真理子のリアル人生劇場第4話〜結婚とは〜
“自分の家庭と家族”
それがこの世でもっとも欲しかったものだ。
お腹には子どもがいて、そしてKとの挙式の日・・・その瞬間が結婚生活で一番希望に満ちた日だったかもしれない。
2月に挙式したが、その後2〜3ヶ月経っても同居もしてなかったし、入籍もしてなかったので、Kに聞いた。
Kが何と言ったかは忘れてしまったが、要するに”籍なんてこだわる事ないんじゃない?“って事だったと記憶している。
海外で暮らしていた彼は独特の価値観があり、同居や籍にこだわりもなく、共に生きていくという認識をもてればそれでよかったのかもしれない
でも、あたしはそんなの嫌だった。
Mとの不倫を経て、あたしはまさに入籍という結婚形態を望んでいたのだ。
もうすぐ産まれてくるというのにこの子の籍だってどうするというのか。
話し合おうとする度に、ケンカになるばかりでその度にあたしは腹痛と出血で、流産の危険という事で何度も入院した。
彼には彼の考えがあるのだろうが、彼は決して自分の考えは述べず、あたしの言葉への否定の言葉を言うのみだった。
例えば、あたしが「何故同居しないの?」と訊けば
「同居しないって言ったか?」とKが答える。
「でも現実してないよね、どおするの?」とあたし。
「色んな形の夫婦がいるんじゃないの。でも俺は同居しないとは言ってないし」とK。
全てがこんなやりとりで最後は結論のない言い合いになった・・・そして早産しそうになり入院の繰り返し。
Kには「仕事から帰ると疲れているので病院には土日しか行けないよ」と言われて、病室の夜は寂しさと流産の不安で泣けてきた。
そんなすったもんでの中、出産2ヶ月前に同居する部屋が決まり引越しをしてまた早産の危険で入院。
やっと決まった新居は払える家賃から超狭い部屋で、Kが寝室(3畳)に一部屋とると後は6畳がひとつで、そこが居間であり、あたしとベィビーの寝室でもあった。
そしてKの実家にも近くだった。
それでもやっと家族の部屋ができたと思えた。
でも暮らしてみると、いや、暮らす前からだったな、Kは自分の事や自分の気持ちや考えをほとんど話さなかった。
結婚に進んでいた時は、結婚するぐらいなんだから愛情はあるんだろうと勝手に推測したけど、この同居に至る経過で、Kは本当に結婚したかったのだろうか?とあたしは思い出していた。
日々の言動からも愛情があるのかないのか全くわからなかったので、訊いてみた事があったが、何でそんな事訊くのかという答えだったと記憶している。
そしてKは、結婚の決心もついていない状況だったのが子どもができたので決意しただけだと、あたしは思った。
同居する際に、「実家の母が一人暮らしだから1週間に1日水曜日は俺は実家に泊まるから。」とKが言った。
あたしの意見をきくような人ではなかったのであたしは押し黙った。
自分の実家の近くに住みたいとKが望んだので近くに引っ越したし週末は必ず夫婦で義母の家に行っているのに何故更に毎週ひとりで実家に泊まるのか・・・もうすぐ産まれるのに・・・。
あたしの中ではっきりと知りたい思いがわき起こっていた。
ある日、あたしはKのカバンの中を見てしまった。
そこには一通の手紙が入っていた。
そしてそれはKから誰かあたしの知らない女の人へのラブレターだった・・・。
(今ならLINEだとかだろうが当時はまだまだアナログな時代だった。)
いつのものかわからなかったし、ここにあるという事は出してない訳だ。
でもショックだった。
こうやって誰かにラブレターを書くことができる人が、あたしに何も語らないという事は、あたしを愛してないんだろうと思った。
哀しすぎてその日はKとはほぼ会話はしなかった。
数日後にKに手紙の事を訊いた。
「好きな人がいるの?手紙を見ちゃった」と。
Kは言った。
「人のカバンを見たのか?
