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幸田露伴の「努力論⑫ 説気 山下語」

説気 山下語

 「天下を通じて一気のみ(天地の気は一ツである)」とは『荘子・知北遊篇』の言である。その大所から説けば、全ての現象は皆一気で、一気が百変して百花が開き、一気が千転して千草が萌えているのである。山は峙(そばだ)ち、水は流れ、雲は屯(たむろ)し、雨は降る。春は暖かく、秋は冷たく、清白(せいはく)と濁黒(だっこく)と、正と邪と、賢と愚と、通(つう・流れ)と塞(そく・滞り)と、伸と屈と、人と動物と、神と鬼と、これ等は皆一気が二分して、旋回し、曲折し、摩減し、衝突し、交錯して生じるのである。ただその小所から論じれば気もまた種々ある。蘭・竹・梅・菊にも各々その気があり、しどみ・梨・柚・橘にも各々その気があるのである。よってこれを纏めて語れば広大な一気であるが、これを分けて語れば方処・性相・名目にそれぞれ差がある。
 試みにこれを説くと。気は物から発する知ることも捉えることも出来ない機微のことを言ったのである。その物の気は即ちその物の本体と同じで、まるで本体の微分子のようで、一にして二、二にして一、気あれば必ず物あり、物あれば必ず気がある。気と物とが離れれば即ち物は既に物ではなく、物と気と失えば即ち気は既に気ではない。気は即ち物から生じる物で、物は即ち気に基づく気である。静止時にはこれを物と云い、動作時にはこれを気と云い、本(もと)に着してこれを物と云い、末(すえ)に着してこれを気と云うのである。例えば水はこれ物、水上の湿気はこれ水の気、火はこれ物、火の周りの乾熱はこれ火の気である。水あれば自然と湿潤、この湿潤は正に水から発し来る、火あれば自然と乾熱、この乾熱は正に火から発し来る。湿潤や乾熱は微かなもので知ることも捉えることも出来ないとはいえども、水気や火気と本体の水火とは、二にして一、一にして二、気はまるで本体の微分子のようであり。もし水気が尽き湿潤の作用が乏しくなれば水は既に涸渇しているのであり、火気が尽き乾熱の威力作用が衰耗すれば、火も既に余燼(よじん)となっているのであって、水火の本体が無ければ湿乾の気もまた無いのである。
 で、物には物の気が有る。蘭には蘭の気がある。「蘭気(らんき)新酌に添い、花香(かこう)別衣を染める」という蘭気はそれである。菊には菊の気がある。「荷香(かこう)晩夏に消え、菊気新秋に入る」といえる菊気はそれである。神前に供える鬱鬯酒(うつちょうしゅ)の気は即ち鬯気(ちょうき)である。梅には梅気、竹には竹気がある、松に松気、茶に茗気(めいき)、薬の気は薬気、酒の気は酒気、毒気があり、蟒気(ぼうき・蟒(おろち)の気)があり、霜気があり、雪気があり一切の種々の物に一切種々の気が有る。邦語に「にほひ」というのは殆んどこれ等の気というのに当たっている。「にほひ」の語は、香臭を称するのが今の常識になっているが、それだけでは無く、色の沢(てり)、声の韻、剣の光、人の容(かたち)、全てこれを「にほひ」と云うのである。香臭ある物の気は即ち香臭であるから、蘭気・茗気・酒気・薬気といえば詰まりは蘭の香り、茶の香り、酒の香り、薬の香りというのに当たって、気を「にほひ」と理解して実際に使用するのである。また剣の光や、人の容(かたち)は即ち剣の気、人の気であるから、これを「にほひ」と云っても、「にほひ」の古い用語例に於いて通じるのみでなく、気の意味を明らかにした語としても良く通じるのである。竹気・霜気・雪気などは、竹の香、霜の香、雪の香とは云い難いが、これを竹・霜・雪の「にほひ」とすると、「にほひ」の語の本(もと)の意味に照らして不可でなく、「にほひ」の語は実に能(よ)く気の字に当たっているのである。
