河瀬直美監督ドキュメント映画『東京2020オリンピックSIDE:B』には、なぜ「最も重要な人物」が1秒も映らないのかという話
河瀬直美監督が東京五輪ドキュメンタリーを撮る、と報じられた時、左派からよく引き合いに出されたのはベルリン五輪におけるレニ・リーフェンシュタールだった。要はリーフェンシュタールがナチス政権にそうしたような、東京五輪を美化するプロパガンダになるのではないかという危惧である。
先月に公開された『東京2020オリンピックSIDE:A』を見た時、その心配は杞憂に終わったと感じた。そこにあるのは良くも悪くも監督のメッセージが脱主体化された、東京五輪に参加する各国の選手たちの肖像、さまざまな思いをつないだグラフィティ的な作品になっていたからだ。そこにあるのは良質ではあるが凡庸な記録映画であって、リーフェンシュタールの作品のような強烈な求心力やプロパガンダ性はない。
しかし、である。では『SIDE:B』も『SIDE:A』と同じように、凡庸かつ良質なドキュメントになりえているのかというと、ちょっとこれがそうではないのである。「監督の意見を交えず、人々の肖像をつなぐ」という手法はそのままなのだが、『SIDE:A』に比べてさらにその「つなぎ」が短くなり、「グラフィティ化」が加速しているのだ。
まあわからなくもない。『SIDE:B』に登場するのは森喜朗、橋本聖子、小池百合子、あるいはその反対に激烈な反対運動を展開するデモ隊である。強烈なエゴと政治性を持つ彼らのインタビューを延々と流したのでは左右どちらかからプロパガンダだリーフェンシュタールだと言われてしまう、という意図が監督にはあるのだろう。
しかしである。それにしてもである。『SIDE:A』ではまだしも、選手のインタビューをまともにつないだ数分単位のつなぎであったものが、『SIDE:B』ではそれこそ、数十秒から数秒という単位でインタビュー映像がぶつ切りにされるのである。
この映画の冒頭は東京五輪の延期をめぐる会議から始まる。さまざまな組織委員会の関係者が会議室で激論を交わしている。「変更をした場合ですね、スポンサー企業に対する…」「17日間という開催期間をね、見直す必要が…」一字一句覚えているわけではないが、これくらいの長さで映像は次々と組織委員会の各界の大物たちの言葉をカットバックで繋いでいく。『シン•ゴジラ』を思わせる、スピード感のあるいい演出である。(画面の白抜き大文字など、明らかに影響を受けていると思う)なるほど、これは全体の予告のようなもので、ここから本編ではさらに大会の本質に踏み込んでいくのだな、と思って最初は見ていた。
しかし違うのである。全編この調子なのだ。五輪開催に何か問題が起きるたびに関係者のインタビューをカットバックでつなぐのだが、それらは冒頭の「予告編」と同じ数十秒から数秒に切り刻まれた発言映像のカットバックの連続で、観客に彼らの発言の全文は決して見せないのである。いったい誰がどういう意見を持ち、どういう対立のもとに何が論じられているのかを観客が理解できるだけの長さを、河瀬監督は映像に与えない。「色々な人が色々な意見を持って、色々なことを言っていますね」ということしかわからなくなるまで、河瀬直美監督は徹底的にインタビューを切り刻んで「脱•意味化」するのである。
よくカットの激しい映画を「ミュージック・ビデオのようだ」とけなす形容があるが、『SIDE:B』で採用されているのはまさに政治家の政治的発言の脱政治化であり、すべての政治意見の散文詩化である。もしあなたの手元にテレビのリモコンがあったら、すべてのチャンネルを7秒ごとに切り替え続けてみてほしい。ニュース番組もバラエティも映画もすべて等価な、むなしくはかないものに見えてこないだろうか?奇声を張り上げる芸人を見ても可笑しくなく、深刻なニュースを読むキャスターを見ても考え込むことなく(なにしろそれがどんなニュースか理解する時間がないので)「色々な人間が様々な思いで生きているんだなあ。でもそれが人間だよな」という、相対的でぼんやりした情緒に包まれるのではないだろうか。河瀬直美監督が『SIDE:B』でやっているのはまさにそれである。なにしろエマニュエル•トッドやオードリー•タンという世界レベルの重要人物の単独インタビュー映像を撮影しておきながら、それを数秒ごとの映像素材として何の意味もなく消費して終わりなのである。これは贅沢な使い方とかいうレベルではない。松坂牛やクロマグロを数秒お湯につけて「はいダシが取れました」と捨てているのと同じである。
『SIDE:B』には恐ろしく客が入っていない。たぶん今日の公開初日で3000人も見ていないはずである。なのであの映画を見てない人は「そりゃリズムよくインタビューを編集しただけのことを大袈裟に言ってるんじゃないの」と思うかもしれない。是非1900円自腹で払ってその目で見て頂きたい。いったい具体的に何についてどういう意見を述べているのかわからなくなるまで細断されたインタビューのブツ切りが流れ続ける2時間はほとんど前衛映画の域である。正直言って後半は映像酔いした。「ミュージック・ビデオのような映画」を2時間見た時のアレに近い。
