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わが心の近代建築Vol.18 聴松閣(愛知県覚王山)

こんにちわ。
最近はメンタル不調で記載できなかった当ブログ、大変申し訳ありませんでした。
今回は、数年前に訪問した愛知県名古屋市の建造物より、覚王山駅近く、揚輝荘南庭より、聴松閣について記載します。

まず、揚輝荘は、松坂屋の前身にあたる「いとう呉服店」店主・伊藤祐民の別荘として覚王山日泰寺のふもとに作られた大庭園で、最盛期には約35000㎡の敷地に30数棟の移築/新築された建造物が立ち並び、個人別荘にとどまらず 、皇族はじめ、当時の政財界の重鎮や文化人が訪問し、園遊会、観月会、茶会などが営まれました。
また、アジアの学生の寄宿所としても利用され、国内外の交流の場として用いられましたが、空襲で多くの建物が消失。戦後は庭園も再開発により南北に分断され、現座の敷地面積は約9200㎡になり、数棟の建造物と庭園が残されているのみになります。

次に揚輝荘を立てた伊藤祐民の家柄である伊藤家は、始祖・祐広、初代・祐道とも織田信長に仕える家臣で、清須越し(清洲から名古屋への移転)以来は呉服商となり、代々次郎左衛門と名乗り、1740年には尾張徳川家の呉服御用達に。1768年には上野御徒町の「松坂屋」を買収し江戸に進出します。

「尾張名所絵図」のいとう呉服店
歌川広重作 「名所江戸百景 下谷広小路」 の松坂屋の状況
伊藤祐民(1878~1940)

このような家柄、伊藤祐民は1878年に名古屋市で生まれ、兄の急逝にともない、伊藤家の家督を相続。1907年に東京上野で開店した「いとう松坂屋」(のちの松坂屋上野店)で、今までの伝統的な「座売り」をやめ、商品を棚に陳列する「立ち売り方式」とし、1909年の渡米の際にみたアメリカのデパートに衝撃を覚え、三越専務の日比翁助に教えを請い、1910年に「株式会社いとう呉服店」に名を改め、現在の名古屋市栄町にデパートを開業させます。
なお、栄町にデパートをオープンさせた初日、偶然訪問したビルマ独立の指導者、ウ・オッタマと知己を得て、以降、祐民が数多くの留学生を引き受けました。

名古屋・栄町に開業した「いとう呉服店」デパート

また1923年の関東大震災の際には、自ら軍の駆逐艦に乗り込み上京。
生活物資を積んで復旧に努め、1924年に家督を継ぎ、自身は伊藤次郎左衛門と名乗り、1925年には、関東大震災での復旧活動により、松坂屋の名前が全国的に有名になったのを機に「いとう呉服店」の全店舗を現在の「松坂屋」に統一。
以降は名古屋商工会議所の会頭になり、名古屋観光ホテル操業に奔走するなど、名古屋財界のリーダーとして活躍。
1933年に自ら設けた55歳定年制に従い、引退したのちは、社会事業に乗り出し、1934年の釈迦生誕2500年に因み、ビルマ・インド仏跡巡拝の旅に出て、この際のイメージが揚輝荘・聴松閣に大きく反映されます。
1939年に体調を崩して手術。
揚輝荘で療養を送るも、茶屋町に居住を戻し家督を譲り、翌1940年に夭折します。

次に、聴松閣について記載しますが、この建物は、伊藤祐民の迎賓棟として活用。
1937年に竣工し、設計は竹中組の小林三造、建築には竹中組(現在の竹中工務店)創業者の竹中藤座右衛門が関わります。
なお設計者の小林三造は伝統的な和風意匠に新機軸の工法やデザインを反映させる事を得意とし、現代数寄屋建築の旗手・吉田五十八と匹敵する人物で、代表的な作品には神戸市の白鶴美術館などがあります。