 水が熱を得て蒸発するのに当たっては、いわゆる「ゆげ」の昇るのを見る。ゆげは湯の気である。甑上(そうじょう)の気(甑(こしき)の上に立ち上る気)というものは即ちこれ「ゆげ」である。およそこのようにその物から立ち昇り横走り遊離し、有るのか無いのか見えるような、見えないようなものをも名付けて気という。海潮の気を潮気といい、山岳の気を山気というように、河気といい、沢気といい、野気といい、泉気といい、虹気といい、暈気(うんき)といい、塵気(じんき)といい、雲気といい、日輪の両傍(りょうわき)に現われるものを珥気(じんき)という類で、実に数限りもないが、これ等もまた皆その物より発するその微分子のようなものを称すると理解して差支えない。山沢河海(さんたくかかい)の微分子と云えば甚だ不明なことであるが、つまりは山沢河海の影のような香りのようなもので、例えば人のオーラのような山沢河海の気象、即ち様子のようなものも気というのである。
 中国には昔から「望気の術」ということがある。戦闘の道は両陣相対し相争うのであるが、酒には酒の気、茶には茶の気の有るように、軍陣には軍陣の気が有る理屈であるとすれば、軍陣の上にはその軍陣の内質に相応した外気が立ちのぼるはずである。そこで軍気を考え観察して、その軍兵を見ないで既にその意気、即ち軍陣の内質や本体がどうであるかを知り、そして我と彼を比較して、勝敗の利不利の結果を予測しようとするところから、その術は生じたのである。例えば決死の覚悟の軍隊の上にはどんな気が立つ、驕(おご)り慢(あなど)っている軍隊の上にはどんな気が立つというようなことを、一々観察して誤らないようにするのが望気の術で、古くは別成子の『望軍気の書』六篇図三巻が存在したことは古史がこれを記している。その書の説くところは不明だが、さぞかし望気の術を伝えてそして気の形象を図にして、このような気を現わす軍はこのようであると示したものであろう。後(のち)になって有名な勇将李光弼(唐代の部将)の『九天察気訣』などいうものも嘘か仮説かは明らかでないが、その書名を伝えている。歴史や小説に軍気を望んでその勝敗を予想した例も絶無ではない。日本に於ける望軍気の術は支那からの伝来であるか邦人の発明であるか知らないが、いわゆる兵法家達の秘伝として珍重されたもので、何れも板本(はんぼん・木版本)ではないが、その稀有奇怪な気の象(かたち)を描いた着色図、及びその講説を記録したものを目にした人は少なくないだろう。そしてまた各種の戦記や野史(やし・在野の人が編纂した歴史書)にも軍気に関する記事が散見するのを認める。勇猛果敢な軍隊の気は黒み、薄弱にして敗退しようとする軍隊の気は白けるというようなことは、いま急に某の書の某の章に出ていると挙げられないけれどさぞかし何人(なんびと)も記憶していることだろう。
 鉱山は特殊な鉱物を埋蔵しているので自然と平々凡々な普通の山とは異なるから、気も自然に各々相異なる理屈である。そこで紅気(こうき・虹の気)あれば玉あり、赩気(きょくき・赤い気)あれば銅ありなどと記している『望気経』も有れば、鉱物採取の事を記した『天工開物』のような書にも僅かながら望気の事が載っていたと記憶している。日本にも佐藤氏の『山相秘録』のような書があって、鉱山を鑑定するのに望気の法ですることを説いたものもあり、また実験を重んじて学説を軽んじる実際家の鉱山師等は今も猶、望気の秘伝に拠って山を判断しているのである。単に望気の法だけで鉱山の有望無望を考定するのは愚かであるが、既に何等かの物があれば又自然と何等かの気が有る理屈であるから、気を望んで山を占うのも一理無いことではない。
