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幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話・餅②」

 餅を語る文に、古(いにしえ)に束晳(そくせき)の「餅賦」一篇がある。束晳,
字(あざな)は廣微(こうび)、晋の武帝(西暦二百七八十年)の時の人である。漢の踈廣の子孫であって、踈の字の足を取った束を姓とする。学問を好むことで博士の曹志の称えるところとなり、また古(いにしえ)に通じることで司空の張華の推薦するところとなる。太康二年に汲郡で竹書が数十車発見されると、晳は著作に携わっていることにより竹書を見ることを得て、難解な竹書を解読したと伝わる(「晋書・束晳伝」)。これによって経伝とは異なった書が世に伝わって今に至る。功績もまたは少なくないのである。晳は「餅賦」で、

 礼、仲春の月、天子麦を食う、而して朝事の籩、麦を煮て麪を為す。内則、諸饌、餅を説かず。然らば則ち麦を食うと云うと雖も、而も未だ餅は有らず。餅を作るや近し矣。(礼記によると、仲春の月に天子は麦を食う、そして朝廷の行事では器に麦を煮た麪を盛る。内則や諸饌では餅を説いていない。であれば、則ち麦を食うと云えど、未だ餅は無い。餅を作るのは近来のことか。)

と云う。思うにこれは餅賦の序であって本文ではない、文の気配によってそれは分かる。また韻を用いないことでもそれを察することができる。晳の意(おもい)では餅というものは周の時には未だ無く、前漢・後漢・三国の時代から次第に世に出てきたとする。餅の字は史游の「急就篇」や許慎の「説文解字」や劉熙の「釈名」に出ているが、古文や籀文には出ていない。字は食に従い、并に従い、或いは麦に従い、并に従い、会意して成る会意文字である。秦の時代のものと推知すべきである。以下は餅賦の本文である。

 若夫(もしそれ)安乾粔籹(あんかんきょじょ)の倫(りん),糺耳狗后(きゅうじくご)の属,剣帯案成,餢飳髄燭,或いは名は里巷に於いて生じ,或いは法は殊俗に出ずる乎。(さて、安乾粔籹の仲間や糺耳狗后の類、剣帯や案成、餢飳や髄燭の名は、或いは町中で生まれ製法は民間から出るか。)

