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わが心の近代建築Vol.45 旧本多邸/神奈川県逗子市(逗子)

みなさん、こんにちわ。
今回は、今年の秋に訪問した、神奈川県逗子にある旧本多邸について記載します。
この邸宅は、逗子駅より徒歩5分。
高台の上に位置し、鉱山・船舶用の安全灯の製造販売業を営む本多商店の支配人だった本多庄作(1897-1977年)が1939年に建てた住宅。
老朽化が進み、長らく空き家状態となっていましたが、子孫の方が屋根裏から設計図を発見し、設計者が久米権九郎氏と判明。
久米権九郎氏が興した久米設計に相談した結果、2022年より保存修繕工事が行われ、復元されたものです。

【逗子について】
この邸宅がある逗子について記載すると、逗子市は神奈川県南東部、横須賀三浦海岸に位置し、三浦半島の付け根部分に位置します。
また、近隣の逗子海岸から逗子駅までは徒歩10分で行ける観光都市であるほか、東京・横浜のベットタウンで、高級住宅地としても知られます。
1889年に官製鉄道(のちの横須賀線)の逗子駅が開業。
1892年には陸軍軍医の石黒忠悳らにより海水浴場として最適と宣伝され、徳富蘆花の「不如帰」の舞台となったこともあり、大正時代には逗子海水浴場として知られます。

逗子海岸【逗子市観光協会HPより転載】

なお1926年には伝説のホテル。逗子なぎさホテル(1989年に老朽化で閉業)が開業。数多くの外交官が利用したほか、大正天皇が御静養のため、葉山御用邸で休養されていた際には、若槻内閣がこちらで、執務を行いました。

逗子なぎさホテル【逗子・葉山webより転載】

【設計者・久米権九郎】
久米権九郎氏は、二重橋などの宮内関係の橋梁建築などに携わった建築家で衆議院議員の久米民之助氏の次男として1895年、東京に生まれ、1923年に渡独しシュトゥットガルト州立大学で建築を学び、1928年に卒業。
1929年に日本の木造建築と西洋型合理性を合わせた久米式耐震木骨構造を開発し、ドイツ工学博士を授与されたのち、渡辺仁とともに渡辺久米建築事務所を開業。

久米式木骨構造【久米設計HPより転載】

1932年に独立して久米建築事務所を開業。1938年から45年まで中国で活躍し、1946年に久米建築事務所を再開し1958年に退任します。この旧本多邸は、久米権之助の設計で現存する唯一の建造物になります。

久米権之助(1895~1965)【久米設計HPより転載】

【たてものメモ】
旧本多邸
●竣工年:1939年
●設計者:久米権九郎
●文化財指定:国指定登録有形文化財
●参考文献:
 ・逗子の歴史はWikipediaなどを参照
 ・建物についてはガイドを文字起こし化したもの
●交通アクセス:JR横須賀線「逗子駅」徒歩5分
●参考文献:―
●留意点:通常非公開(久米設計のイベントなどで公開され、Instagramなどで通知)

【外観部分】
旧本多邸を上空から見ると、屋根は天然石を1枚づつ、薄くスライスしたスレート張りで、その枚数は1万枚以上。
現在では、材料さることながら、これを作成する職人さんがおらず、職人さんの手で1枚1枚取り外し、屋根部分に雨漏り対策をし、再び貼り付けました。

旧久米邸 上空より臨む【久米邸HPより転載】

1階と2階部分の間の外壁レリーフに関しては、幸いにも当時の図面が残っていたため、再度、左官屋さんに忠実に再現し、どこを直したかわからないくらいに復元されました。
また、庭のスロープ部分はコンクリートやモルタルに玉砂利を混ぜ、固まる前に洗い流す「洗い出し」工法を用いています。
この邸宅で壊滅的だったのは、玄関ポーチ部分…
壁面部分のみで、内部の木材は腐っており、いわば皮のみで建っている状態。皮を板で支え、そのあとに柱で補強しました。

旧本多邸 坂道を登りきったところから臨む

【久米式耐震木骨構造の模型】
こちらの模型は、東京工業大学の山崎研究所で作成されたもの。
邸宅を1回、解体した際、骨組みになったものを実測し、模型化したものになります。
久米式耐震木骨構造に関しては、50㎝角の柱を2本に束ねて、45㎝ごとに並べる手法で、木骨は、模型のように謂わば鳥カゴのようになる…
これにより、たとえ、1本の柱にダメージがあっても、ほかの柱でカバーされるため、倒壊の危険性は防げる、といったもので、この構造が実践されていたことも、旧本多邸が国指定登録有形文化財に選定された大きな要因になります。