 天象と人事は密接に関係するとの思想は中国には昔から存在していた。大旱(おおひでり)に際して聖王湯(中国、殷王朝初代の王)が自分を責めた事実は史上に著明であり、竇娥(とうが)が冤罪で死んで暑月(しょげつ)に霜を飛ばした事は戯曲(中国の元曲、竇娥冤)の好題となっている。このような思想の傍流に発生したと考えられる時と人事との関係は、書籍では『礼』や『呂覧』に就いて窺い知れる、実にインドやヨーロッパのような宗教らしい宗教を持たない、常識一点張りの中国国民の中にも、宇宙を人格化して宇宙の根本は神威霊力を持ち、しかも情理を解知し、これに反応する作用を持つとする思想が存在したことを知る。およそこれ等の思想と関連してか或いは関連しないでか、或いは正しく関連しないで斜めに関連したのか明らかでないが、星気を読んだり雲気を望んだりする道は早くから中国に於いては行われた。星や星座近くの気、日や天の気を観る術は何れの国にも昔から有って、占星術が天文学の先駆となったことは、錬金術が化学の先駆となったようなものである。中国の占星の術は星の位置と他星との交渉と、光威とその付近にたちこめる霞気(かき)の類との状態に照らして人事や運勢の吉凶を判断するのであって、星を占うという語と共にしばしば中国の書に於いて遭遇するところである。戦陣のことに関してだけでなく、単に気を望んで禍福や盛衰の様々なことを考える術、即ち広い意味での望気の術もまた早く中国に行われていた。従って古史の『天官書』には種々の気に就いてのテクニックが見えている。冠気・履気・少室気・営頭気・車気・騎気・烏気などというのはその形象によって名があるので、白気はその色、善気喜気等はその結果によって存在する名であろう。軍兵は国の大事であるから望気の道もこれ等の語も十の九は軍陣の事に関しているが、気を以って事の応答とする思想は単に軍陣の事だけに局限されているのでもない。聖人・偉人・帝王・豪傑には、星辰これに付し、雲気これに応ずると信じられていたことは歴史や雑書が我々に語るところであるから、望気の術が軍陣以外の事を包含していたことも自然と明らかである。例えば中国の占卜(せんぼく)の道の書である『易』が軍事の事を説くことが甚だ多いとしても、恋愛婚姻の事をも説いているようなものだろう。
 さて凡そこれ等の気というものは、煙のように、雲のように、陽炎(かげろう)のように、遠くからは望めるが近づいては見えないものを言うので、そこで望気の望の字が下されているのだろうが、また全く見えないものを言うのでは無いことは、形や色や方角が記されていることに照らしても明らかで、覇気や秀気や才気などという気とは異なっているのである。老子(中国春秋時代の哲学者)が関所を出ようとするに先だって関尹喜(関所の役人)が望んで之を知った気は紫気である。范増(中国、秦末の知将。楚の項羽に仕えた)が望気の術を良くする者に問いて、高祖(劉邦、中国前漢の初代皇帝)の大成することを知ったその気は龍虎五彩をしていたとある。呂后(劉邦の妻)が微賤(びせん・低い身分)の時、高祖が芒碭山に隠れたのを見出したのは高祖のいる所の上に雲気があるのを認めてだとある。呂后は人相見をすることを能(よ)くした者の娘である。光武皇帝(中国後漢の光武帝)が未だ決起しない時に南陽からその居処の春陵を望んで、「佳なるかな、気や、鬱々葱々然たり」と評したとあるからその気の象(かたち)は秀茂する森林の様であったのだろう。そこに蘇伯阿という望気の術の上手な者の名が見えているがこれは漢末であり、水に没した周鼎(しゅうてい・古代中国、周王朝の鼎・・王権の象徴の器物)の在る所を望気の術によって調べた新垣平は漢初の人である。紫気を望んで宝剣を知った張華は晋の人である。そして同じ晋の世の仙人葛稚川(かつちせん)はその自叙伝に望気の術を学んだことを記している。これ等によって考えれば中国には前漢・後漢・晋・唐・宋の昔から近時に至るまで望気の術が伝わっていて、そしてそれが歴史の装飾と天命の護符となり神秘の学の一科のような観をなしていたことが解る。それで天命の革(あらた)まる時などに気の話のない事は殆んどないくらいである。事は荒唐無稽に近いけれどもしかし一理なきこともない。大坂の陣(冬の陣、夏の陣)の起こる前に当たって気が騰(あが)ったことは余程著しかったと見えて、望気の術を知る人が指摘したのではなかったが大いに驚異して、そして占うのに焦氏の『易林』を以ってしたという記事が我が史上に見えている。平安朝前後の歴史には稀まれに異気の記事を見る。俗間に火柱などというのも気の事である。我々の眼に親しい龍宮城の図なども、『史記』の『天官書』にある蜃気(しんき・大蛤の吐く気)の解釈に基づいて出来ているので、気の事もかなり普通的になっている。およそこの条(くだり)に説ける気というものは皆彼(か)の蜃気のように、描画が出来、望見出来るものである。
