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わが心の近代建築Vol.53 文化のみち二葉館(旧川上貞奴邸)/愛知県名古屋市東区(高岳駅)

みなさん、こんにちわ。
最近、ずっとネタを仕込むことに執心し、放置気味になりましたが、今回は、先日、神戸近代建築訪問時に寄り道した、名古屋市東区撞木町地区にある、文化のみち双葉館について記載したいと思います。
まず、この邸宅はもともと、二葉町(現在の白壁3丁目)にあったもので、川上貞奴と電力王と謳われた福沢桃介が住んだ邸宅で、迎賓施設としても使用。長年にわたる間、幾度の増改築を経て、撞木町に移築保存、現在は「文化のみち 二葉館」として博物館施設/屋外博物館として活用されています。

【二葉町の歴史】
二葉町は江戸期は名古屋城家下の一町にあたり、禄高にして三百石級の組頭階級の武家屋敷が立ち並び、この地区は、もともと町名は存在しませんでしたが、明治初年に愛知郡東二葉町として成立。1908年に愛知県名古屋市東区東二葉町となり、1980年に白壁2丁目と白壁3丁目に編入されて消滅しました。白壁という名前の由来は、豊田太郎左衛門の屋敷は当時としては珍しい白塗りで、その後のこの界隈の屋敷は、白壁の建物が増えたことから地名の由来になります。そのなかでも「文化のみち 二葉館」は現在の金城学院中学校付近にあり、敷地面積は2000坪にもわたる広大なものでした。

白壁の由来になった豊田太郎左衛門邸の壁面 【Wikipediaより転載】

【二葉館の歴史】
二葉館は女優第一号と言われた川上貞奴(1887~1946)と、福沢諭吉の養子で電力王と呼ばれた福沢桃介(1868~1938)の邸宅として建てられ、設計は当時、新進気鋭の住宅専門会社「あめりか屋」が担当。
福沢桃介が電力事業を行っていたことから、建物内には電気装飾が施される一方、貞奴の好みもいたるところに取り入れられます。
また、当時の記録では、玉砂利の道を入っていくと、車寄せの前がロータリーになり、松の木などが植えられ、芝生の庭には、しだれ桜やもみの木、電気仕掛けの噴水やサーチライトがあったようです。

竣工当時の二葉御殿を描いた衝立(赤や根の部分)【文化のみち 二葉館HPより転載】

2人が6年間過ごしたのち、1937年に敷地の一部約2140㎡と建物を当時の大同鉄鋼取締役・川崎舎恒三氏が取得。残りの敷地約6500㎡が分割処分されたため建物の洋館部分が解体。残された部分が増改築され、竣工当時の屋根部分やステンドグラスなど一部再利用されたため、外観などに当時の面影を残していました。

移築前の二葉館【邸内パネル写真より転載】

名古屋市では2000年に建物の寄付を受け、解体保管ののち、現在の敷地に移築復元。建物配置を90°回転、建築法で螺旋階段部分を広めるなど、一部竣工当時と違う箇所があるものの、解体保管材を可能な限り再利用、登録有形文化財登録を目指し、5年の月日をかけて復元。開館の翌日、2005年2月8日に国指定登録有形文化財に選定されました。

【施主 川上貞奴と福沢桃介】
二人の出逢いは、桃介が慶應義塾の学生時代、貞奴が野犬に襲われたのを助けたことに始まり、福沢桃介は矢田績に招かれて名古屋電燈株式会社の取締役に就任し、木曽川での電力発電を進めるため名古屋に拠点を構えます。
一方川上貞奴も「オッペケペー節」で有名な川上音二郎氏と結婚ののち、川上音二郎の7回忌を機に女優引退。名古屋大曾根に輸出向けの絹を生産販売する川上絹布株式会社を設立。
桃介は、川上貞奴を事業パートナーとして招き入れ、男でも足がすくむ洞窟にも福沢桃介とともに入るなど川上貞奴は福沢桃介をよく助けます。

川上貞奴と福沢桃介【福沢桃介記念館 写真より転載】

ふたりは事業が軌道に乗ると、福沢桃介は病気のため東京で療養、貞奴も拠点を東京に移し、この邸宅を離れ、1938年に渋谷の自邸で生涯を終え、貞奴は暫らくは東京と名古屋を行き来し、1933年に岐阜県鵜沼に私財を投じて貞照寺を建立したのちは鵜沼と東京を行き来して生活し、熱海の別邸でその生涯を終えます。

【設計者 あめりか屋】
施主のあめりか屋は、1909年に創業した日本のハウスメーカーで、創立者は建築家の橋口信介(1879~1928)で、渡米したのち1909年に帰国。
その際に組み立て式バンガロー建築を持ち帰り、関西建築界の領袖・建築家の武田五一の支援を受け、住宅改良会を設立。
1910年代後半には徳川家・細川家・大隈家などの別荘建築を軽井沢に建設し信用を高め、従来の日本建築が応接に力を入れていることを批判、居間や寝室を中心とした間取りを基本とし雑誌『建築』などでの文筆を通じて啓蒙活動を行い、東京に本社を置き、京都・大阪に支社を置き、のちに分社化され、現在は京都支社が残ります。

