死後を思う-死ぬとはどうなることか具体的に考えた話-
むむです。
今回は、前々回の続きとなります。
思い詰めていよいよ喘息の発作を起こしましたが、両親は変わらず愚痴と暴言・暴力を使って負の感情を我々双子に吐き出し続けます。
自分も「心の病気」と母から言われたものの、だからどうということもなく、何も変わらず自分を責め続けていました。
異変は続く
前々回の喘息の発作以降、自分むむは自責の念に駆られると、今度は胸ではなく利き腕に鈍痛が走るようになりました。
何がどうしてそうなるのかまるでわけがわかりませんが、ともかく胸は痛まなくなりました。
ただ、利き腕なので、痛みを感じる間はペンの動きがとても悪くなる(場合によってはペンを持てなくなる)こともありました。
そして、何もせずにぼーっとしている時間が増え、ぼーっとしているだけなのに涙が出てくるようになりました。
この頃にはもう、痛みが出ても涙が出ても、自分に対して激しく憎むことはあまりなくなりました。
どちらかというと、もうそんなエネルギーもない…という感じでした。
ただ「自分はいなくなった方がいい」「自分がいるだけでお金がかかる」「消えてしまいたい…」ということだけをぼんやり思う日々でした。
「死んでしまいたい」から「死ぬとどうなる?」へ
そこで転機が訪れます。
父が見ていた地学系の番組で、太陽系の最期を予想していました。イメージ映像に、膨張した太陽の光の中に地球が消えていく様子が描かれていました。
「地球ってなくなるんだ…」
本を読むのが苦手だった自分むむは、学校の授業で図書館で本を読まねばならない時も、地学系、生物系の写真がたくさん載っている文字の少ない本をずっと読んで…いやもはや「見て」いました。
そのため、「星はいつか死んでしまう」ということは頭ではわかっていました。
けれど、自分むむが今いる、暮らしている地球もいつかなくなることを想像したことはなかったのです。
今いる地球がなくなるということは、みんな死んでしまうということだと、すぐに連想できました。
そして、みんな死んでしまうということは、自分も死んでしまうということでした。
そこでようやく、自分むむが「自分なんて死んでしまえばいいのに」「消えてしまいたい」と思っていたこととつながります。
「じゃあ、死んじゃったらどうなるんだろう?」
「死ぬってどういうことなんだろう?」
何か月も「死んでしまいたい」「消えてしまえたらいいのに」と考えていた頭でしたが、今度は「死んだらとうなるか」「死ぬとはどういうことか」をひたすらに考えるようになります。
毎日毎日、今まで希死念慮にとらわれていた時間は、すべて「死ぬとは何か」を考える時間になりました。
死を想像すると湧き上がる感覚
死ぬというのは、身体を失うことだ。
目がなくなるから、見えなくなる。
耳もなくなるから、聞こえなくなる。
口も鼻も、手もなくなるから、においもわからないし、息もできなくなる。
心は…わからない。でも、脳もなくなることだから、少なくとも考えるってことはできなくなると思う。
とりあえずわかりやすいところで、そこまで考えました。
そこまで考えたところで、「それってどういう感じなんだろう」と疑問に思います。
じゃあ、ちょっとやってみようと思い立ちました。
「やってみよう」と言ったって、ここまで思い切ることのできなかった自分むむです。
本当に命を絶つことは考えませんでした。
疑似的にその状態を再現してみよう、というとても平和的(?)で単純な考えでした。
目を閉じ、腕で目をおおって、光や色が見えないようにします。
耳は耳栓をつけて、なるべく音が入らないようにしました。
鼻はつまみ、口は閉じ、息を止めます。
そして一番難しいですが、なるべく考えることをやめて、頭をからっぽにします。
そうしたら、これが永遠に、終わりなく続くと想像する――
そこで、ぞわっとした感触が自分の中から湧き上がるような感覚を覚えました。
今までにないその感覚に、これは一体なんだ?と驚きながらも気になりました。
いつか、自責の念に駆られる時に感じた胸の痛みに安堵を覚えていたように、湧き上がって来るぞわぞわした感覚に生きた心地を感じたのかも知れません。
ともかく、そのぞわぞわした感覚を確かめようと何度も何度も同じことを繰り返しました。
死への恐怖を自覚する
そして、何度も繰り返しているうちに、やっとわかってきました。
これは「恐怖」でした。
目や耳をふさぐことだけではぞわぞわした感覚はあまりないのですが、それが「永遠に、終わりなく続く」と想像した時にその感覚はやってくるのです。
そこから、死んで五感や思考、呼吸が「永遠に」失われることへの恐怖だと、自分むむは結論付けました。
同時に、自分は「死んでしまいたい」「消えてしまいたい」と思っていたけれど、実際には、本能的にはそれを「怖い」と思っていたことを自覚したのです。
すると、今まで「自分が生まれたせいで…」「自分が生きているせいで…」と気に病んでいたのが、すっと落ち着いたような感覚になり、
「自分は怖いと思ってるんだな…じゃあ、やめよう」
と思うことができたのです。
ここで言う「やめよう」とは、具体的に何をやめようと思ったのか、自分でもよくわかりません。
ただ、とにかく自分に直接関係のないところまで自分のせいだと自分を責めるのはやめるようになりました。
なんとなく、自分のせいだ、自分が生きているせいだと考えていたことが、どうでもいいような気持ちになったのです。
そうすると、自然と涙が出たりぼーっとすることが減っていきました。
また、この頃から徐々に成長期に入り、身長が伸びて母と同等ぐらいの体格になったせいか、母からの暴力が圧倒的に減ることになります。
暴言や愚痴は変わりませんので、飛躍的に精神的に楽になるわけではありませんが、発作を起こすまで思い詰めることはなくなりました。
現在も希死念慮はなくなりませんし、思い詰めると利き腕に鈍痛が走るのは変わっていませんが、この時におこなった「死を想像する」という行為は、この時以降やってはいませんが、自分にとってとても重要で、「死にたい…」と思いはしても、死を実際に選ぶ可能性を限りなく下げています。
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