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幸田露伴の随筆「いやなところは飛び出せ」

 楽しんで行うことが大切である。苦しんで行うことは楽しんで行うことに及ばない。
 苦しんで行うことは立派なことである。心にその事を欲しなくとも、その事を行わなければならないと考え、自分の感情を理性に従わせて、苦しみながらその事を行うということは、実に一ツの立派なことと言わなければならない。心これを欲すればこれを行い、欲しなければ直ちに捨てて顧みないのは、天真爛漫で、誠に潔いようであるが、それでは余りに小児的で、また鳥獣的である。人の世というものは、小児の世界でも無く、鳥獣の世界でも無い。厭でも我慢して、事に当らなければならないのが常である。厭なら止して終えと、簡単に一切の事を人類が片付け通して来たものならば、人間世界は太古から少しの進歩も無く、丁度鳥や獣が百年も千年も同じような生活を続けているような有様であるだろう。幸いにして人と云うものは感情だけの動物で無く、理性の働き、意志の持ちこたえ、智慮の補い、そういうものがあって、各自の進路を開拓し、強行する為に、この複雑な人間世界の文明状態が生じたのである。厭なことをするのは実に苦しい。その苦しさから血が流れたり油汗が流れたり、涙が流れたりする。
 しかしその淋漓とした血を蒙(こうむ)って、突進するのは、何んという勇敢な精神であろう。涙が滂沱(ぼうだ)とする中で自己の誠の心を失うまいとするのは、何んという優美な精神であろう。人類の幸福というものは、或いはまた進歩というものは、振り返って見ると、大抵はこれ等の血や膏汗や涙によって為されたものである。この苦しい中を押し切って行くという事が、止めてはいけないものとして、また仰ぎ尊まれるものとして、我々の間に認識されるのも勿論当然な事である。
 そこで昔から宗教や道徳は、人が熱血をふるい油汗を流し涙を垂れることを、強要する傾向にある。奮発せよというのは詰まり血を流せという事である。勉強せよ、精励せよ、努力せよということも、つまりは油汗を搾れという事である。自ら顧みよと云うのも、自分に克てというのも、犠牲的精神を振り起せというのも、つまりは涙を垂れよという事である。
 これ等のことは、勿論そうあるべきことで、間違った教訓ではない。しかしながら、やや一方に傾き過ぎて、やや頑固で、やや感情をないがしろにして、詰まるところ強要的な観がある。そこで永い永い歳月、これ等の教訓に従順であった人間も、この百年ばかりの時代には、そろそろ従順でなくなった傾向がある。昔の人間は先ず第一に、神を実在のものとした。絶対の権力を以て我々の頭上に臨んでいるものと考えられていた。それから、統治者の権力は地上に於いては最高の力を以て我々に臨むものである。これまた、絶対のものであると考えられていた。次にまた、世の教え、神の教えは、以上の無形有形の二つの絶対者から分かち出された鉄則で、これをどうすることも出来ないもののように考えていた。それ等の永い間の伝統的な考え方に生れてから死ぬまでを支配されていたので、随分ある時には、反抗したいような気分のなる時があっても、これを自分一個の一時の感情であると押さえ付けて、こめかみを痛くしながら、歯を噛んで、辛抱していたような状態である。
 しかるに今日となって、多くの人々は余り強く昔ほど神を思わなくなった。神様への尊仰の念は、昔の人とは大分違って来た。また現世の統治者に対しても、昔は地上に於いての最大敬意を払っていたが、今日ではさほどで無くなって来た。そして神や仏から出た教えや、統治者から造られた教えも、昔ほど人々の頭上に有利な権利を保たなくなって来た。
 そこで昔から強要されてきた血を流すことも、汗を出すことも、涙を垂れることも、なるべくは御免蒙ろうというような状態になって来た。なるべくそういう強要を避けようとする。或いは進んで、我々は強要される理由が無いというような主張を敢てする傾向さえ生じるまでになった。
 これ等は古代の高雅な精神や正義に充ちた精神や優美な心情より云えば、明らかに堕落である。頽廃的である。しかしながら今日の人々の考えも、そう一概に間違っているとばかりは云えない。どう考えても、無理でないところがある。
