部分は見世梁となっています。
床面には絨毯が敷かれ、その下は寄木張りとなり、右側部分にはラジエータが備え付けられています。
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内玄関う分を見ると、床面には表玄関と同じくボーダータイルがヘンリボーン状に敷き詰められ、左側には家族用の大きな靴棚が設えています。
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【各セミナー室】
室内に入ると、玄関わきの部屋はセミナー室(3)となり、サンルーム状になっています。3連窓の半円アーチ部分には、淡い色のステンドグラスが貼られています。
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セミナー室(2)は、邸宅時代は応接間として使用。
床面に関しては、寄木張りとなり、絨毯に関しては、各室に併せたものを用意しており、右側には庭園に併せて大きな窓が取り付けてあり、窓の下にはラジエーターが設えています。
また、旧食堂(セミナー室(1))との間には引き戸で仕切ることができます。
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また、窓の反対側には造り付けの棚が置かれ、鹿の頭を囲むようにタイルが敷き詰められ、多数の柄のタイルが設えてある様に見えますが、馬に乗った騎士、動植物に囲まれた僧侶のタイルの2種類で敷き詰められています。
なお、こちらのタイルに関しては、作者は不詳になっています。
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セミナー室(1)に関しては、邸宅時代は食堂として使用。
こちらの床面も寄木になっており、天井部分に関しては手彫りで設えたものがはめ込み式になっており、この邸宅で最も豪華な設えになっています。
照明に関しては、当初は大きなものが一種類でしたが、使用畳くらいので、大学サイドで付け加えたものになています。
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【1階各室】
表玄関隣は、宿泊室になっており。正面に見える大きなハンガー掛けになっており、この部屋の特徴の一つになっています。
また、邸宅に空いている通風孔のような穴は竣工当時からのもので、地階ボイラー室で作られた熱気が通っています・
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奥側にある和室は、現在、管理人室として使用。
次の間を見ると、欄間部分の板材が松、縁に竹材を使用、そして欄間に描かれているのは梅の花…
松竹梅が描かれています。
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また、座敷部分は、現在は管理人室として使用。
床の間を配する和室となっており、書院は平書院になっています。
通常の和室部分よりも天井が高く設えてあり、竣工j日は家族の生活空間として使用されました。
また縁側が非常に広くとられており、東側からは和風庭園、南側からは洋風庭園を愉しむことができました。
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和室部分から庭園を臨むと、本格的な和風庭園になっており、洋館にいることを忘れさせられます。庭園は、長次郎自ら指揮を執って作らせた広大な池泉回遊式庭園になり、噴水を備えた洋風でありながら純和風の庭園になっています。
なお、庭園奥側部分に見えるのは防空壕となり、竣工時からのものになります。(後述)
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【2階部分を臨む】
1階の主階段部分を上がり2階階段ホールに行くと、階段部分の手摺に関しては、1本の丸太から切り出されて掘り出されて形成。右側には、3つのアーチ窓が付けられています。
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なお、主階段の2階部分から見えた3つのアーチ窓部分をこちらからも見る事ができます。
先ほどの写真ではわかりづらかったですが、アーチ窓い部分には記録着色されているのがわかります。
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娯楽室荷はビリヤード台が置かれていますが、係員の方の話だと黒柿製とのこと。通常、ビリヤード室などは、1階い置かれることが多いですが、その堅甲さから2階に置かれ、阪神大震災でも、びくともしませんでした。
また、床面は寄木になっており、奥側に見える扉も市松状になっています。
余談ですが、新田長次郎氏はベニヤも扱っており、当時は高級建材とされていたベニヤを多数取り入れています。
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また、窓も大きくとられており、窓の下には備え付けのソファが置かれ、竣工当時には、この部屋の窓からは六甲山を見る事ができました。
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奥側部分は和室になっており、床柱は絞り丸太、狆潜りは四角型になっており、左側部分は丸窓が付けられており、違い棚は1枚板でできたもの。これに筆返しを削り出すのは職人の高いスキルを要しています。
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会議室はアールデコ調に設えてあり、天井のデザインと和室扉(右側)は同じデザインになており、左側のステンドグラスもアールデコ調になっています。
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会議室(2)は、邸宅時代には書斎として使用。
本棚も造り付けになっており、天井は和風建築でいう折上げ天井風になり、右側の扉は市松状になり、奥側の違い棚風のものにも筆返しが付けてあります。
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また、この室内のステンドグラスも、アールデコの特徴がよく現れものとなっています。
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会議室(3)においては、邸宅時には大きなソファが置かれ、陽の光を浴びながら読書したことが推測されています。窓下の大理石は、1階のマントルピースを囲っていたものと同じのものになります。
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先述のように、庭園部分には竣工当時から防空壕が付けられ両サイドの石に関してもコンクリート製になっています。
この邸宅が造られたのが1928年…
その時すでに、防空壕が付けられたことに新田長次郎氏のヨソ子が起こり、日本は取り返しのつかない道に進んでしまいました。
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なお、防空壕に関しては、邸内管理人の方同席で見学できるようになっています。
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【編集後記】
今回は、予備知識なしに訪問しましたが、邸宅に非常に感動した次第。今後、愛媛県松山市にある萬翠荘にますますの期待を寄せられます。
また、1928年...
すでに日本は戦争への道のりを切り出しつつあることを分かっている方は分かっていたのだな、と考えさせられた次第。
なお、この邸宅を見に行ったのが今年の1月17日…
折しも阪神淡路大震災から30年目という節目の年…
僕は今でも、火事で焼かれた長田区を上空から「温泉街」と言い放った「ジャーナリスト」らしき物のことは生涯、赦すことはできません。