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わが心の近代建築Vol.30 旧林家住宅/長野県岡谷

みなさん、こんにちわ!!
今回は、先日訪問した、長野家岡谷にある旧林家住宅について記載します。自身、この邸宅を最初に訪問した時から、双極性気分循環障害と適応町外を併発…
文章を書くどころか、本を読むこともできなくなり、斃れていましたが、何とか快復し、やっとの掲載に至りました。
まず、今回扱う林家のある岡谷市は、長野県内の市では最小の地区になり、人口密度に関しては、県内で最も高く、諏訪湖畔の西岸に接し、豊富な水源から、古くから養蚕が盛んな地域として知られていました。

諏訪湖SAから対岸の岡谷市を臨む(Wikipediaより転載)

生糸産業において、近代の流れを記載すると、1859年に横浜港が開業。1934年までの75年にわたる長い間、生糸産業は我が国の輸出産業の第1位に君臨。
その中でも1897年には日本の輸出量はイタリアを超え、1909年に中国を超え、世界1位の生糸輸出国に。また、1924年には、生糸生産量の全国1位が長野県、その中でも岡谷市の生糸輸出量は、全体の60%を占め、世界的にSILK OKAYA(糸都・岡谷)として知られるようになりました。なお、岡谷では街を上げて生糸産業を行い、繭蔵や製糸工場の煙突が並び「岡谷のスズメは黒かった」と言われるほど製糸一色の街に。

殖産期の岡谷の状況(岡谷市産業振興部ブランド推進室「岡谷シルク」より転載)

また、1905年には中央本線の岡谷駅が開業。
これにより、全国各地からの繭の輸入・輸送が可能になり、大量の繭が「空かご」に入れられ岡谷駅に集積。
また引込線には大量の石炭が各地から集められ、製糸の燃料として活用されました。

岡谷駅に積まれた「空かご」(岡谷蚕糸博物館PDFより転載)

なお、今回扱う邸宅の施主・林国蔵(1846~1916)は製糸業で岡谷を中心に活躍した実業家の一人。父・倉太郎から継承したイチヤマカ林製糸所を経営しつつ、岡谷の生糸発展に尽力。また、片倉財閥の方倉兼太郎、尾沢金左衛門と共同経営した現在の組合にあたる開明社を創業。生産品の品質安定や横浜との価格交渉など、岡谷の発展に大きく寄与しました。林国蔵は、東京では川口屋銃砲火薬店を経営。製糸の燃料確保のために諏訪薪炭株式会社を設立し、深谷にも製糸業第3工場を設立。それ以外にも、先述の中央東線開通促進、岡谷郵便局開業などにも尽力、5年間村議会議員なども歴任しました。

施主 林国蔵(1846~1916) 旧林家住宅パネルより転載

また、生糸産業においては、女性の働き手が必要不可欠で、1930年、岡谷の街は製糸工場で働く女工さんであふれ、その数は約34500人。
人口のほぼ半数が10代から20代の工女さん。
その多くは長野県外からの出稼ぎで1年単位の労働者。
明治期は生産効率が優先化されたものの、それでも各工場、優秀な人材を集めるため、その待遇に重点を置きます。
さらに大正期になると、労働時間も短縮化。
余暇に温泉や娯楽、買物に連れ立って楽しむ工女さんの姿も見られ、工場の中には工女さんの教育に重きを置き、国語・算数・そろばん・華道・茶道・裁縫などを教える場所も。
この地域では「嫁に貰うなら岡谷から」と言われ、暮れに工女さんが岡谷駅を使い、故郷に戻る際には、工場のほうでも賃金以外に、多くお土産を持たせました。

岡谷駅から故郷へ帰る工女さんたち(岡谷市産業振興部ブランド推進室「岡谷シルク」より転載)

また、実業家たちは、製糸工場の従業員とその家族が使用できるようにと共同出資し平野製糸協同病院を開業。当時では画期的な総合病院で、現在は岡谷市民病院として営業しています。

