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わが心の近代建築Vol.47 志賀直哉旧居(奈良学園セミナーハウス)/奈良県奈良市(近鉄奈良)

みなさん、こんにちわ!!
今回も、病気療養中に訪問した近代建築より、奈良県奈良市高幡にある、奈良文化女子短期大学セミナーハウス、「志賀直哉旧居」について記載します。

まず、志賀直哉氏(1883~1971)について記載すると、宮城県石巻生まれの白樺派の文人で、「小説の神様」と謳われた人物。
代表作は「暗夜行路」「和解」「城の先にて」「小僧の神様」など。
多くの後世の作家に多大な影響を与えた人物としても知られ、千葉県我孫子から京都に移住し、1925年には京都から奈良に移住、今回扱う邸宅は1929年に竣工したもので、志賀直哉自ら筆を執り設計に参加。
本格的な設計に関しては、京都数寄屋大工の下島松之助が携わり、志賀直哉は、1929年から1938年まで住み続けます。

志賀直哉【写真はWikipediaより転載】

この邸宅には直哉を慕い、数多くの小説家・文化人がこの邸宅を訪問。いつしか「高畑サロン」と呼ばれるようになります。
邸宅に関しては、直哉が退去したのちは、民間人に売却され、戦後はGHQに接収。接収解除後は厚生省年金宿泊所「飛火野荘」として活用されるも。宿泊所建て替えのため、解体の話が出されます。
が、1978年に奈良学園理事長・伊瀬敏郎氏の英断により、買収保存され、「志賀直哉旧居」として一般公開。
なお、2000年に国指定登録有形文化財に選定、2008年には保存運動30周年を記念して、邸宅を竣工当時の姿に戻されるプロジェクトが行われました。

次に高畑町について記載すると、奈良県中央部、市街地の東部に位置し、春日山の南西麓に当たります。

春日山【Wikipediaより転載】

地域周辺は、江戸期まで、興福寺の子院「松林院」が立地し、近代以降は京都市南膳寺と並ぶ別荘開発地になり、奈良華族の別荘などあり、辰野金吾が設計した奈良ホテルなどの宿泊施設、頭塔、旧大乗院庭園などの観光施設、各寺院が多くあります。

旧大乗院庭園【Wikipediaより転載】

【たてものメモ】
志賀直哉 旧居
●竣工:1929年
●設計者:下嶋松之助/志賀直哉
●文化財指定:国指定登録有形文化財
●入館料:¥350
●開館日:
 ・午前9:30〜午後5:30 (3月〜11月)
 ・午前9:30〜午後4:30 (12月〜2月)
 ※入館は閉館時間の30分前まで
●交通アクセス:
近鉄奈良より奈良交通バス/市内循環バス「破石町」停留所下車、徒歩5分
●写真撮影:可(商用厳禁)
●参考文献:
 ・BS朝日放映「百年名家」
 ・志賀直哉旧居内の展示パネル
 ・奈良の歴史などはWikipediaを参照

【表門部分】
まず、表門の壁を見ると、邸宅は、大きな壁に囲まれた空間になっており、特に表門に関しては、志賀直哉が白樺派の文人であることを証左するかのように上部の木材には、白樺が使用されています。

志賀直哉旧居 表門部分

【志賀直哉旧居 表玄関部分】
表門をくぐると屋敷は、原生林に囲まれ、玄関に到達します。
先述のように、邸宅は数寄屋風の中にも中国風意匠や洋風意匠など、さまざま建築様式が融合し、外観を臨むと、2階部分は杉皮貼りにして壁を保護しています。

志賀直哉旧居 玄関部分を臨む

また、側面部分を覗くと、2階部分には、かつて、「寝殿造り」に多く見られた蔀戸(しとみ‐ど)が使用されています。

志賀直哉旧居 側面部分を臨む

【平面図について】
なお、志賀直哉旧居の平面図を確認すると、邸宅は北側/西側/東側の3ブロックに分けられ、廊下は、中庭部分を1周するように回り、中庭に植えられた木々が訪問者に癒しを与えてくれます。

志賀直哉旧居 平面図【カタログより転載】

【玄関部分】
玄関は、舞良戸が備えてありますが、かつては武家などの限られた邸宅に使用されていましたが、明治期以降は、一般家庭の邸宅にも自由に使用されるようになります。
また、踏み込み部分の額縁には「直哉居」と記載しております。

玄関部分から踏込を臨む

また、踏み込み部分に掲げられた額は、画家・熊谷守一が志賀直哉に贈ったもののレプリカ。
志賀直哉は20代のころ、武者小路実篤とともに氏に出会ったのが始まり。以降、交流は続いて1938年には、画家・浜田葆光とともに熊谷守一の画展推薦文を寄贈し、今日、志賀直哉の「暗夜行路」の文庫版の表紙絵には熊谷守一が記載したものが使用されていあmす。