橋口信介と家族【Wikipediaより転載】

【たてものメモ】
文化のみち 二葉館
●竣工:1920年
●設計者:「あめりか屋」
●文化財指定:国指定登録有形文化財
●入館料:¥200
●写真撮影:可(商用厳禁)
●休館日:
 ・毎週月曜日(祝日の際は直後の平日)
 ・12月29日~1月3日
●交通アクセス:
 ・地下鉄桜通線「高岳」駅下車。2番出口より徒歩10分
 ・なごや観光ルートバス メーグル「文化のみち二葉館」下車
●参考文献
 ・内田青蔵著 「死ぬまでに見たい洋館の最高傑作Ⅱ」
 ・米山勇編 「日本近代建築大全【西日本編】」
 ・文化のみち 二葉館HP
 ・街の歴史部分はWikipediaを参照

【外観について】
先述のとおり、正面部分は1938年時に解体されますが、増改築時に、もともとの屋根瓦などが使用、また古写真が残されていたことなどから、それらをもとに復元されました。
玄関部分はオレンジ色の屋根が幾つも重なり合い、外壁部分なども192年代の写真から復元されています。

文化のみち 二葉館 正面部分

また、側面部分を見ると、中心部分の折れ曲がったマンサードや根を中心とし、大きく折れ曲がったオレンジ色の屋根が目に引き、それを中心tして、左右の天井の高さが異なりますが、右側部分が洋館で天井の高さを高く設え、左側は和館となり、段差を低く設えています。増改築時には、解体部材を流用、復元工事では、それら可能な限り使用し、竣工当時の姿を可能な限り伝えています。
なお、写真左側部分の平屋建て部分は、1938年に改修された箇所で、台所などのバックヤードになります。

側面部分を臨む

【平面図】
平面図を見ると、青い部分が解体された箇所となり、黄色い部分が和館部分で創建時の姿を今日に伝え、緑色の部分は1938年の増改築時の姿を伝えています

平面図【文化のみち 二葉館HPより転載】

【洋館1階 大広間】
まず、邸宅を正面から入り、一番最初にみられる部屋は大広間になり、この邸宅の迎賓部分になります。
窓枠は西洋式の上げ下げ窓、床面は寄木張りになっており、渋柿でコーティングされています。
なお。円形ソファ部分の床面の色の違う部分八竣工当時のものになります。

1階 大広間

円形ソファ部分は、車寄せ隣の箇所になり、木枠やスプリングは竣工当時のものを使用。
表皮は、オリジナルのものと思われる個所が残っていたため、そこから復元されました。

1階 大広間 円形ソファ

ソファ部分にあるステンドグラスはレプリカになり、デザイ。ンは福沢桃介の義弟にあたる杉浦非水(1876~1965)によるもの。1階 大広間 「踊り子」のステンドグラス

杉浦非水は日本のグラフィックデザインの黎明期を支えた人物にあたり、三越呉服店のポスター、東京地下鉄道(現在の銀座線】開業のポスターを手がけました。

杉浦非水 東京地下鉄道開業ポスター

また、正面部分に掲げられているステンドグラスも杉浦非水の作品で「初夏」。こちらは、竣工当時のもので、小川三知と当時のステンドグラスを二分していた宇野澤ステインド硝子工場のもの。
右上から…
 ・トチノキ
 ・シャクナゲ
 ・キツツキ
 ・アジサイ
 ・ユリ
 ・カキツバタ
 ・オモダカ
 ・ホテイアオイ
 ・水鳥
 ・モミヒアオイ
を描いたものになります。

1階 大広間ステンドグラス「初夏」

また、螺旋階段部分は現在のものより狭いものでしたが、現行の建築基準法から、幅を広くとられた造りになっています。

1階 大広間 螺旋階段

【食堂部分】
大広間部分の隣は食堂になり、台所で作られたものを配膳室で盛り付け、こちらの部屋に運びました。
なお、床面においては大広間と同じく寄木張り、天井部分は重厚な化粧梁、窓も同じく上げ下げ窓を採用しています。

1階展示室Ⅰ(旧食堂)

また、正面部分に見えるステンドグラスもオリジナル。
杉浦非水デザイン、宇野澤ステインド硝子工場製のオリジナルとなり、日本アルプスを描いたもの。
左から2番目に高い山は槍ヶ岳となります。

1階展示室Ⅰ(旧食堂) ステンドグラス

また食堂には川上貞奴の展示がされており、ポスターはスイス人画家アルフレード・ミュラーが描いた1900年のパリ万博公演時の川上貞奴のポスターを掲げています。

1階展示室Ⅰ(旧食堂) アルフレード・ミュラー作『サダ・ヤッコ』(複製品)

また、川上貞奴が舞台「深山の美人」で使用した薙刀(複製品)と唯一現存する花魁の衣装が掲げられています。

1階展示室Ⅰ(旧食堂) 川上貞奴の衣装と小道具

【1階和室】
つぎに和館部分ですが、手前の部屋は展示室2となり、竣工当時の姿をそのまま残しており、婦人室として利用されました。
この部屋にある貝巻布団や座布団は実際に使用されたもの。床の間にある三味線に関しては、川上貞奴が実際に使用していたもの。
床の間に飾られた掛け軸は福沢桃介直筆のものになります。