 年遥かに経(へ)て、地を遠く隔てる。文字は知っても意味は解り難く苦労する。今強いてこれを読むと、若夫は文のきっかけの辞(ことば)であって解釈の必要はない。粔籹は「倭名抄」がこれを読んで「おこしごめ」としたことで誤って今に伝わる。粔籹は「おこしごめ」ではない、「おこしごめ」は饊(さん)である。顔氏の「急就篇注」に「饊の音(おん)は散である、稲米飯を熬(い)って発散(膨張)させるのである。古(いにしえ)はこれを張皇(ちょうこう)といい、膨らせて大きくすることを目的にする」とある。これは唐の時に「おこしごめ」を饊としたのである。「説文」に「饊は稲を熬る、粻䅣である」とある。これを思うと漢の時も饊を「おこしごめ」としたのである。思うに長は大である、皇も大である、稲の今「もちごめ」と云うのを熬れば膨張して大きくなる、これを長皇と云う。それが米なので粻の字が生まれ、そのもとは禾(いね)なので䅣の字が生まれ、それが食べ物なので粻䅣(ちょうこう)の字が生まれたのである。これを熬ると発散(膨張)する、そのために饊の字が生まれたのである。おこすは発するである、おこして大きくし軟らかくする、それによって「おこしごめ」の語が生まれたのである。「おこしごめ」が饊であり粻䅣であるのは疑いない。粔籹の二字は「説文」には出ていない、宋の徐鉉による「新附字」に至って「粔籹は膏糫(こうかん)である」と出ている。ただ宋玉の「招魂」に「粔籹蜜餌些か粻䅣有り」の句がある。ここに至って粔籹と粻䅣即ち饊即ち「おこしごめ」とが関係する。また王逸の注では「粻䅣は鍚(よう)也、言うこころは蜜を以て米麪を煎熬して粔籹を作せるに和し、擣黍して餌を作し、又美鍚有り、衆味甘美なる也(粻䅣は鍚である、その意味は蜜を米麪を煎って粔籹にしたものに加え、黍を撞いて餌を作り、また見事な鍚となる、味が混じり合って美味しい)。」とあって文章が明晰でない。また「説文」の鍚(よう)の字の解釈には「鍚は飴が饊に和したものである」とあり、揚雄の「方言」では「鍚は粻䅣である」と云う。ここに於いて鍚は即ち「あめ」、粻䅣と饊は即ち「おこしごめ」、粔籹は即ち膏糫と互いに混乱して、はっきりしなくなった。しかも「倭名抄」の糫餅の條文では、「廣韻」を引用して誤って「文撰」として「膏糫は粔籹と云う」とし、粔籹の條文では誤読脱文を挙げて、「文撰注」に云う「粔籹は蜜を以て米に和し煎り作る也と云う」と云う。まったく「倭名抄」は乱脱の悪本であり、狩谷棭斎を苦しめたこともまた甚だしい。しかしながら粔籹の何物であるかを考えるには、王逸や顔師古や源順に従うよりも、先ずは賈思勰(かしきょう)に訊くとよい。賈は北魏の人で古(いにしえ)から遠くなく、且つその著わすところの「齊民要術」十巻は、農耕から飲食に至るまで、多くの事実を記載して、作文するところが少なく信用できる。同書の餅法第八十二に記す、「膏糫一名は粔籹。秫稲米屑を用いて、水蜜之を溲ね、強沢なること湯餅麪の如くし、手搦団して、長さ八寸ばかりなる可からしめ、屈して両頭をして相就かしめ、膏油もて之を煮る(膏糫は一名を粔籹と云う。秫稲米屑を用いて水蜜で之を溲ね、湯餅麪(とうへいめん)のような強い麪にし、手で捏ねて丸め、長さ八寸ばかりにして、折って両端を合わせて、膏油でこれを煮る)。」とある。であれば粔籹は即ち「倭名抄」で云ういわゆる糫餅であって、「まがり」と云うものがこれである。「土佐日記」の宝螺の形のまがり餅も、大嘗祭の勾り餅もこれである。張驥が箸で粔籹を刺してこれを食ったと云うのも、今のドーナッツのようなものであれば、刺して食べたのであろう。李徳裕が、客が手で食ったその手で画に触れたのを怒ったと云う話も、蜜や膏で画を汚したからであろう。「おこしごめ」であれば刺して食うことも無いので、その指が画に触ったとしても許せるはずである。「七部集」の俳句に「ものしずかなるおこしごめ売り」というのがある。この「おこしごめ」を飴で固めて菓子にして、今は俗にこれを「おこし」と云う。このように支那においてもおこし米を用いて粔籹を作ることもあるだろう、そしてこれを饊子と云い粔籹と云ったことも自然とある筈のことであれば、古今からの言語文字の転変を忘れて苛論するようなことは無論避けるべきではあるが、「餅賦」の粔籹は「まがり餅」や「ドーナッツ」のようなものであって「おこし米」ではない。(③につづく)
 
注解
・束晳:中国・晋の文人。「餅賦」などの著者。「汲冢書」の解読をした。
・竹書:竹簡のこと。ここでは中国・西晋時代に汲郡(河南省)の魏王の墓から発見された竹の書かれた文献「汲冢書」をいう。
・礼記:儒教の経典。「周礼」、「儀礼」と合わせて「三礼」と云う。
・古文や籀文:ともに異字体漢字の一種。
・会意して成る文字:会意文字のこと。
・徐鉉:中国の五代十国時代から北宋代の政治家・学者・書家。「説文解字」の校訂者として知られる。
・宋玉の「招魂」:中国・戦国末期の楚の文人。『楚辞章句』に引用されている詩「招魂」は宋玉の作品として伝えられている。
・王逸の注:中国・後漢の官僚で文人。「楚辞」の注釈書である「楚辞章句」の著者。
・「廣韻」:中国・北宋の陳彭年らが先行する『切韻』『唐韻』を増訂して作った韻書。
・「文撰」:中国・南北朝時代に南朝梁の蕭統によって編纂された詩文集。
・賈思勰:中国・南北朝時代の北魏で活躍した官僚で文人。「齊民要術」の著者。
・「土佐日記」の宝螺の形のまがり餅:京へ帰る途中の山崎辺りの店頭に「まがりと書いてある看板」を見る。当時もてはやされた唐菓子のひとつ「まがり」が、人々に売られていたことを思わせる一文。
・張驥が箸で粔籹を刺してこれを食った話:
・李徳裕:中国・唐の政治家。
・「七部集」の俳句に「ものしずかなるおこしごめ売り」: 荷兮の、かんじきの路もしどろに春の来て(かんじきをはいてしか歩けないほど雪の深かった山道も今や春が来て雪解けの泥んこ道となっている。)の句を受けて詠んだ越人の句。そのぬかるんだ道を物静かな「おこし」を売る行商人が通るということ。


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