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わが心の近代建築Vol.57 日本橋高島屋 本館(東京都中央区日本橋)

みなさん、こんにちわ。
最近は阪神間モダニズムを中心に記載していました、当ブログ。
今回は、デパート建築初の国指定重要文化財に選定された、日本橋高島屋 本館について記載します。

【高島屋の歴史】
―髙島屋創業~関東大震災―
まず、高島屋の歴史を紐解くと、1831年に京都で初代 飯田新七(1803~74)が京都烏丸松原上ルにて古着・木綿商を開いたのが始まり。養父の飯田儀兵衛が近江国高島郡(現在の滋賀県高島市)出身だったため、髙島屋と名付けられました。

初代 飯田新七【高島屋資料館HPより転載】

「禁門の変」では店舗が戦火で焼け落ちたりなどあったものの、建て直し、1893年には京都店東側に「髙島屋飯田新七東店」として貿易店を開業。1898年には当時の大阪のメインストリートの心斎橋筋に店舗を構え、1900年には横浜弁天通に横浜店と東京都京橋区西紺屋町に東京店を構えます。

高島屋飯田新七東店(貿易店)【高島屋資料館HPより転載】

そして1905年には東京丸の内店を八重洲町に開店させ、1912年には商業施設初の鉄筋コンクリート3階建て(一部地階)としえt京都店を開業、1916年には東京南伝馬町に東京店を新築開店させ移転。1919年には「株式会社 髙島屋呉服店」を設立させ、1922年には大阪長堀橋筋に大阪店を開店させますが…

髙島屋東京支店【高島屋資料館HPより転載】

1923年9月1日11時57分…
関東地方に未曾有の大災害を襲いますが、髙島屋にも、その刃は容赦なく襲い、東京店は全焼…
1か月後に千代田生命の仮店舗を借りて、経営再開させ、1927年に南伝馬町の旧店舗跡に東京店を再建させ、1930年には「株式会社 髙島屋」と変更し、1930年には大阪南海店を一部開店させ、1932年には全館開店(現・大阪なんば店)に至ります。

髙島屋 大阪なんば店【Wikipediaより転載】

―高島屋 東京支店創業まで―
つぎに日本橋高島屋 本館について記載しますが、関東大震災で焼失した高島屋は、新店舗設営が叫ばれました。
丁度その頃、日本生命も事務所兼百貨店の建設を企図しており、髙島屋サイドが計画に加わりますが、これが現在の日本橋高島屋で、この例は戦前期における日本生命による、本格的な投資用ビルとして唯一の例となります。

竣工当時の日本橋高島屋 本館【高島屋資料館HPより転載】

建築様式としては、「東洋趣味ヲ基調トスル現代建築」という条件が掲げられてコンペの結果、高橋貞太郎氏が勝ち抜き、地上8階/地下2階建て、本格的鉄筋コンクリート建築が設営され、1933年に竣工し、当初の名前は日本生命館と命名され、髙島屋の営業は、旧東支店から移転されることに。
日本生命は建物ののごく一部を東京支店路して使用。
余談ですが、現在の銀座線日本橋駅に関しては、その建設費用は髙島屋サイドで補填。
なお、銀座線日本橋駅から、髙島屋地下2階にかけ階段が造られました。戦時中は髙島屋内の設備などが金属供出させられ、空襲時には、被害を被るも、職員の方の迅速な応対などにより、延焼を免れることができました。

―戦後の髙島屋東京店―
戦争も終結し、1950年にはタイ王朝から小象を譲り受け、クレーンで屋上まで持ち上げられて飼育。この子象はは髙島屋にちなみ、高子ちゃんと命名されるも、体が大きくなり、環境も手狭になったため、4年後に上野動物園に引き取られます。