聴松閣
●竣工年:1937年
●設計者:小林三造
●文化財指定:名古屋市指定有形文化財
●写真撮影:可
●参考文献:邸内の展示パネル、Wikipediaなど
●交通アクセス:名古屋市地下鉄「覚王山」駅より徒歩10分

外観:
長野の上高地ホテルをイメージした外観と言われており、地上2階の屋根裏部屋付/地下1階の一部コンクリート造り、外壁にはベンガラ塗りとし、屋根部分は和風になっています。
また、柱を表に出すハーフティンバー方式が用いられ、邸宅には幾つも丸窓が使われ、邸内は様々な建築意匠を巧みに用いり、建築に変化を与えています。

車寄せ:
車寄せ部分は石造り風に仕上げられ、天井の照明部分は、角をみせず、1枚の面のように漆喰塗で仕上げられています。

車寄せの虎の置物:
このオブジェは伊藤祐民自らから選んだもので、南北朝時代の作品といわれ、何故虎の置物が選ばれたかというと、祐民が寅年にちなんで、とのことです。

玄関部分:
玄関扉は厚さ9㎝のケヤキの無垢材が選ばれました。
また、聴松閣は迎賓館のため、顧客に扉を開けさせる必要がないため、表部分には取手がついていませんでした。

竣工当時の玄関部分:
木材に記載された宛名をそのまま利用され、「伊藤治郎座衛門」と記載されていましたが、正しくは「伊藤次郎座衛門」になります。

土間:
土間部分は大小のマツやクリなどの大小の木口を輪切りにし年輪をみせた寄木張り風にしてあります。

聴松閣 平面図:
2階建て(屋根裏部屋あり)で地下1階の構造で、室内は英国風から和風、中国風、インド風と、様々な国の様式が入り乱れた建造物になっているものの、見事に調和がとれ、地階部分は鉄筋コンクリートが使用されています。

1階階段部分:
階段はなだらかで、階段手すり部分には透かし彫りなどの装飾がされており、当時の大工のスキルの高さを垣間見ることができます。

1階「旧食堂」:
晩餐が行われた部屋で、竣工当時は中央部分に大きなテーブルが置かれ、両側に椅子が5脚ずつ置かれ、食事を愉しんだ来客者は地階部分の舞踏場で酒やダンスに興じたりしました。

1階「旧食堂」/飾り棚:
金の鉾(ほこ)で作られた飾り棚の上部には、「いとう呉服店」に掲げられた商標デザインを模した透かし彫りが施されています。

1階「旧食堂」/暖炉:
暖炉の周囲には、唐招提寺や興福寺など、有名寺院から集めた古代瓦が貼られています。

1階「旧食堂」/床部分:
床部分には名栗仕上げになっており、無垢の床材に彫りをくわえています。またヒーターボックスがつけられ電熱が入れられました。

1階「旧居間」部分:
床材は市松状になっており、暖炉左右部分の腰壁タイルは緑色で、目地に金箔を貼った仕上げになっています。

1階「旧サンルーム」:
奥側の8角形の出窓部分は、度重なる改築からなくなっていたものを、復元したものになっています。

1階「旧サンルーム」/出窓
半8角形の出窓部部分は、1933年に建てられた鈴木貞次設計の「旧豊田喜一郎邸」から影響を受けたものになっています。

2階ホール部分:
広々としたホールで、吹き抜け天井部分には手斧(ちょうな)化粧の立派な骨組みのついた照明があります。ホール四隅の間接照明が当時の雰囲気を醸し出しています。
また、手斧(ちょうな)で木材の表面に化粧を施す「名栗」のほか、階段手すりの透かし彫りなど、当時の大工技術の高さを伺いし知ることができます。

2階より屋根裏部分を臨む:
階段吹き抜け上部には、屋根裏部屋になっています。また、この部分にも手斧で装飾が付けられています。

2階「旧書斎」:
書棚と照明は造り付けのもので、天井は舟底天井になっており、棚と棚の間は網代天井になっています。
また、床部分は、重量対策のため、当時では珍しいプラスティック・タイルの市松張りになっています。