 気という語はそれ等に用いられるばかりでない。望見しないでただ考量の作用を持つものを気と言った場合がある。例えば山気の多い男、沢気の多い女と『准南子』に記してある山気(さんき)・沢気(たくき)の気がそれである。此の山気の男多しという山気は、「山気日夕(にっせき)佳なり」とある有名な陶淵明(中国六朝期の詩人)の詩の中の山気とはやや異なっている。また沢気の女多しとある沢気は鮑照(中国南北朝時代の詩人)の詩の句の「沢気昼体に薫ず」とある沢気とは同様に異である。『准南子』のは山沢(さんたく)の精神随気の力というような意味でその気が無形無臭のものを指している。陶鮑の詩の句は或いは望み或いは感知するもので、山沢より放散する漠然とした気を指している。もとより同語であるから、その間にひとすじの意味の相通じるものが有るは無論であるが、詳しく味わえば自然と僅かながら差がある。なほ『准南子』には、障気に盲者多く、嵐気に聾者多く、林気に瘤者多く、木気に傴者多く、岸下の気に腫者多く、石気に大力者多く、谷気に痺者多く、丘気に狂者多く、陵気に貪者多く、流水の気に仁者多く、暑気に夭者多く、寒気に寿者多しなどと説いている。このうち、寒暑とあるは寒冷の地、暑熱の地を指すので、これら皆地方の特徴と人の身心との関係に就いての観察を語ったのである。中には観察の中(あた)っているのもあり中(あた)らずと思われるもあるが、大体に於いて地方の特徴に基づくところのその土地の気が住民の心身に影響を与えることは必然の理屈で、かの俊才偉人の伝を立てるに当たって「山水秀麗の気、是(かく)の如き人を生ず」などと、通常の伝記作家が陳腐の語を記すのは、その人の特異な努力や苦心を理解しない愚説で甚だ忌むべく嫌うべきものであるが、俊英の士よりは寧ろ平凡の民が土地の気を受けて、そして他地方の民とは自然と異なった性情・才能・体質・持病を持つことを認めない訳にはいかない。北条時頼(鎌倉幕府第五代執権)に仮定される『人国記』なども、地の気と民風士気との関係の観察を語っているのである。これ等の地の気の湿潤・乾燥などということは、望気術の気のように目に触れるものではないが確かに人に対して作用するもので、その湿気が水辺に親しむ釣客をしてリューマチに悩み勝なことは外国の釣書にも明記され、乾気の強い土地が或る病者に快癒を与えることなどは実験者によって強調されているところである。海の波の激しいところにオゾンは自然に発生し、松林の密なところに雷が大いに落ちる時オゾンが発生するようなことは単に地の気とは言い難いが、これ等は最も著しく人の心身に影響するので、地理の招くところであるから地の気のうちに含まれよう。軽井沢のように気流の流れる落ちる地や、神奈川、静岡海岸のように北に高山の障壁があり南は大洋に臨んでいる為に気温の平和を得ている地も、地気清爽とか平和とか言えるだろう。泥沼の気が立つ地や瘴気の多い地もまたその地の状態によってそうなるのだから、昔ならば地の気が何々であると云うだろう。およそこれ等の気というのは指すところ漠然として空論の嫌いはあるが、見えないでしかも或る作用を為すものの当体を気と言ったのである。
