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舞台『エヴァンゲリオン•ビヨンド』脚本への批判と、主演の窪田正孝に対する絶賛が混乱して6000文字無料で書いてしまった記事



新宿歌舞伎町にオープンした東急歌舞伎町タワーの5階、THEATER MILANO−Zaこけら落とし公演 COCOON PRODUCTION2023、舞台『エヴァンゲリオン•ビヨンド』を観劇してきました。
タイトルに書いたように、舞台としては厳しい感想を書きます。レベルの低い舞台であったからではなく、傑出して高い舞台表現にも関わらず後述しますが根本的な部分でエヴァンゲリオンという作品の方向と違う、というかほとんど真逆のコンセプトで作られているからです。それを説明するために、舞台やストーリーについての詳細なネタバレも含みます。知りたくない人は読むことを避けるようお願いします。「↓ここから批判的感想」「↑ここまで批判的感想」の見出しもつけてみました。

まずは舞台の良かった部分から。全体のダンス、演出、効果などは素晴らしいと思いました。一般に日本で八百屋と通称される傾斜のついたステージは近未来の不安をよく表現していましたし、数メートルはあろうかという巨大なエヴァンゲリオンを数人の黒子が操り、それに乗るパイロットをワイヤーのように天井から吊るすことで、エントリープラグの中を羊水のように浮遊しつつマリオネットのような操縦効果を見せる手法も見事です。プロジェクターを使った映像効果、特殊効果については百点満点以上と言えるかもしれません。

↓ここから批判的感想

演出がこれほど素晴らしいのに、なぜ作品として評価できないのか。ここから根本的なストーリー、それも世界観、結末の部分に触れます。この脚本はキャラクターの名前をすべて変えて新しい人物のようにしていますが、舞台を見れば叶トウマが碇シンジ、ヒナタがアスカ、エリがマリ、ナヲが渚カヲル、イオリが葛城ミサト、桜井エツコが赤木リツコ、叶サネユキが碇ゲンドウであることが誰が見てもわかるようになっています。マジで一目瞭然で、ヒナタに至っては親切にも「あんたバカぁ?」とまで言います。彼らはアニメと同じように、地球に襲来した使徒とエヴァに乗って戦います。組織の名前はNERVではなくメンシュ(mensch?)と変更されています。シンジをモデルにした叶トウマは、エヴァに取り込まれ序盤で早々に物語から失踪し、アニメのエヴァンゲリオンと同じ設定から出発する物語は、中盤から結末にかけて大きく変わります。マリをモデルにしたエリは地球環境を心配するZ世代女子なのですが、そのエリが「使徒はこちらが攻撃しなければ人類を攻撃することはない」ということをエヴァに乗って戦う最中に発見します。禅のようなポーズで心を通じることで使徒を鎮めたエリの発見はやがて仲間のチルドレンにも共有され、使徒は人間の敵ではないことが明らかになります。
実は使徒は人間が資源を求めて地球環境を破壊したために現れた自然の使者であり、人間が欲望や敵意を捨てて向き合えば心が通じる。悪の根源はゲンドウ=叶サネユキたち政府の大人であり、使徒が人類の敵であるかのように喧伝し、不必要な戦争を作り出していたのです。ミサト=イオリの反乱によってサネユキたちは失脚し、自然と調和し民主的に人々の声を聞く新しい組織が作られ、チルドレンたちは大人の抑圧から解放され、トウマはエヴァから生還し、ハッピーエンドが訪れます。舞台の中央に現れた一本の若木が、自然と調和するハッピーエンドを象徴して舞台は終わります。
「おいおい、新世紀ジブリゲリオンじゃねえか」
おそらく、多くのエヴァファンがそう思うでしょう。その通りです。この舞台、エヴァンゲリオン•ビヨンドの世界観、使徒の解釈は、完全に『風の谷のナウシカ』の王蟲や腐海の解釈と同じなのです。自然からの使徒。人間が敵意や暴力性を捨てて心を開けば分かり合えるスピリチュアルな存在。それだけではありません。この舞台には最初から最後まで何度も「もののけ姫」や「千と千尋」の主題歌のような民謡風のジャパネスク風味の歌が流れます。「あ、チョイナチョイナ〜♪」とか歌います。エヴァ感ないなあ。それはミサト=イオリの母親がかつて彼女に聞かせた歌であることがわかります。今から14年後の21世紀半ばという時代設定が全然合いませんがシェルカウイ監督は気にしないようです。4体のエヴァンゲリオンは「地」「火」「水」「風」を象徴していると劇中で説明されます。田舎、自然回帰への信仰とノスタルジー。純粋な心とダイバーシティな愛を持ったZ世代の少年少女と、欲望と資本主義にまみれた帝国主義の悪い大人。やつらを倒して作るぜ持続可能な新しい社会。新世紀エコロジーゲリオン。世田谷文化左翼ゲリオン。ぼくらの七日間ゲリオン。SDGs社会民主主義ゲリオン。

