見出し画像

導きとしての境界線

こんにちは。おおかみの人です。

今回のトップ画像は、【青鉛筆で描かれた線】のイラストを、青記(あおき)( @ameodoru )さんにお借りしました。

青記(あおき)さんのプロフィールはこちら。



以前に、こんな記事を書いていたのを思い出した。

その当時は大事な人だった相手との関係性で思い悩んだ末に書いた記事だった。

その人との関係の中で、自分の感情に責任を持つことの大切さを学んだし、もうその人との縁は切れてしまったのだけれども、その縁が切れてしまったという事実から得られたものはものすごく多かった。


この記事でも触れている通り、以前と比べたらいまのわたしはとても社交的になったと思う。
付き合いのある人の数は、入院する前と比べて圧倒的に増えたし、人が集まるような場所にも積極的に出入りするようになって、もちろんそこで出会う人に合う/合わないはあるけれど、いまはさまざまな人とつながりを持つことができている。

新しくできた人とのつながりも悪くない。面白いな、とか、すごいな、とか、見習いたいな、と思える人が、わたしの周りにはたくさんいる。
それに、会えば笑顔で「元気にしとった?」と声を掛けあえるような、あたたかいつながりというものが確かにあって、少し極端な表現かもしれないけれど、わたしは愛されているんだなあ、と感じる。

確かにそれは、素敵なつながりだ。
人間関係においては、わたしは贅沢をしているというか、とても恵まれているな、とつくづく思う。


思うのだが。


最近自分についていろいろと、ぼんやりと考えている中で、

「わたしはこれ以上先には進めない」

という、頭打ちの状態なのだと思い至った。

自分の周りに、自分のことを覚えていてくれて、心配してくれたり気にかけてくれたり連絡をくれたりする人がいるというのは、やっぱりうれしくてありがたいものだ。それは何物にも代えがたい関係だと思う。

そしてそういう関係性を保てているのは、その相手との距離がある程度離れているからだということを最近思うようになった。

付かず離れず、と言えばいいのか、たまに思い出して連絡を取ったり、顔を見たら「最近どう?」と言える間柄で、いつも一緒にいるというような近くて親密な間柄ではない。
少し離れているからこそ、ちょうどいい。

そしてわたしは、この「少し離れている」状態から一歩を踏み出すことが、どうしてもできない。直感でそう思うし、実際できない。
どこまでも、友達止まり。


入院する前はまったくそんなことは考えられもしなかった。ところが、退院して、徐々に自分の状態が快方に向かっていって、人とのつながりも増えていって―つまり、自分に余裕が出てきて、ふと、

「ああ、わたしのそばに誰かいてくれたらいいのにな」

と思うことが増えた。

わたしの両親は健在だし、家族仲は良好な方なので、親がいるのならそれで十分じゃないか、と言われたら返す言葉もないけれど、それでもふと、自分にパートナーと呼べる人がいないということに寂しさを覚えたりする。


パートナーを探そうと試みたりしたこともあった。でもうまくいかず、思いっきり振られた。
そのあと何かと忙しくなったりもして、そういう活動からは手を引いてしまって、自分のことに専念するようになった。

ここまで進んではきたけれど、なんだか自分のことがよくわからなくなってしまって、悩んで、悩んで、悩んで、自分のことをもっとよく知ろうと思って自分なりに勉強したりもした。

たくさん悩んで、勉強して、考える中で、自分の中に超えられない…壁?バリア?いやいやそれよりも、横断歩道の白線みたいな…「この白い線から落ちたらサメに食われるよ」みたいな、自分のルールの中で超えちゃいけない線があるんだな、ということに気がついた。

どういうことかと言えば、先述の通り、人とかかわる中で自分が安全で安心していられる距離感のことだ。その距離感があるから、相手と仲良くしていられる、という線。
「友達止まり線」とでも言えばいいだろうか。


パートナー探しの試みの中で、相手と近い距離で対面してご飯を食べながら話したりだとか、肩が触れる距離で並んで歩いたりだとか、あとはその人が運転する車の助手席に座って会話しながらドライブしたり、だとか…

が、非常に苦痛で仕方なかった。
身体がぴりぴり、ちくちくする感覚がとても強く、気がつくと息を堪えてしまっていたり、話題を合わせて楽しく話すことはできるけれども、毎週末その相手と過ごす予定が入っていることがとにかくしんどくて仕方なかった。その感覚はどうしようもなかった。