平野製糸協同病院(岡谷蚕糸博物館PDFより転載)

たてものメモ
重要文化財 旧林家住宅
・竣工:
  和館:1907年
  洋館:1900年以前
・設計者:大工棟梁 伊藤佐久二【大隅流】
・文化財指定:(国指定)重要文化財
・入館料:¥580
・休館日:毎週水曜日、祝日の翌日、年末年始(12/29~1/3)
・写真撮影:可(フラッシュ厳禁)
・交通アクセス:中央本線「岡谷」駅徒歩5分
・参考文献:
 ・岡谷の歴史などは、市のHPを参照
 ・内田青蔵著 「死ぬまでに見たい洋館の最高傑作2」
 ・「シルクと金唐紙の館 旧イチヤマカ林家住宅」
ほか    
・留意点:
和館2階は非公開。邸宅にはガイドさんがつき、案内してもらえます。(ガイドさんなしに回るのは不可)

まず、この邸宅は1907年に完成したものの、林国蔵は、その直後、深谷に移住たためか、実際のところ使用する事は無く、明治期の状況がよく残されています。
邸宅の構成として、住まいとしての和館、迎賓棟としての「はなれ」、迎賓入り口の「洋館」から構成。
特に「はなれ」においては、現在遺されている個所は少ない「金唐革紙」が使用。
また、設計には、江戸期を代表した建築様式・大隅流の棟梁、伊藤佐久二があたり、和館や「はなれ」の欄間彫刻などは、同じく江戸期の代表的な建築様式・立川流の流れを汲む清水虎吉(好古斎)があたります。

旧林家住宅平面図(建築報告書より転載)

表門:
表門に関しては、他の建築部分と意匠が違い、商家に使われるような門でなかった事などから、他の部分から移築されたものと推測されます。

主屋外観:
主屋は、間口7間、奥行6間半の切妻造り・妻入の建物になります。屋根構造はトラス構造を使用。右側部分の止めも緩やかな「むくり」が付けられています。
なお、左側が表玄関、真ん中に化粧間、奥側が内玄関になっています。

主屋/表玄関の鬼瓦と懸魚:
懸魚には波しぶきを意匠したものが描かれ、鬼瓦には、屋号のイチヤマカが記載されています。

主屋/内玄関:
天井は大引天井になり、左側の扉(帯戸)は木目の鮮やかなトチ材を使用。尾の部分を開けると、2階に上がる階段があります(現在非公開)
また、壁は鼠漆喰塗。カマチや差鴨居はヒノキ材が使用されています。

主屋/寄付:
内玄関を上がってすぐの部屋。
10畳間からなり、こちらの壁も、鼠漆喰塗り。天井部分は竿縁天井で、板はスギ材の中柾が使用されています。
また、奥側の座敷部分、そして右側部分の「茶の間」の襖や障子の真ん中にはガラスが使われ、中庭から陽の光が差し込み部屋を明るくしています。

主屋/書斎:
化粧間お奥側は主人の書斎になり、竿縁天井で天井板材には春日杉を使用。
 ・壁:砂壁
 ・床柱:ヒノキ材
 ・床脇部分:トチ材。
 ・床框(かまち):カツラ材
 ・落とし掛け・釣束:イチイ材
を使用。天袋部分は三角になっており、座敷の中央を向くように配列されています。この理由として太陽光による劣化を防ぐとも言われています。

主屋/上座敷:
12畳の広さで、天井部分は竿縁、天井板はスギ材の柾目を使用。後述する下座敷に比較し、目の細かいものを使用し、材により高格差を出しています。
 ・床柱:ケヤキ材
 ・框(かまち):カエデ材
 ・違い棚:トチ材
を使用。