うーむ、エヴァでその路線は無理。

そういう演劇や映画があっても良いと思う。資本主義と物質文明に警鐘を鳴らし、社会問題を訴え、新しい社会の建設を訴える舞台がいくつあってもいい。でもそれはエヴァンゲリオンという作品のコンセプトと根本的に水と油です。
『風の谷のナウシカ』を舞台化します、とぶちあげておいて、「ナウシカが巨神兵で腐海をすべて焼き払って蟲を皆殺しにしたので再び人類の黄金時代が来ました。やはり科学最強!」という演劇を作るのは、作品の新解釈ではない。それは単に他人の作品を踏み台にした政治宣伝にすぎません。

シェルカウイ監督のインタビューをパンフレットで読むと、「私の演出家としてのキャリアの出発点には道徳への興味がある。エヴァンゲリオンを舞台化することは道徳と向き合い、『なにが正しくて、なにが大切なのか』を問いかけること」「大人が子どもたちに持続社会な社会を渡せていない」といった意識の高い言葉が並びます。その言葉の通り、シェルカウイ監督は新世紀エヴァンゲリオンというコンテンツを極めて「教育的・道徳的な作品」として再構成してしまっているのです。誰がどう見ても渚カヲルをモチーフにしたキャラクターである「羽純ナヲ」は、カヲルくんのあの善悪の彼岸にいるような超然とした物腰で当たり前のように碇シンジを愛する人物造形ではなく、ごく平凡な中学生として同級生叶トウマへの恋愛感情に悩む同性愛者の少年として描き直されます。同性への恋愛感情に悩み、それを乗り越えて自分を肯定する羽純ナヲの姿は確かに監督が言うように「道徳的」な多様性の物語ではあります。しかし、原作のエヴァンゲリオンであれほど奥深く生き生きとした内面を持っていた14歳の少年少女たちは、すべて道徳の教科書のように分かりやすく図式的に描き直されてしまい、逆に物語の中で道徳、善悪を観客に教えるためのロボットのように見えます。チルドレンは善。管理社会は悪。ところで綾波レイポジションはいないのか?と思うかもしれませんが、水槽の中にプカプカ浮かんでいる人工的に造られたマユと呼ばれる少女が1人、彼女は使い捨てのクローンとして作られたのですが、パンフレットを見ると権田菜々子さんというチアダンス世界大会準優勝経験者の方でした。(ツイッターで情報を頂き修正)本当に水槽に浮いているわけではなく、これもワイヤーで吊られながらの舞踊でそう見せています。しかしそれ以上の見せ場はなく、非常にもったいない。ラストでは解放されて普通に仲間たちと学校に通います。水槽に浮かぶ歳も取らない人工生命体という話だったのにラストで突然制服を着て日本語をしゃべり学校に通うというかなりの適当さです。

舞台パンフレットの中で、シェルカウイ監督は「原作を愛している、ここが好きだ」という意味のことを一切発言していません。制作発表のビデオメッセージでは「原作は好きだが、エヴァンゲリオンという神話を使って新しい物語を描く」という程度の肯定はしていたようですが、はっきり言って完成した舞台の「道徳性」を見れば、シェルカウイ監督がそもそも庵野秀明という作家の資質と根本的な思想の部分で相容れないことは誰にでもわかる、それほど真逆のメッセージを作品で発しています。というか「エヴァンゲリオンの世界からシンジを取り除いてみたかった」という発言をみても分かるように、ぶっちゃけ庵野秀明の作家性が体質的に嫌いな監督ではないかとすら思います。ついでに言えば、この舞台に対するエヴァンゲリオン公式、カラー公式の反応や応援もかなり少なく、誰が見てもアスカやシンジであるようなキャラクターたちの名前がすべて新しい名前に変更された背景にも、もしかしたら色々と意見の相違があったのかもと思ってしまうほどの大胆なアレンジでした。