1階展示室Ⅱ(旧婦人室)

奥の部屋は展示室Ⅲとなり、竣工時には茶の間として使用。
展示室Ⅱと同様、柱部分に関しては、年輪に沿って角を削っていく伝統技法が用いられました。
なお、和館部分はほぼ、竣工当時ぼ建材が使用されています。

1階展示室Ⅲ(旧茶の間)

茶の間奥にある小間は、福沢桃介の書斎として活用され、座布団に関しては川上絹布製(オリジナル)となり、室内の調度品に関してはレプリカですが、オリジナル品は貞照寺に保存。
当初、この部屋は竣工当時のものと考えられていましたが、基礎部分を調べると、のちに増築されたものになります。

1階展示室Ⅳ(旧書斎)

【1階 集会室】
つぎに、平屋部分を見ると、現在は集会室として貸し出されており、1938年に改築された部分をそのまま再現しています。
台所として使用されました。なお、腰板部分などの建材に関しては、解体前の洋館のものを使用しています。

1階集会室(旧台所)

集会室わきのトイレ部分には当時の水回りが再現。
水洗い場は大理石製。周辺の棚や引き出し、金具、鏡などはオリジナル部材を使用しています。

1階 和館部分のトイレわきの水回り

【2階 階段ホール部分】
つぎに2階部分を見ると、階段ホールに関しては、天井部分は白漆喰の化粧貼り風になっており、階段証明に関してはゼセッション風のものを設えています。
1階がパブリックな部屋がメインだったのに対し、2階部分は寝室などのプライベートな部屋が並びます。

2階階段ホール部分

【各展示室】
まず、展示室Ⅴに関しては、創建当時は左より浴室/洗面所/化粧室が並び、風呂を沸かすために電気ヒーターとガス湯沸かし器が置かれ、化粧室は、かつては旧寝室部分とつながっていました。

2階展示室Ⅴ(旧浴室/洗面所/化粧室)

つぎに展示室Ⅵは、かつて寝室として費用された部屋で、創建当時は階段側へさらに1.82m程広い部屋になり、のj越されている外観写真などを見ると、窓には日除けのシャッターが付いていたと思われます。

2階展示室Ⅵ(旧寝室)

なお、寝室部分に関しては、悲劇の外相・廣田弘毅の生涯を描いた「落日燃ゆ」などで有名な城山三郎先生の書斎が復元されています。

2階展示室Ⅵ 城山三郎の書斎

展示室Ⅶに関しては、竣工当時は福沢桃介の書斎として使用された部屋になり、この部屋に掲げられているステンドグラスに関しては、竣工当時からのものになりますが、どの部分に使用されていたかの証左に関しては不明となっています。

2階展示室Ⅶ(旧書斎)

展示室Ⅷにおいては、大正期から昭和初期にかけ、住まいの一部に中国風のいでょうを取り入れることが、文化人や中産階級の人に多く見られました。
二葉御殿時代、どのように使用されていたかは不明ですが、移築前には高台にあったため、名古屋城や御岳をいちょぼうできる見晴らしの良い部屋でした。
窓に関しては、竣工当時の写真から復元されました。

2階展示室Ⅷ(旧志那室)

【2階和室】
創建当時のまま残された部屋で、手前の部屋は和室Ⅰとなり、貸室としても利用可能な部屋で、竣工当時は婦人室として活用。
貞奴は親しい友人をこの部屋に招きました。廊下側の窓が全壊できるので、移築前は長めの素晴らしい部屋であったと思われます。

2階和室Ⅰ(旧婦人室)

隣の部屋も和室Ⅱとして、現在は貸室として使用できますが、こちらの部屋も創建当時の部材をそのまま使用しています。竣工当時のものをそのまま使用しています。

2階和室Ⅱ(旧次の間)

また、次の間わきの3畳間に関しては仏間として使用。
川上貞奴は、不動明王を崇拝しており、この部分では、それを参拝していました。

2階和室Ⅱ 仏間部分

なお、外観写真のマンサード屋根部分を中心として、洋館と和館部分には天井の高さに差がありましたが、屋根の高さが違うため、階段が設けられ、段差がつけられています。
なお、こちらの窓ガラス部分は、実際に邸宅で使用されていたものを利用しています。

2階 和館と洋館部分の廊下

最後に、文化のみち二葉館は、迎賓施設であると同時、電力王と呼ばれた福沢桃介の邸宅でもあったため、室内には様々な電気装飾が付けられ、奥側階段部分天井には、配線が所狭しと並んでいます。
また、壁面には、竣工当時の漆喰が再現されています。

2階奥側階段から天井部分を臨む

【編集後記】
二葉館に関しては、以前から記載したいと思っていたものの、資料がそろわず、苦節10年目にしてやっと記載できました。
まだまだ足りない部分などありますが、また改めて勉強し直して記載したいと感じます。
そして、迎賓施設として見ても非常に魅力あふれる邸宅でありました。

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