「どうすれば?」は「やっといて」-言葉を曲解して受け取ってしまう親の話-
むむです。
今回は、母の「言葉の受け取り方」の話をします。
母の曲解癖
幼い頃からですが、母は家族に限らず、人の話を拡大解釈…と言うか、勝手にズレた方向へ受け取っていました。
今回の漫画であるように、自分むむは「どうすればいいか」というように「方法・やり方」を聞いているのに、なぜか母は方法・やり方を説明するのではなく、それを実際にやり始めてしまいます。
やりながら教えてくれる、というならまだいいのですが、母は当然そんなことはしません。
面倒くさそうに(時にそれを恩着せがましく口にしながら)、たいていはいら立ちながらやります。
こちらは自分でやるつもりで聞いたつもりなのに、不機嫌になりながらやられるものですから、感謝よりも困惑や不快感の方を強く覚えてしまいます。
とは言え、当然その不快感を伝えることはできません。
聞いている事案に着手している時点で不機嫌になっている母ですから、そこで「やらなくていい、教えて」とか「やって欲しいなんて言ってない」などということを口走れば、「せっかくやってやったのに!」とキレられ、最悪暴力を振るわれることが容易に想像できるからです。(一度やって蹴られたことがあります…)
こういう場合、不機嫌なままやってもらい、完了したら刺激しないように黙って早々に距離をとるのが最善です。
うっかりお礼など言ってしまうと、母は怒り狂って暴言、最悪暴力を振るってきます。
(もっとも、「やってやったのにお礼もなしか」と怒ることもあります。けれど、こちらがすすんでお礼を言うときの方が優越感が大きいのか、被害が大きいので、求められるまでは刺激しないようにします。どちらにしろ、母が怒っているという点において変わりはありませんから。)
そして、ことが完了した時の状況にもよりますが、「お前はどうしてこんなこともできないんだ」「わたしがあんたの年齢ならもうできていた」「あんたのためにこんなに時間を費やしたんやぞ」「役立たず、無能」「甘やかされすぎなんじゃないか?(誰が甘やかしているかについては一切触れない)」などと、ネチネチ責められます。
これは、お礼を言ってしまった時にもあります。
こっちはやり方を聞いただけなのに、勝手に着手されて感謝を要求されてネチネチ責められてもううんざりです。
極めつけに、結局残るのは説明なく着手されたため、母の言う通り「できないままの無能な自分」だけ。
母の曲解癖によって習得したもの①「曲解癖」
とは言え、それを指摘すると暴力を振るわれる可能性が大いにあるので、指摘はできません。
そのため、こちらは母が「どうすればいいか」を「やっといて」と曲解する前提で話をしなければなりません。
気を遣って「ここはひもをこう通すので合ってる?」など、聞き方を変えたり(これでも「貸せ!」と着手されてしまうことがあります)、面倒くさくなってそもそも母に聞かない、という手をとることになります。(その場合は兄や姉、父に相談することになります。それでもわからない場合は結局母に聞くことに…)
やがて、母に気遣うことで、母のやる「言葉の悪い受け取り方」をいろいろ(望まずして)知ることになり、人の発する言葉を悪く解釈することが容易にできるようになりました。
「あれ?今のって問題なく会話が終わったけど、もしかしてこういう意味だったんじゃ…」
「さっきの言い方って『お前が悪い』って言いたいのかな…」
「あれは皮肉で馬鹿にされたのでは…?」
相手は裏なく素直に伝えてくれたことを、こちらが「悪意があるかも」と解釈をするものだから、こちらは相手を信用できなくなり、相手にもなぜかわからないけど好かれていないということだけは伝わってしまい、最悪会話が成立せず、仲良くなれたはずなのに疎遠になる…ということも。
幸い、自分は出会う人々に恵まれ、その曲解癖に自分で気づくことができ、今は意識して額面通りに受け取るようにしているため、人付き合いが以前よりずっと楽になりました。
母は気づかないまま、「あの人がこう言ってた。ハッキリ言っていないけどこういう意味に違いない。あの人は絶対わたしのことを忌々しく思っている」
「あの人がわたしに何も言ってこないということは、わたしのことを悪く思っているに違いない。何様なのか」
とずっと疑心暗鬼になって、
「わたしは嫌われ者なんだ、みんなわたしのこと嫌いになるんだ!わたしってかわいそう!」
とわめいていました。
(今はどうなっているかは知りません)
母の曲解癖によって習得したもの②「聞かないクセ」
また、自分が挑戦しようとした機会を奪われ、できないことや知らないこと、母の時間を費やしたことを責められ、「全部自分が悪いんだ」と刷り込まれた自分は、「人に聞くのはその人の邪魔をすることになるから悪いことなんだ、全部生まれつき知ってなくちゃいけないんだ、だから自分はだめな存在なんだ」と、教えてもらってすらいないのに、できないことで自分を責め、人にわからないことを聞くことが長らくできなくなりました。
そして、学校で一人だけ学習の進行が遅れたりして、「なぜ聞かないのか」「聞かないなんて、やる気がないのか」と今度は教師から責められることになります…(なお、やる気はありませんでした(笑))
これも、成長するにつれて、考えを改めました。
「お腹がすくという感覚」「排泄の仕方」「まばたきの方法」といった本能的なことならまだしも、靴ひもの結び方?汚れの落とし方?アイロンの使い方?縫い方?
