わが心の近代建築Vol.51 林芙美子記念館/東京都新宿区中井(中井駅)
みなさん、こんにちは。
今回は昨年の5月掲載するつもりったのに、下書きのまま、ずっと放置していた林芙美子記念館について掲載します。
【目白文化村】
まず、今回扱う林芙美子記念館(旧邸宅)は新宿区中井にあり、この地域は目白文化村と呼ばれ、ちょうど、西武鉄道総裁・堤康次朗により1922年から邸宅販売を開始。
この地域が武蔵野台地の岩盤下にあり、被害も極めて軽微だった事から、多くの転入者が集結し、住宅街が形成。
西洋の住宅街のようなモダンな家が集まり、大正ロマンの流行とともに、多くの人々のあこがれの地となります。また、それより西側・南側には多くの前衛的な文人や芸術家が住み、今回扱う林芙美子もその一人で1930年代、この地に移り住みました。
【施主・林芙美子】
林芙美子(1903~51)について記載すると、1903年に下関に生まれ、行商だった両親に付き添い日本各地を転々。
1922年上京ののち、関東大震災以降の自身の人生を描いた「放浪記」が大ヒット。
流行作家になってからは中国・ヨーロッパ各地を訪問し、戦地慰問や報道班員として戦地に赴任し、戦後は「晩菊」や「浮雲」を執筆。
芙美子は1930年代に下落合に移住し、1941年に邸宅を完成。
一時信州に疎開するも、芙美子は約10年、この邸宅で過ごし、1951年インタビューで銀座の料亭を訪問ののち、帰宅後、自宅書斎で亡くなりますが、葬儀には市井の主婦たちが多数参列したことが伝えられています。
【設計者・山口文象】
設計者の山口文象(1902〜1978)は東京・浅草に生まれ、父は清水組(現。清水建設)の大工棟梁として活躍。
東京高等工業学校卒ののち、清水組に入社。
建築家に憧れ、中條誠一郎氏のもとを訪問し、逓信省営繕課の製図工になり、山田守や堀口捨巳らと親交を深め、分離派建築会の一員として活躍。
清州箸、数寄屋橋などの橋梁デザインに関わり、黒部川第二発電所の建築にも関与。
その後仲間たちと会社を運営し、渡欧後は地震の建築事務所を設立。以降、モダニズム建築の旗手として活躍し、戦後もモダニズム建築に寄与しますが、林芙美子邸は、氏の代表作となります。
【邸宅設計に関して】
なお、邸宅設計に関して、林芙美子は地震でも建築関係の資料を200冊以上読み、自身も職人を引き連れて京都などの神社仏閣を訪問するほどで、自身の建築意匠を大きく盛り込んだ建築になり、もともと芙美子は長年洋館に住んでおり和館に憧れがあったため、和館に。また、庭園委は様々な植物を植え、邸内には東西南北、風が吹き抜ける造りいなっています。
なお、設計に関し様々な制約がありましたが…
●屋根裏や収納スペースの活用により、開放感を与える
●邸宅全般、客間は質素に。生活棟は十二分にお金をかける
●建坪制限は夫がアトリエ部分の名義、芙美子は生活棟の名義にする事により解消
などの方法をとり解消します。
【主亡きあとの邸宅】
林芙美子が急逝したのち、主人で画家の林(旧姓・手塚)緑氏が護りますが、氏の亡き後、遺族により新宿区に寄贈。1992年より「林芙美子記念館」として開業。
なお、邸宅は東京都指定歴史的建造物となり、1シーズンごとに応募で一般公開されています。
【たてものメモ】
林芙美子記念館(旧林芙美子自邸)
●竣工:1941年
●設計者:山口文象
●文化財指定:東京都指定歴史的建造物
●写真撮影:可(フラッシュ厳禁)
●交通アクセス:西武新宿線「中井」駅より徒歩7分
●休館日:毎週月曜(月曜が休日の場合は翌日)、年末年始
●入荷料:¥150
●参考文献:
・高橋敏夫著「文豪の家」
・BS朝日放映「百年名家」
など
●留意点:
林芙美子記念館は、建物が非常に傷みやすい事や竣工80年以上経過しているため、室内は期間限定の予約応募で公開されています。(窓越しなどでの撮影は可能)
【平面図部分において】
林芙美子自邸は、太平洋戦争前夜の1941年に竣工しますが、この時期は日本建築士において、まさに冬の時代…
建坪制限などがありましたが、生活棟部分を林芙美子、自身たちの部屋を擁するアトリエ棟部分を夫になる手塚緑敏名義で提出して解決します。
【外観部分に関して】
まず、林芙美子自邸部分は中井の「4の坂」を上がる形になり、弧h塩らの出入り口は現在使用されず、記念館へはこれよりさらに上段の部分を出入り口としています。
