幸田露伴の史伝「頼朝①判官びいき」
頼朝
引
歴史家は文明の歴史を供給する重大な任務と責任を有している。歴史家に対(むか)って昔の在野の史家が作ったような興味本位の小話を要求するのは大いに間違って居る。この意味からも昔の英雄の事跡が次第に今の歴史から忘れられてもやむを得ない。しかし昔の英雄の事跡は之を取り上げる価値が無いのでは無い。少なくともその興味ある点に於いて之を棄て去ることは出来ない。此の頼朝もそういう点から書いて見た。記述は皆基づくところがあって捏造や仮託は全く無い。けれども無論歴史家の領域に入ってその真似をしたのでは無い。頼朝に関して一ツの物語を試みただけのことである。
(明治戌申初秋)
判官びいき
世に判官びいきと云う言葉がある。判官とは判官義経を指して云うので、源九郎判官義経が、先行して猛威を振るった木曽義仲を宇治川の一戦に駆け破って之を粟津で打ち破り、次に平家一門を一ノ谷や屋島や壇ノ浦に攻め詰め攻め詰めて、終に之を滅ぼし尽した大功が有るにも関わらず、戦いが済んで仕舞うと、目出度く凱旋したのを歓迎して呉れ無いだけで無く、鎌倉へ入ることも許されないで金洗沢と云う所に関所を設けられ、腰越と云う東京で云えば品川のような所に辿り着いただけで追い返され、それからは土佐坊昌俊に夜討ちを掛けられたり、偽山伏となって木や草にも気を遣いなが北陸道から奥州へ落ちたりして、最後には高館で腹を切って死んで仕舞ったのか、それとも蝦夷や樺太へ逃げさすらって、とどのつまりが満州へ渡ったのかどうかは知らないが、何しろ文治五年からは日本には居ない人になって仕舞って、実に気の毒でもあり可哀想でもある為に、誰もが判官をひいきするようになって、義経を悲しい目に遇わせた梶原景時や、景時の讒言を聞き入れた義経の兄の源頼朝を憎み罵るようになる。それを判官びいきと云うのである。
義経はたった二歳の時から既にこの世の憂さ辛さに身をさいなまれ初めて、大和の宇多郡を目指して都の九条を逃げ出した母の常盤の懐(ふところ)に抱かれながら、春まだ寒い二月九日の夜半に、清水観音の御宝前に詣でてから、十日は余寒の雪嵐の中を暮れ方に伏見の大伯母を尋ねたが、朝敵の妻子だと云うことで居留守を遣われ追い払われ、ようやく賤しい民家にて野宿の苦しみを免れたが、サテ宇多の龍門の牧の岸岡と云う所の大伯父の許(もと)に隠れ潜んだ甲斐も無く、常盤の母が人質に取られたために常盤は自首するハメとなり、終に仇敵の平清盛の手の中に掴まれた小雀の身になって仕舞った。それがソモソモ苦労の発端で、鞍馬寺での苦学、金売りの吉次に付いての奥州下り、詳しく義経の胸中に入って考えて見れば、どれもこれも涙で無い事は殆んど無かったろう。家(源家)の仇敵の平家の繁昌、一門の微禄、家の子郎党も時に従い世に媚びている情けなさ、物心を覚えてからは明けるにつけ暮れるにつけ、悲憤が腕を取り、絞り歯を食いしばったことであろう。大納言成親や西光法師のような元手の少ない弱虫共がナマジ勝負に出掛けて却って平家を太らせ、腰の曲がった老人が昔執った杵柄の積りで威張り出しても直ぐに息が切れて仕舞うように、これも矢張り敵に勝ち星を増やしたのに過ぎなかった一族の頼政の事を聞いたりして、どんなにか胸苦しく思ったことであろう。堪えられなくなった兄の頼朝が挙兵してから、大風に草木が鳴り出して天下は只ならない有様になって来た。サアもう我慢も辛抱も出来なくなって、親分と頼んだ陸奥の藤原秀郷が「急ぐな急ぐな」と云って呉れたのも、尻に聞かせて飛び出して仕舞って浮島ケ原で兄に対面した。それからは強敵や大敵を目の前にしての苦労心配だ。ドンチャンドンチャンの三年の年月は中々短く無い。鎧ジラミに吸われた血だって少なくは無いだろうに、まして敵の木曽義仲だって木曽の山育ちの荒武者で、駒王と呼ばれた童子の時から平家を打ち挫いて呉れようとの一念の火を燃やして、平家の天下に都に攻め上って争ったほどの傑物で、それに従う今井四郎や樋口次郎以下何れも火の玉でも掴みかねない奴等で有り、平家にしても新中納言知盛や薩摩守忠度のような確りした者も有り、能登守教経のようにヤケなのも有り、侍では景清や盛俊や忠光のような刃金を鳴らしたがる奴等も有ったのに、それに加えて我が陣には兄の頼朝にさえ一目を置かせる事情を有し、しかも心が剛で才鋭い梶原景時のような奴が軍目付となって居て何かと反対するので、六百年余も過ぎた今に「源平盛衰記」を読んで「平家は弱い」などと笑って噂する我等には、思い遣ることも出来ないほど沢山の苦労をしたに違いない。その義経がロクに豪勢なこともなく、賞と云っては日本六十余州の半分は宛がわれないまでも五か国や十か国は宛がわれても不思議では無いのに、たった伊予一国の守になっただけで、終には奥州の片田舎で苦しみ死んで仕舞ったのだから、判官びいきの出て来るのも実に自然な人情で、誰もが判官を好いて景時や頼朝を憎む。