わが心の近代建築Vol.31 坐漁荘(旧西園寺公望別邸)/静岡県興津→博物館明治村
みなさん、こんんちわ。
本日は、以前訪問した建造物の中から、かつて静岡県興津にあり、諸事情により明治村に移築された西園寺公望別邸…
坐漁荘について記載します。
まず、興津の歴史について記載すると、その海岸は古くから「清見潟」と呼ばれ、和歌の枕詞などに多く使用された名勝。江戸期には東海道五十三次の17番目の宿場町として栄え、歌川広重の浮世絵にも遺されています。
明治以降は当時の嘉仁親王、のちの対象店のの海水浴地として知られたほか、東海道線開通などで交通アクセスが上昇すると、避寒地として栄え、川崎財閥の川崎正蔵、井上馨ら、数多くの政財界人の別荘が置かれ、西園寺公望もその一人で坐漁荘を置くなど、数多くの別邸が立ち並びました。
が…
興津海岸においては、残念なことに1962年の興津埠頭の整備工事によりコンビナートとして生まれ変わり、坐漁荘も公望死後は高松宮家に献上され、戦後、西園寺家に戻るも、幾度も所有者が変わり、移築前には邸宅に傷みも出始め、愛知県犬山にある博物館明治村との間で移築話もまとまったことから解体されて移築。
2017年には、その文化財的価値から登録有形文化財から国指定重要文化財に格上げ。現在は明治村を代表する建造物として公開されています。
一方、興津でも2004年に坐漁荘がレプリカ建築として復原。現在は「興津坐漁荘」として一般公開されています。
次に、施主の西園寺公望(1849~1940)について。
戊辰戦争で、官軍の山陰道鎮撫総督を務め、フランス留学時に、伊藤博文の腹心として活躍。
第二次伊藤内閣で文部大臣として入閣し外務大臣を兼任。
したのを皮切りに、博文病気療養中では、内閣総理大臣代理を務め、伊藤博文が単独辞任すると、内閣総理大臣臨時兼任になります。
その後、立憲政友会総裁に就任。
1906年に内閣総理大臣に選出され、桂太郎と3度に渡り交互に総理大臣を務めたことから「桂園時代」と呼ばれ、戦前期では最も安定した時代でもありました。
その後は首相選定に参画するようになり、1916年に元老になり、1924年に松方正義が亡くなった後は「最後の元老」として、首相選定者として大きな影響を与えます。
坐漁荘が建てられて以降、公望は1年の3/4を興津で過ごし、夏は御殿場の別邸で避暑、東京都駿河台の本邸には、政治的な用事で東京に戻った際のみの利用になりました。
西園寺公望は元老の一人として首相選定に奔走。特に松方正義亡き後は、最後の元老として首相選定に苦心。また数多くの政府要人が坐漁荘を訪問することから、その様は「興津詣で」と呼ばれますが、1940年…
その先の歴史を憂いながら西園寺公望は91歳で坐漁荘にて永眠。興津から東京まで運ばれ、日比谷にて、多くの国民に看取られながら国葬が営まれます。
西園寺公望亡き後の日本…
1941年に近衛文麿内閣が瓦解したのち、暗黒の時代に…
なお、坐漁荘についての由来ですが太公望・呂尚が、「茅に坐して漁をした」の中国故事にちなんで命名されましたが、実際のところ、西園寺公望には、そのような暇は皆無でした。
たてものメモ
坐漁荘
●竣工年:1920年(テラス・応接間は1929年)
●設計者:則松幸十(庭園は庭師(7代目)小川治兵衛)
●文化財指定:国指定重要文化財
●写真撮影:可
●入館料:¥2500(明治村入館料)
●休館日:HPを参照
●参考文献:
・鈴木博之著「元勲・財閥の邸宅」
・博物館明治村著「博物館明治村 ガイドブック」
・静岡県建設業協会HP 西園寺公望公別邸『興津坐漁荘』など
●交通アクセス:
名鉄犬山線「犬山駅」より岐阜バス 明治村線「明治村」停留所下車1分
●留意点:
明治村開館時、定時ガイドなどのみ、床上見学可能
坐漁荘 数寄屋門:
建物は全体的に数寄屋風に設えてあり、左側部分は警備員室。2.26事件直後には、専属の警察官が60人で警備に。
また、数寄屋門には竹が使われており、このような外観の為、料亭と間違える住民もしばしばいたそうです。
また、明治村には移築されませんでしたが、5.15事件後に鉄筋コンクリート造の書庫が建設。これは書庫というよりも、有事の避難所としての役割がありました。
坐漁荘 玄関部分を臨む:
坐漁荘は木造2階建て(一部1階建て)になっており、外壁はヒノキ皮で覆われた数寄屋風。
玄関部分には、坐漁荘と掲げられていました。
また窓などの柵部分は竹に見えますが、中に鉄骨を仕掛けており、西園寺公望が、政府要人だったため、非常に安全に重点を置いた建築になっております。
また、西園寺公望は竹を非常に愛した人物としても知られ、邸宅のいたるところにタケ材が使用されています。
テラス側を臨む:
まず、庭園に関しては西園寺公望の邸宅に関しては、(7代目)小川治兵衛が担当。氏は古河庭園、平安神宮、京都御所などを手掛けた人物としても知られ、明治村移築時には主要な庭石屋樹木なども併せて移植されます。
また、右側1階のテラス部分3法にガラスが使用され、興津海岸があった頃は、三保の松原などの駿河湾を一望することができました。
正面の雨どい部分:
坐漁荘は杉皮が貼られた数寄屋風建築となり、雨どいは興津から移築した時にあったものになります。
また、当時の時代背景や西園寺公望公が要人であったため、防犯対策がなされ、窓の竹の柵内部には、鉄骨が入れています。
平面図:
1929年の増築で、応接間やテラス、湯殿や更衣室、トイレが増設。邸内も迷路のように複雑な造りになっており、これは有事の際、公望公のもとへ辿り着き辛くする狙いがあったとされています。
表玄関部分:
玄関部分の天井部分はタケ。
隙間の無いように敷き詰められ、この玄関口は、主に公家や皇族来訪時に使うためのものになります。また、土間部分はL字になっており、多数の来客者でも応対できるようになっています。
1階玄関部分の下足入:
下足入れ部分内にある、波型の横棒はサーベル立てになり、子の下足入れはサーベル置き場になります。
1階/玄関の間:障子は、一見すると竹の皮を入れた風合いにみえます。が、実際には、竹の皮に見立てたスギ皮を使用。天井は竹の竿縁天井に、網代が組んだ数寄屋風になっています。
1階坪庭:
玄関の間部分には坪庭が設けられます。
坪庭には、その景観を愉しむ以外に、部屋に光を届ける機能性もあり、癒しをもたらせる効果があります。
1階畳廊下:
フックは、帽子掛けになり、襖の上部には、網代を組んだものの上に、曲がった竹を嵌め込んでいます。
1階畳廊下の襖:
襖は、雲花紙という、灰色の地に白いモヤのような模様になっています。上部の欄間部分は1本の竹を細くスライスしたものが使用。非常に手の込んだ設えになっています。
1階次の間:
欄間は桐板に「三五の桐」を描き、欄間装飾には頻繁に見られる意匠。また、欄間の隙間にはタケを挟み込んでいます。
この部屋の襖は、「揉み紙」という日本の伝統技法で、湿らせた和紙を好きな色に塗った後、幾度も揉んで柄を付け、独特な模様を描き出しています。
なお、こちらの部分の「揉み紙」は、レプリカになっています。
1階次の間/「揉み紙」:
襖欄間下にあるものは、現代の職人さんが手掛けたもので、次の間の別個所にある野々がオリジナルとレプリカの比較。
前面にあるものが現在の職人さんが作ったもので工法は折井成になりますが、比較するとオリジナルのほうが明らかに目が細かく、当時の職人さんのスキルの高さを知ることができます。
1階次の間の耐震補強の部分(通常非公開):
右側は、関東大震災以降に補強された部分。
関東大震災の被害状況は、興津でも広く知られ、以降、日本の建築に大きな影響を与えました。
なお、左側部分は、坐漁荘に使用された壁紙を展示しています。
1階居間:
西園寺公望の居間として使用。この部屋の机は実際に西園寺公望が愛用したものになります。
天井部分は竿縁天井で天井板には1枚板が使用。床の間左隣の長押には、竹があしらわれえており、いかにに西園寺公望が竹を愛したかがよくわかります。
1階応接間:
1階座敷に接続した部分。増築された場所で、西園寺公望が若き日に欧州に留学した経緯から、フランス式になり、暖炉を備え、長押などは名栗加工されています。
1階応接間の暖炉:
このマントルピースは火をくべて使用するためのものではなく、見せるために作られました。
タイル貼りになっており。内部に暖炉を置いて、その前に暖房器具が置かれ暖をとりました。
坐漁荘 1階テラス:
こちらも増築された箇所。
テラスは3方向を臨むことができ、天井部分の竿縁には名栗加工が施されています。
