わが心の近代建築Vol.22 青梅宿・津雲邸/東京都青梅
こんにちわ。
今回は、書こうと思いながら記載できなかった、青梅宿・津雲邸について記載します。
この邸宅は、戦前・戦後期に活躍した政治家で仏像コレクターでもあった津雲国利氏の別邸建築にあたり、数多くの政財界人をもてなした迎賓施設としても知られています。
青梅の歴史を記載すると、1606年に江戸城築城のため、青梅・成木村から石灰を運んだことが始まりとされ、徳川家康が江戸幕府を開いたときに青梅陣屋が置かれたことに始まり、青梅街道は「成木街道」と呼ばれていました。
成木地区の石灰が成木街道を通らず、川越を経由するようになると、この道は現在の「青梅街道」と呼ばれるようになり、青梅と氷川(現・奥多摩)や甲府盆地への往来が盛んになるにつれ、甲州への近道としてこの道を使う人も増え「甲州裏街道」とも呼ばれるようになりました。
また、青梅は青梅街道・5番目の宿場町として、江戸中期には御岳山への参拝者や旅人、商人や職人が多く行き交い、僅か1.5㎞の間に10件ほどの旅籠が形成されました。
また、この古くから織物産業も盛んで、絹とも綿を織り交ぜた「青梅縞」の生産地としても知られています。
今回扱う青梅宿・津雲邸は、戦前・戦後に活躍した青梅出身の代議士・津雲国利氏が1934年に建てた別邸建築で、氏は代議士としてのみでなく、仏像や幕末関係の史料、ひな人形といった古美術コレクターとしても高名で、氏のもとには往時の多くの著名人が来訪。
自身が造った臨川庭園に招いたのち、この邸宅でもてなし、美術品を披露したといわれています。
施主:津雲国利(1993~1972)
安田、古河の銀行金、下野銀行相談役、下野新聞社顧問などを歴任したのち、1928年に衆議院議員に選出。
その間、拓務政務次官、政友会幹事、翼賛政治会常任総務などを歴任。戦後は、要職を歴任したことから公職追放されたものの1953年に自由党から衆議院議員に返り咲き。
津雲邦俊氏は政治家としてのみではなく、仏像などの古美術コレクターとしても高名な人物で、没後、それらを青梅市に寄贈。現在、その一部が青梅宿津雲邸で公開中。
【たてものメモ】
青梅宿 津雲邸
●竣功:1931年、1934年
●文化財指定:国指定登録有形文化財
●設計者:京都より宮大工を招聘し、青梅の職人によって作られた●写真撮影:基本的に写真撮影不可。詳細は係員の方に要相談
●交通アクセス:JR青梅線 青梅駅より徒歩10分
●開館日:各種イベント時のみ開館
●参考文献:
・BS朝日放映 「百年名家」
・青梅宿 津雲邸内の展示パネル
・青梅街道などの歴史においては、Wikipediaw参照
青梅宿・津雲邸
1934年に津雲国利氏の迎賓施設として竣工。
建物は右側部分を給仕する場所に、左側部分をゲストルームとして利用。京都より宮大工を招聘し、その指導の下、青梅の大工・畳職人・石工が建築に当たります。
側面部分から臨む:
まるで城郭を思わせる造りになっています。この邸宅は津雲國利が1931年から1934年にかけ建造した邸宅で、瓦葺入母屋造、押縁下見板張、一部漆喰塗になっています。
また、純和風建築でありながら、縁側との仕切りにガラス戸を用いるなど近代的な要素を持ち、また欄間や天井など随所に職人の超絶技法を垣間見ることができます。
数寄屋門:
数寄屋門は、柱部分を角柱ではなく、自然木を用い、壁には鉄粉を含ませた「錆壁」という設え。年月が経つにつれ鉄分が錆び、褐色の色合いを出します。
数寄屋門の額縁:
数寄屋門の縁額縁額を支える1対の狛犬も、肉球など、細かい装飾が見えます。また、先述の写真部分において、錆壁の状況が額縁の双方から見ることができます。
玄関口
邸宅前、階段を登りきると、2匹の狛犬が、来訪者を迎えます。
玄関前の石畳:
石畳には、鳳凰、獅子、竜が描かれています。
平面図:
津雲邸は北側と南側に分かれ、南側を主に迎賓の場として利用されました。
玄関:
まず、天井は市松状の網代、丸太の天井が数寄屋の意匠を与えていますが、場を引き締めるために、長押が回されています。
また、火灯窓が付けられ、玄関先の暖簾には、津雲家の「対い聴」が描かれています。
また、津雲家に出入りする職人は、この柄の半纏を機手作業に向かいました。
玄関扉:
玄関扉は火灯窓風になっており、釘隠しが設けられています。
玄関扉の釘隠し:
釘隠し部分の「対い蝶」を拡大した写真。こんな小さな部分にも、これだけ細かい装飾を描くことができることから、この邸宅に携わる大工さんの技量をがいかに高いかを伺い知ることができます。