主屋 上座敷の狆潜り:
狆潜りには「柏に鷹」が描かれ、木材はスギの一枚物で清水好古斎の作品になっていますが、失敗の赦されない、非常に高い技術が求められる作品になっています。
柏は新芽が出るまで古い葉が落ちない事から、「家系が絶えない」
「子孫繁栄」の意味があり、鷹は古来より出世を意味するものになっています。

主屋/上座敷の書院欄間:
書院部分はイチイ材で作成され、書院欄間部分はネズコ材で作成。
こちらも清水好古斎の作品のになり、長年、「羊飼いの老人」と言われていましたが、古代中国の故事・蘓武を描いたものと発見。
蘓武は古代中国、武帝の時代の武将。
敵に捕らわれ北海(バイガル湖)で雄羊を飼わされ、子どもが生まれたら開放すると約束…
結果的には部下の手助けにより解放されるに至ります。

主屋/上座敷から欄間を臨む:
こちらの作品も清水好古斎の作品。
杉材の五枚物の板に「富士に鶴」の意匠のものが彫られ、失敗の赦されない、非常に高いスキルの持った彫刻になります。

主屋/下座敷:
天井部分は竿縁で天井板材には1尺5寸(45㎝)の幅広の杉柾目材を使用。しかし、上座敷のそれと比較すると、目の粗いものになっており、格の差を出しています。
同じことは「床の間」部分にも言え、上座敷のそれ被比較すると、書院欄間部分の省略など簡素化されています。
吊束、床框、床板にはケヤキ材を。棚板にはトチ材を使用しています。

主屋/下座敷側から欄間を臨む:
欄間部分は、氏下座式側からも見ることができ、非常に高いスキルを感じることができます。
しかし、上座敷側から見るものに比べ、簡素化されています。

主屋/廊下部分の軒桁:
長さ8間半のヒノキの丸桁で、端から端まで、その太さが変わらない、という非常に珍しい材が使用されています。
また、欄間部分には「蜘蛛の巣」が描かれており、よく遊郭建築などで見られるものですが、運気を絡めとる、などの意味があります。

主屋/仏間:
先述の縁側の蜘蛛の欄間部分の奥は仏間となり、天井は竿縁、杉の柾目材を使用しています。
壁は砂壁が使用され、仏壇両脇の箪笥は、コクタン/タガヤサン/クロガキ/クリが使用されています。

主屋/仏間の仏壇:
こちらも、立川流の清水好古斎の作品。仏壇の羅漢像の背後に「大正二年八月清水虎吉作」「好古斎刀」とあるため、邸宅完成後に子の仏壇が完成したことが伺えます。
仏壇上部に太陽に見立てた宝珠と雲の彫刻。唐破風下には、上半身が人間、下半身が鳥の迦陵頻伽(カラヴィンカ)という極楽浄土に住むとされる神様が描かれています
仏壇内の欄間部分には十六羅漢像。その奥には約5㎝の小さな菩薩像が彫られ、この作品は清水虎吉(好古斎)晩年の作品としても名作になっています。
なお、仏壇の扉枠にはタガヤサン。板と唐破風はイチイ材で作成されています。

主屋/台所:
20畳の広さがあり、天井部分は大引天井、壁は鼠漆喰塗になっています。
流しは「座り流し」になっており、岡谷市に水道が通ったのは1927年のこと。
そのため竣工当時は炊事には井戸水を用い、また林家では生糸産業だったため、火気厳禁。竣工当時は他の部分で作られた料理を、こちらに運びました。

主屋/茶の間:
天井は竿縁天井、天板はケヤキ材が使用されています。壁は砂壁で、茶箪笥の上には神棚を備えています。

主屋側面写真:
正面から見たら、平坦に見えますが、側面を見ると「むくり」になっています。

土蔵:
主屋の南側には、外蔵/味噌蔵/穀蔵と呼ばれる土蔵が並んでいます。外蔵は間口13間(23.7m)、奥行3間(5.4m)の2階建て。
外壁は白漆喰塗、妻壁は黒漆喰塗、腰下はナマコ壁になります。
林家では、桂蔵と呼ばれていますが、この蔵の建材は、その名前通り、カツラ材でできています。
建設時期は資料がないものの『岡谷市史』に1893年と記載されています。

