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わが心の近代建築Vol.44 戸定邸(旧徳川昭武邸宅)/千葉県松戸市(松戸)
みなさん、こんにちわ。
今回は、千葉県松戸市にある徳川昭武の邸宅、戸定邸について記載します。
【江戸期の松戸】
現在の松戸は、千葉県北西部に位置し、江戸川をはさんで東京都と隣接し、現在は、戦後の宅地開発により、ベットタウン的なイメージが強い街ですが、江戸期の松戸宿は、水戸街道の宿場町として栄え、徳川将軍家、水戸徳川家とも非常につながりの深い町で、将軍家は小金牧で鷹狩りを愉しみ、松戸の鎮守府でもある松戸神社には徳川光圀にゆかり深い銀杏の木が現存しています。
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【幻の徳川16代将軍 徳川昭武】
次に施主の徳川昭武(1853~1910)について記載すると、水戸徳川家9代藩主・徳川斉昭の18男として生まれ、9歳まで水戸で暮らしたのち、10歳で京都御所の警備を任され、その際、のちの15代将軍・慶喜公に才を見出され、慶喜公が将軍に任ぜられる直前、家族として迎え入れられます。
13歳の時、慶喜公の代理としてフランス・パリで開かれた万国博覧会に参加。ナポレオン3世と会見するなどし、スイス・オランダ・ベルギー・イタリア・イギリスなどを来訪し各国要人と面会。
一連の来訪が終わると、そのままフランスに留学、語学や歴史、絵画などを学び、藩政奉還で留学を切り上げ帰国し、水戸藩主を継ぎます。
明治時代になると、水戸藩主の任を解かれ、陸軍省に努めたのち、アメリカのフィラデルフィア博覧会に参加ののち、再度よーロ一派に5年間留学。
帰国後に結婚し隠居ののち、1884年から戸定邸に移り住み、狩猟や園芸、写真などの趣味を愉しみ、静岡を往来し、兄・慶喜公との交流を愉しみました。
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【戸定邸について】
まず、戸定邸の名前の由来についてですが、「外城」に由来し、戸定邸のある高台・戸定台は、一帯に築かれた松戸城(松浪城)の外郭に位置したためと考えられます。
先述の通り、昭武は息子に家督を譲り、小梅邸(現在の隅田公園の墨田区側)を本邸とし隠居後に戸定邸一帯の土地を購入。
杉・檜・松を自身の所有地に植え、1884年、戸定邸竣功のあとは、この地で生涯を過ごし、戸定邸には、兄・慶喜公のほか、明宮喜仁さま(大正天皇の皇太子時代のお名前)ら、数々の要人が訪問。
昭武亡きあと、1935年に洋館が新築されるも、1944年に撤去。
1946年には、「使者の間」部分が千葉県印西市の個人邸宅に移築。1951年の華族制度廃止に伴い、徳川家は邸宅を松戸市に寄贈し、公民館として使用されます。
なお、先述の「使者の間」についてですが、移築された個人邸宅の解体に伴い、建築部材が松戸市に寄贈され、1998年に復元されたのち、一般公開。
戸定邸は、その希少性から2006年に邸宅が国指定重要文化財に。庭園部分は、かつての敷地面積の1/3が歴史公園として保存され、2015年に国指定名勝に選定され、2018年には飛び石などが現存する写真から復元されました。
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【たてものメモ】
戸定邸
●竣工年:1884年
●設計者:不詳
●文化財指定:
邸宅:国指定重要文化財
庭園:国指定名勝
●交通アクセス:JR常磐線「松戸駅」徒歩11分
●写真撮影:可(商用厳禁)
・戸定邸解説シート/松戸市戸定歴史館作成 1999
・BS朝日放映『百年名家』
・徳川昭武と松戸の歴史についてはWikipediaを参照。
●備考点:
戸定邸の庭園に降りられるのは毎月10日、20日、30日の3日のみ。ぜひとも庭園からの景観も楽しまれることを強く推します。
【戸定邸の構造について】戸定邸は、玄関棟・内蔵棟・渡廊下棟・表座敷棟・中座敷棟・奥座敷棟・台所棟・湯殿棟・離座敷棟の計9つに分かれ、各棟とも用途に合わせて区切られており、この特徴は、江戸期の大名家の下屋敷に多く見られました。
なお、創建当時に比較し、厠や台所、納戸などの軽微な増改築があるものの、竣工当時の姿を残しています。また、一般的に西洋建築では、背面部分に庭園が造られることが多いですが、戸定邸では玄関より左側に庭園が造られており、これも大名屋敷で多く見られる意匠になっています。
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【表門部分】
戸定邸は的度駅より徒歩10分、小高い丘に位置し、階段を上ると表門になりますが、水戸徳川家の邸宅の門にしては、茅葺と大変質素、かつ、ひなびた印象を受けますが、ここが小梅邸の下屋敷的な役割だったためと考えられます。
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【玄関棟部分について】
玄関棟は、邸宅の東方面に位置し、表玄関と内玄関が並列して並び、北側に会計室(現在は受付)や執務室(現在は休憩所)などのバックヤード部分。南側に使者の間が並ぶ、伝統的な大名屋敷の構図を受け継いでいます。
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また、鬼瓦部分などに、徳川家の家紋の「葵の御紋」があしらわれている点も、徳川家のものという印になります。
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表玄関は、主人や格式の高い来賓用の玄関になっており、舞良戸(まいらど)が設えてあるもので非常に格式高いものになっています。
