どうせ無理‐学習性無力感というものを知った話‐
むむです。
突然ですが、「学習性無力感」という言葉をご存知でしょうか?
最近知った言葉で、調べてみると身に覚えしかなくて驚きました。
学習性無力感とは、詳しくはGoogle先生に聞いていただくとして、簡単に言うと…
逃れられないストレスに長期間さらされ続けることによって、「自分の行動で物事の結果を変えられる」ということを信じられなくなり、ストレスに抵抗する気力を失い、やがては生きることそのものに対して無気力になっていく
というものです。
家庭環境だけでなく、職場環境によっても起こります。
理不尽な扱いを受け続けなければならなかったり、何度行動しても結果が出なかったり、などなど。
自分に当てはめると…
何をしてもしなくても、親の機嫌一つで殴られたり罵倒されたりするので、自分がどう行動しようが主張しようが抵抗しようが、被害はひどくなる一方。
じゃあもう行動するのも主張するのも抵抗するのも考えるのも、何をしたって無駄だな、とあきらめてどうでもよくなる状態です。
今回は、その「学習性無力感」を感じていた幼い頃のエピソードを漫画にしました。
「どうしたいか」よりも「どうすれば否定されずにすむか」が優先
これは学習性無力感とは少し違うことですが、
漫画の中では親や教師などから「将来の夢」や「就きたい職業」を聞かれるシーンを描いていますが、この類の問いに関わらず、大人からの問いかけというものに、いつも自分は困っていました。
「困る」と言うより「緊張する」の方が正確でしょう。
自分はこういった「どうしたい?」という問いに、「聴いてきた大人がどんな答えを望んでいるか」を汲むことに必死になるからです。
この記憶よりも幼い頃から、ずっと親の機嫌一つで殴られていた自分は、「大人の望んでいる答えを提供しなければ否定される、殴られる」という感覚がすでに染みついていて、自分が実際にどうしたいか、などということを考える余裕はありませんでした。
当時はすでに人見知りがひどく、同時に心を開ける大人もおらず、頼れる人もいません。
そもそも、怒鳴られたり殴られたり、親が怒る時は「自分が悪いんだ」と自分を責めていたので、誰かに頼ることはありません。
その状態で、現在接している親含む大人に嫌われる、否定されるということは、捨てられるかも知れないということです。
それはつまり、幼い自分は生きていけないということでした。
こうして幼い頃から「安心」とは程遠い精神的環境でいたので、大人に気に入られるように、自分の意志を捨てる・殺す・考えないのは当然でした。それが生きていく唯一の方法だと信じて疑いませんでした。
親や大人を喜ばせて、生き延びることが当時の人生では最優先だったのです。
実際に自分自身はどう思っているのかを考えることは無意味で無駄でした。
そんなわけで、自分は「どうしたいか」よりも、「どうしたいと言えば怒鳴られずに、殴られずに、否定されずにすむか」を全力で考えていました。
相手のニーズをくみ取ることはとても大事なことですが、これはビジネスシーンではなく、幼稚園児の日常です。
実際どうなるかわからない、まだ現実感のない遠い先の話ですらこの身構えっぷりなので、幼い子どもとしては不健康ですね…夢すら制限してしまう…
言葉とは裏腹の無力感
そして、いよいよ学習性無力感の話になります。
こういった問いの際には、何かしら、親含む大人の受けの良さそうなことを言いますが、内心では全然思っていなかったりしました。
そもそも、親含む大人に迎合する生き方をしているので、自分のことを自分のこととして捉えられません。
加えて、毎日のように怒鳴られ、殴られて、「無能」「役立たず」「金食い虫」と刷り込まれて、その度に自分を責めていたこともあり、自分にまったく期待できません。
結局、絵を描くのは好きだったけれど、「絵を描く職業に就くのはどうせ自分じゃ無理」と思っていました。
この頃は幼く、「無力感」なんて言葉はもちろん、漫画の中のような「どうせ無理」といった言葉すらまだ知りませんでした。
ですが、
・自分にまったく期待ができない絶望感。むしろ漠然とダメな予感しかしない。
・あきらめ感が強すぎて、もはや「どうでもいい」「面倒くさい」とすら思う感覚。疲れきった感じ。
・何なら他人事にすら感じる感覚。
今振り返ってあの感覚を表現すると、「どうせ無理」です。
今思うと、幼稚園…つまり4~6歳の時にはすでに学習性無力感を獲得(スキルか)しているというのは、幼い頃に持つ好奇心をどんどん自分で破壊してしまうため、何と言うか、とても危ういことなのではないかと思ったりします。
自らの可能性と選択肢をどんどん狭めてしまう…
今も続く「どうせ無理」
さらにおそろしいことに、この感覚は今でも続いています。
もはやそういう考え方のクセがすっかり板についてしまっているので、「どうせ無理だ」に理由を付けるのももはやプロレベル(自慢できない)。
自分で意識しないと、超自然にあきらめてしまえる。なかなかに厳しい。
意識しても、今のところ、この学習性無力感の克服方法は確立していない(少なくともお薬で治せるようなものではない)ようで、かなり地道に自己肯定だの当たって砕けろだのやっていかないと、すぐに打破するのは難しいみたいです。
(金銭的に余裕があるなら、カウンセリングで認知行動療法とかあるみたいです…詳しくはGoogle先生に聞いてください…)
「どうせ無理だろうな」→一応挑戦してみる→失敗→「やっぱり無理だったな」
or
「どうせ無理だろうな」→あきらめる→「挑戦することすらできないんだから、自分は本当にダメなやつだ…」
これをめちゃめちゃに繰り返してきたので、実は何か結果を出せていたとしても、あまり意識に上らない、というか気づけない。
結果を出せたことに気づいても、「まぐれだ」「運が良かっただけ」「収入につながっていないから無意味」など、自分の実力を信じられません。
他人に「いやいやあんたの実力だよ」と説明されても、言葉の上では理解できるのですが、いまいち実感がわかないし、自分のことと思えない。
現実味がないので、自信を持てと言われても、どうすれば…?という感じです…
結局自分の中では失敗(=自分には無理、という)経験だけが明確に積まれていって、すごくもったいないことになっています…
けれど、最初はそんなものかも知れません。
結果を出したという事実自体は残るので、それを繰り返しているうちに本当に少しずつ、自分のやりたいことや生かせることがつかめてくるのかも知れません。
まだちょっとわかりませんが。
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