百歩譲って、それはいい。押井守が高橋留美子作品世界へのアイロニーと批判を込めて『ビューティフル•ドリーマー』を作ったように、庵野秀明が嫌いでも彼のエヴァをこえる「ビヨンド」になっていれば良い。しかし率直に言って、そうなっているとは思えませんでした。

ストーリー全体の構造としても、組織の大人たちは極めて幼稚なハリボテの悪役として描かれます。これは小学生を対象としたピーターパン級のミュージカルなのか?と思うほどゲンドウ=サネユキの人物造形は類型的で粗雑です。ゲンドウのあの現実の社会を背負った冷徹な論理の凄みは消え、叶サネユキは頭の悪いブラック企業の上司のように意味不明に感情的に怒鳴り散らします。なにしろ道徳的な物語なので、悪いやつは誰が見ても一目ですべてが悪いと分かるように演出されているのです。しかしそれが本当に価値観のアップデートなのでしょうか?この舞台のストーリーは本当にエヴァンゲリオンを超えたビヨンドなものになっているでしょうか?

「ザムザは朝目覚めると一匹の巨大な毒虫になっていたが、差別はいけないので妹と仲良く暮らしました」というのはカフカのアップデートではないし、「太陽が黄色かったけど人は殺しませんでした、殺人なので」というのはカミュを超えてはいないし、「こんにちは、ラスコーリニコフです。金貸しの老婆、殺しすぎていませんか?アコムローンはあなたを応援しています」という物語は別にドストエフスキービヨンドではないのです。

↑ここまで批判的感想

長くなりました。シェルカウイ監督の悪口だけで3000文字も書いてしまいました。ふだん僕はこういう批判を書きません。創作物をボロクソにけなし、新世紀ポリコレゲリオンじゃねーかとかクソミソに言ってればまあそれはそれなりに面白いですが、そういうことをやり始めるとキリがないのであり、それよりは知られずに埋もれようとしている傑作をサルベージすることの方が遥かに優先的だからです。

ではなぜ今回書こうと思ったのかというと、上記に3000文字以上並べた脚本と思想の批判以上に、主演の窪田正孝が素晴らしかったからです。窪田正孝が演じる年長の青年、渡守ソウシというキャラクターはイオリ=ミサトとの関係を思えば加持リョウジ的な位置かもしれませんが、かつてエヴァに乗るチルドレンであったという意味では大きく違う、舞台オリジナルのキャラクターと言えるかもしれません。(ネタバレになりますが)かつてエヴァに乗り災害を招いたこの渡守ソウシが今は農作業や教師をしながら現在のチルドレンたちと関わり、そして最終的には大人でありながらもう一度エヴァに乗り、命を犠牲にすることでトウマたちは救われます。そのキャラクター造形や脚本が優れているとは特別思わないのですが、それを演じる窪田正孝の演技はとても素晴らしいものでした。

ひとつは彼の身体表現能力です。舞台『エヴァンゲリオン・ビヨンド』ではプロのダンサーたちが舞踊表現でステージで舞う演出がひとつの特色なのですが、当然のことながら演技を主体とするメイン俳優たちと舞踊のプロではダンスの技術に差があります。しかし驚くことに、窪田正孝の舞踊表現はダンサー陣に劣らないほど豊かで、美しいのです。パンフレットでも共演者たちから窪田正孝の舞踊表現に驚く言葉が並び、桜井エツコ役の宮下今日子さんは「稽古動画を見た事務所の人が『窪田さんはふだん、あの身体能力を隠しているの?』と驚いていた」と語り、霧生イオリ役の石橋静河さんも「マイケル・ジャクソン並の身体能力だ」と感嘆しています。
その通りで、例えば過去の悪夢に追われるイメージシークエンスの舞踊で、窪田正孝が尻もちをついたまま恐怖に後ずさるシーンがあるのですが、彼は音楽に合わせてまるでムーンウォークのように滑らかに後退するのです。馬のように四つん這いでムーンウォーク、という高度なテクニックは見たことがあるのですが、仰向けに尻もちをつきながら滑るようにステージを動いていく、それも音楽に合わせた舞踊表現になっているというのは初めて見ました。