 時に関してもその時の作用を為す当体を気と言っている。春気・夏気・秋気・冬気というのは、各季節の気で、春気は愛、夏気は楽、秋気は厳、冬気は哀ということは、四季の作用上から考えて、四季の気の性質を抽象的に語ったものである。『孫子』の朝気・暮気・昼気の言や、『孟子』の平旦の気の言(げん)は人の上に係った言で、直接に朝や暮や平旦の上に係った言ではないから措くとしても、また一日には一日の気があるのを認めているのである。十二ヶ月は十二ヶ月の気、二十四節は二十四節の気、六十年は六十年の気があるとしているのは昔の説である。『天元紀大論』や、『五運行大論』や『六微旨大論』は、つまり時にかかる気の論を説いているのである。『六微旨大論』に「天の気は甲(きのえ)に始まり、地の気は子(ね)に始まる、子甲相合するを命(なずけ)て歳立(さいりゅう)という、謹んでその時を候すれば、気(き)与(とも)に期すべし」と説けるものや、「甲子(きのえね)の年は初の気、天の数は水の下る一刻に始まって八十七刻半に終わり、二の気、八十七刻六分に始まって七十五刻に終わる」と説き、三の気、四の気、五の気、六の気に至るまで説くものや、『六元正紀大論』に甲子から癸亥に至る六十年の気を序して論じているものや、およそこのようないわゆる運気論というものは、皆その時にその気の行われると信じていた世での論である。天地の始終を観ること掌上の物を見るようでなければこのような説の当否の判断は出来ない訳であるが、余りにも規則的に某の年は某の気が行われるというのは信じ難く認め難い。それも聖王が治を為して小人が屏息し、天・地・人が相応じ、四境が清平であること儒家の理想のような世であったならいざ知らず、人によって天の乱れることの多い世にどうして規則的に運気が行われよう。儒者流に言を為したところで理屈は自然とこうである。黄帝(中国の伝説上の帝王)の気を談じる言さえ、「至って至ることあり、至って至らないことあり、至って太過(たいか)なることあり」とある。五運六気必ずしも規則通りには行われまい。『鬼臾区(きゆく)』の言に、「天は六を以って節を為し、地は五を以って制を為す。天気を一巡するもの六期を一備となし、地紀を終わるもの五歳を一周と為す、君火は明を以ってし、相火は位を以ってする、五と六と相合して七百二十気を一紀となす、凡て三十年なり、千四百四十気、凡て六十年なり、そして太過不及(たいかおよばず・過ぎたり及ばなかったり。陰陽の不調和をさす)ここに皆見(みなあら)わる」と云っている。なるほど一甲子六十年の間には陰陽の過不足もあろうが、その六十年の中の某の年はこうなると想定されている、例えば丙寅(ひのえとら)の年は上が少陽相火で、火化は二、寒化は六、風化は三なぞと定(き)められていても、それが次年の陽明金が早く迫ったり、前年の太陰土が後れて残ったり、火化・寒化・風化の数が狂ったり、湿化や乾化や熱化があったりしそうなことで、そういう過不足が生じそうに思われる。そうでなければ洪水も噴火も疫病も、判で捺(お)したように三十年目六十年目にきっと来るような次第でなければならないが、実際はその通りではない。いまさら昔の人の『鬼臾区』なんぞを捉えて運気論をする好奇心はないからそれは論じないが、陰陽の交じり合いの状態を時に掛けて論じて気を説いた、そのいわゆる気なるものが望気の事を説いた紫気や龍虎五彩の気などの気とは異なったものであるということを説けば足りるのである。
 人の気、即ち老子や漢の高祖や後漢の光武帝などの事を説いた条(くだり)に挙げた気は、人から発生して外に現われる気であるが、人から立つ気ではなくて、人そのものに現われる気と云うものがある。二者は同じようでもまた実は異なっているので、前者が雲や煙のようなら、後者は色や光のようなものである。蒯通(かいとう・中国秦末から前漢初期にかけての説客)が韓信(前漢の武将)に説く条に骨と肉と気との事を語っているが、人の骨格や肉付きの他に気というものがみえる。気と云うのは例えば色というような、または光というようなもので相書には実に度々出てくるものである。一二例を挙げれば、印堂(いんどう・眉間)に黒気ある者は不幸であるとか、臥蚕(がさん・目の下にある袋状の部分)に黄気あるものは慶事有りとかいう類である。