わが心の近代建築Vol.43 芝川又右衛門邸/兵庫県西宮市甲東園→博物館明治村(博物館明治村)
【注】
千島土地様からお借りした写真は、転用を禁止。
使われる際は、必ず、千島土地様に許可を得て使用してください。
僕の写真においては、自由に使って構いません。
みなさん、こんにちわ。
今回は、久々の明治村建築から、兵庫県西宮市甲東園にあって、阪神淡路大震災後に愛知県犬山市の明治村に移転した、芝川又右衛門邸について記載します。
【甲東園について】
甲東園は、「西宮七園」のひとつ、関西屈指の高級住宅街として知られますが、果樹園が営まれていましたが、その歴史について記載します。
柴川家は関西屈指の呉服商として栄え、1881年に甲東園の土地を抵当に資金を貸したものの、1884年に土地を買収し、約10万㎡の土地を取得。甲東園の土地のほとんどが田畑だったものの、佐久乙を育てるには不向きな土地で果樹栽培を行い、柴川家では1900年に果樹園を甲東園として改めます。
また、甲東園に関しては、当初は交通の便も非常に悪い場所でしたが、阪神急行電鉄神戸本線(現在の阪急神戸線)が1920年に開通し、1921年に西宝線(現在の阪急今津線)が開通したのに伴い、1922年に甲東園前停車場(現在の甲東園駅)が設置。
この経緯として、芝川家から阪急電鉄に懇願して造られた経緯があり、芝川家では1万坪の都市と当時の現金5000円を寄付。
なお、芝川家から譲り受けた土地は阪神急行電鉄により宅地開発・分譲されました。
病院建築のほか、1929年には甲東園に関西学院大学が移転。設計にはWMヴォーリスがあたります。
なお、戦後はさらなる学校誘致や宅地開発が行われ、現在の文教地区で、関西屈指の高級住宅街になりました。
【施主 (2代目)芝川又右衛門】
芝川家は祖父・芝川新助が1837年ごろに大阪・伏見町に唐物商の「百足屋」を起こしたのにはじまり、娘婿の又平(初代・又右衛門)が土地経営に転じ、甲東園の土地を取得。
初代・又右衛門から1975年に家督を譲り受けた又二郎(2代目・又右衛門)が1875年に家督を譲り受け、唐物商を畳み不動産業をメインにして家業を守り、1912年に不動産経営会社の千島土地を設立。
その中、1911年に今回扱う「芝川又右衛門邸」を自身が管理する果樹園となりに建て、迎賓の場として活用。
なお、1923年に家督を倅の又四郎氏に譲ったのちは、こちらで生活。又右衛門はここで漢詩を読んで過ごし、1938年に家族に看取られ、邸宅の和館で亡くなります。
【芝川又右衛門邸の歴史】
竣工当時の甲東園の状況は、阪急電鉄も開業しておらず、汽車で西宮まで行った後、人力車に乗り、丘陵を徒歩で上がるという状況…
が、そんな場所に又右衛門が居を構えた理由として、広大な土地で狩猟をする貴族的な生活にあこがれを抱いていたためと言われ、実際、甲東園ではウサギ狩りに興じたりもしました。
この別邸設計に関しては、「関西建築界の父」と言われた武田五一(1871~1938)が担当。
武田五一は東京帝大卒業後にヨーロッパに留学。ゼセッション建築様式ヤFLライトを日本に紹介した人物として知られる一方、卒論では茶室建築を扱い、京都・奈良の寺社建築の修理保存も担当した人物で、欧米の造形と日本の伝統的な造形を融合を模索した人物でもありました。
なお、竹田五一は、生涯、芝川又右衛門邸に関わる事になります。
当初、又右衛門は、フランス風の洋館を希望していたものの、出来上がったのは杉皮張りの外壁、網代組の腰壁や天井などのある和の趣の強いもの。
又右衛門も、当初は予想外に感じたようでしたが、自身が茶道を嗜んでいたため、徐々にこの邸宅の良さを理解。
なお、ここを迎賓の場として扱い、茶会や園遊会などの社交の場として利用。ホール部分には宝塚歌劇団の方々を招いたことも知られています。
