幸田露伴の小説「暴風裏花①」
暴風裏花
時代が異なると心情も異なるものでして、今日(こんにち)の人はただ今日だけで物事を考えて、泣いたり笑ったり、不満を感じたり、理屈をこねたり、あこがれたり、或いはイライラしたりしているのですが、眼を上げて他の異なった時代や異なった国々の事を観ると、まるで自分等の世界とは異なった世界に立たされて泣いても泣ききれず、憤(いきどお)っても憤りきれず、悲しい恐ろしい運命に無慈悲な荊(いばら)の鞭で打ち叩かれたり、紅血を荒れ地に流したり、芳魂を泥土に塗(まみ)れたりして、訴えるところも無く果敢なくなって仕舞うような惨苦に遭う場合もこの人生には沢山あることであります。それを思うと、どうかそういう恐ろしい厭(いや)な時代などが来ないようにと願わない人はありませんが、サテ古いことや他国の事は忘れがちなものでして、何時となく人々は自分の生きている時の世や、自分の存在している環境(まわり)の事だけしか思わないようになって、知らずしらず各自が各自の勝手ばかりを主張するようになります。で、それが段々増長すると、奢侈・慢心・暴圧・反抗・闘争・反乱等の人間の悪徳が生じて、そして「憤怒した人の前には道理が無い」と云う状態が現れます。即ち無茶苦茶な時代、暗黒の時代と云うものが出て来るのであります。そう云う時代になりますと、まるで悪魔王のような人が出て来て、この世の中を地獄のようにして終います。フランス革命の歴史を御覧になれば誰もが慄然(ぞっ)とされるでしょうが、ああ云うことは、時々この世の中に現れて来るものでありまして、何とも云い様のない厭なことでありますが、それも時の運と云うもので、そう云う状態が生じる道理があってそう云う状態に生じるのですからどうしようもありません。そう云う時に最も不幸な地位に立つのは善良な人々で、特に婦人の身の上です。
これは、フランス革命の少し前の、今から丁度二百八九十年ほど前の中国は明の時代の末、もはや明の徳が衰えて、世の中は思い出すのも厭なほど乱れた思宗皇帝の時のお話です。四百余州は地獄のようになったのであります。そしてまるで罪人を鉄杖で追い立てたり、鉄叉で空中に刺し上げたり、火の中や熱湯の中へ投げ込んだり、針の山や氷の池へ落す鬼のような、残酷無慈悲な恐ろしい役目をした者が、李自成と張献忠という二人の大盗賊でありました。盗賊と云いましても物を奪い人を脅かすくらいの賊では無くて、城を潰し国を破る大盗賊でありました。
そう云う恐ろしい赤鬼や青鬼のような李自成や張献忠のような者がどうして出て来たかと云いますと、明の世情風俗が軽佻浮薄になりまして、人々が皆自分勝手になって、政治も頽廃すれば道徳も廃れて、その結果、社会のドン底から、それなら「暴力」だと云う酷い者が暴れ出したからであります。歴史上に明白に記されている事ですが、今から考えるとまるで小説や作り話のような訳であります。が、その当時に沸騰した盗賊どもの名前が史上に伝わっておりますが、それを見ますとまるで彼の名高い水滸伝などと云う小説の中の人物のようでありますから、それに依って推察してもその起こり立った盗賊どもの人柄や性質が想い遣られるのであります。例えば、李自成の出る前に立ち上った盗賊どもの名を挙げますと、「飛山虎」「大紅狼」などと云うのがあります。またその他にも「混天猴」だの「独行狼」だの「老獪々」だの「上天龍」だの「混世王」だの「蝎子塊」だの「掃地王」だのと云うのがあります。マア何という猛悪な名でしょう。虎だの狼だの猿だの蝎(サソリ)だの、皆これは渾名(あだな)であったことは勿論ですが、本名よりも渾名が通用して、歴史にもその渾名で残り伝わるそれ等の者どもが、虎のように、狼のように、狒々のように、蝎のように、地を払って一切の物を略奪して、世の中を混乱させて善悪を滅茶苦茶にした、そんな恐ろしい厭な者どもだったと想像されるのと同時に、それを自分の誇りとし自分の誉れとして横行した、それ等の者どもの野蛮乱暴さ無学無知さと低級さを語るものでもあります。これでは良民婦女は堪ったものではありません。こう云う連中が二万三万の手下を従えて、五六人が合同して暴れたのですから、官軍もどうすることも出来ません。随分と忠勇の将士が骨を折って討伐したのですが政治が腐敗していたため効果が無く、天子も心を苦しめ思いを悩ませたのですが、一年一年と世の中は乱麻のようになりました。