旧本多邸の木骨部分の模型(邸内展示品)

【平面図】
旧本多邸は、1階部分が接客の間と主人の本多庄作の部屋として。2階部分は家族の寝室として。屋根裏は納戸的な役割を果たしています。
また、玄関は、表玄関と内玄関の二つを用意。主人の庄作氏や来賓の方が表玄関を使用し、家族は内玄関を使用し、家族用階段で2階に上がられました。
旧本多邸は、復元時、本多家の子孫の方や久米設計の方の意向もあり、子ども食堂や市民の憩いの場として、イベントスペースとしての利用を視野に、いくつかの改造点はありますが、基本的には、竣工当時の姿にされています。

旧本多邸 平面図

【玄関部分】
表玄関は、広くとられており天井部分に漆喰塗になっており、縁にはモールディングが施され、床部分は、タイル張りになっています。
なお、玄関部分のポーチなどに張られたスクラッチタイルなどは、ひび割れた部分などは、模様で隠すなどの工夫がされています。

1階 表玄関

一方、内玄関部分は家族の方が使用。
天井部分が漆喰塗である以外は、モールディングの代わりに梁が渡されているなどしています。

1階 内玄関

また、先述のように、家族は内玄関を使用し、こちらの階段を使用して、2階に上がりました。

1階家族用階段と廊下

【応接室部分】
表玄関の隣に位置し、上部がバルコニーになっており、その関係で天井部分は落ち、床は落ちてしまい、壁も一部崩落している状態でした。

1階 応接室

なお、照明飾り(メダリオン)部分に関しては、メダリオン部分が外されて、壊れた部分をシリコンで固めたたもので型どりして復元。なお、照明部分に関しては、新しく作られたものになります。

1階 応接室 照明飾り(メダリオン)

【食堂】
この部分は、竣工当時は、家族用の食堂として使用。
机に8脚の椅子が設えてありました。
現在では、この部分は、市民のためのイベントスペースとして活用されています。

1階 食堂

照明に関しては、この建物のものではないものの、復元工事完了後、本多家の子孫の方から古いものと寄付された古い照明になります。

1階 食堂の照明

薄緑色の漆喰は、シルクを絞って模様を付けたもので、以前記載した、静岡県沼津市戸田にある松城家住宅にも同じ技法を用いています。
写真部分の窪みに関しては、復元工事時に木骨構造の状況を調べるために開けた部分。こちらも現在の職人さんによって復元されたものになります。

1階 漆喰壁の窪み

【1階 キッチン】
キッチン部分は、本多邸で最も改造された部分で拡張されました。
こちらは、今後、「子ども食堂」などのイベント施設してしの使用を見据えたものになっています。

1階 キッチン

【1階 廊下】
廊下部分の色ガラスなどは、竣工当時のものが残されています。
平面図を見ると、中廊下式になており、庭園側が応接間や食堂、山側はキッチンなどのバックヤードとなっています。

1階 廊下部分

【1階 居間】
こちらの部屋は、建物のメインルームになり、基本的には、主人と賓客のみが使用しました。
居間側にも階段が設けてあり、玄関前の階段に比較すると、幅も広くとられており、親柱、小柱とも装飾がなされています。
また、階段側の天井部分が低く作られ、居間は2階までの吹き抜けになっており、階段を抜けると、一気に解放感を与えます。

1階 居間側階段

なお、旧本多邸では裏山から水が流れ込むことが多く、居間部分の床もだいぶ落ちてしまい、特に壁面の壁部分などは、当時は最新鋭と言われたベニヤを使用していたため、材質がもろく、波打ったりして保存状態は芳しくなく、解体保存工事で内部を開けた際には腐食していました。

1階 居間

また、暖炉においては、実際に使用できるものの、使用されることなく、煙突部分などに煤が付いていない状態。
また、施主の本多庄作氏は、敬虔なクリスチャンであったため、暖炉周りなどに、キリスト教的な意匠が盛り込まれています。

1階 居間 暖炉

また、ボウウィンドウ部分に関しては、左右に付けられた照明、時計は竣工当時のものになっています。

1階居間 ボウウィンドウ部分

また、窓際の部分は、モールディングや照明飾り(メダリオン)も、使える部分は、その部分だけ、可能な限り保管し、修復不可能なものは、シリコンなどで型どり、復元しました。

