暴力を振るうのは頭が悪いから‐子どもを殴っている自覚がない親の話‐
むむです。
今回は、母は意気揚々と知人から聞いた話を教えてくれましたが、それが特大ブーメランだった、という話です。
母はいまだに、これが特大ブーメランだとは気づいてすらいないでしょう。
残る違和感とすぐ消える疑問
母は知人から言われたことにすっかり納得し、「怒鳴ったり殴ったりするのは頭が悪いから。頭が悪くて言葉が足りてないから、伝える言葉が出てこなくて手が出るんだ!」と、かっこいい言葉を知って使いたくなった思春期の子どものように得意げに言っていました。
この時、表現しづらい違和感が胸の中に現れました。
幼少期に毎日母から殴られた記憶が脳裏にサッとよぎります。
「あれ?」「昔いっぱい殴られたぞ?」「どういうこと?」「それって言っていいことなのか?」と、ぼんやりとした疑問が浮かびました。
違和感とぼんやりした疑問に気をとられた自分むむは、その母の話に「なるほど?」とあいまいな返事しか返すことができませんでした。
けれども、その疑問は違和感だけを残して、すぐに消えることになります。
すぐ後に「ああ、夫婦間のDVの話だな。おかんはおとんのことを言ってるんだな」と思い出し、解釈するからです。
とは言え、ぼんやりとした違和感だけはしつこく残りました。
そして、その違和感は「わたしは頭が悪いからお前らを殴った」という告白になっていることに母自身が気づいていないことへの気持ち悪さと、
まるで母自身が誰も殴ったことがないかのような物言いをする異様さ、
それを殴った相手に言ってしまう図太さ、無神経さへの怒り、
またそれらから察することのできる圧倒的な見下しに対する不満だったのだ、
とわかって、こうして今、漫画になりました。
いきいきと罵詈雑言(ばりぞうごん)
実際、母は父のことを言っていました。
この時の母は、もうすでに父を明確に嫌っており、毎日我々双子に「あんなやつ帰ってこなくていい」と愚痴っていて、「あいつは不倶戴天の敵」(「ふぐたいてんのてき」。同じ空の下にもいたくないほど憎い、という意味)とすら言っていました。
具体的に何をされたか、そんなにたくさんは知りませんが、また別の知人の夫婦仲がこじれて、その話を聞いてから、母は父のことを特に悪く言い、父からDVを受けていると我々双子に話すようになりました。
我々双子は両親が言い争うところも見ていますし、自分むむは母が明らかに父を避けるようになったのも父の暴言がきっかけであることも知っているので、DVと言うことは確かに理解できます。
ですが、母はDVの話をするのが楽しくて仕方ないように見えました。
その夫婦仲がこじれた知人の話に始まり、
インターネットでDVについて調べ、
過去に父から言われた暴言(母は具体的にはあまり話しませんでした。また、こちらも聞かなかったです)について「あれはDVだった」と語り、
父への罵詈雑言(ばりぞうごん)を我々双子に垂れ流す母は、とてもいきいきしていました。
いきいきと話せる理由は
おそらくは、母が父から受けたDVはかなり何年も前のことだったこともあり、母の中である程度過去のこととして、他人事のように俯瞰して見ることができる状態だったのでしょう。
だから嬉々として話すことができたのだと思います。
これは、自分むむにもあることです。
母という加害者から離れて、もう暴力を受けなくて済むとわかって、自分の身にあったことを、理解のある人には(ここがとても重要です)、冗談めかして話すこともできます。
また、あまり考えたくはありませんが、母自身が、被害者であることを望んでいる可能性もあります。
「自分は不幸な星の下に生まれた」と詩的に言ってみたり、魚の向きを知らないという子どもの無知を自分の落ち度として、まるで悲劇のように落ち込んでみたり、子どもが自分の思った通りに育っていないことをわざとらしく泣きながら嘆いてみたりと、母はどこか「不幸な自分」に酔っているのでは?とまわりに思わせるふしがありました。
(「まわり」と書いたのは、自分むむだけでなく、ななや、父もそう思っていることを確認したからです)
母はもしかしたら、不幸せであることに自分の存在価値を見出していたかも知れません。
不幸である方が気にかけてもらえる、不幸でなければ愛されない、と思い込んでいる…?ということです。
そのため、自分がまだ一緒に暮らしている相手からDVを受けていたと気づいても、もしかしたら今後さらにDVを受ける可能性があるとしても、いきいきとしていられるのかも知れません。知らんけど。
ただ、母にとっては他人でも、子どもである自分むむにとっては一応親で家族だったので、罵詈雑言を延々と聞かされるのはなかなかにつらいものがありました。
ほとほとうんざりして、ついに「じゃあ離婚したら?」と言っても、「お前らがいるせいでできないんだ!」と逆に責められる始末でした。
(結局、子どもが実家を出ていなくなっても離婚はしていません。他にも離婚できない理由はあったのでしょう…知らんけど。)
記憶すら書き換わる異様
不思議なのは、「怒鳴ったり殴ったりするのは頭が悪いから」という特大ブーメランに気づいていないことです。
これは正直母に限らず、誰にでもあることです。
けれども、この時の母には「誰にでもある」を通り越した気持ち悪さがありました。
この時の母が気づかないのは、母の中で、母の立場が「父からDVを受けた被害者」だからです。
この時はその立場だけで物事を見ているため、一方で自分が子どもに暴力を振るっていたことは、思考から完全に切り離されています。
これが、今回の母の、一番気持ち悪いところです。
まったくなんの悪びれも何もなく、純粋に「自分は被害者だ、暴言を吐いたあいつは頭が悪いんだ」ということにただただ賛同して欲しくて、本当にうれしそうに、今まで散々自分が暴力を振るってきた相手に報告する姿。
この、立場を切り替えることによって、完全に、まったく迷いなく、まるで最初からなかったことにしているかのように、記憶すら書き換わる感じが、気持ち悪さを通り越して、異様な印象を受けました。
単なる理不尽さではありません。
「暴力や暴言を振るうのは頭が悪いからだ」と言う母は、我々に長年してきた暴力も暴言も、本当にまったく心当たりがないかのような様子でした。
自分が今までしてきたことへの異様なまでの無自覚さ、無神経さ。
もはや、立場を切り替えた時に、人格すら変わっているのではないかと思うほど、その様子はすがすがしいまでのものだったのです。
そうでなければ、長年散々暴力を振るってきた相手に、平然と「暴力や暴言を振るうのは頭が悪いからだって!」などと言えるでしょうか?