屋上で飼育された「高子」ちゃん【髙島屋資料館公式Xより転載】

1952年には髙島屋の包装紙は、現在のモダンローズの花をモチーフにしたものに変更され、日本橋高島屋も、村野藤吾氏により、増築部分が設計。髙島屋は6階までを使用、日本生命が、7・8階を使用することに。なお、高子ちゃんが上野動物園に引き取られる際には、村野藤吾氏が増築した階段を使用します。
また、1959年には、現在の髙島屋のマスコットの前身になるハッピーちゃんがクリスマスのイベントにちなみ造られ、1960年には天皇陛下の西端にちなみ「ラッキーちゃん」が。そして1962年からは、髙島屋のシンボルフラワーにちなみ、現在のローズちゃんが造られ、現在も店舗を彩っています。

髙島屋のマスコット ローズちゃん【日本橋高島屋本館 地下2階のものを撮影】

―増築から現在へ―
日本橋髙島屋本館は、1963年に日本生命日比谷ビルが開業し、異本生命がそちらに移転し、建物は正式に高島屋のビルとして新たな道を歩き始めます。
なお本館部分は、村野藤吾指揮のもと、Ⅰ次~Ⅳ次まで増築が行われるも、平成期になるとほかの日本橋地区の建物も老朽化が目立つようになり、日本橋髙島屋 本館に関しても、建て直しの話が幾度か出されます。
が、その優れた建築意匠から、保存されることが決まり、2004年には耐震改修促進法に基づき工事完了。
この工事の際に、デパート営業しながらの工事で、ビニールシートをかけますが、その絵が好評だったので、日本橋高島屋の紙袋のみ、他店とは違い、ビニールシートの絵がデザインされました。

日本橋高島屋の紙袋

2009年には、村野藤吾氏の増築部分含め、デパート建築で初の国指定重要文化財に選定。現在は、日本橋橋髙島屋 本館を中心として、再開発が行われ、現在、4階の一部分と5階 旧貴賓室が、大阪なんばにある「高島屋資料館」の分館として「高島屋資料館TOKYO」が開館して今日に至ります。

【たてものメモ】
●竣工:1933年
●設計者:高橋貞太郎(増築部分は村野藤吾氏担当)
●交通アクセス:東京メトロ銀座線、日本橋駅よりすぐ
●文化財指定など:(増築部分を含め)国指定重要文化財
●入場料:髙島屋資料館TOKYO含め無料
●写真撮影:可(ただし、商品がマクロで、また顧客の方が入ったものは絶対に不可)
●留意点:髙島屋コンシュルジュの方により、髙島屋ガイドツアーが毎月1日に募集あり
●参考文献:
・髙島屋の歴史など:髙島屋資料館HP
・五十嵐太郎/菅野裕子著「装飾をひもとく」
など

【日本橋高島屋 2人の建築家】
日本橋高島屋に関しては、2人の建築家が中心にかかわりますが、まず、この建物を設計したのが、高橋貞太郎(1892~1970)。
現在の滋賀県彦根市に生まれ、東京帝大で佐野利器に学び、成績優秀につき、恩賜の銀時計を授与され、宮内省内匠寮技師で赤坂離宮の改修や宮廷建築に関わり、1925年に学士会館のコンペに入賞。
前田侯爵邸、上高地ホテル、川奈ホテル、帝国ホテル新館などに携わるほかライオンズクラブや救来運動などの社会事業にも関わます。

設計担当者 高橋貞太郎

次に日本橋高島屋 本館の改修工事を担ったのは村野藤吾(1891~1984)。現在の佐賀県唐津市に生まれ、小倉工業学校卒業後、八幡製鉄所に入社し、従軍中に学問に興味を持ち早稲田大学理工科の入学ののち建築学科に転学し、27歳で卒業。
渡辺節建築事務所に入所し1929年に独立。
戦時中は実作の機会は少なかったものの、代表作の八幡図書館では鉱滓を混ぜたレンガ、1958年の八幡市民会館では鉄さびを連想猿タイルを使用するなどの特徴があります。
また日本橋高島屋 本館改修工事以外にも、迎賓館の改修、旧竹田宮邸洋館の改修を行い、宇部市渡辺翁記念会館、世界平和記念聖堂が村野藤吾作品では国指定重要文化財に指定されました。

