見出し画像

奥の細道でうたうブルース

転勤して2週間が経つ。職場に馴染めない。昼休みは松尾芭蕉の『おくのほそ道』を読み、江戸の俳人・芭蕉先生とランチしている。俳句を学んでみたかったというのもあるが、何より若い衆の多い華やかなオフィスで浮いていることから目を背け、浮世にとらわれない飄々とした気持ちになるのが狙いだ。午後の仕事の憂うつがちらつくのと、周囲の視線が気になって内容はあまり入ってこず、冒頭の一文を繰り返し眺めるだけになってしまうのだが。

月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり

人生は旅、来ては去る年も旅人のようなもの。そう悟った芭蕉はさらなる俳句の高みを目指すため、俳人としての名声や住み慣れた草庵を手放し、生きて帰れるかわからない東北への旅に出たという。
こうして冒頭の旅立ち準備シーンばかり読んでは集中力を切らすのを続けて十四日、ランチ仲間はいまだ旅立ち前の芭蕉先生だけだ。

今日は一人で出張だった。いつもの職場へ行かなくてよくて気が楽だ。南へ電車を乗り継いでゆく。気分は笠を被って街道をゆく芭蕉だ。雨で遠くは霞むが、山が黄に緑に桃に萌えている。はなももという濃い赤の大きい花がたっぷり咲いているのも見た。

南の果ての無人駅を降りて徒歩20分、事業所へ向かう。黒い傘を差し、小雨の降る、ひと気のない商店街を歩く。心細いので何か歌を歌うことにする。 

『スインギンドラゴンタイガーブギ』というジャズ漫画にはまっているので、ジャズの曲を当てずっぽうに歌う。主人公の女の子・とらが、身長より大きな「ウッドベース」という弦楽器を背負って戦後米国占領下の東京をさまよい、青年ベーシスト・タツジと出会うところから始まるのだが、一見脇役にみえるこの茶色く巨大な木製の楽器がとても魅力的に描かれ、音を聴いてみたくならずにはいられない。

ベースを弾くのはタツジ。とらはベースは弾けないがベースに合わせて歌う天才だった。ここでは勘で爆速スキャットを披露
タツジの音を聴いて歌いたい衝動に駆られるとら


ぼむぼむ ぼむぼむ

私が好きになったぼむぼむはこれだ、ザ・リアル・ブルース。冒頭から、五臓六腑に揺さぶりをかけてくる地鳴りでありながら軽快。音を1つずつ鳴らしているだけのはずなのに、曲を前へ前へ歩ませる推進力を放つ。歩くような四分音符のリズムはウォーキングベースとも呼ばれる。

このレイ・ブラウンという人の音が私はこの世で一番好きだ。ちなみに、なんとタツジは作中で米兵のジャズファンから「レイブラウンのはるか先を行っている!!」と絶賛されている。

ウォーキングベースを歌うと、シャッター商店街と小雨の低気圧も曲に合い、行く道のうら寂しさも愛しくなってくる。芭蕉ランチの蓄積と旅気分のせいで、おくのほそ道を行く芭蕉の足音にも聴こえてくる(こんなにグルーヴィ〜だったのかは解釈が分かれそうだが)。籠に白菜が積まれた自転車のおばちゃんとすれ違ったが、傘に隠れてかまわず歌ってしまった。

これはブルースだ。ブルースが好きだと思った。好きな詩人・工藤直子さんの詩にもブルースが出てくる。ブルースといっても色々あり、もとはアメリカの黒人の民衆歌曲を源流とするそうだが、いまは哀調を帯びた4拍子の曲のことを広く指す場合が多いそうだ。
もう一つ私の好きなブルースも歌ってしまおう、Got My Mojo Workingという曲。テンポが速いので歌えば歩みも速くなる。
(オリジナルはアン・コールというR&B歌手の曲で、有名なのはマディ・ウォーターズというブルースシンガーのテイクだが、私はエリック・クラプトンというシンガーでギタリストのがどうしても好きだ)

Got my mojo working, but it just won't work on you

まじないを覚えてきたんだが、あんたには効かないもよう

はるばる、アメリカ南部のルイジアナへ行き、恋のまじないを教わって持ち帰ってきたが、肝心の相手には効かないという。
この人も旅に出たのだ。

ちょっと共感する。私も今までそれなりに色々くぐり抜けてきて、自分なりのまじない...処世術などを少々学んできたはずなのに、転勤して新しい環境で、それらがほぼ通用せず拗ねている。また少しずつ旅をしてまじないを集め直し、使える日をじっと待つしかないのかもしれない。

さて、無事に業務を終えて帰路につく。北へ帰る列車の、奮発してグリーン車に飛び乗り、二階建ての下の階の席に座って太いかにかまを食べてくつろぐ。最寄駅に着くのは日付をまたぎそう。
夜の電車ではNight Trainという曲を聴くと決めている。これもレイ・ブラウンが参加する、ジャズのブルースだ。夜行列車なのでエネルギーは抑え、着実に乗客を運ぶ印象を受ける。窓から見える湾沿いの電燈のような、オスカー・ピーターソンのピアノがきらびやかだが、エド・シグペンのドラムが折り目正しく職務を遂行、カーテンを閉めて光を漏らさず乗客を起こさない。起きている私だけはレイ・ブラウンのぴんと張って飄々としたソロを聴く。笑ってしまう、魂が浮き上がってしまう。浮世はいったん置いておく、もう全部へっちゃらな気がしてくる。

こうしてブルースを聴いて元気になるのもひとつのまじないだろうか。今日はよく効いた。特に、ぼむぼむ、この大きな木をくりぬいた楽器の鼓動は、ふらつく私を呼びもどし語りかけ、遥か続く細道を歩ませるようだ。



いいなと思ったら応援しよう!