立場を切り替えて接するというのは、誰でもすることです。
ある人には友人として、ある人にはパートナーとして、ある人には親として、ある人には子として、ある人には上司として、ある人には部下として…
たくさんの立場を持つのはめずらしいことではないでしょう。
けれども、例え立場を切り替えたとしても、ここまで自分のしてきたこと(それも、暴力という加害者にもある程度衝撃的であるはずのこと)への自覚がないと、あまりにも人としての一貫性を欠いてしまっているように思えて、「この人は何を考えて生きているんだろう?」「この人に思考というものはあるのだろうか?」「実はロボットなのでは?」というたぐいの疑問を持ってしまうほど、母を異質なものに感じてしまったのです。
無自覚なのは「暴力を振るったことはない」から?
このように、異様なまでに自分がしてきたことへの無自覚さを発揮した母ですが、どうしてそこまで無自覚になれるのか、残念な推測ができます。
それは、母の中では我々に振るった暴力は「暴力でない」ということになっている可能性です。
母の中で、我々双子に暴力を振るうことは「暴力を振るわされた」という被害者の立場でおこなわれていたら…?
「暴力を振るう自分が悪いんじゃない、暴力を振るわせるこいつらが悪いんだ」という理屈です。
子どもを育てるのは想像を絶する大変さがあると思うので、殺意がわくのは理解できます。
けれども、母はそういう育児への大変さだけでなく、子どもの関係ない夫婦関係や交友関係、経済面などがうまくいかないことへのいら立ちも、すべて子どもへの抑圧、束縛、加害で溜飲を下げていました。
母が機嫌よく過ごせないことは、すべて子どもへの憎しみとして変換され、それを一時的に消化するためのサンドバッグとして、子どもは(特に我々双子は)存在していました。
子どもの関係ないいら立ちややるせなさがある中で、吐き出し方も吐き出し先もわからない母は、ささいなことをきっかけにして子どもに激怒します。
そして、「怒りたくないのに子どものせいで怒らされている」という原理で、「やむを得ない」「仕方のない」「しつけ」「教育」という大義名分を自分の中に生み出し、「怒鳴ったり殴ったり暴力に訴える」のとは別物、ということにします。
(体罰が当たり前だと刷り込まれて、それに疑問を持たずに育つと、そうなるのかも知れませんね…)
だから、母は「自分が暴力を振るったことはない」という思考になり、父からDVを受けたことに全力で被害者でいられます。
この時に我々双子ではなく、他人が「でも、あなたも子どもを殴ったでしょ?」などと指摘しても、母はまったく心当たりがないそぶりをしていたと思います。
母は、この知人から言われた「怒鳴ったり殴ったりするのは頭が悪いから」という言葉を、すべて父に当てはめて、「わたしに暴言を吐いたあいつ(父)は頭が悪いんだ!」と喜んでいるのです。
都合のいいいきもの
そもそも、この母の知人の言っていることもちょっとどうかとは思います。
もちろんそういうパターンもあるのでしょうが、もっと根本的に、相手を見下していたり、視野がせまかったり、余裕が無かったり…などということもあるからです。
高学歴でもハラスメントや犯罪に及ぶ人はいるし、学歴はそんなにすごくなくても、他人と対等に接することができる人もいるので、「頭が悪いから」とバッサリ言うのはちょっと主語が大きいし表現も雑だなあと感じます。
もっとも、人は自分に都合のいい話を信じがちで、自分に都合よく解釈しがちです。自分むむもです。
この母の知人の話も、どこまで本当に知人が語ったのか、自分むむには知る由もありません。
母が都合よく解釈して、こちらに伝えてきた可能性もあります。
こうやって掘り下げていると、自分むむも含めて、人間とはつくづく都合のいいいきものです。
都合よく被害者になったり、都合よく加害者になったり、都合よく忘れたり、都合よく解釈したり、都合のいいところだけ信じたり、都合のいいところだけ話したり、人を都合よく使ったり。
ただまあ、うまくかみ合うこともありますから、都合よく振る舞うことが全部が全部ダメなわけではないと思います。
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