改修担当者 村野藤吾

【外観 正面部分】
正面部分においては、高橋貞太郎氏が設計した部分が非常に良く残されており、建物においてはネオ・ルネッサンス様式の中に、日本の建築意匠を多く盛り込んでおり、この建物のコンペが行われた際の「東洋趣味ヲ基調トスル現代建築」がふんだんに盛り込まれ、正面玄関の3連部分城には髙島屋のシンボルマークの髙のマークが刻まれています。

日本橋高島屋 正面外観

正面玄関上部の装飾を見ると、エントランス上部の3連アーチ、それぞれの上に、寺院建築で多く使用される蟇股(かえるまた)が描かれており、カエルが足を広げたような意匠になっています。
また蟇股中央部分を見ると、これも寺社建築で見られる間斗束(かんとづか)を使用し、記号のように見せています。

エントランス上部分の3連アーチ状の日本的な装飾

【軒下部分の装飾】
また、新館6階 渡り廊下部分から本館の軒下を見ると、この当時、旧軍人会館や名古屋市役所のように、鉄筋コンクリート建造物の上に瓦屋根を載せた定款様式が流行するも、日本橋高島屋 本館は屋根瓦こそないものの、軒下には垂木状のデザインを採用し、その下に西洋建築で見られるような3連アーチを連続させ、その間に列柱を配するなど、和と洋が見事にコントラスト市対象になっています。

本館 軒下部分の和と洋の装飾

また、同じく新館6階渡り廊下部分から壁側上部を見ると、2段の高欄が付けられており、下の部分は親柱の頭部が禅宗風の意匠に。上部は擬宝珠風のデザインになっており、上部に関しては、村野藤吾氏が増築時に付けたものになります。

2段の高欄

【旧 日本生命のエントランスと増築部分】
髙島屋本館の南側側面部分をみると、日本の寺社建築で見られるような肘木風の意匠と、アーチ状の窓を付けた玄関部分が見えますが、こちらが日本生命の入口になり、現在の1階エルメス付近に上に上がる階段などが設けられていました。また、右側部分はタイル張りの窪みになっていますが、ここから先が、村野藤吾氏設計の増築部分になります。

日本生命用のエントランス部分

なお、先述の村野藤吾氏設計の増築部分ですが、ガラスレンガを多用した様式になり、村野藤吾作品だと、有楽町駅前の交通会館などでその意匠を見る事ができます。
なお、増築に関しては、計4回行われ、村野藤吾氏の増築部分を見た高橋貞太郎氏は、その完成に満足したとのことです。
また、真中部分のタイル貼りの下部分には彫刻的なモチーフが描かれていあます。

村野藤吾氏が増築した部分

また、増築部分の5階には、東京メトロの前身にあたる営団地下鉄のマスコット・マーキュリー象などを作成した造形作家・笠置季男(1901~1967)がデザインした龍の造形が飾られており、先述の彫刻的な意匠含め、村野藤吾氏が単なる機能主義優先の建築家ではない一面をのぞかせています。

南側5階 笠置季男氏がデザインした龍の造形

【エントランス/風除室の意匠】
次に、エントランス部分をくぐり、風除室を見ると、天井部分は日本建築で格式高いと言われている格天井風の意匠になっていますが、アーカンサス(葉アザミ)が飾られている、いわば和洋折衷風。また、鉄扉部分も、和風の意匠になっています。

玄関 風除室内部を臨む

風除室のガラス欄間風の意匠を臨むと、花と幾何学的なモチーフを組み合わせた繊細な装飾になり、和風の建築意匠をモダン化したものになります。
また、その上部などには、日本建築で多く見られる、釘隠し的な意匠が施され、左側の柱風の柱頭部分は、イオニア列柱に渦巻き状の雷紋を横に2つ並べたものになり、独自のデザインになっています。また、右側の出入り口部分は、円柱をとがらせたような意匠の形を連続させたものになっています

