一緒に行動当たり前‐感情と態度が瞬時にコロコロ変わる話‐
むむです。
今回は実家を出ることになる2、3ヶ月ほど前のエピソードを描きました。
すでに自分は母に対して違和感を強く覚えており、そのせいかわかりませんが、母からの束縛や暴言などが特にひどくなっている頃でした。
具体的に言うと、遠回しでなく明確に死を要求してきたり、こちらの返答のすべてに対して「お前は○○だ」といった感じで舌打ちと人格否定の言葉を投げてきていました。
(この漫画を描いているといつも人格否定ばかりしているように見えますが…)
また束縛としては、「一緒に行動しようとする」傾向がとにかく強く、思考・意見が母と同じでなければ、今回のように大げさに騒いだり、これまた人格否定や拳を見せつけての脅迫をされるようになっていました。
(脅迫は、母にとっては冗談のつもりのようでした)
漫画でなんともなさそうなのは、それが「常」になっていたからです。
虐待が日常になるとマヒする
幼い頃から、当たり前のように虐待を受け続けていると、それが虐待であるということに気づけません。
被害者本人にとっては、それが当たり前の風景で習慣になっているからです。
加害者本人…ここで言う親は、「傷つけざるを得なかった」「こうしなければならなくした子どもが悪い、被害者は自分だ」という思考になっているので、家庭内では誰一人として、「これが虐待である」という意識を持つことができません。
TVで虐待の話題が出た時も、虐待している親と虐待されている子どもが「ひどい話だね」などと会話することが普通にありました。
まさにここにその虐待があるのに…
当時もまさに、母から受けていたことを虐待だと気づいていませんでした。
母の言動や行動に対しては、「最近なんだかテンションが高いな」「物言いがきつくなったかな」「なんとなく変だな」ぐらいしか思っていませんでした。
ただ、なんとなく母に対してうっとうしさを感じていて、「別々に行動したい」とも思い始めている頃でした。
目まぐるしく変わる態度・感情
こういった母のような、叱責によって他人をコントロールしようとする人によくあるパターンですが、「こちらの対応一つ一つで、言うことや態度、感情がころころ変わる」というものがあります。
今回で言うと、「気をつけて帰って」と言うと「疲れたからもう帰ろう」とだだをこね始め、
「先に帰って」と返すと「もう知らん、帰る」と突き放すような態度になり、
「好きにしなよ」と返すと「馬鹿にしてるのか」と威圧的に怒鳴り始める様子です。
こちらの一言一言で、先ほどのは何だったのかと思うほど、目まぐるしく態度が変わっているのがわかります。
これは、「相手の感情を揺さぶろうとあの手この手を尽くしている」のです。
まず、大騒ぎし、だだをこねることで、困らせて言うことを聞かせよう、という魂胆です。
それでこちらが動じなければ、次の手段をとります。
母や、こうして他人をコントロールしようとする人は、目的を達成する手段として、態度だけでなく、感情すら一瞬で変えることができます。
母は次に、突き放す態度をとりました。
とても典型的な、「だだをこねる・頼みこむ(下から目線)」からの、「突き放す(上から目線)」というパターンの態度・感情の豹変です。
(上から→下からの逆パターンもよくあります)
これによって、依存している相手を不安にさせようという考えがあります。
重度に精神的な依存をしていれば、ここで「見放される、捨てられるかも」という思考が働き、不安になり、相手の言うことを聞くようになるのです。
これを、母のように他人をコントロールしようとする人は、無意識に計算しています。
この能力を他に生かせばいいのに…
そして、それでも動じないとなると、再び最初に戻ってきます。
彼らの対応は波のように、上からと下からを行き来します。
そうしてあの手この手で言うことを聞かせようと揺さぶって来るのです。
今回の母は、どうやらここであきらめたようでした。
激怒し、怒鳴りつけながら、最初の要求を捨てて、一緒に見て回ることを選びました。
母はとても嫌…と言うか、シャクだったでしょう。
「どうして自分がむむの言うことを聞かねばならないのか」と思っていたと思います。
一緒にいるのは当然?-母の思考予想
別に一緒にいる必要はありませんでした。
母は帰りたい。むむはもう少し見て回りたい。
ならば、別々に行動すればいいだけの話でしたし、むむはそれを提案していました。
でも、母はそれを許せなかった。許さなかった。
一体なぜなのでしょうか?