李自成はそういう世の中に出て来て、ついに諸盗賊中の大王となった者であります。そして終には明の首都を攻め立てて、これを屠り、哀れにも思宗皇帝を自害に追い遣ったのであります。
国の亡びる時は、多くはその時代の朝廷が、取って代わるところの政権継承者によって亡びるのか、或いは勢力の優秀な敵国によって亡ぼされるのですが、李自成のような乱暴無茶苦茶な賊によって亡ぼされたのは、亡ぼされるものにとっても一層不幸なことでした。漢の高祖や楚の項羽によって亡ぼされたのも、秦から云えば叛民によって亡ぼされたのですが、高祖も項羽も漢の基を開いたり、一代の覇王となったりしたほどの立派な人物で、それに亡ぼされたのですから、また蜀が魏に亡ぼされたのは優秀な大国に亡ぼされたのですから、同じ亡びるにしてもマダましですが、獣類(けもの)のように凶猛で、その獣類を渾名にしている様な、凶猛中の第一人者の李自成のような乱暴無茶苦茶な者に亡ぼされたのは真(まこと)に悲惨な事でした。前に云いましたように、獣類の名を渾名にしている様な凶猛中の第一人者の乱暴無茶苦茶な李自成に亡ぼされたのですから。何のことは無い、勇士と戦って戦死したのではなく、猛獣に襲われてその爪や牙に掛ったようなものです。
李自成の事は明史の巻の三百九にその伝が有りますし、またその生涯の事は谷氏の明朝紀事本末にも載っています。今一々それをお話することは出来ませんが、李自成とその一党の者どもがどのように凶悪であったかを、その大概をお話しして明の悲しい状態を想像される材料にしましょう。
李自成は一体どう云う者だったかと云いますと、米脂(べいし)という片田舎に生れた者で、父が子を得たいと崋山の山の神に祈り求めたところ、「破軍星を汝の子とする」と云う夢のお告げを得て、そして生まれた者だと語り伝えられています。破軍星と云いますのは好くない星で、この星の剣先に当るものは何もかもがザンバラ切りにされる、ひどい目に会うと恐れられているのであります。破軍星の生まれた者だとして伝説に遺されている位ですから、李自成が暴悪な酷い男だったことが分かります。
その幼い時はと云いますと、村の有力者の艾(かい)氏の牧羊者(ヒツジ飼い)をしていたのです。成長して銀川の駅卒となりましたが、人と争って猛悪なことをしたり、たびたび法を犯したりしたので、死刑にされることになりましたが、そこをうまく逃げだして牛屠殺(うしころし)や豚屠殺(ぶたころし)をして身を隠し命を繫いでおりました。こういう前身ですから、甚(ひど)く凶悪な奴であったことに違いありません。それが、世間が大騒ぎになって盗賊が横行したり反乱が続発する時代になって、もともと無い筈の生命(いのち)を元手に、親類の高迎祥が反乱を起こして旗揚げしたので参加しました。それを振り出しにして、屍(かばね)の山や血の海を西に東に踏み越えて、刃(やいば)の稲妻や矢の雨を南に北に冒(おか)して、そして年月を経て、千軍万馬の間にだんだんと大親分になったのでありますから、酷い奴の中の酷い奴、賊の上の賊であります。高迎祥が官軍に捕えられて磔刑(はりつけ)にされてからは、李自成がその一党の王になって、いよいよ暴れました。