なお、表門から入った形で邸内に入ると、階段を上ると、竹林を見上げる形になりますが、林芙美子は竹…
特に孟宗竹をこよなく愛し邸内・庭園の意小樽処の竹を使用。
また、このアプローチは京都西方寺をイメージして造られました。
玄関口に関しては、玄関扉がガラスの引き違い戸になりますが、左側は固定され、ここにガラス戸を置くことにより、景観的に開放感を与えています。
また、玄関左側には、錆鉄(さびてつ)という壁に鉄分を与えて経年により筬日を浮き上がらせる方式が取られていまsづ。
なお、玄関部分の飛び石においては、芙美子と緑敏、植木職人の方で配置したものになります。
つぎに庭園側に回り、生活棟と後t利絵等の接続部分を見ますが、右側が芙美子名義の生活棟、左側が緑敏名義のアトリエ棟になりますが、後々の予定では2つの建物は繋がれる予定でしたが、終生、繋がれることはありませんでした。
この理由として、芙美子自身が自身の作家としての部分と、家族との生活の部分を切り分けたかったためと推測されます。
【生活棟部分において】
玄関は、天井部分が杉の板材の柾目を交互に並べた「大和張り」になり、2つの割れる通路は正面が「取次の間」としての接客部分、左側が生活の部分への出入り口に分かれました。
なお、正面側にある大きな石は黒御影石になっています。
玄関前の黒御影石部分を1段上がった部分が「取次の間」。
客間に繋がる部分になり、狭い室内ではあるものの、障子や畳など、通常より長細いものを使用することにより、空間的に広く見せています
家族用玄関から小さな部屋が小間。
この部分は芙美子の母親が使用した部分で、まず、天井部分は杉が用いられており、手前側は傾斜が付けられており落天になり「萩の屋羽根網代」と呼ばれる、萩の枝を幾重にも重ねたものが使用されています。
正面右側をみると床柱には竹材が使用、床框部分は低くつけられた数寄屋風の佇まいになっています。
右側の出窓部分は通風性以外にも、限られた空間を広く見せる効果があり、芙美子の母親に対する愛情を感じられます。
なお、引き戸の取手部分は、扇子があしらわれており、ここを開くと、備え付けの引き箪笥が収納されています。
小間部分を出て、広縁部分を伝うと6畳間になりますが、この部屋は茶の間となり、広縁部分は約1.2mあり、この廊下があることで、茶の間を広く引き出しやタンスになってなお、床柱は北山杉の天然絞り丸太で床の間は平床となります。
なお、小間部分と同じく、襖を開けると引き出しや箪笥になる、一番上の部分は神棚として使用されました。
茶の間を抜け、浴室部分を見ると、この部分は先述のように林芙美子が最も力を入れた個所となり。天井部分は芙美子が好んだ竹材を使用。
また、腰板部分には白タイルが貼られ、浴槽はヒノキ製という贅を尽くしたものとなります。
また、浴室となりは、洗面台となり、流し部分は人造洗い出し石という、種石とセメント、石灰を混ぜたものを塗り付け。水洗いすることにより、天然石のような美しさを出しており、当時の優れた左官技術を垣間見る事ができます。
窓の格子には竹材が使用されています。
台所部分の水回りは〝人造石研ぎ出し〟になっており、芙美子自慢の一品でした。
冷蔵庫に関しては、芙美子生存時は製氷型冷蔵庫が標準でしたが、こちらの冷蔵庫は1937年製の東芝の1号型冷蔵庫になり、記念館開業時に東芝側から寄贈されたものになります。
芙美子は作家活動の傍ら、酒の肴を作ることを得意とし、合間を縫って料理する事を愉しみとしました。
シンクは、洗面台と同じく人造洗い出し石を使用。3列のシンクが配置されていますが、いちばん浅い部分は主に野菜の洗浄などに用いられたそうです。
また、台所を伝い廊下に行くと、梯子がかけられていますが、これは屋根裏収納に行くためのもので、狭い空間ながら、そのスペースを巧みに利用しています
廊下の屋根裏部分の1室に2段ベッドを配した室内尾がありますが、使用人部屋として活用。
芙美子は長年にわたり、汽車旅そ行っていたため、そ個から発想を得て、省スペースの為、この形をとりました。
厠部分にも府もこは大変力を注ぎ、この時代にして既に水洗トイレを完備。また、水回りの天井部分には網代を組んだものを採用しました。
廊下を伝い北側の部屋は客間として使用。