…ということがあって、もちろんその相手には振られて、関係が終わったのだけれども、同時にとてもホッとした。
そしてそのときから、ゆっくりと時間をかけて、自分を見つめ直すことにした。

そんなときに見つけたのが、boundaryバウンダリーという言葉と、vulnerabilityヴァルネラビリティという言葉だった。

バウンダリーとは、境界線。
ヴァルネラビリティとは、人のこころの弱く儚くもろいところ。

バウンダリーのいちばんわかりやすい例は、パーソナルスペースだ。
人によって、他人と対面するときの安全圏は違う。
間合いを詰めて近い距離で接することができる人もいれば、広い間合いを取って離れた距離からでないと安心して交流できない、という人もいる。その間合いこそがその人独自のバウンダリーで、それを他人に踏み越えられると不安になったり、不快に思ったり怖くなったりして、居心地の悪さを感じてしまう。
一瞬だけお付き合いしたその相手と一緒にいるときに感じた居心地の悪さは、どうやら自分のバウンダリーに関係があるようだった。


バウンダリーとヴァルネラビリティということに関しては、いろいろ考えることが多かった。

そもそも、人間は社会的な生き物で、他の個体とコミュニケーションをとって協力し合うことで繁栄してきたはずだ。一致団結するといわば「なんでもできる」かわりに、何かしたいと思うとやっぱり他の人間の助けが必要なことがとても多くて、社会的であるからこそひとりひとりは弱い存在なんだと思う。
つまり、人は誰しも弱さを内に抱えている。

ひとりでは弱い人間が生きていくためには仲間が必要で、その仲間を見出すためには互いのことを知らなければいけない。多かれ少なかれ自己開示が必要になってくる。
自分の興味関心の共有であったり、仕事でのコミュニケーションであったり、あるいは人によってはお酒を飲みながら人生を語ることであったり…程度は違えど、ポジティブなつながりを見出すためには自己開示が必要だ。

いまのわたしは他人に対して自己開示が上手にできるようになってきていると思う。周囲の人達と良好な関係が築けていることが、その証だ。


それでも自己開示はときに困難を伴う。それが自分の弱さ…ヴァルネラビリティを開示しようとするときだ。

自分の中で深く悩んで誰にも話せなかったことを、思い切って親しい間柄の人に話してみたら、気持ちを受け容れてもらえてホッとしたと同時に思わず涙が出た、ということは誰しも経験したことがあるか、経験する可能性があると思う。

深く思い悩んで、最後の最後まで誰かに話すか悩むのは、それが自分の弱い部分、触れられたくない部分に関わっているからで、その弱さを受け容れてもらえる経験―自分が弱いままでいられる経験を経てはじめて、深いつながりを得られるのだと思う。

医療者にそのつながりを求めようとしたわけではないけれども、結果としてわたしがさくら先生に対してそういう類の深くて強いつながりを感じていたのは、彼女の前では弱い自分でいられたからだ。
どんな醜態を自分がさらそうが、八つ当たりしようが、彼女は離れていくでもなく、ちゃんと場所と時間を用意してくれていて、わたしが彼女を必要としているときに快く手を差し伸べてくれていた。
もちろんそれは治療の枠があって、その中だからできたことだ。現実の生活でそんな関係は望むべくもない。


自分の弱い部分をさらけ出せる相手というのは、そんなに多くはないと思う。そもそも人のこころには、その弱さに他人がじかに触れられないようにするために幾重もの自己防衛戦略が張り巡らされている。
こころが自分を守るための鎧を身に纏っている、と言えばいいだろうか。

このバウンダリーを超えて弱い部分ヴァルネラビリティに近づかれると不快に感じたり、あるいは近づかれないようにするために相手を追い返すような行動をしてしまったりする。

ほんとうは自分の弱さをありのままさらけ出せるような間柄の人こそが、自分が深い仲を築けるような、それこそパートナーになれるような人であるにも関わらず、人はそのような関係になれそうな人と関わることを避けてしまうどころか、まったく正反対の人と付き合ってしまったりする。自分の弱さを守るために。
そして、そうしたこころの動きはほとんど自動化されていて、こころを許せる間柄の人と素敵な時間を過ごしたいはずなのに、どうしても、理由はわからないけれどなぜかできない、ということが、往々にしてあるらしい。