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一方、内玄関部分は、表玄関部分に比較して、天井の高さなども低く、舞良戸もない状態で、簡素化。
徳川昭武にとり、他華族や皇族との交流は極めて重要な意味を持ち、他家からの使者や御供の方のため、この玄関は使用されました
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【表玄関棟 使者の間】
皇族や家族などの使者、身分の高い来客の御供の方は、こちらに間招かれ、ここで用件を伝えたり、主人の用が終わるまで、こちらで待機しました。
先述のように、戦後、この部分は個人邸宅に移築されたのち、その邸宅が解体されるに伴い、復元。
この2室の柱は木材の中心部を使用しているため、割れやすく、それを防ぐため、外面に面した部分を意図的に割っています。
まず、次の間を見ると、欄間部分にはコウモリが描かれており、西洋ではドラキュラなどの不吉の象徴に扱われますが、中国では、「吉報を知らせる動物」とされています。
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一方、客間部分は、二の間に比較し、床が備え付けてあるなど、使者の中でも地位の高い方が使用。
また、天井の竿縁部分も、猿頬という面取りする技法が施された高級なものになっており、床柱は唐木三大銘木のタガヤサンになっています。
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また、下段の押入部分は通風口になっており、の床板は、見事なケヤキの1枚板が使用されており、押し入れ天井部分は竿縁になっており、猿頬になっており、下段の床板はケヤキ製の見事な1枚板が使用。
通常押し入れ部分に、このような銘木が使用されるのは異例でもあります。
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また、使者の間反対側には、現・事務室や休憩室などがあり、台所棟などのバックヤードに繋がりますが、元執務室においては、現在は休憩室に利用されています。
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【渡り廊下より中庭を臨む】
渡り廊下を見ると、中庭に。
この部分から見ると、各棟が独立して存在していることがよくわかります。
なお、2階建ての建物が、かつての台所棟。
現在は非公開ですが、かつては炊事場などがあり、2階部分には、戸定邸に仕えていた女官の方々の控室になっています。
現状としては、ボランティアの方の控室として使用。
2階部分は階段が急なこともあり、非公開となっています。
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【内蔵棟】
中庭反対側には、大きな石の扉が見えてきますが、内蔵棟。
2階建ての構成で、現在は、長持と金魚鉢が保存されていますが、邸宅時代には、徳川家の刀剣類を保存。
蔵部分の周りは熱い土壁で囲まれています。
・扉部分:白セメントに白榴石(はくりゅうせき)、黒色の霞石、石灰を混ぜて作ったものを、乾く前にブラシでこする「洗い出し」技法
扉下部分の石:普通セメントと寒水石(かんすいせき)、蛇紋岩(じゃもんがん)を混ぜて磨き上げる「磨き出し」技法
で作成されています。
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また、内蔵棟の反対側を見ると、かつて使用されていた金庫を見る事ができます。
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【表座敷棟】
渡り廊下を過ぎると、大広間に出ますが、この部分が表玄関棟で、戸定邸で一番格式ある部分になり、南側と西側が庭園に囲まれ、迎賓の場と、徳川昭武が暮らす部屋として使用。
大名屋敷では、迎賓の場と生活の場が分けて使用されますが、こでは、1つに纏められています。
まず、入側を見ると、節のない杉の木を使用、その長さは12.5mとなっており、柱部分は杉の四方柾目という超高級素材が用いられています。
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表座敷 二の間部分を見ると、欄間には葵が描かれており、釘隠しが設けられていますが、実際、戸定邸は釘を使用しておらず、あくまで「飾り」のために設けられています。
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客間部分を見ると、この部分が、戸定邸内、最も格式高い部屋になり、地袋と下袋は金箔貼りになり、天井も目の細かい木材を使用しています。
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また、客間部分から二の間部分を臨むと、通常武家屋敷では、床の間部分を背にして最も格の高い人が座り、その後ろに家来が座り、入りきれない場合などは、二の間〟まで座るのが通常です。
が、この部屋の「床の間」は庭園に面しています。
この理由として、客間から庭園を見る景観を重要視したためと考えられます。
戸定邸では、下屋敷の風格を今に残しながら、かつ、独自の手法がとられています。
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また、客間から庭園を臨むと、邸宅部分に関しては純和風に作られているに対し、庭園部分は、海外生活の長かった昭武らしく、芝生を敷き、植え込みには、丸い刈込が施された洋風庭園になっています。
なお、戸定邸庭園は、日本初の西洋式庭園になっています。