主に、編集記者の待機所として設けられ、当時人気作家だった芙美子のもとには、10人くらいの記者が常駐。
北側の室内だったため冬は非常に寒かったとのこと。
ここにも芙美子が好んだ竹が用いられています。他にも、にじり戸などを配し、床柱はアカマツ、天井部分は杉の柾目板、落ち天井部分は薩摩葦(さつま‐よし)が用いられ、伝統的な数寄屋建築を芙美子の意匠でアレンジしたものとなっています。
なお、芙美子お気に入りの記者の方に関しては、その限りではなく直接、先述の茶の間に通されました。
【アトリエ棟部分】
アトリエ棟は、先述のように緑敏氏名義で作成され、生活棟と違い、使用するそれぞれの部屋に併せて高さが異なり、こちらはプライベートな室内とアトリエに重点が置かれ、林芙美子が最も心血を注いだカ所になります。
まず、造り付けの箪笥がある部屋は次の間となり、箪笥の正面部分には富貴子が好んだインド更紗が貼りつけられました。
またこの部屋の床柱はアカマツになっており、欄間部分はヒノキ材の一枚板という贅を尽くしたものを使用しています。
当初はこの部分の窓は肘掛窓になっていましたが、のちに生活棟との出入りに配慮し、掃き出し窓が採用されました。
庭園側にある部屋は手塚緑敏氏と養子の寝室として使用。
この部屋は元々、芙美子の書斎として使用される予定で、生活棟の茶の間部分と非常によく似た構造になっています。
この部屋の床柱はアカマツ、落ち天井部分は〝萩の屋羽根網代〟になっています。
なお、この部屋に家族以外で入ることができたのは、古屋信子氏や川端康成ら、ごく限られた人物のみで、川端康成は決まってとkもの間部分に座りました。
なお、芙美子の葬儀はこの部屋で行われ、この際に川端康成氏は葬儀委員長を務めました。
次の間の奥は書斎となりますが、当初の予定は納戸として計画されていた部屋になり、庭園側から見ると奥まった個所に位置し、その薄暗さを芙美子は好みました。
芙美子は明け方までこの部分で執筆し、そのまま床に就き、起床後にまた執筆活動を続ける生活を続けますが、1951年の6月…
朝日新聞の取材で銀座の料亭から帰宅してすぐ、僅か齢47、ここで生涯を閉じます。
また、書斎部h分はもともとが納戸であったため、収納に重点が置かれており、襖を開けると作り付けの棚やクローゼットが置かれ、竹材のハンガーかけが使用されました。
書庫部分は、両サイドに造り付けの本棚を置き、芙美子の書物を保管し、真ん中部分にも書棚を置きました。
なお。一時期。この部屋には金庫が置かれたりしました
なお。こちらの照明に関しては、傘部分は竣工当時のものを使用しています。
北側の書斎隣部武運の廊下から見る中庭の景観に関しては、大徳寺の狐篷庵忘筌(こほうあんぼうぜん)を模して造られました。
この部分から生活棟に向かう途中には。かつては茶室が置かれていましたが、残念ながら台風で大破し、復元されることはありませんでした。
アトリエ部分においては、緑敏氏が創作活動に使用。
現在は、林芙美子の資料が掲載され、真ん中のある机は緑敏が創作活動に使用。
また、アトリエという性格から、北側の天窓が設けられ、障子部分は、表と裏、双方に掃除が身が貼られた「太鼓貼り」が採用されています。
こちらのピアノは林芙美子の養子・泰ちゃんのため、芙美子が買い与えたものですが、彼も芙美子かが亡くなって8年後、僅か17歳で列車の中で転倒、頭を強く打ち亡くなりました。
【庭園部分】
庭園部分には、芙美子自ら購入したザクロやカルミア、坪井栄から贈られたオリーブなどが植えられ、今日も来る者の目を愉しませています。
【林芙美子亡き後の緑敏氏について】
林芙美子と手塚緑敏(1902~1989)は事実婚状態でしたが、戦争末期、泰v班を養子に向かい入れる際に、緑敏氏が林芙美子のところに婿入り。
残念ながら二人の間に子宝に恵まれることはありませんでしたが、緑敏氏は献身的に妻の作家活動をサポート。
林芙美子、そして義理の息子の泰ちゃん亡きあと、邸宅を護りながら、妻の作品の管理をして生涯を終えました。
【編集後記】
この邸宅に関しては、以前から記載しようにも、時機が合わず、今回になりましたが、今まで様々な作家の邸宅を扱いましたが、その中でも一番印象深い建築になりまだ掲載できていない建造物が多いですが、じっくりと記載したいと感じます。