1階 玄関の間:
玄関を上がると、玄関の間部分には坪庭が作られ、この部屋の窓から光が差し込み、来訪者を出迎えます。
1階 茶室前の前室:
天井部分は舟底で、茶室と玄関の間を切り離す効果があります。天井に並んでいる細い竹のようなものは、トクサになっています。
1階茶室
前室とは打って変わり、明るく開放的なイメージを与え、主に玄関前の待合として利用されました。
茶室の柱部分には面皮柱が用いられ、長押は磨き丸太が用いられています。
床の間部分は直角に交わり角竹の床柱と落とし掛けが用いられた袋床になっています。
1階茶室 上段の間:
この部分は、上段の間になっており、仏像コレクターだった津雲国利らしく、仏像を安置するために造られた場所になっています。
1階茶室天井:
天井板は屋久杉と言われ、長い板を4枚、注意と中央に並べています。また、小さいパーツは竹細工でできており、これにより天井板を支えています。
1階茶室天井部分の拡大:
竹の留め具には、2手に割いたような細かい装飾が付けられています。
1階大広間:
茶室を前室とし、こちらを応接間に使用。
現在は展示室に活用されていますが、もともとは椅子とテーブルが置かれ、正面の掛け軸が飾ってある場所は、窓になっていました。
天井部分は格天井で、鏡板に杉の笹木(笹の木が折り合ったように見える木目)を用いています。
床部分は寄せ木細工で、柱は磨き丸太が用いられ、窓ガラスは、美術品を護るため、もともとから和紙が貼られた形状になっています。
なお、壁は京都聚楽第跡地付近の土による聚楽壁になっています。
青梅宿・津雲邸 1階大広間の格狭間:
・仏像コレクターの津雲国利のためにしつらえられた窓で、仏像を安置する須弥壇になっています。
床柱は絞り丸太とタガヤサンで書院の地袋天板には欅材に漆で仕上げています。
2階大広間「次の間」:
5畳からなる次の間ですが、目を奪うのは輪郭を縁取るように縦横にはしる黒漆塗りの細い直線。柱や長押、天井部分の材木にまで面を取り、そのすべてに黒漆が塗ってあります。
2階大広間:
津雲邸の部屋で最も格式高い部屋で宴席に使用されました。
壁は1階応接間と同じく、京都聚楽第跡地の土による聚楽壁になり、天井は2重格天井で格縁面、柱面、長押の面は呂色(ろいろ)塗りされており、手の込んだ造りになります。
床柱は、通常はヒノキの角材などが用いられるところ、太杉の絞り丸太が用いられ、堅苦しさを和らげています。
2階大広間の蟻壁:
・大広間には蟻壁が採用され、天井が浮いた感じを与え広々した錯覚を与えています。
・長押は、内法長押【うちのりなげし】、蟻壁長押、天井長押の3つ付けられて居ます。
2階大広間、床柱の枕捌き:
床柱には、一見すると長押が床柱に差し込まれた印象を与えますが、床柱を枕捌きにして、のちに先端部分をつけたものになります。
階大広間から、山々を臨む:
津雲邸w階大広間からは、奥多摩の山々を眺めることができ、この景観も、迎賓館としての売りの一つでした。
2階大広間廊下:
廊下の窓枠も優れた装飾が描かれています。
また、奥側の窓には和紙が貼られており、小pレは竣工当時からのもので、
津雲邸にある美術品を紫外線から護る目的で付けられました。
2階廊下から屋根瓦を臨む:
屋根瓦部分にも、津雲氏の家紋「対い蝶」が描かれています。
1階煤竹の間/次の間:
階段を降り、煤竹の間に向かいますが、次の間部分の照明は創建当時のものになり鉄製です。また、欄間部分は源氏香図があしらわれています。
1階煤竹の間:
煤竹の間は、ゲストルーム、主に寝室として用いられた部屋で、天井部分には煤竹を敷きならべ、柱は面皮柱を使用、仕上げは、斧(ヨキ)によるハツリ仕上げとなっています。床柱は柚子の変木、落とし掛けは山椒、床框はモミジが用いられています。なお、天井の煤竹は、奥多摩の古民家より。梁は隣町の瑞穂町に昭和初期まであった酒蔵より譲り受けたものです。また、欄間部分は源氏香図をあしらったものになり、障子部分は通気性を考え無双窓が取り付けられています。
1階「煤竹の間」廊下:
写真ではわかりませんが、窓のレール部分は金属ではなく、竹のレールが用いられています。
1階「煤竹の間」の廊下窓の装飾:
窓には津雲家の家紋のもとになった蝶が描かれ、窓枠には、薄く削った竹が貼られています。
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