しかし、考えて見ると景時も憐れむべきで、景時は一生憎まれ役を引き受けたのだが、景時が居たので頼朝の事業の半分は出来たと云ってもよいと思われるくらいだ。人に仕事をさせる場合にはどうしても之を見張る者を必要とする。造船所で船を建造する場合には、技術も有り信用も有る造船所に任せるが、また必ず聡明な人を目付にして工事を監督させることは誰もがすることである。この監督と造船所とは仲が良過ぎて貰っては困る。随分扱いにくいような性質の人で、そしてあくまで聡明で、造船場にとっては少し厄介な監督の方が船の注文主にとっては益が有るのである。義経が造船場で景時は工事監督で、頼朝は無論注文主である。景時と義経が仲が好く無くて喧嘩迄したのは、造船場も監督も賄賂など贈らない立派な自信の有る造船場で、監督も造船場に吞まれて仕舞わない立派な手強い監督で、そしてそういう造船場に仕事を託し、そういう監督に監督させておいて、澄まして座布団の上で煙草を飲んで居た注文主も実に立派な注文主であると云わなければならない。景時を憎むよりも景時と義経が意地を張り合って競合した様子を考えて、二人と頼朝とが皆立派な人であることに感心して、そして特に敵役を引き受けて厳然と遣ってのけた景時に寧ろ同情してもよいくらいである。義経に対してだけでなく、戦闘に於いてだけでなく、一切の人々に対して、一切の場合に対して、景時は実に憎まれ役をしたのであるが、この憎まれ役が有った為にどのくらい頼朝の仕事が具合よく成し遂げられたことか知れないのである。秀吉には石田、信玄には跡部や長坂、これ等は戦争では意気地が無いが、どうも矢張り憎まれ役を引き受けた者で、講談や軍書に現れているような御機嫌取りの佞奸者では無いらしい。そうで無ければ秀吉や信玄のような恐ろしい人が、講釈師や軍書作りよりも馬鹿者のようで少し辻褄が合わなくなる。信長や国姓爺(こくせんや)は自分で憎まれ役を勤めた気味があるが、大将が自分で憎まれ役を勤めるなどは面白くない。家康公は憎まれ役に誰を用いたと云うことも無いようだが、これは或る人を或る時だけづつ用いられた為らしい。ナルホド人を用いないで時を用いる方が好いかも知れない。とにかく古今を通じて、憎まれ役の大適任者は梶原景時だが、その代わり武勇は二度の先駆けで知られ、文章は早速の連歌や一族の詠歌属文で知られ、心の剛なところは大庭景親と伏木の争いをしたことで知られ、思慮の深いことは頼朝を見逃したことで知られているにも拘わらず、人々に憎まれて終わりを善くしないで仕舞った身の上を、恨みも何も無い後世の野次馬にまで散々に悪く云われている損な役回りを受け持ったのだから、案外人は好かったのかも知れない。が、梶原ひいきなどは一人もいないし、私なども矢張りどうも好かない。頼朝も景時同様に判官びいきの心から、余り好く思われない人である。中には判官びいきが高じて、「頼朝は大功の有る弟の義経を嫉み嫌って遂に之を殺した残忍な人である、酷薄な人である、義理も人情も知らない人である」と云って酷論痛罵する人もある。しかし義経も宜しいばかりでは無い、自分に功績が有ると云っても、兄の頼朝がまだ昇殿を許されていないのに、兄に相談しないで叙位任官したり、平家一族の時忠の娘婿になったりして、その上の苦し紛れの行為なので罪は少ないようなものだが、文治元年十月を以って強訴して兄頼朝追討の勅許を頂戴したりしたのは、どうしても免れられない罪の有る事で、旗持になっていた安達清経と云うのが実は頼朝の方から来ていた隠し目付、即ち今で云う探偵だったから堪らない、兄を追悼する勅許を取ったと感づくと直ちに鎌倉へ逃げ下ってコレコレだと告げると、「アア、九郎は頼朝の敵によくも成り居った」と頼朝が云って、ソレッと云うので義経退治が始まったのである。元来世の中と云うものは奇妙なもので、手柄を立てたら手柄を立てたのだからそれで好さそうなものだが、目上を凌ぐほどの手柄を立てると身は必ず危ない。義経が木曽や平家を滅ぼして首尾よく大手柄を立てたその時は既に、憐れにもオチオチこの世を楽しむことが出来なくなっていたのである。実に憐れだが仕方がない。仮に頼朝が義経が凱旋した時に頓死したとしても、義経のその後が安穏だったかどうだかは覚束ない話である。何も頼朝が好んで義経を殺したとばかりは云えない。義経にも自分自身を面白くない運命の下に置くような種を沢山持っていたと云いたい。しかし今ここで義経を論じる気は無い。ただ判官びいきの余りに人は頼朝を甚だ悪く云うが、頼朝と云う人は一体どのような人で有ったろうかという話の端緒をひらくために、判官びいきと云う言葉を借りて来た迄なのである。頼朝と云う人はどういう履歴を持ったどんな人なので有ろう。②に続く