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庭園側から邸宅を臨むと、中庭同様、各棟が独立して建っていることが分かり、銅板製の〝ひさし〟がかけられています。
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客間の後ろは、昭武の書斎として使用。
左側の引き出しを見ると、使用されている材木こそ不明なものの
ですが、同じ目の木材を使用され、開くと本棚となっています。
また、昭武氏が亡くなったのちは、息子・定武氏が食堂として使用しました。
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また、この部屋のから庭園を臨むと江戸川と常磐線の鉄橋を見る事ができますが、現在は高層マンションに隠れてしまいましたが、かつては富士山を眺めることがでました。
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書斎の隣は、中の間になっており、昭武の息子の定武氏が寝室として使用し、室内には、蚊帳などをつるした金具が遺されています。定武氏は、蚊帳ではなく、この部屋にハンモックを吊るして寛いだそうです。
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書斎の一番奥には洗面所がありますが、先述のように、書斎ぶぶんと中の間を定武氏が生活の場に用いりましたが、1935年の増築の際に設けられたものです。
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【中座敷棟】
中座敷棟では、特に昭武夫妻のプライベートルームとして使用。
中座敷棟は、「衣装の間」と「化粧の間」の2部屋から構成。
「衣装の間」は昭武夫妻らの着替えなどが置かれ、「化粧の間」では着替えが置かれました。なお、「化粧の間」では、コロナ前は、牧瀬里穂出演の「百年名家」で戸定邸の解説を行った動画が放映されていました。
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【奥座敷棟
奥座敷棟は、戸定邸が落成した際には、一番北の奥にあり、窓などは南側にあるものの、中座敷棟に隠されてしまい、日当たりは良くない状況。
室内は、室内の長押や欄間がなく、普段は後妻の八重氏が住み、夜に昭武氏も寝室で使ったと考えられます。
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奥側は、「八重の間」と呼ばれ、徳川昭武氏の後妻・斎藤八重さんの部屋となっています(先妻は第一子を出産後に際しともに天逝)昭武氏はこの部分を夫婦の寝室に使用。
離れ座敷の「秋月の間」と非常によく似ており、徳川昭武/斎藤八重夫妻天逝の後は、奥女中の裁縫部屋に使用されました
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【湯殿棟】
八重の間を下側の通路をたどると、湯殿棟になりますが、竣工当時は、かけ流し型で、のちに、木製の浴槽に変更。
写真のタイル型の浴槽は昭和初期に変更されたものとなります。なお、手前側に手すりが付いた部分が舞台型になり、ここで御付きの方が脱衣・着衣を手伝ったことが伝えられています。
浴室の水は、かつては井戸からの水を用いていましたが、昭和初期の電化に伴い、井戸に電気ポンプが設けられ、水道管が邸内に配されて水道管化されました。
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【離れ座敷棟】
最後に、離座敷棟を見ていきますが、この部分は昭武の生母・万里小路睦子(秋庭)の居間として建てられたもの。
徳川定武氏が松戸市に寄贈したのちは、ここで最晩年を過ごしました。
離れ座敷は「秋庭の間」「二の間」「茶の間」の3部屋で構成。
なかでも、座敷部分にあたる「秋庭の間」は、奥座敷の「八重の間」に似ているものの、手の込んだものになり、その理由として、斎藤八重氏が昭武の家来の出に対し、万里小路睦子(秋庭)が公家の出からと考えられます。
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まず、次の間部分を見ていくと、「秋庭の間」との間にある欄間(左側)には蝶が描かれ、正面部分の欄間は竹がはめ込まれ、透かしにツバメが描かれています。竹とツバメは、母・睦子の生家、万里小路家の家紋を分解したものになります。
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また、座敷部分は「秋庭の間」とも呼ばれ、徳川昭武の生母、万里小路睦子のために設けられた部屋。長押が回り、床框は黒柿、下袋は屋久杉を厳選して使用した手の込んだ造りになっています。
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また、丸窓部分には、窓枠部分には竹が使用されています。
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最後に茶の間部分を見ると、天井部分は畳と同じ間取りであしらわれており、この意匠は茶室などで多く見られるものになっています。
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【編集後記】
戸定邸は、幻の徳川16代将軍の邸宅として。
また、明治期に建てられた大名屋敷として、全国的にも、先述の「旧堀田邸」と合わせて3棟しかなく、大変貴重な謙三像物になります。
また、都内からの交通アクセスも非常によく、ぜひともお数s目下い邸宅の一つです。