わが心の近代建築Vol19:旧青木家那須別荘(栃木県黒磯)
皆さん、こんにちわ。
今回は「道の駅・黒磯」に保存された旧青木家那須別邸について記載します。
まず、那須野が原は栃木県北東部に位置し、那須塩原市、大田原市にまたがる地域で、約400㎢もの広さ。
北は那珂川、南は箒川に分けられ、水無川の熊川、蛇尾側が流れる高台で日本最大の扇状地とも言われています。
那須野が原の特徴は、非常に水はけの良い土地で、日差しを避ける木々もなく、自生している草の背丈も短い状況。
逆をいえば、田畑の開墾に適さない不毛の土地で、江戸期などでは「まぐさ」を得るために村で共有総有した土地で、焼き畑の為に毎年春先に一帯を焼き払い、その灰を養分として次の「まぐさ」を育てる原始的な農法が行われていました。
それでも、まだ那須川や箒川近くだと水利を得られましたが、本格的に水田を拓いて米を作るには不向きで「まぐさ」取りなど限られた用途以外、那須野が原に足を踏み入れる人は多くはありませんでした。
また、水を必要とした際には、近隣の用水から水を汲んで運ぶ惨状でした。
江戸期には、幾つも用水が作られ千須工事が行われていたものの、解決までには至らず、明治期になり実業家・矢板武、印南丈作の話を聞いた当時の栃木県令・三島通庸指揮のもと、那須野が原開墾は当時の内務省の国策として行われ、那須疏水の工事が行わます。
まず1880年に工事が開始、1885年には幹線水路16㎞が完成し、わずか半年で完成に至り、翌年からは視線水路の工事が行われ、支線総距離は46㎞にも及び、土地改良は入植者の方々の手で行われます。
以降、先述の三島通庸、大山巌、品川弥次郎、西郷従道らの華族がこぞって農地開発を行い、それぞれが農園を経営。また、この地域に鉄道網が敷かれ、別荘地に発達しました。
その中でも、今回扱う青木家別邸の施主・青木周蔵も殖産興業に乗り出した一人で、1881年にドイツ駐在時に見たユンカー制度を真似た「青木農場」を開拓。
明治14年に官有原野587haの賃下げから始まり、敷地を拡大。林業が中心に行われ、そこにドイツから導入した鹿を放し飼いにし、最大期には1000頭を超えたそうです。(のちにその鹿が、現在、害獣になったことはここでは…)
なお、1888年には今回扱う旧青木家那須別邸が完成。
設計には、岩倉使節団としてドイツに留学景観のある松崎萬長男爵が担当。
施主の青木周蔵との関係は、ドイツ留学時代に遡り、ドイツ留学時代の松崎をサポートして、造家(建築)を薦めたのが青木周蔵。
松崎萬長は、青木周蔵の本邸建築も担いました。
青木別邸竣工当時の姿は、中央部分の寄棟造りの2階建て邸宅でした。
が、アメリカ公使の職を解かれた青木氏が、安住の地を求め、那須の別邸を活用するようになると、1908年に再度、松崎男爵に大規模な増築を依頼。左右部分が増築され、現在の姿になります。
ここは戦中戦後も、青木家の別邸として用いられるも、昭和後期を過ぎると使用されなくなり、荒廃が進んで廃墟化しますが、地元住民などから保存を強く望む声が起き、解体調査が行われたのち、当時の位置から50m移築して、1998年には道の駅「明治の森・黒磯」の中心施設として一般公開。
1999年にその文化財的価値の高さから、国指定重要文化財に指定されています。
施主:青木周蔵(1844~1914)
長州藩(現在の山口県)、医師の家に生まれ、のちに萩藩医・青木研蔵の家に養子入り。
1868年にプロシア(現在のドイツ)に渡り、ベルリン到着後、政治経済を学び、木戸孝允の推薦で外交官に。
1874年に専任駐独大使なり、そこでドイツ人貴族の娘・エリザベットと結婚。1886年に第一次伊藤内閣で、井上薫外相のもと、事務次官として活躍。
1887年に子爵を叙爵。
以降、第一次山縣有朋内閣・第一次松方正義内閣では外相に選出。
1894年には駐英公使として、外相の陸奥宗光とともに日英通商航海条約改正に成功。
第二次山縣内閣では外務大臣として北清事件に対処し、枢密顧問官、駐米大使を務め、1914年に東京で亡くなったのち、別荘近くに埋葬されます。
青木周蔵は終生ドイツびいきで、「ドイツ翁」とも呼ばれました。