もちろん、はっきりしたことはわかりません。むしろ、本人すらわかっていないと思います。
そこをはっきり意識して言語化できていたなら、態度がころころと豹変することはなかったでしょう。
むむにその理由を話せばいいだけですから。
ここで、その理由を少し考えてみたいと思います。
母の目的
母にとっての目的は「むむと一緒に行動すること」でした。
最終的に行きたくもないのにむむに同行することにしたのは、それが最も譲れない事項だったからです。
しかし、それだけが目的であれば、態度をころころと豹変させる必要はないはずです。
ということは、もともとは「むむを自分について来させること」が目的だったのでしょう。
もっと言えば「むむを自分に従わせること」こそが目的であったと、自分は考えています。
なぜかと言うと、母がむむと見て回ることを決めた時、母は激怒して怒鳴っていました。
単に一緒に行動することが目的なら、怒る必要はないはずです。
過去の記事でもわかるように、母はむむのことを自分より格下で、どれだけ殴っても自分に決して逆らわず、自分の一部のように、意のままに動くべき、都合のいい存在と思っていました。
その格下の存在が、自分の言うことを聞かずに、自分のテリトリーから出て行動しようとしている。
母は人間関係を上下、主従でしか考えられないため、とても許せるものではなかったはずです。屈辱的ですらあったでしょう。
だから、母は態度をころころと変えて意見を自分の意向に寄せるように仕向け、また激怒して「お前は自分より下だ」ということをむむに見せつけたかった、思い知らせたかったのだと思います。
母の恐怖
この、態度がころころと豹変したり、うまくいかなければ怒鳴り散らし、それでもなお、むむと一緒に行動しようとすることの本質は何なのか、考えました。
母は、むむを失うのが怖いのではないでしょうか。
むむが、自分の知らない一面を持ち、自分の知らない人間関係を持ち、自分の知らない世界を持ち、自分の手元、自分のテリトリーから離れて自立していくことが、母は怖くて怖くて仕方なかったのです。
だから、むむが自分の意向を汲んでくれなくとも、絶対に監視下に置きたかった。
そのために、むむが街を見て回るのに怒鳴りながらついてきた。
厳密には、むむである必要はありません。ななでもいいですし、ななでなくてもかまいません。
ただ自分のことを常に想い、常に支え助け、常に寄り添ってくれる(暴言暴力を受け入れ、逆らわず、無条件に肯定してくれる)人が欲しかったのです。
けれど、無条件にそんなことをしてくれる人はいません。「親」でもない限り。
だから、母は生存のために慕って来るむむやななを「親」にしようとしたのです。
子どもに親を、無条件の愛情を求めたのです。
「あなたは生きているだけで尊いのだ」と、母自身に思わせて欲しかったのでしょう。
子どもに「親」になってもらうために、母自身の「大人」「親」という属性を使って、虐待し、洗脳し、束縛し、子どもが自分のそばから離れないように仕向けました。
先ほども書いたように、この時すでに自分むむは母と別行動をとりたいと思い始めていました。
母は、そのむむの母に対する「うっとうしさ」や「別行動をとりたい」という感情を、言葉の端々や声色、仕草などから敏感に読み取り、察知していたのだと思います。
だから、この時期母からむむへの当たりがとてもきつかったのです。
むむが母から自立するのを防ぐために。
母の親になってくれるべき存在を手放さないために。
明確に死を要求するなど、ありえないほどの熾烈さは、母の恐怖の表れです。
むむやななの自立は、母にとっては母の孤立を意味していたのです。
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