2階「旧書斎」/書棚:
書棚部分は接収を受けた際、銃の置き場にされ、その跡を残しています。

2階「旧応接室」:
英国山荘風に造られた部屋になっており、暖炉部分やオウム柄のクロスは、復元されたものになっています。
特に丸窓とソファー部分は、伊藤祐民が引退後、インド・ヨーロッパ旅行をした際の客船をイメージして作られたものとも言われています。

2階「旧寝室B」:
来客者用の寝室として使用された部屋で、天井の鳳凰の装飾や壁の装飾、雷紋模様の床面、暖炉上の木鶏などなど...
中国洋式に設えています。
また、「文化のみち二葉館」には、この部屋の床の寄木張りを参考にして復元された部屋もあります。

2階「旧サンルーム」:
斜めに張った床、斜めからの照明など、この部屋全体は、「斜め」にベースを置いた部屋になっており、バルコニー部分からは南庭が臨めました。

2階旧寝室A:

2階更衣室:
この建物唯一の和室になっています。
面皮付きの床柱、ベンガラ塗りの壁、竹の長押など、数寄屋風に設えています。
来客者は、この部屋で「お召替え」をしました。

2階旧トイレ:
天井部分は中央に網代天井、その周りに透かし彫りが施されており、換気目的の装飾が付けられています。
また、床部分はタイルの市松模様で、竣工時には洋式トイレが置かれていました。

地階ホール部分:
地階ホール部分の左右の壁画は、インドのアジャンタ石窟の写しになっており、釈迦一代記の釈迦生誕のシーンが描かれています。
作者はインド・ダコール大学から留学したパルク・ハリハラン氏で1938年7月7日から8月23日制作のサインが残されています。
氏は、日印の交渉の足掛かりtなった人物でもあります。

地階ホール部分/ハリハラン氏が描いた壁画:
先述のハリハラン氏は、伊藤祐民が引退後に訪問したインド旅行にも同行し、この壁画は彼の作品になります。

地階 地下トンネル部分:
地階ホール部分には南入口が残されており、T字型で全長170mにもなり、このトンネルの目的は実際のところ用途不明で、アジャンタ石窟寺院の写しと言われています。
なお、トンネル部分は、戦後の再開発などで現存していません。

地階舞踏場(舞台側から臨む):
柱根元にはインドのアーグラ宮殿にみられる象嵌模様の細工が施されています。
アーグラ宮殿では、この模様に輝石が用いられています。

地階旧舞踏場/舞台:
舞台部分の右側の小さな扉は切戸口で、背を屈めて登場するように低くなっています。
舞台では能や狂言が演じられたことが伝えられています。

地階舞踏場(暖炉側を臨む):
まず、左側のソファ上部の窓の「曇りガラス」には、ヒマラヤ山脈が描かれており、反対側にはクロークがあります。
1階「旧食堂」の項でも記載したように、舞踏場では、食事を愉しまれた来客者は、こちらで酒やダンスなどを愉しまれました。

地階「旧舞踏場」の暖炉:
暖炉上部には、女神像が描かれ。カンボジアのアンコールトムの彫刻を模したもので、伊藤祐民がインドなどの仏跡巡礼旅行の感動を反映したものになります。なお、暖炉は竜山石製になります。

地階「旧舞踏場」暖炉脇の空間:
暖炉脇の空間の壁には、尖塔アーチ状の間に緑色のタイルと女神像が描かれており、正面には蠟燭立てが付けられ、朝方には窓から陽が差しました。
この部分で伊藤祐民が沐浴をしたことが伝えられています。

地階「旧舞踏場」/窓奥のタイル絵:
窓の曇りガラス部分には、ヒマラヤ山脈が描かれていますが、その奥のタイル絵には菩提樹が描かれています。

【編集後記】
この聴松閣に関し、最初は宿泊したホテルの方の訪問で何もわからず行きましたが、その建物に感動を覚え、以降、名古屋に訪問した際には、必ず訪問しています。

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