あの手紙はずっと昔の結婚前のものだ。
そんな事よりカバンの中を見ることなんて信じられないよ」と。
どんどん深まる溝・・・。そして早産の危険で又入院。
“土日以外だったら産まれても病院には行けないよ”
又、そう言われて・・孤独を感じた。
軽度だが妊娠中毒症にもなっており、難産だった。
でもこの難産の苦しみの中で死さえ怖くない気持ちを知った。
息子が産まれる迄、夫婦は言い争ってばかりだった。
この子はお腹の中で一度も動かなかった・・・本当に入っているのか不安になった位。
ごめんね息子。母はあまりに幼稚だ。
息子は泣かない子だった・・・でも寝ない子でもあった。
あたしには母親は継母しかいなかったので、産後、頼ることもできず、退院後ひとりで家事育児をこなして体調を崩していった。
ある朝起きると顔から何から全身腫れ上がっていた・・・重症の蕁麻疹らしかったが、何度もそうなり、しまいには耐えがたい腹痛と息苦しさで救急車で4回位運ばれた。
“アナフィラキシーショック”と言われたこともあったり、何だかわからなかったりの状況が続いた。
身体中蕁麻疹の痒みと発熱の中でひとりで育児家事はきつすぎた・・心身ともに疲れ果ててた・・・1日でいいからKが休んで育児してくれたら・・・1日でいいから休みたかった・・・でもKからは「もっと大変な人だっていると思うよ」と言われて。
あまりのキツさに助けて欲しくて、伯母(実の母の姉)に電話して実の母の連絡先を教えてくれと頼んだ。
しかし「再婚して家庭があるから教えられない」と。
大学病院で検査を受けたが繰り返すアナフィラキーショックの原因も病名も分からずで、でも今回の病気には関係はないがわかった事があった。
医者が言った。
「あなたは子供の頃に大病してますね。子供時代に背骨を圧迫骨折していて背骨が変形してしまっています。
これは一生腰痛で大変ですよ」と。
大病はしていない。
何が原因だったろう。
父の暴力か・・・栄養不足なのに子ども時代妹をおぶらされてたからか・・。
カルシュウムのある食事なんて記憶にないもんな。
何かその頃、厄年みたいに人から聞く言葉はあたしを打ちのめす事ばかりだった・・・実際厄年だった。
夜、息子と添い寝しながら唯々涙が流れた。
そして思ってはいけない事を思ってしまっていた。
M 。あなたの愛がどんなに優しくあたしを守ってくれていたか・・今更ながら思い知った・・・幼稚なあたしの不安をいつも解消してくれた・・・あなただったから14年、愛を信じてこれたんだ。
そんな頃Kは言った。
「お前は病気なんだし、俺は仕事があるし夜は疲れてて何もできないからしばらく実家に帰って」と。
そう、普通の実家だったらあたしも帰りたいよ・・・。
追い詰められたあたしはとうとうMに電話してしまった・・。
「真理子!元気にやってるか?」ってMの言葉と同時にだあーっと涙が流れて嗚咽してしまった。
「どおしたんだ?!何があったんだ?!」とM。
「病気なの・・・息子の面倒もみれない・・どおしたらいいか・・・夫には頼れない・・』
「何だって?!じゃあ直ぐ入院しろ、病院は手配してやる。」
あたしは電話口で子どものようにエンエンと泣いた。
「真理子。お前がそんな泣く位なら別れろよ。
真理子が自立するまで助けるよ。
真理子には才能がいっぱいあるよ、社会性低いけどな、でもそれは俺のせいだな。」
「でも会社は大丈夫なの?」
「いや、もうすぐ俺は社長じゃなくなっちゃうな、でも真理子が自立する位まで何とか助けるよ」
それから入院迄の日々、色々考えた。
大学病院で言われた言葉を思い返してた。
「あなたのアナフィラキーショックは激しいのと呼吸器が腫れるので正直次の発作が命にかかわる可能性もありますよ」
そうか、死ぬかもしれないのか・・・ああこの子の事だけが心配だ・・・。
“神よ、この子が大人になるまでとは言いません・・せめて中学を卒業する15才位迄母として生かしてください・・その後のあたしの命は捧げます“
神の何をも知らぬくせにあたしはそんな願い事を本気で祈ったりした。
Kの涙を一度見た。
俺はお前の望みに応えられるような男じゃないんだ、という言葉を言いながら泣いてた。
でもその言葉の意味は、幼稚なあたしにはその時わからなかった。
ただKもいつも反論ばかりで決して折れない人だったけど、本当は弱い人なのかもしれないと思った。