では『SIDE:B』がまったくダメな、見るべきところのないドキュメンタリーなのかというとそれもまた違って、たとえば五輪開会式をめぐって辞任することになった演出統括の佐々木宏氏のインタビュー、そしておそらくは彼と対立した野村萬斎氏のインタビューを直で押さえているのである。その中で、野村萬斎氏はハッキリと「電通」という言葉を出し、名指しで広告代理店主導の演出を批判している。恐ろしいくらい貴重なインタビューである。会見で、佐々木宏氏が広告代理店の立場から滔々と持論を述べる時、マスクの野村萬斎氏の目が明らかに険しい怒気に光るのもカメラは捕らえる。でかした河瀬監督。悪口言ってごめんな。しかし、その貴重な野村萬斎氏のインタビュー映像を、河瀬監督はほんの一分にも満たない短さに切り刻み、いったい開会式で野村萬斎氏と電通の間に何があったのか観客が理解する前に次のカットバックに流れてしまうのである。何してくれとんじゃコラ。全編この調子である。フル映像を見せろよデコ助野郎。開会式で舞を見せた稀代の名優•森山未來のインタビューは「ここに来られた人もいるし、来られなかった人も…」という言葉の途中で叩き切られて次の場面に変わる。おい人が見てるチャンネル勝手に変えるんじゃねーよ!今すげえ大事なこと言ってたんだよ森山未來が!なにしろアイヌ文化関係者と思われる五輪会議での発言さえ「アイヌ文化に対する社会の理解が…」みたいな発言途中でカットバックに流れていくのである。お前はカットバック教の教祖か。
河瀬直美監督のこの演出手法は、100人近い人物たちの発言をすべて脱政治化、脱論理化し、言葉ではなく声、意味ではなく情緒に変換してしまう。高層マンションから見下ろすと、渋谷のスクランブル交差点の群衆が豆粒のような風景に見えるように、すべてを散文詩に変え、無重力空間のように相対化してしまう。これは両論併記ですらない。どちらの論も何を論じているのかわからないところまで細断してしまう、言論のBGM化である。
だからこそ優れたドキュメンタリー映画なのだ、誰も彼もが政治言語に染まり、二項対立と分断に飲まれる時代に対抗するためにこうした手法をとったのだ、保守政治家の懐に入ったからこそ撮れた映像だ、という評価はありうると思う。要はキメラポリティクスならぬキメラドキュメンタリーというか、一般の観客にはまるで伝わらないレベルに細断された情報を大量にバラまいているので、何か言われたら「いや、この発言も取り上げています」と後から言えるアリバイはあるのだ。医療関係者も飲食店もボランティアも全部その扱いである。
しかし、である。
タイトルを見ての通り、100人近い関係者が登場するこの『SIDE:B』にはたった1人だけ、名前すら出ない重要関係者がいる。
端的に言おう。それは安倍晋三元総理である。
元総理っていうか、この映画の中で延期が決まっててんやわんやの時は現総理だった安倍さんである。東京五輪誘致の時から誰よりも深く関わり、リオ五輪閉会式の時にはマリオのコスプレで登場した東京五輪組織委員会名誉最高顧問であるところの安倍晋三元総理が、このドキュメンタリー映画には1秒たりとも登場しないのである。
インタビューを断られた、というレベルではない。映像として映りもしない。森喜朗氏の新聞インタビューによれば2021年の一年延期を決定したのは当時の安倍総理であるにも関わらず、その名前を口にする人物すらいないのである。今上天皇まで撮影し、菅元総理には直接インタビューまでしているにも関わらず、まるでこのパラレルワールドが安倍晋三などという人物が存在しない架空歴史映画であるかのごとく、完全にその存在が消されているのである。
そんなことってある?
東京五輪の誘致に全力を注いだ日本の総理大臣、この映画のど真ん中である2020年9月16日まで現役総理であり、辞任後も五輪組織委員会の名誉最高顧問であった政治家に名前も触れない五輪ドキュメンタリーなんてありうる?
レニ•リーフェンシュタールの映画『意志の勝利』は、ヒトラーの出演時間は映像の3分の1、音声では5分の1を占めていたと言われる。河瀬直美監督の映画はそういう意味では、確かにリーフェンシュタールとは真逆である。だがそれは真逆であるからこそ、「権力の透明化」「政治の情景化」という、まったく新しい21世紀のプロパガンダになっているのではないかと思うのだ。
というわけで無料部分はここまで。何度も言うが、記録映画としては相当に貴重なものであることは確かである。(ここから加筆)政治家や業界大物の普段の立ち居振る舞いがそのまま収録されている映像はとりわけ貴重で、例えば森喜朗という人は、会議室に入って丸川珠代議員が自分に気がつかず背を向けてデスクで仕事をしていると、丸めた書類でその背中をスコンとつつくのである。「オレが来たよ」ということなのだ。いきなり無言で背中をつかれた丸川珠代議員は椅子から飛び上がり、「あっ会長!」と言わんばかりに森喜朗氏に駆け寄る。(音声は入っていない)すごい。森喜朗氏の「娘扱い」、そして丸川珠代という人がまさにそれに「はいお父様」的に応えることで自民党の出世街道を爆走してきた様子が見えるようだ。そうした貴重な映像が満載である。左派の人は見ておいた方がいいと思う。お金があれば。
月額マガジン部分では、850円したパンフレットに収録されている河瀬直美監督の「ある発言」について考えるので、投げ銭というか、この映画に自腹を切ったcdbちゃんに愛の手をさしのべて頂けたら幸いである。他の記事の月額部分も全部読めます。
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