又右衛門は、1923年に家督を倅の又四郎に譲り隠居したのちは、この邸宅に住むようになり、1927年には高齢になった又右衛門の生活に支障がないよう、スパニッシュ様式の外観の平屋建築(和館)が作られ、それに伴い、従来の建築(洋館)部分も現在のスパニッシュ様式に変更されました。
又右衛門亡きあとの邸宅は、1938年に起きた阪神大水害な太平洋戦争の空襲の激化の疎開先に使用されるなど利用されたのち、1995年の阪神淡路大震災で、洋館部分の煙突が倒壊、室内の漆喰がはげ落ちるなどの甚大な被害に見舞われます。
その被害から建物解体も検討されるも、不幸中の幸い、数多くの方の尽力により明治村に移築。
和館部分は被害も少なく、住宅として使用され続けるも残念ながら2004年に老朽化などから解体。
千島土地株式会社では、その建具などを可能な限り保存しています。
【たてものメモ】
芝川又右衛門邸
●竣工:1911年(改築は1927年)
●設計:武田五一
●文化財指定:国指定登録有形文化財
●入館料:(明治村入館料)¥2500
●写真撮影:可
●交通アクセス:
・名鉄犬山線「犬山駅」より岐阜バス明治村線「博物館明治村」停留所下車徒歩すぐ
・名古屋から高速バスも運行中
●留意点:
邸内は、毎時間のガイドツアーで見学可能。
またプレミアムガイドもあり。
●参考文献:
・千島土地 アーカイブ・ブログ
・死ぬまでに見たい洋館の最高傑作Ⅱ
・明治村ガイドブック
など
【芝川又右衛門邸 玄関側から臨む】
当初の外壁は杉皮貼りで、現在とは大きく印象が違います。
スコッタ壁や、スパニッシュ瓦などのスパニッシュ様式は、昭和初期に流行したもの。
1927年に和館が作られた際に当初のデザインから変更されました。なお、武田五一は、この芝川又右衛門邸に生涯深くかかわっていきます。
【ベランダ部分から臨む】
芝川又右衛門邸が明治村に移築する際に、実際、甲東園にあった雰囲気を出すため、段差のある場所に移築されました。なお、御影石とレンガで築かれた高い基壇には、邸宅に大胆な印象を与えています。
【バルコニー部分】
邸宅の外観がスパニッシュ様式なのに対し、屋根裏天井部分は数寄屋風といった、一風かわったデザインになっており、照明に関しても、設計者・武田五一のデザインになっています。
【平面図】
この邸宅では、バルコニー部分なども特徴的。
1階の客室/食堂はカーテンで仕切られ、1つの大きな部屋として使用可能でした。
2階部分には和室と茶室がありますが、縁側があるため、外観から和室がある事を気付かせません。
【玄関部分】
玄関扉上のガラス窓のモダン風のデザインは、武田五一が得意とした、ゼセッション様式。
ゼセッション様式はドイツなどで注目された様式で幾何学的な模様が特徴的になっています。
また、壁面は漆喰に椀状のもので模様を付けたもので、その上に真鍮を塗っています
【1階階段室】
階段親柱部分につけられている鉄柱は、明治村移築時、耐震用としてつけられたもの。
目を奪う金色の壁は白漆喰を塗った後、椀状の丸い器具で漆喰が乾くまでに模様をつけ、乾いたのち真鍮を塗ったたものになります。
なお、階段部分から存在感を出しているステンドグラスに描かれている花はスミレ。
このデザインも武田五一によるもので、枠部分は真鍮製になっています。
下の写真は、表から黒い厚紙を当てたもの。夜になると、夜の桎梏が真鍮の枠に、また違った様相を魅せてくれます
【1階客間への入口の扉】
扉部分のガラスは、結霜ガラスを使用。照明部分のデザインも武田五一の作品になっています。
照明部分を拡大すると、洋風ながら、照明の下にはハート柄が用いられています。ハート柄の意匠は神社仏閣建築で多くみられる「猪の目」。火除けとして鬼瓦部分にも多用されています。
【1階ホール部分】
食堂と客間は一つの部屋で、カーテンで仕切られ、2つの部屋をつなげると全体で32畳。
