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幸田露伴の随筆「面白き言」

面白き言

・私は以前、僅かな利益を得る商売に従事していた時に、客は売り手に物を教えるということが真実であると身に沁みて思ったが、その後ますますそのことを固く信じてよく世の有様を見てみて、博学の人が愚人に物を教えるよりも、多く無学者が学者に物を教えるのではと思われることが多い。子を持って知る親の恩という俗言の真実であることを、孝経を読み聞かせるその親が却って我が子から活きた教えを授かってはいないか。であれば、牛引く男・草刈る子供も確かに或時は必ず私を教える師となるだろう。まして学識の高く博い人達の言を面白く聞けないのは、その言が面白くないのではなく、私の耳がその面白味を受け付けないことにあるのではないか。そうであれば、聖人賢者の言は経伝に沢山あるので私が記すまでもない。ただ人に知られていないもので、私の面白いと思う言をここではあげる。

・去年の一月の末であったが、大阪から夜舟に乗って伏見へ午前四時に着いたが、乗り合いの人達は「片旅籠(かたはたご・一泊一食)は高いものぞ」とつぶやきながら少時(しばし)の間の夢を貪(むさぼ)るために宿に入って休む。私は四五人の道連れがあるのに元気を得て、京都に寄らず大津へ直ちに行こうと歩み出した。道はまだ暗く明け方の風はひとしお寒くて心細く覚束もなく辿って行ったが、道連れの中に長身の男がいて、おもしろおかしく、あたり憚らずいろいろな事を我知り顔に語り騒ぐ、他の人達も可笑しがって、問う人もあれば詰(なじ)る者もあった。長身の男は雄弁滔々と三上山のムジナの話・半蔵坊の言い伝え・池鯉鮒(ちりふ)の説など怪しい話を精しく物語り続ければ、遂にには人達も感心して、「実に物知りなり」と云えば、男はますます誇って、「それほど博くは知らないが東海道諸国の事なら、山の名・川の名・神社仏閣の由来縁起・男女の風俗言語まで残らず暗記している。」と言う。私はその高慢なのを憎んで言葉を挿んで、「それほどの事を覚えられたのには、何百巻の書物を読まれましたか。」と問いかけたのに男は身を反らして、「東海道は五十三巻、学生さんどうだ」と言い返した。一同どっと笑って、「よく答えたり」と云うのに私は一言も無かったが、まことに東海道は五十三巻の活書、一年は三百六十五巻の活書、一日の食は三巻の活書であると理解して大いに利益を受けた。

・興福寺の境内に奇抜な一庵を建ててその内に坐臥し、人世を何の糸瓜(へちま)と見て一生を終えられた椿岳(ちんがく・淡島椿岳)老人は、風変わりな画を描いて得々としていた老人であったが、ある日、画の事を語って、「画の修行をするには古人の画を多く見て深く学ばなければならないが、といっても古画を反吐にしては悪い、能く噛んで飲み下して我が身の養いにあうべきなり」と私に云われたことがある。詩も俳諧も文運衰えた世のものは皆反吐に過ぎない。まことに反吐とは能く罵ったり、嗚呼反吐で無いものが世に出ると善いのだが。

・私が田舎にいた頃、将棋の道に精しい人から伊藤宗桂の宗桂秘伝書というものを借りて読んだことがあったが、極めて難しい詰め手百番を記したもので、その書の奥書に将棋をさす時の心の持ち方を記した数十条の教訓があった。今その多くは忘れたけれども、その一つに「右の方を思案する時は必ず左の方に妙計を施す点がある。左を攻める時は却って右の方にこそ攻めるべきところがある。一方だけを見る時は、一方に勝って全体では負けとなるものであるから、くれぐれも眼を盤全体に注ぐべし。」との注意があった。その後、上手な人と下手な人と将棋を指すのを見ると、優者は常に敵と争うところを争わないで敵に勝ち、劣者は常に敵と争うところに勇を発揮して思わぬところで負ける。まことにその道の巧者の金言後人を欺かない。勝敗の機微を説破すると言える。しかしながらその書を読みその書を悟った私自身、盤に臨んで人と争えば、忽ち秘伝を忘れ果てて連戦連敗、これ知っていても出来ないものか。近来の政党の論争も権兵衛八兵衛の将棋に似ている。試みに宗桂の言を借りてその形勢を見ることにする。