もうひとつの驚きは「声」です。今回の舞台がこけら落としとなった東急歌舞伎町タワーTHEATER MILANO−Za、正直言って期待したほど音響がいいとは言えませんでした。僕の席がサイドであまり良くなかったこともあるのですが、小型マイクを使ってスピーカーからセリフが出ているにも関わらず妙に聞き取りにくい。NERVではクールだった組織の大人たちが、サネユキもエツコもイオリもやたらと怒鳴り散らす演技になったのは、クールにつぶやくようなセリフが聞き取りにくいという懸念があったからではないかという邪推すら浮かんでしまいます。イオリの「隠してたじゃない!」というセリフが「飾ってたじゃない!」に聞こえてしまい、文脈を類推して理解するような感じでした。
ただ、その中でも窪田正孝の声、セリフはものすごく聞き取りやすいのです。どちらといえばアニメの碇シンジのようにささやくオフビートな発声をしているにも関わらず、クリアに言葉が立ち上がってくる。彼の出演歴を調べたところ必ずしも舞台出演が多いわけではないのですが、非常に演劇の舞台で映える声をしてる。また演技の面でも、図式的になりがちな脚本の中でリアルでヒューマンな人物像を演じることができている。これは脚本そのまま演じるのではなく、ジャズ奏者が小さなタイミングや呼吸のアドリブに入れてずらすことで楽譜演奏を生き生きとさせるような高いアレンジ能力を感じました。

同じ公演を見てこの記事を読む観客の中には「自分の推しの演技だって良かったのに…それに、アニメと違うああいうストーリーの方が好きだよ」という人もいるかもしれません。それについては率直に申し訳なく思います。ただ、そうした別の嗜好や感想を持つ観客から見ても「窪田正孝さんは確かにすごかった」という感想は共有できるのではないでしょうか。特に僕は窪田正孝の熱烈なファンではないのですが、俳優としての彼に対する認識を完全に改めざるをえないほど高い能力を見せつけられた舞台でした。
エヴァのパイロットたちはワイヤーロープで吊られるために衣装の下にスーツを着込んでいるのですが、それを着膨れてなお(ツイッターの指摘によると、薄いスーツで着膨れはしないとのこと。パンフレット座談会でも共演者が触れていますが、窪田正孝の広い肩と小さな頭は本当にスタイルが良い)、窪田正孝の身体は手足が長く、ボクサーのように細い。いわゆる「貞本義行体型」を体現しているんですね。しかも顔立ちも堀の深くて目が大きい顔で、彼が険しい苦悩の顔を見せると非常にキリスト教的、黙示録的なエヴァンゲリオンの雰囲気に映える。パンフレットの俳優座談会の中で、ベテラン俳優の田中哲司さんが「窪田正孝くんのフライング(ワイヤーで吊られて飛ぶ)を見た時に、『これでお客さんに納得してもらえるぞ』とホッとした」という、非常に正直な感想を漏らしていますがその通りで、これエヴァンゲリオンじゃなくね?というほどストーリーを変えた舞台の中で、窪田正孝という人のエヴァンゲリオンぽさ、貞本義行感が公演全体を救っていた感があります。なんというか本当に、イエスが十字架に架けられたような苦悩と崇高さが彼のワイヤーフライングにはあった。
なので、正直言って舞台の脚本には疑問なのですが、窪田正孝の才能でねじ伏せられてしまった、見て良かったと思わされてしまった舞台ではありました。

無料部分だけで6000文字突破してしまっていますが、月額マガジン部分ではパンフレットの座談会や発言のあれこれから「この舞台、相当に出演者たちも苦労したのではないか」という推測を書きます。月額マガジンに加入すると他の記事も全部読めますので、良かったら投げ銭がわりに加入してみてください。

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