1階 居間 窓際部分

【1階 和室】
居間部分の窓側隣は、和室になっており、格式高いものではなく、崩したものになります。
こちらは夫人室と呼ばれ、本多庄作夫人のために作られた部屋ともいわれていますが、殆ど使用されていなかったという説もあります。

1階 和室

【2階吹き抜け】
先述の居間側の階段を上がると吹き抜けになっており、天井部分の梁が特徴的です。また、真ん中部分の絵画は、壁にちょうどはまる大きさのもの。作者は本多家お抱えの絵師と言われた井上白楊(1893~1969)のもの。戦国期の静岡生まれの武将で、シャム(現在のタイ)に渡った山田長政を描いたものと言われています。

2階 ホール部分

【2階 寝室】
寝室は洋間になっており、もともとベッドも備えていました。(今のものは現在作られたもの)
本多氏は敬虔なクリスチャンであったことと、この建物を建てる前は、約1年間、ヨーロッパ・アメリカに滞在していたことから、その際に吸収したことや自身の信仰を反映しています。
暖炉に関しては、1階部分同様、使用されることはなく、一部、モールディングがない部分は、暖炉側の煙突が鉄筋で、建物自体は木工のため、地震があった際など、モールディングの変化に違いができてしまうため、とのこと。

2階 寝室

また、ベッドの枕元にあるステンドグラスは、作者や工房などは判明していないものの、非常に保存状態は良く、解体復元工事時には、磨いただけとのことでした。

2階 寝室 ステンドグラス

また、寝室前の部屋は、現在はワークエリアⅠとして利用されていますが、竣工当時は更衣室として利用されました。

2階 ワークエリアⅠ

【2階 浴室】
寝室に付随しており、床部分は現在のタイルであるものの、写真などから同じようなものを探して、設置。
壁のタイルも110㎜のモジュール…
現在は1社だけ作っているところがあり、そこから仕入れました。
なお、浴槽に関しては、竣工当時はネコ足のバスタブが備えられていましたが、現在はシャワーだけになっています。

2階 浴室

【2階 和室 次の間】
2階の和室は2間続きになっており、次の間部分と裏山が接しており、裏山からの倒木が屋根に刺さり、この部屋の一部の天井にシミが残っています。
なお、土壁と畳は新しいものに交換されています。

2階 次の間

【2階 和室】
次の間隣の和室は、床の間を設えた本格的なものになっています。この部屋では、実際に久米式耐震木骨構造の状況見られ利用になっています。なお、シェードに関しては、現在のものを使用しています。

2階 和室

この部分が久米式耐震木骨構造の状況を見られるようにしたもので、柱を45㎝幅に備え、漆喰には藁などを混ぜこんで縫っています。
なお、漆喰がはみ出たものと、釘で補強し、壁を支え、通気性がよく、それが建物の虫腐れを防いでいます。

2階 和室の久米式耐震木骨構造の状況

【2階 ワークスペースⅡ】
こちらの部屋は窓が2カ所あり、出入り口も2カ所あります。
本多庄作氏には、お子さんが二人いて、この部屋は長男と次男の方の部屋に割り当てられました。
なお、もともとは、2つの部屋だったものを分割。
2部屋とも、同じように壁際に本棚を備えており、現在はワーキングスペースとして活用されています。

2階 ワーキングスペースⅡ

【2階ワーキングエリアⅢ】
こちらは、長女の居室になり、現在は、ワークスペースとして活用されています。また、この部屋のシェードは竣工当時のものが使用されていますが、もともとここで使用されたものではなく、ほかの部分で使用されていたものになります。

2階 長女居室(ワークスペースⅢ)

【小屋裏部分】
継承した当時は、間仕切りがされており、荷物で溢れかえり、おく側は倉庫になっていました。
なた、この部屋に竣工当時の設計図が残され、久米権九郎氏の作品と判明したため、この邸宅が保存されるに至りました。
なお、邸宅はアルミサッシなどに変えられていましたが、この部屋に建具が残されいたため、使えるものは邸宅に利用。
この部分の黒い木々は、竣工当時のもので、新しいものは現在のもになります。
室内は
冬場で外気が0度近くても、晴れた日などは20℃まであがり、逆に夏には40℃近くまで上昇します。

小屋裏部分

【編集後記】
今まで逗子の邸宅は何カ所か訪問しましたが、今回保dふぉかんどうした建物はありませんでした。
新たな息吹を得た、旧本多邸…
多くの方に愛されて使用されていくことを強く望みます。


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