玄関 ガラス欄間風意匠の部分を拡大した写真

また、両サイドの壁面には、ニッチ(窪み)が付けられていますが、竣工当時は水飲み場となっており、髙島屋の名物になり、夏でも冷たい水が飲める、日本橋髙島屋の名物でした。ニッチの下部は蓮子の花弁の意匠になっています。

風除室の両壁のニッチ部分

【1階部分の意匠について】
次に館内を見ると、まず北側階段部分は竣工当時のオリジナル部分で、腰壁と手摺部分は大理石製で親柱部分の形状は八角形になっています。
また、手摺部分の底側には、日本建築でいう所の釘隠し的な金物装飾が付けられ、意匠が施されています。

1階 北側階段部分

次に日本橋高島屋 本館部分で一番の醍醐味である1階正面エレベーター部分を覗くと、浅く湾曲するカマボコ型の西洋風なヴォールド天井でありながら、格天井風になっており、格子の交点には八葉蓮花があしらわれています。なお、内壁部分は木目調に見えるものの、大理石になっています。
機械こそ最新式ですが、創建時のカゴを改修しながら使用しています。

1階 正面エレベーター

なお、奥側のエレベーターは、増築時に作られたもので、画家の東郷青児(1897~1978)によって描かれたものになります。
東郷青児氏は、昭和の美人画家として戦後を一斉風靡し、仁科店の宣伝に尽力したことから「仁科会の首領」と言われました。

奥側 13号エレベーター

次に地階から1階に上がる中央階段を見ると、天井部分には、こちらにも釘隠し状の金物装飾が付けられ、階段部分は腰板・手摺部分含め、大理石になっています。

地階~1階の階段部分

【アンモナイトなど】
なお、髙島屋の大理石部分の様々なところには、アンモナイトを発見することができます。
アンモナイトは古生代シルル紀~中世代白亜紀に生きた生物で、巻貝のような殻に包まれたものですが、その形状がそのまま残されています、

1階大理石に含まれたアンモナイト

同じように、大理石内には、白亜紀に絶滅した軟体動物のベレムナイトの化石を発見することができます。日本では、北上山地で産出されるんものの欧米意比べて極めて稀なものになります。

大理石部分に含まれるベレムナイトの化石

【1〜2階 吹き抜け部分】
髙島屋では、竣工当時から冷暖房完備だったため、他のデパート建築とは異なり、吹き抜けは風通しの意味合いよりも、装飾的な意味合いが強く、吹き抜け部分には、列柱が付けられています。

1〜2階の吹き抜け部分

吹き抜け天井部分を見ると四角い照明に関しては、増築を担当した村野藤吾氏の作品になります。
中央は八葉蓮花の装飾が付けられ、その周りを幾何学的な雷門模様が付けられていました。また、天井部分は格天井になり、交点部分にはアーカンサス(葉アザミ)が付けられています。

吹き抜け 照明部分

なお、持ち送り部分に関してはコリント式列柱に日本の寺社建築で多く見られるの肘木(ひじき)が融合した、和洋折衷のデザインになり、列柱周りには雷門模様が描かれています。

2階吹き抜けから列柱を臨む

また、日本橋高島屋 本館も太平洋戦争の影響を受けた建物になり、吹き抜け部分に付けられた鉄柵においては、戦時中の金属供出令により改修されるも、戦後になり修復されます。

吹き抜け部分の鉄柵

【3階エレベーター部分】
1階部分に比べれば、天井部分や大理石部分など、比較的シンプルに構成されていますが、それでも、列柱式の意匠が付けられてたりしていて、豪華さを見る事ができます。
なお、日本橋高島屋 本館の正面エレベーターに関しては、各階のエレベーター、それぞれ意匠が違っている点も興味深いです。

