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幸田露伴の小説「幽情記④ 水殿雲廊」

幽情記④ 水殿雲廊

 男女の縁も様々である。十年交際して遠く離れ離れになる者もあり、ある日新たに知って華燭の典に輝く者もある。中でも黄鶴山樵(こうかくさんしょう)と名乗った中国・明初期の詩人、王蒙と兪(ゆ)氏との間のようなことは、偶然の一章二十八文字が、突如として幸福な結婚の歓びを招く、まことに思いもかけない縁と云えよう。
 「明史」巻二百八十五に記す。王蒙、字(あざな・通称)は叔明、湖州の趙孟頫(ちょうもうふ)の甥である。詞文に敏く、広大を尚ばず、山水を描くことが巧みで、また人物も能く描く。若い時に宮詞(きゅうし)を作る。仁和の兪友仁(ゆゆうじん)がこれを見て、「これ唐人の佳句のようである」と云う。ついに妹を王蒙に妻(め)合わす。
 一篇の詩が、唐詩に迫るものあって人の激賞を博し、その妹を得ることになる。筆下に花を生じると云うのも嘘ではないなどと軽口も出るような事である。その詩に云う、

    宮詞

  南の風は吹きて 断つ 采蓮(さいれん)の歌、
  夜の雨は 新たに添う 太液(たいえき)の波。
  水殿 雲廊 三十六、
  知らず 何れの処か月明(げつめい)多きを。
 (南風が吹いて採蓮の歌声を吹き消し、太液池の波に夜雨が注ぐ。宮中には水殿や雲廊が三十六在るが、月の光を面白く見るのは何れの処であろうか。)

 一見したところ、ただ美しく宮中の夏の夜の景色を描き写しているだけのようであるが、反復して誦唱し味わうと実に好い。人はともすれば言葉尽きれば意も尽きる的な文を読み慣れて、このような言葉終わって意終わらない詩の妙味を味わうことに慣れていない。祇園南海は新井白石の弟子で、詩名を世に振るい出藍の誉れを得た人であるが、後進のために此の詩を親切丁寧に評釈しているので、ここに提示してその恵みを分かち合いたい。
 南海は言う。「この詩は流麗で清新、実に高く妙(たえ)なり、さて詩の意(こころ)は宮中の情態(ありさま)を述べる。官女が戯れ合って蓮花(はちす)を採る頃、南の風がそよそよ吹いて歌声をも吹き断つ季節に、夜雨が新たに太液池の水を打つ面白い景色、何れも楽しむべき風情である。この宮中には、水に臨んだ殿閣や雲に聳える廊廂がおよそ三十六もあろうか、その中で天子の寵愛を得て月の光を面白く見る人は誰であろう。月多しと云うのは、酒宴歌舞の賑わう席では月も大層照り輝くように思えるので月多しと云うのである。天子の寵愛も無く独り深宮で眺めるのは、月の色も寂しく輝きも少ない。詩の表(おもて)はこのようである。裏へ徹(とお)ってこの詩を見ると、南風夜雨の二句のような景勝は宮中の三十六の殿閣の何れにも有るのに、どうして君恩は唯一人に深く特別に月明を褒められて、その他は皆怨みを含み涙に夜を明かすのか、君恩の偏(ひとえ)に片寄って平等でないことが恨めしいと云うよりも、君たる人がその心に叶う人ばかりを寵愛して、天下の賢才が時に遇わずして下位に捨てられていることは、悲しいことであると云うのだと解釈しても通じるであろう。詩を説くにはその詩の表裏を知って、まず表ばかりを説くがよい、詩を作った人も初めは表ばかりを作る。作った後に、名人の詩であればあるほど感情は深く、裏へ透るといろいろの意味がある。詩を表だけと心得て説けば、そればかりに限られて詩の妙用は得られない。「詩経」の深い理解が無ければ説くことは難しい。孔子や孟子が詩を扱ったようにして、能く味わうが善い。」と南海は詩を説く、まことに巧妙である、しかしながら作家でなければこうは出来ないだろう。ついでに記す、南海の評釈を載せた書では、この詩の作者の名を誤って高啓としているが訂正する必要がある。
 世の皆が、叔明がこの詩に因って兪氏を得たとしていることは、「明史」が記す通りであるが、しかしながら詞人の逸話は多くは軽薄な輩(やから)の受売り話から出る。美し過ぎる話や悪辣な言葉、蜃気楼が海に現れたり虎が街中に暴れるようなことになる、なかなか素直には信じられない。朱竹坨(しゅちくだ)は凌雲翰(りょううんかん)の「柘軒集」に、「王叔明(王蒙)の室、張氏を悼む」という次のような詩が有ると云う、

  結髪(けっぱつ) 夫婦と為り、
  齊眉(せいび) 主賓の若(ごと)し。
  山は黄鶴を同じうして隠れ、
  書は彩鸞(さいらん)に迫りて真なり。
  蘭樹(らんじゅ) 人皆羨み、
  蘋蘩(ひんぱん) 爾(なんじ)独り親しくす。
  情傷(じょうしょう) 坦)腹(たんぷく)の者、
  穴に臨み 重ねて巾(きん)を沾(うるお)す。
 (結婚し夫婦と為り礼儀正しく尊敬し合うこと、主人と客のようであった。黄鶴山では兵乱を避け二人で隠れ、書を書いては彩鸞に迫って真。お釈迦さまの御本地に生える蘭樹は人の皆羨むところだが、私を置いてお前独りが親しくする。苦楽を共にした私は墓前に再びハンケチを涙で濡らす。)
 
と。即ち王蒙は張を娶(めと)ったので、兪では無いと云う。結髪より夫婦となるの句に拠れば、王蒙は若い時から張氏と縁(えにし)を結んでいたのである。山は黄鶴を同じくして隠れるの句に拠れば、王蒙が元末期の乱に際して黄鶴山に隠れた時に、張氏もこれに随ったのである。であれば、王蒙と張氏は中年まで仲睦まじく暮らしていたのである。「明史」の若い時云々と云うのは疑わしい。或いは又、王蒙が張氏を喪った後に兪氏を得たのであるかと思う。又、「七修類藁(しちしゅうらいこう)」にはこの詩は王蒙の作では無く、湖州の王旬(おうじゅん)、字は子宣の作であって、かつ詩の明月の二字は晩凉であるとしている。事の真偽は今は定かに知ることが出来ない。
 王蒙は後に胡惟庸(こいよう)の私邸で会稽の郭伝僧の知聡(ちそう)と共に画を観たが、惟庸は後に反乱を起こして罰せられ、王蒙も累罪となって獄中で死んだと云う。詩によって妻を得て、画によって死を招く、人の運命ほど分からないものは無い。
(大正四年七月)

注解
・王蒙:中国・元末の画家、詩も能くする。
・趙孟頫:中国・南宋から元にかけての政治家・書家・画家、字は子昂、号は松雪。
・祇園南海:江戸中期の儒学者、漢詩人、文人画家。服部南郭、柳沢淇園、彭城百川とともに日本文人画の祖とされる
・新井白石:江戸中期の政治家、学者。
・高啓:中国・明初の詩人。
・朱竹坨:朱彝(しゅい)尊(そん)、竹坨は号(名乗り)、中国・清の文学者。「明史」の編纂に携わる。

・胡惟庸:中国・明の建国の功臣で、左丞相(宰相)となる。
・胡惟庸の反乱:謀叛の疑いを受けて洪武帝によって胡惟庸をはじめ胡惟庸に近い者はすべて処刑された。しかし謀叛の事実はなく実際は洪武帝による粛清事件と云われている。



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