志賀直哉旧居 踏み込みに掲げられた、熊谷守一が直哉に贈った扁額のレプリカ【邸宅パネルより転載】

また、踏込から玄関部分を臨むとセンター部分の太は下に関しては、クリの木を手斧(ちょうな)ではすったもにになり、端正な部分と数寄屋風の部分が入り乱れたものになります。

踏込から玄関部分を臨む

【2階部分について】
―2階 廊下―
なお、邸宅玄関そばに階段があり、2階に上がると広い廊下になりますが、2階部分は2つの部屋で構成されています。

2階 廊下

ー2階 書斎Ⅱ―
まず、手前側の部屋は、南面から光の差す明るい部屋になっており、6畳間になります。
そもそもは、志賀直哉は1階を書斎と計画していたものの、冬の寒さが厳しく、こちらを新たな書斎にしました。
直哉は、「これから二階の書斎を充分に活用しよう」と1931年の日記に記しています。
なお、名作「暗夜行路」はこの室内で脱稿。
机に関しては東大寺の僧侶から贈られたもので「二月堂」と名付けられました。

2階 書斎

―2階 客間―
8畳間の和室。
直哉は武者小路実篤や小林多喜二と親交を深めますが、実際に、小林多喜二はこの部屋に宿泊し、窓からは若草山と春日山を臨むことができました。
床の間部分の仏像の写真は、谷崎潤一郎とともに奈良の骨董店で見つけた平安期作といわれたもの。ふたりは、仏像の所有に関して入札しますが、結局は谷崎潤一郎が所有。
なお、この仏像購入予定金で、直哉はこの邸宅を建設。
余談ですが、仏像に関しては、のちに直哉の手に渡り、欠損していた手足が修復。
現在は早稲田大学にある会津八一記念館に保存されています。

2階 8錠客間

【1階 書斎Ⅰ】
次に書斎Ⅰを見ますが、この部屋が本来の書斎として計画された部屋になり、物静かな部屋で、書斎らしく窓が広くとられており、外の景観を額縁に要に楽しむことができます。
天井部分は名栗仕上げになっており、竿縁にはクリの材木と煤竹を使用、天井材は、葦のスノコ天井になっており、この邸宅で、最も手の込んだ造りになっています。

1階 書斎Ⅰ

なお、この部屋の机と椅子に関しては、志賀直哉が実際に愛用したもので、書斎の机らしく、筆記具が誤って机の下に落ちないようにする「筆返し」が備え付けてあります。

書斎の机と椅子

【1階 茶室部分】
茶室に関しては、中庭に面し、開放的な室内になっています。
なお、正面の開口部に関しては、躙り口ほど小さくなく、かといって貴人口ほど大きくなく、非常に砕けた印象になっています。
また、この邸宅に実質設計を行ったのが、下嶋
なお、志賀直哉は、この部屋で親しい友人と将棋を指す要諦だったものの、実際には使用されることはなく、奥さまや子供たちが行儀作法や茶道を学ぶための部屋として活用されました。
なお、床脇天井には、表門と同じく、志賀直哉のモチーフである白樺が採用されています。

1階 茶室

また、この部屋の地袋引手部分は、「の」の字を逆にしたような独特な手すりになっています。

1階茶室の地袋の引手

なお、1階茶室脇には、本格的な水屋を備え付けています。

1階 茶室脇の水屋

【浴室/脱衣場】
―洗面所―
志賀直哉旧居を復元する際、この部分の部屋がどこになるのかだけ発見できませんでしたが、浴室の壁タイルを剥がしたことが突破口となり、元の壁に敷居が埋められていることが判り、遺族の方の証言などから当初の姿が徐々に明らかとなりました。
なお、脱衣/化粧所も畳敷きで、化粧や着替えの部屋も備えていたこと発見されました。

1階 洗面所

―浴室部分―
なお、浴室に関しても、復元写真や、遺族の方の証言などから、竣工当時にはシャワー(冷水)が取り付けられ、浴槽は木製の五右衛門風呂と判明し、復元されました。

1階 浴室部分

【女中室】
この部屋は、米軍接収時代に最も改変された部屋になり、台所とともに天井板が貼られ、全体的にペンキが塗られ、残されている鴨居跡や天井の廻縁などから、この一角に4.5畳の女中部屋があったことが裏付けられました。
また、女中部屋の性格的に、機能的に作られおり、台所はもちろん、北側の出入り口を使えば、勝手口、玄関、倉庫など、居室を通らずとも到達できます。

1階 女中室

【台所】
都市ガス、水道、電気、冷蔵庫(氷冷式)といった、竣工当時の最新的な設備を備え、先進的かつ合理的な造りになっており、ハッチで食堂とつながっており、引き出しは台所/食堂両方にひくことができました。
今でいうとうところのダイニング・キッチンで、この仕組みが普及したことを考えた際、きわめて先進的で、合理主義的な志賀直哉の思想を垣間見ることができます。