病気の妻に幼い息子の2人を背負える人じゃなかっただけなのだ。
あたしが心身ともに自立した女だったらよかったんだろう。
ケンカばっかりしてたけど、あたしはKに愛情を持っていた。
でもKにはあたし達が重荷なんだと思った。
Kに選択させよう・・いやあたしはKの選択に賭けたんだと思う。
そして入院前、あたしはKに
「実家には帰れないし入院するよ。もうあたし達の事、無理に背負わなくてもいいよ。コレ出していいよ」と言って離婚届けを渡した。
「やっていけるのかよ」とKが言った。
「助けてくれる人もいるから大丈夫」
そして入院して、あたしが退院した時には・・・Kは離婚届を提出していた。
あたしはKの重荷でいられなくて離婚届を書いたが、でも心のどこかでKがそれを出さずに、一緒にやっていこうって言ってくれたらと願う気持ちもあったのだ。
Kの出て行ったアパートで息子の世話をしながら何度も泣いた。
オムツを変えながら、お風呂に入れながら・・。
息子には本当に可哀想なことをした。
ベビーカーで公園に行くのも人に会うのが辛くて人のいない時間に、毎回違う公園に行った。
でもKは休みの度に来るようになった。
息子を抱いたり私達を外に連れ出したりした・・・そして夜には帰っていった。
Kは息子に会いたかったのだろうか。
東京にいるMは部屋を探してくれていた。
見つかり次第引っ越すつもりでいた。
仕事もしなければと。
あたしは後ろ髪ひかれつつもKとの部屋を出ていく決心をした。
Kとの離婚が辛すぎてこの部屋にはいられなかったし、Kの顔を見るともう一度Kに期待してしまいそうで怖かった。
毎週末Kは来て、結婚してた時より関係は和やかだった。
“あたし部屋が見つかったら東京に引っ越すよ”
Kは“そうか”とだけ。
離婚から3ヶ月程、毎週末まるで家族のように過ごして
(もちろん男と女の関係とかはなかったけど)、時々Kの手を繋ぎたい気持ちにもなったりしたけど、そんな事はできなかった。
部屋が見つかって荷造りもして引っ越す直前に、Kが
「やりなおそう」って言った。
その時あたしは確かにKを好きだったけど、あまりに離婚が哀しかったから、もう一度傷つく事になったら心が壊れてしまうから、Kとはやりなおせないとその時思った。
どれ位離婚がダメージだったかは精神的にもそうだが、身体的にも現れていた。
まず皮膚の感覚がなくなり、離婚から2年位暑さ冷たさが全く感じなくなった。
夏も冬も分からないほど。
感情も麻痺した。好きだった事全てに興味がなくなってしまって何も楽しい事はなかった。
そして毎晩、泣いていた・・・。
息子の世話があたしをこの世につ繋ぎとめるたったひとつの事だった。
もう一度やり直しても今の幼稚なあたしならきっと上手くいかないと思う・・・そして結局ダメで再び傷つくのはもうあたしには無理だから・・・好きだったけど・・あたしの答えは
「遅いし・・今のあたしは無理だよ・・・」
いつかあたしが男の人に依存しない女になったら・・・又、Kともう一度出逢いたい・・・でもその言葉は言わなかったから、Kはさよならだけを受けとめただろう。
短か過ぎた結婚生活。
その結婚生活では一度も夫Kと気持ちが通じた事はなかった。
それでもあたしが病気にならなかったら離婚には至らなかった気がする。
あんなにも望んでいた結婚という形態。
“結婚するのはその人を一番好きだからって訳じゃない人もたくさんいるんだ。
そして結婚したからって分かり合える相手かも別問題。
いつか真理子もわかるよ”
Mが以前にあたしに言った言葉。
あたしはあたしに何ひとつ自分の気持ちを伝えてくれなかった夫Kを結婚生活中も離婚後も恨めしく思っていた・・・それは未練の裏返しだ。
愛してるってひとことが一度でも聞けてたらどんなに大変でも離れなかったと思う。
子どもができた責任感だけで結婚したんだと思えたから、最後の「やりなおそう」も愛してるからではなくて子どもへの責任感と情からの言葉だとあたしは受けとめたんだ。
愛されないのならあたしは壊れてしまうよ。
そして数日後にあたしは東京へ引っ越した。
新しい街で息子と2人で生きていこう、今は助けてくれるMがいるけど、あたしは自立しなくちゃ。
そんな思いで見知らぬ街で暮らし始めてた。
続く