洋館 外観:
洋館部分は迎賓施設として、海外のバイヤーさんを招くために使用。
寄棟造りで鉄板葺、妻入の建物で、屋根は主屋と同じく「むくり」が付けられています。もともとは瓦葺だったものが1928年に起きた火事で、鉄板葺に改造されています。
なお、壁はセメント漆喰でできており、腰下部分は洗出擬医師が使用。建築年代については、定かなものが遺されていないものの応接室ロールバーが造られた年などから、1900年以前のものと推測されます。

洋館/玄関ポーチの柱部分:
玄関ポーチの柱頭飾りはコリント式風になっており、その下には蚕が成長する過程を描いています。

洋館 玄関ホール:
床部分と腰壁は寄木張り、天井部分は現在では色褪せてしまったものの、金唐革紙で飾られ、天井部分の中心飾りは石膏で固めらています。なお、正面の扉は、奥の茶室/座敷に繋がり、この洋館を訪問された外国人バイヤーを和の心でもてなしました。

洋館/応接間:
こちらも、色褪せてしまいましたが、天井部分は金唐革紙で彩られ、腰板は寄木張り…
なお、この寄木張りに関しては、竣工から100年以上経つのに、未だに狂いがみられない、超絶技法になっています。

洋館/応接間の寄木細工:
玄関ホールと応接間の腰壁、床面は寄木になっていますが、竣工から100年以上たっているにも拘らず、未だに狂いの無いものになっており、職人のスキルと厳選された材木が使用されているのが分かります。

洋館/茶室(床柱部分を臨む)
先述のように、茶室は右側の扉を開けると玄関ホールに繋がり、訪問者の方に、この部屋で茶をもてなし、室内の広さは4畳半あります。
また、隣の洋館/座敷部分を茶室に使用する際には、こちらを控えの間として使用したり、二部屋使用したりの応用性のある仕組みになっています。」
炉は切っておらず、茶に関しては、別のところで建てたものが提供されました。
茶室の材において…
 ・柱:3寸角のヒノキ
 ・床柱:アカマツの皮付き丸太
 ・床框:イチイ
 ・床の地板:ヒノキ
 ・棚の吊り木:タケ
 ・落とし掛け:トチの無垢材
となります

洋館/茶室 貴人口を臨む:
天井部分は畳の敷き方に合わせた市松天井に。素材は中央に3尺角の真竹の際竹を使用。その他の4枚はスギの根杢3尺×6尺の1枚板を使用しています。

洋館/茶室 貴人口:
貴人口部分には、飛び石などは残っているものの、残念ながら「つくばい」は残っていない状況です。

洋館/座敷:
本勝手の書院風茶室として造られます。
 ・柱/鴨居/床框:ヒノキ製・
 ・床柱:茶室と同じく松の丸太
 ・落とし掛け/地板/床脇の地袋天板:イチイの無垢材
を使用。壁は茶室と同じく京壁塗り、天井部分はスギ材の荒柾の竿縁天井、床脇棚には変木を使った数寄屋風にもなっています。
また、こちらの天袋は母屋部分の施主書斎と同じく、三角形に設えています。

内蔵:
内蔵は洋館と「はなれ」の真中部分に接続し、間口4間、奥行2間半の2階建てになります。
住宅の一部が土蔵を抱き込む形は、この地域で多くみられ「建てぐるみ」と呼ばれています。
通常、邸宅と土蔵は延焼を防ぐため離れて作られますが、冬の出入りの便を優先させ、諏訪地区では「建ぐるみ」が多くみられます。

