福田雄一監督は「物語嫌い」な人々を映画館に動員しているのではないかという話
福田雄一監督の『聖☆おにいさん』がSNSの映画ファンから叩かれている。めったにないことだが映画の途中で出てしまった、とか、とにかくひどいので気を付けてほしい、と言った注意喚起が飛び交っている。もともと福田雄一監督と映画ファンの相性は悪いが、今作は特にそれが激しいようだ。
で、見てきた。確かに過去の福田雄一作品独特のあの「ノリ」、物語そっちのけでキャストがフリートークのようなアドリブを延々やる演出は今回さらに加速している。映画ファンが一番嫌うノリである。クライマックスなんてほとんど延々とただの雑談をしている。
しかしそれでは、映画が不評で大コケしているのかというとそうではないわけである。興行ランキングは6位。大ヒットではないが、席の埋まりはまあまあだ。
福田雄一作品は映画ファンから蛇蝎のように嫌われながら、『銀魂』『今日から俺は‼』などで一般に数十億レベルのヒットを飛ばし続けてきている。(今回はそれほどのヒットにはならなそうだが)
とりわけ大きな転機となったのは『新解釈・三國志』の興行収入40億ではなかったかと思う。『銀魂』『今日俺』は人気漫画の原作があった。またその原作には、ギャグのもう一方にシリアスな本筋、物語があった。(銀魂で堂本剛が演じた高杉晋助の凄みは素晴らしかった)
『新解釈・三國志』に物語は、ほぼない。いちおう三國志の逸話をもとにしてはいるが、あの映画を見る観客でそんなこと気にしていた人はほとんどいなかったと思う。要するに俳優のタレント力とおしゃべりだけで40億出してしまったので、福田雄一監督としては「これもう俺の力じゃん、俺を見に来てるじゃん」という確信を持ったのではないかと思う。
で、それはあながちまちがっていないのではないかと、『聖☆おにいさん』の劇場で福田雄一の映画に大笑いしている一般の観客を見ながら思うわけである。
ふと思うのだ。この福田雄一演出、松山ケンイチがほぼ松山ケンイチのまま、染谷将太が染谷将太のままダラーっと雑談のようなフリートークを延々やる映画に気持ちよく笑っている観客たちは、たとえば是枝監督の『怪物』とか野木亜希子脚本の『ラストマイル』みたいな映画なんて望んでいないのではないかと。いや、ハリウッドのエンタメアクションや、ディズニーの『ウィッシュ』でさえ必要としていないのではないかと。
物語、起承転結、というのは、ある意味では観客に対するストレスである。迫りくる危機があり、問題の解決がある。ジェットコースタームービー、という言葉があるけど、あのジェットコースターの「ゆっくりと動き始め、だんだん上昇していき、やがて一気に落ち、そこから何度も回転し、やがてゆっくりと元の場所に戻る」という構造は「物語」ストーリーテリングの技法そのものであるわけだ。なんというかもう、そういうもの自体を望んでいない観客が興行収入数十億レベルで存在するのではないかと思うのだ。メリーゴーラウンドで十分なのではないかと。
福田雄一映画には、「映画的な非日常をテレビ的日常が解体していく」という構造がある。日本社会の中心にある民放バラエティ、それを見ている人にだけ通じる内輪のノリ、そういうものが外部にある政治や思想すべてを飲み込んでいく。
『銀魂』において、それはひとつの演出技法だったと思う。銀魂という作品はもともと「異国に支配された日本とそこで歴史を忘れて生きる人々」という洒落にならないくらいシリアスなテーマが存在し、堂本剛演じる高杉はその「政治と思想の復活」によって日常を破壊しようとする象徴的なテロリストだった。主人公の銀時がしつこいほど繰り返すバラエティ的おふざけは「それでも俺たちはこのくだらない戦後的日常を守って生きていく」という、「無思想という思想」の表現だったわけだ。
でもその後の福田雄一作品において、堂本剛演じる高杉が表現した「映画的非日常」はその影を弱めていく。というか「テレビ的日常」そのものが単体で40億出せると『新解釈・三國志』でわかってしまったので、対比なんかする必要はないわけである。
『聖☆おにいさん』にはもう、高杉のような外部は存在しない。上映時間の最初から最後まで、キリストや仏陀という非日常の永遠の象徴的存在がテレビ的日常の下に組み込まれていく。平均的日本人の日常こそが正義であり、あらゆる外部が我々の内輪ノリの前にひざまずく。そういう映画がとても心地よく、安心できるという観客のことは、理解できるような気がする。それは映画ではなくテレビの思想である。映画館が観客を他者と出会う旅に連れていくメディアだとしたら、テレビは世界のあらゆるものをウーバーイーツの出前のようにお茶の間に届ける。これは実は日本の福田雄一作品だけではなく、ハリウッド映画にも「テレビのバラエティ的なタレント本人のノリを映画に持ち込もう」という演出は年々増えている。『バービー』とかにもそれを感じた。
福田雄一映画は、日本の観客に完全に根付いている。「考察」とか「批評」が溢れるSNSで、「物語疲れ」した人たちにこの映画スタイルは受ける。まるで見るマリファナである。山﨑賢人と浜辺美波の『アンダーニンジャ』が来年公開だが、どれくらい「シリアスな外部」の部分が復活しているか、それともそんなものはもう切り捨てていくのかは興味がある。
橋本環奈と広瀬すずは、どちらも福田雄一作品に出演したことがある。でもこの二人の福田作品との相性は対照的である。
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?