そんなこと、生まれつき知っているわけがないです。
むしろ、教わらなければ、聞かなければ知ることはないですし、できるようになるはずもない。
人の邪魔になる、時間を無駄に費やさせてしまうのが申し訳ないと思うなら、先に「時間ありますか」などと聞くのがいいですね。
急いでいる、邪魔だと思う人は断るので。
母のように、自ら動いておきながら怒り狂う人はそうそう、うじゃうじゃはいなさそうだと気づいたので、ちょっと気が楽になりました。
もちろん、いまだに聞くことで「責められるかもしれない」という恐怖はなくなっていませんが、過去に比べるとまだましになりました。
母が曲解したわけを考える
そもそも、「どうすればいいか」と聞いたのにやり始めるなんて、会話が成立していません。
一体どうして、そんな曲解をするようになったのでしょうか。
あくまで想像ですが、考えてみました。
①母の中で子どもの成長を認められない
もしかすると、記憶もないほど幼い頃に、母に対して「これどうするの~?やって~!」とねだっていたのかも知れません。
そして、それが板についてしまった母は、「これどうするの?」と言われるだけで「やって」の意味だと受け取ってしまい、やってしまうのかも知れません。
それは、母の中で自分むむが、いつまで経っても「やって~」とねだっていた頃と同じ幼さであると思い込んでいるためです。
4人も育てている忙しさや、本人の内面の余裕のなさから、子どもが成長してもそれを認められないことがあるのかも知れません。
②教えられないからやるしかない
以前の記事でも何度か書いたように、母は子どもに「教える」ということを(おそらくは「できない」のだと思いますが)しません。
なぜ教えないか、についてもいろいろ考えられます…言語化できない、面倒くさい、間違っているかも、と自信がない…などなど。
「教える」というのも一つのスキル。
みんな教えるのがうまいわけではないです。わかるように説明するというのはなかなか難しいことなので、母がやりたがらないのもわからなくはありません。
が、言われた側としてはとても雑だと感じます…
ともかく、そうして教えることができなかった母は、もうやって「見て覚えろ」スタンスで行くしかなかったのかも知れません。
(もっとも、本当にそのスタンスなら「見て覚えろ」や「こうやってやるんだ」の一言ぐらい言って欲しいところですが…)
③教えたくなかった
残念ながら、あるかも知れません。
母は、あらゆることで教えることはありませんでした。「どうするの?」と聞いても、今回のようにやってしまうか、「普通にやればいい」と言うだけ。
「普通にやれ」でわかる、できるようになる人、いますか?
