わざとらしいうたた寝‐察してもらおうとする親の話‐
むむです。
今回は、毒親による加害の話ではありません。
母の「人に頼まずにアピールによって相手を動かそうとする」姿を漫画にしました。
今回の漫画の場合だと、母の言いたいことは「洗い物をしろ」ということです。
母はいつもこうして、自分がいかに疲れているかをアピールすることで、周りの人間が自然と「休んでていいよ、洗い物やっておくね」と言うように誘導します。
特に、母の動向をつぶさに見て、意向を汲み取り、見捨てられないようにと顔色をうかがうことで生き延びてきた我々双子は、今回の漫画のような行動が何を言いたいのか、即座にわかるように教育されていました。
そのため、この行動が「洗い物をしろ」という主張であることはすぐにわかっていました。
が、それにしても、あまりのわざとらしい行動や言葉に気持ち悪さを覚え、この時はだいぶ引いてしまったのです。
わざとらしい違和感
漫画だけを見ると、特に1ページ目は違和感がそこまでないのではないかと思います。
食後にうたた寝をすることも、目が覚めて「寝てしまった」と照れたように言うことも、誰にでもあることで何もおかしなことではありません。
では、当時の自分は何に違和感を覚えたのでしょうか?
それは、
「眠い」と言った直後にうたた寝を始める様子や、
うたた寝で横に身体が揺れ始めたな、と思ったらそのまま体を床に叩きつけるように勢いよく倒れ込む動作、
さらにうたた寝から目が覚めたばかりなのにハキハキした「寝てしまった」や「はぇ?」といった声など、
そういった、普段の母とちょっと違う大げさなテンションや行動、言動の一つ一つに、「わたしに注目して欲しい」「察して欲しい」というわざとらしさやあざとさを感じられたのです。
それが違和感の正体でした。
特に、うたた寝したまま倒れるのには自分でわかるほど引きました。
うたた寝をしたまま床に倒れ込む人を見たことは、他にないからです。
本人は自分の身体が床に叩きつけられて初めて目が覚める、身体が傾いた時点では目が覚めない、というのが想像を超えていて、「そんなことってあるのか?」と信じられない気持ちになったことを覚えています。
なお、「もしかして、眠気をがまんできない病気なのでは?」とも思いましたが、この時も結局寝ていませんし、そういうわけではなさそうです。
いら立つアピール
この時も、本来なら、「洗い物をして欲しい」と言えば済むことでした。
(そもそも頼まないとしないのか、と思うところでもありますが、以前の記事にもあるように、勝手にやるとお礼を言われるどころか、ものすごく謝られる、もしくはダメ出しをされまくるので、気が進まなくなっていました。)
母は人に対してお願いや頼むということができないため、こうしてわざとらしくうたた寝をしたり、ため息を見てもらうためにたくさんついたり、これ見よがしに頭を抱え続けたり、「熱でもあるのだろうか」と何度も申し出てきたりと、アピールすることで相手から「やろうか?」という申し出をしてくれるように求めているのです。
それ自体は悪いことではありません。
アピールがうまければ、相手にいら立ちや違和感を覚えさせずに、うまく事が運ぶこともあるでしょう。
ですが、それはアピールがうまい上に、お互いに対等な信頼がある場合です。
アピールがわざとらしい上にそれまでに信頼関係が崩れていれば、いら立ちもすれば違和感もあり、嫌な感じしかしないでしょう。
しかも、わが家のような主従関係で、嫌な感じがしても拒否権がなく、拒否すれば暴力と暴言を言うことを聞くまで(言うことを聞いても)浴びせられる関係でしたら、いら立ちや違和感はひとしおです。
「いら立ち」という言葉では収まらない、憎悪に近いかも知れない嫌悪感に見舞われることもあります。
ああ気持ち悪い…
こういう構図の場合、むしろ上の立場にいる人間は、うまくアピールする必要すらありません。
相手に何をして欲しいかが伝わればいいのですから。
なぜ頼めない?
母がなぜ人に頼めないのか、なぜわざわざアピールと言う方法をとるのか、理由を少し考えてみました。
①嫌われたくない
シンプルにありそうな話です。
頼んだことで、相手の気に障るのではないかと気にするパターン。
「なんでこんなこともできないの?」
「こんなこと頼んで来るなんて、迷惑なんだけど」
「人に頼むなんて、甘えなんじゃないの?」
こんな感じの言葉が返ってきて、嫌われてしまったらどうしよう…と悩んで、人に頼めなくなってしまいます。
これは、我々双子が母から植え付けられてしまった「見捨てられ不安」と同じものです。
見捨てられ、見放され、誰も自分を愛してくれなくなってしまったらどうして生きていけばいいのかと、不安でたまらなくなるのです。
母は、我々双子にすべてを受け入れ、愛してくれる「親」であることを求めていました。
だから、我々双子が母から見捨てられることを恐れるように、母もまた我々双子から見捨てられることを恐れていたのかも知れません。
②馬鹿にされたくない
プライドが高いことの表れ。
「この程度のこともできないの?」
「きみって思ったより大したことないんだね」
「恥ずかしくないの?」
こんな馬鹿にするような言葉が返ってきたら、傷ついてしまうかも知れません。
それを回避するために、他人に頼むという行動を極力しないようにします。
また、人に頼むことを「弱みを見せる行為」と思っているかも知れません。
できないことを知られると、完璧ではないと思われてしまい、他人に抱いて欲しい自分の理想像が崩れてしまいます。
それならば、アピールすることで、相手が「これ、やっておくね」と歩み寄ってくれれば、「向こうが言うんだから仕方ない」と、威厳を保つことができるというものです。
ううん…考えるとこのぐらいしか思いつきませんでした…
そしてどちらもありそうです…
人に頼むということは立派なスキル
母の「アピールで察してもらう」というやり方自体は、問題はありませんし、生きていく上で重要なスキルなのでしょうが、明確に頼んでいない分、自分がして欲しかったことと違う結果になることも十分ありますし、相手の好意に頼るので、その結果に「そうじゃない」と言うこともできません。(主従関係であれば、好意であっても文句をつけることはあるでしょう…図太い…)
また、そもそも察してもらえないということも当然起こり得ます。(主従関係であれば、察してもらえないことに文句をつけることもあるでしょう…図々しい…)
毎度毎度こうして拒否権もなくアピールされ、察しなければならない立場から見ると、いっそ頼んでくれる方がすがすがしいのに…とすら思います。
けれども、同時に自分のできること・できないことを把握し、できる人に頼むということは、立派なスキルの一つだなとも思います。
自分は何ができて何ができないのか、自分のことをみつめ、できないことを認めないといけないからです。
また、先述の「母がなぜ人に頼めないのか」を考えた時にもある、「人に嫌われたり迷惑をかける」「馬鹿にされたり笑われる」という可能性を受け入れ、相手にゆだねる。そういう対応をされたら、その対応を見て考えるという、できる人にとってはなんでもない「覚悟」を備えているからです。
生きていく上でとても重要なスキルです。できるのとできないのでは、生きやすさが違いそうだなと、しみじみ感じています。
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