・同じ書に云う、「敵から取った駒の考慮をするのは下の将棋指し、敵に与える駒の考慮をするのは中の将棋指し、取ると与えるとを考慮し尽すのが上の将棋指しの質と知るべし。取るも与えるも無考えな男はただの人である。」と、これもまた極めて妙趣あると思って、嘗て「風流魔」の中にもこの注意を紹介した。その後ある老人にこの事を話したところ、「成程うまく儲けるよりうまく使うことが金持ちになる方法に違いない。義理を欠いて無駄遣いする者で金持ちになったためしはない。」と感服致された。この老人は与える駒の考慮だけは出来る人か、貧しくも無く富んでもいない。

・石部の宿で知らない男と相宿をしたことが有るが、その男の顔付に云うに言えない恐ろしいところがあって、物言いも柔らかでなく、抜け目のない態度、鋭い目つきの何となく気味の悪さに、どのような人かと様々に心中ひそかに思い謀っていたが、その男が酒に酔いしれた後に自ら語り出したのを聞けば、女を娼妓にしたとか、そのために揉め事が起こり旅すると語れば、そうであったかと思い、私が静かに「随分嫌な面倒な事でしょう」と問えば、男は私を見て、「銭が有りゃあこんな事を仕たかあ有りませんのさ」と答えた。その時冷ややかに私を見た眼の、灯の光を受けて恐れげもなく輝いている様は今も忘れない。

・私が最近ある狭い町の長屋の窓下を通った時に、年若い女の声で、「六升五合の世界だもの人情なんて、へ、ゆとりはありゃしないやね、オホホ」と、極めて下品に極めて早口に言い放つのを洩れ聞いて大いに驚き、思わず後ろを振り向けば、その女であろう、丁度その途端に窓から往来の方を見る者があって、顔白く唇赤く、ことに島田であるか銀杏返しであるかハッキリしないが髪艶々と結っている。一二町過ぎて後に思ったのは、あの髪の油も六升五合か、さても余裕のあることである。

・嘗て十二才ばかりの少女が猫を捕まえて、独り言のように、また人に語るように云うのを聞いたことがある。その言葉まことに印象深く今に忘れない。云う、「この猫はほんとに憎くってなりゃあしない、いくら追い払っても、私(ひと)の夜具にもぐりこむのだもの、あんまり憎らしいからつねってやったけれどもやっぱりもぐりこむのだもの」と、嬌痴の状態思われ、これを聞いて微笑しない者なし。ああ我等文を作り字を列べるのに、少なくとも書中より冷肉・枯骨を拾い集め来れば、或いは完全な死骸も表現でき得ようが、彼(か)の少女の軽風吹面の一語に及ばないことは明らかである。

・私は幼少の時、乞食と乞食が語るのを聞いたことがあるが、「ただの葬式をする奴は少しっつでも呉れやがるから感心だが、初葬と耶蘇ときたら何一つ呉れやがらない、いめいめしい」と云う一語深く骨髄にしみて、その後は乞食を憎むこと仇敵のように、また、たまたま五月蠅く人に付いて強請する者に会えば身震いして且つ憎み且つ恐れたが、ある日愛鶴軒主人(淡島寒月)と散歩して太郎稲荷へ詣った時、道端に伏して憐みを乞う老怪物に主人は懐中を探って少しの銭を与えた。それを見て私は心中で、嗚呼能く世情を知っている主人も呉れやがるかと思いつつも、遮って冷評することもできずそのままその辺を逍遥して、元来た道を帰りかかると、盲目でもない彼(か)の乞食が前のようにお辞儀して救いを求めるのに、思わず罵ろうとする時、愛鶴軒は丁寧に「こころざしだけは、もう先(せん)にあげました」と答えると、乞食は狼狽し、そして恥じて、「ハッ、ありがとうございます」と真実に礼拝した。その後、春の屋主人(坪内逍遥)に逢って雑談の折にこの事を話したら、「これは良い話哉」と褒められたので、私はひそかに恥じて、乞食に対する私の心地は云い出さなかった。それからは私は乞食を甚だしく憎まない。しかし、今なお乞食の剛の者を恐れること人並み以上である
(明治二十三年九月)

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