「はなれ」を主屋側から臨む:
はなれ部分は寄棟造りの桟瓦葺の2階建て土蔵造りになり、室内は座敷になっており、邸内2階の座敷部分は、この邸宅最大の見どころである、金唐革紙が使用されています。
現在では、色はくすんでしまいましたが、この土蔵造りの光と湿気を通さない構造が幸いし、金唐革紙の保存状態は比較的良好です。

主屋上座敷側から「はなれ」をつなぐ廊下:
まず、こちらは角材の武家風に設えてあり、右側のヤカンのようなものは、手水鉢になっています。

主屋/仏間と「ななれ」下座敷を結ぶ渡り廊下:
上部の渡り廊下とは違い、丸太の軒桁や天井の梁など、曲がった材を使用。戦術の部分が武家風であるならば、こちらは、寺社仏閣にみられるような形状になっています。

「はなれ」中庭側廊下部分:
中庭の縁側部分はスギ材とネズコ剤を高ごみ組み合わせたものになっています。

「はなれ」1階 上座敷:
1階上座敷は、15畳間になっており、天井部分は竿縁天井で、スギ柾目材の3枚剥ぎを使用。壁部分は砂壁になります。
 ・床柱/落し掛け:チーク材
 ・違い棚:クリ材
 ・天袋板:ケヤキ材
となります。なお、「離れ部分」の欄間や書院欄間部分の細工は清水好古斎のものとは明らかに違うものになっています。

「はなれ」1階下座敷:
10畳間から構成され、天井は竿縁天井、スギの柾目材を使用しています。

「はなれ」1階下座敷の襖を開けた図:
襖を開けると通常は押入になりますが、この部分を開けると階段になり、訪問者、特に外国人の方を驚かせる意匠になっていました。

「はなれ」中庭側の扉:
廊下側にある階段部分の扉は、1枚板のネズコ材の扉が使用。
また、木目を浮き上がらせる「浮造り」という大変高度な技法が用いられています。

「はなれ」階段1階の手すり:
階段手すりはヒノキ材。
竹のように曲げて使用しています。また、1階部分の手すりには細かな彫刻がされており、実に手の込んだ意匠になっています。

階段2階部分の手すり
こちらもヒノキ材を使用。
なお、この手すりも、ケヤキ材を竹を曲げたように作成しています。

2階下座敷:
こちらの部屋は、天井と壁部分に金唐革紙を使用。
先述のように湿度などが保たれ、光を通さない土蔵だったため、保存状態が非常に良好。
欄間部分は、スギ材に七宝や桐などの装飾が描かれています。

「はなれ」2階上座敷:
15畳間で、旧林家住宅の中、最も格式高い部屋になっています。
窓は洋風の上げ下げ窓。外側は観音開きの土戸が使用。
なお、天井部分と壁は、座敷と同じく金唐革紙を使用。
床の間部分において…
 ・床柱:タガヤサン
 ・床框:カエデ
 ・床板:ケヤキ
 ・落とし掛け:シタン
 ・筆返し:コクタン
となり、唐木三大銘木といわれた「紫檀/黒檀/鉄刀木」をすべて使用したものになります。なお、林家住宅居招いた来訪者を洋館茶室でもてなした後、この部屋で宴を催し、契約書にサインさせたなどともいわれています。

【編集後記】
旧林家住宅は、個人的に最も苦戦した建造物の一つで、あっと本会を遂げた心境…
また、僕自身、製糸業に関しては「あぁ野麦峠」のイメージが強かったものの、実際のところ、企業サイドも優れた女工さんを求めており、経営者の方々も、お祭りを開いたりなど、様々な手で女工さんのことを持て成していたこと。
女工さんの中には優れたスキルを持ち、当時の金額で「百円女工」という高額を稼ぐ方もいらした…
改めて、正史を学び、広く知っていただく必要性を強く感じましたた。
そうした意味でも、非常に思い入れ深い建物の1つになりました。

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