1階 台所

【食堂部分】
20畳からなる室内で、この邸内で最も広い部屋になります。
志賀直哉は、この部屋をただ単なる食堂とは考えず、自由な団欒を行うための部屋と考えていました。
なお、食堂は米軍接収時にビリヤード場に変えられました。

1階 食堂

な0,照明部分は球面上になっており、部屋の隅まで照らすようになっていましたが、ビリヤード場になった際に、たばこの煙の肺炎のため、くり抜かれてしまいまいたが、復元工事の際に復元されました。

1階 食堂 照明部分

また、ソファは造り付け。
牛革で巾3mの大きさで、床の間状に設えてあり、ちょうど上部に木が落とし掛け風になっており、ソファ上の天井には煤竹になっています

1階 食堂のソファ

【サンルーム部分】
邸宅南側に作られた部屋で、田舎家風の造りでありながら、天井部分には天窓が付けられ、床部分はセンと呼ばれる中国式のレンガが使用され、右側には、茶室風の「躙り口(にじりぐち)」が設えてある、様々な意匠を垣間見ることができます。
なお、躙り口部分を境に、パブリックな空間と家族の空間を分けています。

1階 サンルーム

また、サンルームの右奥には、蹲(つくばい)が井戸に設えています。

1階サンルーム つくばい部分

また、志賀直哉のもとには、文人や画家など、様々な方が訪問。その様子は、いつの日か「北畑サロン」と呼ばれるようになりました。
下の写真は、そんな1コマを映したもので…
後列左:志賀康子 志賀留女子 加納和弘 志賀万亀子 志賀寿々子
中列中央:武者小路実篤 志賀直哉 小川晴陽
前列左:奥田勝(会津八一の弟子) 松村綾子 志賀田鶴子 志賀直吉
となります

サンルーム部分で写した「北畑サロン」の一幕【邸内展示御パネルより転載】

【邸宅を庭園から臨む】
邸宅を南面から臨むと、2階部分は、玄関手前に作られており、こちらからは、その様子を伺い知ることができない状態です。
志賀直哉旧居がいかに広いかを垣間見ることができます。

庭園部部から臨んだ姿

なお、庭園部分には、レンガで囲まれた部分がありますが、自身の子どもたちのため、自らプールを設えており、ここからも志賀直哉がいかに自身の子どもを愛していたかを伺い知ることができます。

庭園部分のプール

【夫人室部分】
また室内に戻り、サンルームの「にじり口」を伝わり、広縁の横は6畳間の和室で、数寄屋風の室内になっており、婦人室として使用。
無神論者の志賀直哉に対し、夫人は信心深く、押し入れ上部には祭壇が置かれました。

1階 夫人室

また、夫人室と廊下の間、食堂の後ろ部分は小部屋があり、この部屋は、夫人室の前室として活用されました。

1階 夫人室 前室

【子ども勉強部屋】
また、夫人室奥の大きな部屋は、子どもたちの勉強部屋になり、6人の子不土も立保勉強部屋になっています。
天井部分は格天井になり、床部分には、振動対策のためにコルク材にしています。
なお、左奥下に見える柵部分の反対側には志賀直哉の寝室があり、志賀直哉は寝室にいながら、子どもたちの息遣いを感じていました。

1階 勉強部屋

また、勉強部屋には広縁が付けられており、この部分は、明かり取り的な要素も強く、この部分から庭園に出ることも可能でした。

1階 サンルーム 広縁

また、サンルームに付随して、2つの部屋がありますが、この部屋は直吉氏と直吉氏の姉の部屋になります。双方とも同じ広さで互い違いになっています。

志賀直哉旧居 1階子ども部屋Ⅰ
志賀直哉旧居 1階子ども部屋Ⅱ

【子ども寝室】
この寝室は、子どもたち用に設えられ、子どもたちは、布団を並べて敷き、床につきました。
また、直哉居室とは、障子1階で隣接しており、この部屋にいながら、常に子供たちの息遣いを感じていました。

1階 子ども寝室

【1階 志賀直哉居室】
志賀直哉は、自身の居室を北側に置き、わずか6畳の大変質素な部屋になっています。
襖を介して子供たちの寝室と。
下部分の柵を介して、子どもたちの勉強部屋と。
常に子供たちとともに歩んでいました。

1階 志賀直哉 居室

【中庭部分】
なお、先述のように、邸宅の1階部分には中庭に面して廊下が張り巡らされており、各居室を通らずとも、廊下から室内を移動することができました。

1階廊下部分

また、廊下からは、日本庭園の中庭を愉しむことができ、ここで目の保養sなども行うことができました。

志賀直哉旧居 中庭部分

【編集後記】
この邸宅に関しては、数年前に訪問。
その際に大変感動しましたが、この邸宅を管理された奈良学園様には、大変な官舎を申し上げたいと感じます。
いつまでも永遠に、この邸宅が守られていくことを強く願う今日この頃です。

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