この部屋は迎賓の場として使用する際には、カーテンを取り外し、関西の政財界人や宝塚歌劇団の方を招き、ダンスホールなどとに充てました。
食堂側の写真を見ると、窓側には窓とソファーがあり、壁は現在、ピンクの漆喰塗ですが、竣工当時は聚楽壁が使われていました
食堂部分も、客間同様の構造。
ピンク色の漆喰壁(竣工当時は聚楽壁)が使用され、床はリノリウム貼り。
天井は、洋間でありながら、網代と葦簀(よしず)を市松状に用いた数寄屋風。洋の中に伝統的な和の技法が用いられています。
食堂部分の暖炉に関しては、マントルピース周りのタイルには、花柄が描かれており、暖炉部分もアールヌーボー調になっています。
なお、暖炉の裏側の廊下部分には、竣工当時にはスパニッシュ様式の特徴の1つ、壁泉が設けられていました。ばお、廊下の壁の色も、ホール部分と同じくピンク色に設えています。
【1階 浴室部分】
浴室は、床部分はタイル張りになっています。また、当時では珍しくシャワーが設けられ、天井部分には、大きなモダニズム調の通風口が設けられていますが、このデザインが何を描いているかは不明になっています。
【1階 台所】
芝川又右衛門邸の台所はシステムキッチンになっおり、収納口には芝川家の家紋入りの家具類が陳列されていました。
この部屋では実際に調理されることはなく、別棟で調理したものやケータリングなどがこち運ばれて盛り付けられました。
なお、左側部分の棚は蚊帳になっており、盛り付けられたものは、虫などが付かぬよう、こちらで管理されました。
【2階階段ホール】
階段ホール部分の壁面はm、1階部分同様、壁面には白漆喰に模様をつけて真鍮を塗ったもの。
天井は葦簀(よしず)の格天井になっており、数寄屋風と洋風が合わさったデザインになっています。
なお、阪神淡路大震災では、この部分の壁が落ちてしまう被害に遇いましたが、復元されました。
また、階段は螺旋階段。
3階部分は屋根裏の物置になっており、荷物などを下す際には、このスペースを用いて荷下ろししました。
【2階 和室】
芝川又右衛門邸 2階和室:
天井部分は、杉皮と杉材でデザインされ、天井高はほかの洋室に合せたため、和室にしては高くなっています。
なお、床柱は檳榔樹(びんろうじゅ)というヤシ科の木材を使用。床框部分は、本来は黒漆塗りになっていますが、保護にため、木製のカバーが取り付けられているものの、一見すると分からないようになっています。
また、床の間の反対側には襖が設けられており、一見すると押入と思いきや、開けるとヴィクトリアン・タイルを配した暖炉がでてきます。
また、襖絵は型押しの唐紙が用いられていますが、
【2階 茶室】
和室の床の間脇をくぐると4.5畳の小さな和室になります。
この部屋は、茶室として利用。天井は1階ホールと同じく、網代と葦簀が組んだもの。なお端部分を漆喰で囲む意匠になっています。
また、この部屋の柵部分には、玄関部分の照明と同じく、ハート形の意匠が付けられていますが、日本の伝統建築で頻繁に用いられる「猪の目」と呼ばれるもの。
火除けなどの意味が込められています。
【2階 洋室】
洋室部分は和室/茶室とは打って変わり、漆喰を塗った非常にシンプルなデザインになっていて、床材はコルクが貼られています。
【2階 寝室】
寝室部分は、洋室と同じく非常にシンプルなデザインになっており、写真に写っている家具類は、芝川家で実際に使用されていたもの。
【2階トイレ(通常非公開)】
明治村のプレミアムガイド時、学芸員さんの好意で見させていただいた部分になります。床や腰板はタイル貼りで、芝川家の財力を伺い知ることができます。
【編集後記】
残念ながら和館は解体されたものの、甚大な被害を出した阪神淡路大震災から復興運動を経て明治村に保存されたこの建物には、非常に大きな価値があると感じた次第。
これからも大切にされることを願ってやまない建物の一つです。