戦前期には伊豆天城の連峰、三保の松原を一面に見ることができましたが、現在は、明治村初代館長の谷口吉郎指揮のもと、移築された小川治兵衛の庭園と、入鹿池を駿河湾に見立て当時を偲ばせています。
1階テラス部分のVITAガラス:
この建物が竣工した当時は、紫外線を浴びることが健康に良いとされ、高齢の西園寺公望の健康増進のために、紫外線を通すVITAガラスが設けられました。
1階更衣室:
この部屋も増築された箇所。天井部分は、タケノコの皮を網代に組まれた数寄屋風。畳はリュウビンオモテという茶室の床畳に使用されるものが使用。左側の床材は名栗仕上げが施され、流し部分には自然に曲がった「曲り竹」という大変珍しい木材を使用しています。
1階浴室:
天井部分は、白竹を敷き詰めた舟底天井になっており、水滴が滴り落ちないよう配慮されています。
また、浴槽はヒノキ製。右となりの扉は、有事の際、西園寺公望がいつでも避難できるためのもので、浴槽蛇口部分の右上にあるスイッチは、異変時のブザーになります。
1階厠【通常非公開】:
左側下にある器具は暖房器具で、高齢になる西園寺公望の防寒対策でつけられたもの。写真では見づらいですが、右側の大便器は洋式になっています。
1階から階段を臨む:
階段の段差は、高齢な西園寺公望に配慮し、当時の住宅と比較すると、非常に緩やかに設えています。
2階廊下部分:
この廊下を歩くと、ミシミシと音がしますが、これはわざとと言われていて、旧来の武家屋敷の建築にみられた「鴬張り」という工法。
場所柄、密談や就寝時、万一誰かが廊下を歩いた際、座敷にいても分かる仕組みです。
天井部分は、1枚板に竹の竿縁天井になっていますが、竿縁の竹の節目が何処にあるかは、分からない状況です。
2階次の間:
欄間部分をみると、桐板の隙間に1本の竹をスライスしたものを嵌め込み、当時の職人たちの高いスキルを伺い知ることができます。
2階座敷:
左側に琵琶床が配され、落とし掛けには竹を使用。床柱は丸太を使用した数寄屋風になり、床柱隣の下部に、窓が付けられています。西園寺公望は、この部屋を寝室に充てました。
2階座敷に掲げられた書:
韓愈の「夜歌」が書かれており、この詩からも、混沌とした当時の世相を感じさせます。
西園寺公望が晩年機に書いたもので、公望は、米内光政提督が首相時、陸軍が現役大臣武官制を徹底悪用して瓦解。次の内閣には近衛文麿が選ばれる動きになり、それに意見を求められた公望は、これを固辞。
結果、日中関係は汚泥化の一途を辿り、公望の予見は当たることに。
公望死後の1941年に、日本は取り返しのつかない事態を招き、多くの方の尊い犠牲をはらうことになります。
2階から邸宅を臨む:
2階から屋根を臨むと、非常に複雑な造りになっており、邸内は迷路上に入り組んでおり、2階寝室などの主要な部屋には、簡単に辿り着けないようになっています。
2階広縁:
天井部分は、数寄屋風意匠。軒桁には、ここでも竹があしらわれ、興津時代は、目の前に興津海岸ビューと仁保の松原、駿河湾を臨むことができ、現在では、明治村にある入鹿池を駿河湾に見立てています。
2階広縁から庭園を臨む:
庭園部分は、古河庭園などを手掛けた(7代目)小川治兵衛の作品。坐漁荘が明治村に移築する際には、庭園の一部事持ってきました。先述のように、入鹿池をかつての興津海岸に見立てています。
1階水屋:
台所と内玄関のわきにあり、内玄関から入った人間の手洗い場などに用いられました。なお、天井には天板が設けられ採光が図られています。
1階台所:
坐漁荘では、調理に関してはほぼ行われず、近隣の料亭などでオードブルを取りケータリングが採用、コンロなどにおいては食材を温めるためどのに用いられ、盛り付け台に関しては、食材の盛り付けのために使用されました。
1階女中部屋:
坪庭を見ることができ、襖のデザインも凝ったものになっています。坐漁荘の中心になる絶妙な位置にあり、中女中の方が働きやすくなっています。また中央部分にある機械は呼び鈴でエジソン製。
これにより女中たちは、どの部屋から自身が呼ばれたかを把握できるようになっています。
1階内玄関:
往時はこちらをメインの玄関として使用。
表玄関部分は皇族など、限られた人物しか使用されませんでした。