まあ、エスパーならあり得ますが、エスパーなんてそうそういないと思います。(「そうそう」どころじゃなくいませんね…)
いるとしたら、それ、わかってる人です。言われなくても「普通にやる」と思います。
つまり、わかるわけがない返事で済まそうとしているのです。
そして、「やってしまう」というのも、「こうやるんだよ」というような言葉もなければ、ただただ面倒くさそうに、うっとうしそうに(時にそれをはっきり口にしながら)、こちらを気にすることなく、なんならこちらに手元を見せることもなくやっているのを思うに、習得させるつもりではやっていなかったのではないかと思います。
要するに、先ほどの②と違い、こちらは「故意に」教えないのではないか、という予想です。
理由はとても簡単です。
母が子どもより優位に立ち続けるために、子どものできることを増やさないためです。
母は常に自分より格下の存在が欲しいのです。
子どもがいろいろできることが増えて自立していくのは、子どもをサンドバッグのように都合よく加害し、見下すことで精神を保っている母にとって恐怖そのもの。
できるだけ自立できないように、「お前は無能だ」「役立たずだ」と言い含め、洗脳し、自ら母のもとを去ることがないように仕向けています。
そのために、教えを請うた子どもに教えず母自らやってしまうことで、子どもの挑戦する機会をつぶし、追い打ちのように「なぜこんなこともできないんだ」「人の時間を費やしやがって」「無能、役立たず」と責めたりマウンティングをすることで、自立心や挑戦意欲を削ぎます。
もし、この想像が合っていたとしたら、母の期待通り、自分は長らく人にものを訪ねることができずに落ちこぼれることになりました。
そして、落ちこぼれたことをさらに責めることで、一層自尊心を失わせ、母がいなければ何もできないようにして、依存させようという、とても賢く、計画的で、そのために精神を殺される側からすると卑劣で最低な、生存戦略です。
④面倒くさかった
一番ありうるかも知れません。
ただ面倒だった。それだけです。
母はたずねられて、「むむ(実際にはむむに限らず子ども)の相手をするのは時間がもったいない、損をする」と感じたのかも知れません。
だからその損を最小限に抑えるために、教えることもなく、とにかくやってしまって早く終わらせたかった、という可能性があります。
かなりその場しのぎな対応ですが、もっとも可能性が高いと思います。
それならその後にネチネチ言うのは損じゃないのか、と思いますが、それは損じゃないのです。
「できる自分」と「できない子ども」の対峙になった時に、頼まれて『やらされた』という被害者意識と、『相手が無能』という優越感が組み合わさると、とても加害欲がわくのです。
被害者の立場から、相手のダメなところを指摘し、責めたて、自信をなくさせ、自分の方が上であると見せつけるのが、母は快感なのでしょう。
(でもこれは強弱あれど、誰でもそうでしょう…)
そのため、見た目いら立っていますが、ネチネチ責めるのは母の精神衛生上とても有意義と言うか…麻薬的な、至福の時間なのだと思います。
これもまた、その場しのぎ的な、衝動的な行動だと思います。
本人の中では矛盾しない
様々な想像をしましたが、どれであっても、またどれでもなくても、母の中では母なりの思考パターンがあり、矛盾していないはずです。
この件に限らず、先述したような、悪意のない言葉すら
「あの人がこう言ってた。ハッキリ言っていないけどこういう意味に違いない。あの人は絶対わたしのことを忌々しく思っている」
「あの人がわたしに何も言ってこないということは、わたしのことを悪く思っているに違いない。何様なのか」
というように悪く解釈してしまうのも、母の中では人道的かどうかはともかくとして、ちゃんと理論があるのでしょう。
自分の場合は、根本に自分自身に対するいわゆる無価値感が揺るぎなくあり、そこから「自分が良く思われているはずがない」という思考になり、他人の言葉を悪い方向へ曲解するというパターンが多かったです。
けれど、その思考を一瞬で、無意識にやってしまうため、「どうしてそう思ったのか」という理論を言語化するのは「無価値感のある自分」を知る必要もあり、時間がかかりました。
曲解されることを理解しなくていい
とは言え、もちろんそんなことは他人には関係ありません。
他人にはそんな本人にしかわからない理論なんて知るよしもありません。
推しはかる義理も何もないでしょう。それでいいのです。
たとえ産んだ母でも他人です。そこまで汲もうとしなくていいと思っています。
それで会話が成立せず、決裂したとしても(しましたが)、それはそれで、合わなかったのです。そういうものでいいのだと思います。
何より、決裂して連絡を絶ち、母の曲解に付き合わなくていい今は、とても気が楽です。
「産んだ」「産んでもらった」「先に産まれた」ということだけで、嫌がらせのような言葉や行動(時にそれは暴言や暴力)に耐えて、気を遣うことに疲れながら嫌々付き合わなければならないとしたら、それは自分から見ると家族の絆ではありません。呪縛です。家族という名の鎖でしかありません。
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