李自成は顴骨(かんこつ)が高く荒れて、梟のような目、大あぐらをかいた鼻、声は犲(さい・山犬)のようだったと云われています。その性質は疑い深くて、しかも恐ろしく残忍で、人を殺しても、足を切ったり心臓をえぐり出したりして戯れたと云います。味方でも何でも気に食わない時は、切り殺したり毒殺したりすることを何とも思いません。羅汝才や李厳などという者は李自成の党の者で、随分と自成の援けになった者ですが、羅汝才は後になって欺かれて宴会の席で縛られ斬られてしまい、李厳は自成に人心を収攬させるよう勧めた思慮ある男でしたが、やはり殺されてしました。味方でさえこの通りですから、まして敵陣へ臨んでは実にそれは暴悪無残でありました。自成の軍の向かうところ、直ちに迎えて降参した城は免(ゆる)されましたが、一日抵抗した城はその城中の者の十分の三の人数を殺し、二日抵抗した城はその城中の者の十分の七を殺し、三日以上抵抗した城はその城中の者全部を屠り殺したと云います。人を殺すと屍を束ねて吊り並べて橑(かがり)としました。これを「打亮(だりょう)」と云ったそうです。自分の方の兵隊でもし逃げようとする者を見つけた時には、必ずこれを磔(はりつけ)にしました。馬を大切にすることは非常なもので、冬は馬の足の下に茵褥(しとね)を敷かせるほどでしたが、自分の兵は始終野営的に日を送らせて、城を占領しても室内に安眠させることが無かったと云います。敵の死人の腹を剖(さ)いて、その腹を馬の飼料槽(かいばぶね)にして馬を飼いました。馬は善良な動物ですから、最初はこれを厭がりますが、終には死人の胴腹から餌を取りまして、後には人を見れば牙を鳴らして咬もうとして、その猛々しいことは虎や豹のようになったと云います。それですから、天下の中で黄河だけは憚り恐れましたが、その他の大河は淮水でも泗水でも涇水でも渭水でも、溝か何かのよう見なして、戦略上これを渡る必要がある時は大軍の何万という人々が、馬の背に立つ者も有れば、馬の尾に取りすがる者も有り、鬣(たてがみ)を抱く者も有り、生命知らずにドット乗り入れると、馬も人も狂い怒って、水を堰き流れを止めて、シャニムニ渡り切って終ったと云います。しかし黄河だけはナンボ何でも渡り兼ねたと云いますが、黄河を除いても他に大河はありますが、どの川も押渡ったということは、馬も人も実に凶暴で、そしてその軍令の野蛮で峻厳なことは驚嘆の外(ほか)ありません。李自成の軍律では、前の者が振り返ると後の者が之を殺すことになっていたと云います。こういう甚だしく暴(あら)い性格、厳しい軍律、残虐な所行、非人道的な所作で勢いに乗じて無茶苦茶にかかって来られては、人間を相手に戦っているのではなく、まるで悪鬼夜叉の類(たぐい)と戦うようなもので、容易に抵抗防御が出来るものではありません。張献忠と云う賊も「黄虎」と云われたほどの男で、残忍性の強盛なことは、「一日人を殺さざれば悒々(ゆうゆう)として楽しまず」と史上に記されているほどですが、その張献忠さえも李自成には及ばなかったと云われています。李自成は実に殺人大王でありました。
人だか鬼だか分からないこう云う者が都へ攻め上って来るのでありました。それは思宗皇帝の崇帝禎十七年でありました。国家の為に、人民の為に、皇室の為に、随分李自成と戦った者も有りましたが、しかしもう凶賊に勝てなくなりました。精神も萎え怯んでしまいました。筋骨も力を失いました。次第次第に官軍は日一日と勢いを殺がれ手足を失うようになりました。何と云う情けないことでしょう。
賊は殆んど不可抗力のように迫って来ました。まるで一天俄かに暴風が襲来する時に、草も伏し、樹も倒れ、葉も飛び、枝も裂け、砂は走り、石は叫ぶような有様でした。明の宮廷では上は天子から下は園丁厩卒まで、安き心もありませんでした。
この恐ろしい暴風雨の中に、果敢なくなった玵花(きか・美しい花)や瑶草(ようそう・美しい草)がどれ程あったか知れません。その中に明の宮廷に脆くも口惜しくも散り砕けた二つの美しい立派な花がありました。その一ツは費氏と云う宮人で、他の一ツは魏氏と云う宮人でありました。