そして、まさしくわたしがそういうタイプの人間だということを、自分の人生を振り返る中で思い知ることになった。

交際という意味であってもなくても、人と親しい仲になれそうな場面はいままでの人生で何度かあった。わたしはその人たちと近づきたいな、と思ったし、実際に近くにいてもいいことすらあった。

ところが、いざ近づいてみると、自分の方がなぜかうまくいかない。

自分のコントロールがきかなくなって、ほんとうはその人に近づきたいとこころの内では思っているのに、相手のことを試したり、避けたりしようとしてしまう。
それはたとえば、「わたしは精神を病んでいるから近づかない方がいいよ」とか、「わたしはバイセクシュアルで、誰のことでも好きになっちゃうから近づかない方がいいよ」とか、あるいは近づかれないように攻撃的な態度で相手のことをあからさまに避けてしまったりだとか。

どうしても、本心とは逆のことをしてしまう。
こんなわたしのことは放っといてよ!とか、わたしはクズで見捨てられても仕方ないから離れたっていいよ、とか。

そういうことをたぶん、桃子先生は【不安を撒き散らす悪癖】と言っていたのではないか、と思う。

その当時は生きることへの必死さもあったけれど、自分がただのメンヘラでしかないからそうしてしまうんだろう、と思っていたし、どうにかしなきゃいけないけどどうすればいいかわからない、という混沌としたこころ持ちの中で、もやもや、イライラ、ムシャクシャして、負のループに陥って、よけいにどうにもならなくなっていった。

結局、いままでの人生の中でいちばんのこころの支えになってくれていた元彼さんとお別れすることになった時点で、どこか人付き合いを諦めてしまって、誰かと近づこうとすること自体をやめる決心を、気づかぬうちにしてしまったんだと思う。


誰かと深いつながりを持つ。
わたしはそれにとても憧れてはいるけれど、いまのままではどうしてもそういう関係を作り上げるのは困難だ。
なんだか、もうどうしようもないんだと投げ出したくなる。

そもそも、バウンダリーだとかヴァルネラビリティだとか言うけれど、そのバウンダリーを超えられなかったら、誰かと親密な仲になるなんて不可能じゃないか。終わってる。

…と思ったのだけれども、バウンダリーというのはあくまで、境界「線」のことだ。
横断歩道の白線。はみ出してもサメなんかに食われることのないもの。あくまで自分の中でのルール。
バウンダリーは境界線。自分を取り囲んで他人をシャットアウトする壁ではない。【鎧】ということばを使ってしまったので、矛盾しているかもしれないけれど。



バウンダリーは一種のガイドライン…つながりを「導く」ための「線」、であって、深い仲を築き上げることは決して互いにその線を踏み越えることではない。むしろその逆で、お互いのそのガイドライン…人と快適に安心して関われるための「指針」をお互いに尊重できる間柄になってはじめて、仲を深めていける…らしい。

自分らしくいられる相手と一緒にいるのが心地良いとはよく言うけれど、その相手との関係の中では確実に、互いのバウンダリーは尊重されているのだろうな、と思う。それは、いまある周囲のあたたかな人たちとのかかわりにおいても。


正直、わたしが今後出会う誰かと関係を深めていけるのか、そもそも深めていきたいと思えるのかはわからない。
もっと近づきたいと思っても、いままでと同じパターンをただ繰り返すだけで、相手のことを避けて逃げ続けるだけに終わってしまうかもしれない。

…それでもわたしは、変わっていきたい。いまのわたしから。


自分ひとりで何ができるのかはわからないし、きっとこんな悩みは医療の範疇から外れてしまうだろうし、どこかでカウンセラーさんを見つけたりして自分を変えるための努力をしなければいけない。
そして、どんな人となら自分が安心していられるかをもっと解像度を上げて知るために、もっともっと人との出会いを増やしていかなければならないと思う。それが自分にとっては計り知れないストレスになることも、もちろんわかってはいるのだけれど。



………などと考えておりました。

まあ、何が言いたいのかといえば、やっぱりパートナーがほしいなあ、ということです。

一緒にいられる人、支えあえる相手がいることは、きっとしあわせなことなんだろうなあ。




執筆時に聴いていた曲:


執筆する前に読んだ本:


キーワード:
boundaries / vulnerability / self-protection strategy / intimacy

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?