正面エレベーター 3階部分

【5階 旧貴賓室】
日本橋髙島屋 本館に関しては、4階一部と5階旧貴賓室が現在、髙島屋資料館TOKYOとして利用されていますが、写真では判明しずらいですが、貴賓室部分の天井には、装飾が付けられており、。イベント時などに使用されています。

5階 旧貴賓室

【6階エスカレーターの装飾】
6階エスカレーター部分には柱と梁の間に筋交いを入れられており、耐震工事などでは多く使用されているものの、デザインが武骨になってしまうキライがありますが、構造体をむき出しにしないで、包み込んだ面に装飾的な繰り型を入れたデザインになっています。

6階 エスカレーター部分

【屋上部分】
ー村野藤吾増築の階段ー
次に、村野藤吾が増築した際の階段を見るとモダニズム的な形状の中にも、左側には幾何学的な装飾がなされており、単なる機能的なものにはおさまらない村野藤後らしさを垣間見ることができます。
特に村野藤吾の建築で最も特徴的なのは階段部分で、「階段の天才」とも呼ばれました。
また、こちらは子象の高子ちゃんが、上野動物公園に移動する際には使われ、幾度も階段を下りる練習し、ここから地上に降りました。

村野藤吾設計の階段部分

―エレベーター部分―
屋上エレベーター部分は、柱頭部分には大斗肘木風の意匠になり、天井部分は「折上天井」となります。
また、釘隠し部分は、六葉モチーフの釘隠しを取り付けています

屋上エレベータ部分

屋上エレベーター部分の外観を見ると、タイル張りになっていますが、軒下部分には、日本建築で多く見られる垂木状のイチョウが付けられ扉真中部分には、寺院建築で多く見られる蟇股が付けられています。
柱足部分には写真ではわかりづらいですが、丸みを帯びながらぎゅっと詰まった「粽(ちまき)」という禅宗の寺院建築でつけられる意匠が模られています。

屋上 エレベーター室外観

―屋上噴水部分―
屋上噴水塔のデザインは、日本橋高島屋で個展を開いた陶芸家・小森忍(1889~1962)の作品になり、開店時からのもの。
開店時には髙島屋が京都発祥であることを来客者に伝えるため、祇園の月鉾を招き、噴水の前で実演を行いました
また、周囲にはペリカンの像が付けられていますが、なぜこのデザインになったかは不明になります。

屋上 噴水塔

―屋上塔屋―
こちらの塔屋に関しては、子象をイメージして造られたもので、先述のように髙島屋屋上では、かつて子象の高子ちゃんが飼育されていた関係で、そのデザインを採用。
これは村野藤吾のデザインと言われ、氏の建築物にはしばし、このようなデザインが採用。
また、上部のガラス部分で風雨を防いでいます。

屋上 塔屋

―屋上 笠森稲荷―
なお、髙島屋の屋上には、笠森稲荷が付けられ、これは1954年の増築予定地にあったものを屋上に移築したものになります。
こちらは大阪市高槻市にある笠森稲荷神社の分社として日本橋で愛されたもの。
2019年の改装時に祠全体を一新しましたが、釘隠しや扉の金物の一部は移設当初のものをそのまま再利用しました。

屋上 笠森稲荷

―屋上 七福殿―
こちらは、髙島屋竣工時から日本庭園にあったもので、1977年に作られた2代目の七福殿になり、八角堂はよく見かけるものの、七角形のものは極めて珍しいとされています。

屋上 七福殿

【編集後記】
日本橋高島屋 本館に関しては、亡き祖母に手を引かれ、母がパートタイムを務めた場所…
自身の話になりますが、初めての海外ブランドものの腕時計を買った場所…
本来、歴史を語る際には、事実のみを俯瞰して語るべきですが、母や祖母との想い出が、施設内のポイントごと、走馬灯のように駆け巡り、こみ上げる涙をこらえながらシャッターを切り、はっきり言って、一番感情的に記載しました。これは、どのデパートにも言えますが、この建物が、多くの方の夢の国であることを願って。また、永遠に愛されていくことを願ってやみません。

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