 人はなぜ血を蒙ったり、汗を振るったり、涙を垂れたりしなければならないのだろうか、若し厭なことをあえてしなければ、高等のものでないというのならば、いわゆるその高等なるものは、実に喜々として日を送る小鳥や羊にも劣ったものではないか。すべての生物は喜んで生を遂げるところに、その生の自然と意義とがある。ひとり人間だけが油を絞られる菜種や、バターをとられる牛乳のように、耐え難い圧搾を蒙ったり、耐え難い抽出を余儀なくされるということは、何んという馬鹿げた事であろう。たとえ堕落的と云われても、頽廃的と云われても、生を楽しんで生を遂げたい。そんなに涙をたれたり汗をふるったり、血を蒙ったりすることは厭である。というような考えが起こって来るのも無理はない。
 けれども誰も彼もが、そういう状態になって、そうして今まで強要されていたものを、提供することを拒否するようになったならば、人類はどういう状態になるであろう。それは、推察するに難くない。勇敢な精神や剛毅な精神や、優美な精神が亡くなって、人類が高等な社会を実現することは、想像する事も出来ない。ドーしても人類はその生まれつきの、高貴な精神を発動して他の動物の世界より卓越した優れた世界を実現して行かなければならない事は明らかである。してみればドコに昔と今との齟齬、衝突を免れる鍵があるだろう。古のも一半は無理である。そして一半は道理である。今の人の傾向も一半は道理である。しかし一半は無理である。つまりコレは昔の思想が悪くもなく、今の傾向が間違っているのでもないが、その間に、古今をして誤らせた一ツの事情があったと見るのが、正しい見方といえる。それは何かと言えば、強要したということである。強要されれば、与えようとするものも、与えたくなくなる。これが人の情である。強要しようとすると、取れないものも、取ろうとする。これも人の情である。人情というものは実に捕らえる事も出来ない微妙なものである。実に見ることも出来ない、知ることも出来ない、少しのものに因って、右に傾いたり、左に傾いたりする。
 そこで、下さいと言えば貴い宝石も喜んで遣る。寄こせと言えば一銭銅貨でも、いわれなく遣る理屈はドコにもないと惜しむ。席を譲るのが当然だなどという態度で臨めば、今まで籍を譲ってやろう思っていたのでも、あべこべにドッカリ腰を下ろし込んでしまう。人間というものは、実に敏感なものである。
 そこで永い永い歳月の間、何時となく人間に対しての高貴な精神の強要という事が行われて来た為に、元来持ち合わせている高貴の精神ではあるが、ソレを提供するのが、誰もが厭になって来た傾向がある。強要という事ほど厭な事はない。強要するのは傲慢である。他人に対する侮辱である。強要されて、それを与えるのは卑屈である。他人に対しての服従である。強要は成り立っても、成り立たなくても、双方に何等の好いものも贈らない。何等の悪いものを贈る。神と仏は何も強要しなかったろう。それからまた正しい教えは決して強要的態度には出なかったろう。しかしながら、それが永い歳月の間に一変して強要となり、それからまた、強要を利益とする人々が生じるに及んで、そこに双方に利益を贈らずに、双方に不快を感じさせる状態が生じて来たのである。
 強要ほど世の中を悪くするものはない。強要される事を拒む傾向が世に起こって来るのは、これもまた止むを得ないことである。
 しかしながら、我々人類はドコ迄も人類としての精神を保ち、これを振興しなければならない。強要されたり、強要する時代は過ぎた。我々は楽しんで事をすべきである。厭々ながら事をするというような古い場所を飛び出して、苦しがりながら事をするというとらわれた状態から離脱して、楽しんで今日の事に当らなければならない。楽しんですれば疲れない。三文にもならない将棋を指し、碁を打って夜を徹する人々さえある。楽しんで事をするにこしたことはない。楽しんですることで、始めて人間の高貴な精神が具体化されるのである。
 全ての人が、願わくば、みな楽しんで事に当たって欲しい。強要されるのは、それは昨日の悪夢としなければならない。
(大正十四年五月)

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