設計者 松崎萬長(1858~1921)
1858年、堂上公家・堤哲長の次男として京都・二階町に生まれ、孝明天皇の御児だったため、1867年に堂上公家に叙せられ、松崎家を創設。
1871年にプロイセン(現在のドイツ)に渡り、2年間、ヘルマン・エンデのもと、ベルリン工科大学にて建築学を学び、1884年に男爵を賜り帰国。
1885年に皇居造営事務局御用掛、1886年には内閣臨時建築局工事部長を歴任。ドイツ留学の経験からドイツより、現在の法務省を設計したヘルマン・エンデ、ヴィルヘルム・ベックマン両氏の招へいと、職人たちのドイツ留学を助けます。
1886年には、辰野金吾、河合浩蔵、妻木頼中とともに造家学会を設立。
1901年に仙台にて七十七銀行設立に尽力。1907年に台湾に渡り、基隆駅や新竹駅などを設計、1921年に東京で亡くなります。
なお、旧青木家那須別邸は、日本で唯一現存する彼の作品になります。
【建物メモ】
とちぎ明治の森記念館(旧青木家那須別邸)
●竣工年:1888年(増築は1908年)
●設計:松崎萬長
●文化財指定:国指定重要文化財
●入館料:¥300
●写真撮影:可(商用厳禁)
●交通アクセス:JR東北本線「黒磯」駅よりバス「青木別荘前」停留所下車5分
●参考文献:
・鈴木博之監修「元勲・財閥の邸宅」
・米山勇監修「近代日本建築大全【東日本編】」
・BS朝日放映「百年名家」
ほか
●留意点:
黒磯駅よりバスで向かう際は、バスの本数が極めて少ないため、事前に時間調査することを強く薦めます。
道の駅 明治の森黒磯 並木道:
長い並木道を抜けると、旧青木家那須別邸が現れます。
青木周蔵は、黒磯駅から邸内に保存された馬車を使い、この邸宅を目指しました。
旧青木家那須別邸 並木道側から臨む:
当初は中央部分の寄棟造2階建てだったものを、青木周蔵が外務省をやめたのち、家族とここで多くの時間を過ごすために、再度、設計者の松崎萬長に依頼し、東西に付属棟、そして中央部分に展望台などを増築。
邸宅のスタイルはドイツ式になっており、施主の思想を反映する松崎萬長の建築思想を大きく反映したものになっています。
また、中央部分の屋根はもともと寄棟造でしたが、改築の際に、展望台をつけたため、腰折屋根風になっています。
旧青木家那須別邸 北側から臨む:
北側からも、出入りすることを考慮したつくりになっていて、ポーチとベランダが付けられています。
旧青木家那須別邸 鱗壁:
こちらの壁の装飾には、魚のうろこのような意匠が込められています
旧青木家那須別邸 西側を臨む:
現在は一般見学者の出入り口になっています。
ベランダが張り巡らされ、深い庇が内と外の連続性を醸し出しています。
植民地時代に培われたコロニアル・スタイルが那須の風景に溶け込んでいます。
旧青木家那須別邸 ハンマービーム構造の窓:
教会建築などに多くみられる建築方式で、短い片持ち梁でその上のアーチを支えていますが、青木家那須別邸では、窓飾りに用いています。
また、半円の下の持ち送りのところみたいなところには、和風のとも思える装飾がついています。
壁は先ほどとは違い、蔦型スレートになっています。
旧青木家那須別邸 ドーマーウィンドと大谷石の屋根:
明りとりのためにつけられたドーマーウィンド。
ドイツ風邸宅でありながら、懸魚のような意匠になっています。
お魚が下がっているように見えるのは、日本家屋は木材建築のため、火から水で守るため、と言われています。
また、煙突部分は、大谷石が用いられています。
旧青木家那須別邸 平面図:
当初は中央部分のみの建造物でしたが、周蔵が外務省を退官したのち、同じく松崎萬長氏によって、両サイドの付属棟が付随されて現在の姿になっています
旧青木家那須別邸 1階応接室:
高く天井が取られた、かつての応接室。現在では一般見学者用玄関に使われています。内側に壁紙が貼られたり、先ほどの家族用スペースとは違い高級感を増しています。
ベランダに面した開口部が開放感を与えています。
旧青木家那須別邸 1階婦人室:
現在は青木家の写真が掲げられています。
暖炉は大谷石製になっており、鏡台は青木周蔵婦人のエリザベートさんが愛用したもの。
飾り柱やアーチで縁取られた部分はアルコープ風になっており、スペイン建築ではベッドなどが置かれましたが、青木邸でもその様に使われていたものと推測されます。
旧青木家那須別邸 浴室:
青木家の水回りの一つで、バスタブやツクールが置かれていました。
これらがいつから置かれていたかは不詳ですが、青木家ていは昭和初期から太平洋戦争前まで、陸軍将校や米軍関係者が頻繁に訪問し、社交クラブ的な役割を果たしていましたが、そうした青木邸の歴史を伝える部屋です
旧青木家那須別邸 1階使用人室
旧青木家那須別邸 1階主人室:
部屋の造りなどは、食堂部分と同じですが、主人室がどのように使用されていたかは不詳のため、現在は青木家の家具類などを展示。
グランドピアノは周蔵の孫・重夫氏の夫人、ピアニストの青木和子氏が愛用したもので、ドイツ留学時にドイツで購入したベビシュタイン社製になります。
このピアノは、長らく青木邸におかれていましたが、青木小学校新校舎新設の際に寄贈され、そののち黒磯文化会館に移され、青木邸に里帰りしました。
旧青木家那須別邸 1階大食堂:
思ったよりもスッキリした食堂になっていて、別邸建築で家族のみで過ごすため、シンプルな構造になっています。
また、暖炉は大谷石製になっており、椅子などの一部には、当時のオリジナルのものが使用されています。
旧青木家那須別邸 1階玄関ホール:
中央部分で、玄関ホールは来客者を迎えるように内開き。
ここから各部屋に行けるようになっています。また、竣工当時は、1階部分は、この出入り口の前の2部屋、主人室と大食堂しかありませんでした
旧青木家那須別邸大階段:
青木家那須別邸では、玄関口の傍にメインの大階段が備えています。 2階に誘うように、大きな吹き抜けになっており、壁の色は竣工当時の色と言われています。
旧青木家那須別邸 中央階段の馬車:
馬車は青木家に保存されていたもので、周蔵は那須別邸に訪問する際に、黒磯まで電車で赴き、そこから馬車に乗り移動したといいます。
馬車は一人乗りで、椅子の下に荷物が収納できるスペースがあり、また、夜間でも使用できるようにガス灯も備えられています。
旧青木家那須別邸 1階建築構造:
旧青木家那須別邸 裏階段を1階から臨む:
もともとは、裏階段として使用され、幅が狭い物でしたが、一般公開の際に幅を広くして一般公開に備えました。
旧青木家那須別邸 2階和室:
増築の際につけられたもの。洋風の中15畳の和室になっており、畳の部屋に合わせて天井の高さを抑えています。
この部屋は、青木邸を訪問した来客者のなかで、和室がを希望する方のために使用されました。
またハンマービーム構造の窓がつけられ、天井部分を見上げるとトラス構造が見えます。
旧青木家那須別邸 2階娘ハナ寝室:
夫婦寝室と同じ構造になっており、格式にとらわれない青木周蔵の心意気を感じられます。
竣功当時は黒塗りのベットが置かれ、窓側には水差しとホーロー製の洗面器を備えた机が置かれていました。
旧青木家那須別邸 2階夫婦寝室:
青木夫妻が使った寝室で、現在は青木家の家具が置かれています。
また、寝室から北側ベランダに出られ、大谷石部分は下の大食堂の暖炉とつながっており、下で焚いた熱がこの部屋に篭る仕組みになっています。
旧青木家那須別邸 2階ベランダから杉並木を臨む:
2階中央部分のベランダからは並木路をみることができ、竣工当時は、1500ヘクタールを超える広さの青木農場を臨むことができました。
旧青木家那須別邸 2階部分から階段を臨む
旧青木家那須別邸 2階階段ホール:
青木邸の見せ所の一つで、アーチが重なり、柱が宙吊りになっています。
これにより空間が広く見せる効果があり、広がりを感じることができます。
また、右側部分階段は屋根裏部屋に行ける様になっています
【非公開】旧青木家那須別邸 2階屋根裏部屋(市のHPより許可を得てパネル写真より転載):
壁を1m立ち上げて、その上に小屋組材を載せることにより、住みやすい空間を産み出しています。
この部分は現在非公開になっており、写真は旧青木家那須別邸さまのHPより、許可を得て掲載しました。