これ等は詳しく言えば黒色黄色と言っても少し違うし、黒光、黄光と言っても少し違うから甚だ言いにくいが、要するに人の面上の一部または全部に何となく見える或るものをいうのである。黒気・蒼気・青気・黄気・紫気・赤気・紅等はその色から云う名で、明・暗・浮・沈・滑・嗇・蒙・爽等はその光から云い、殺気・死気・病気・憂気・驕気・憤気・争気等はその気の持つ意味から名づけた名である。およそ人相術の事を説いた書で気を説かないものはないので、その術を学ぶ者が骨肉の形象を論じるだけで気を察する事が出来ないのなら未(いま)だ至らない者なので、気が利かないおそれを免れないのである。この故(ゆえ)に『麻衣相法』にしろ、『柳荘相法』にしろ、また我が国の『南北相法』のような特色のない書から、『朝睛堂相法』のような支那伝来以外の実験体得を基礎とした独自の書に至るまで、何れも気を説かないものは無いのである。朝睛堂に至っては面上だけでなく人の頭を包んで気が有ることを説いて、そしてその気によって豊満の相、破敗の相が見えると言っているが、朝睛堂のようなものは相書の気と云うものを一歩進めた解釈をしたものだと言える。仏や菩薩の像を描くものが円光をその頭に添えたり或いはいわゆる仏炎を描いたり、キリスト教の聖像及び聖人像に輪光が描いて有ったりするのは、その徳を表するものでもあろうが、相書のいわゆる気というものを朝睛堂が扱ったように扱って超人的に形に現わしたようで面白い。老子や高祖の気は高く昇って天にあらわれ、遠く望んで之を知ることができたほどだったというのに、仏陀などの仏炎は土星の鉢巻や袋蛛蜘の袋のように、僅かにその体に張り付いて小光圏をなしているに過ぎないのは、制約を受けることのない画家が制約を受けること大なる彫刻家に、遠慮している結果のようでおかしく思われる。それはさて措き、相家の気は望気者達の気とも異なって前に述べた通りである。元来中国の相術は、呂后の父や許負(きょふ・中国前漢の人相術者)の話でも伝えられ、これに関した議論は早くから、荀子や王充によって試みられたくらいでその淵源は甚だ遠いが、その成書の有るのは何時頃よりのことか、恐らくは麻衣画灰の事があっての後でもあろうか。ただそのテクニックが古い医書に見えており、医の道に相貌を望み、色を視、気を察する事が有るのを思えば、或いは医の道から分岐派出して別に一道を為したものとも思われる。人中の語は『師伝篇』に見え、明堂の語も『霊枢(れいすう)』中のどこかに見えたと記憶する。尚捜索したならば相家の術語の多くが『岐黄(きこう)』に出るのを見出せるだろう、まして古医書中で太陰の人、太陽の人等を論じているのは殆んど相家の言に近いものがある。しかし相家のいわゆる気というものは医家のいわゆる気というものと一致しているだけではない。
 医家ほど多く気と云う語を用いた者は有るまい。従って気に関する至言もまた少なくはない。医家の書に見える気はその指す所は一ツでなく、従ってその意義は甚だ多く一概に語ることは難しい。『太始天元册』に見えている丹天の気・金天の気・蒼天の気・素天の気・玄天の気などは、天の四方や中央に五色を配した空言のようで何の特別な意義も無いかと見える。そういう価値無きに近い言も有るが『決気篇』に見えた精・気・津・液・血・脈の気は、「上焦(じょうしょう・横隔膜から上の胸部を指す)を開発し五穀の味を宣しくし、膚をきれいにし、身を強くして、毛を艶やかにすること霧や露が注いだようである」これを気と言うと説いてある。これなどは今のいわゆる神経というものを無形物と見做して、そしてその作用を気と名づけたように見える。『気府論』や『気穴論』に見える気の義は今の語を以っては的確に表せない。『衛気篇』に見える営気衛気は、「浮気の経(みち)を循(めぐ)らないものを衛気とし、精気の経を行くものを営気とする」とある。『衛気行篇』を見れば衛気の行くことを説き、「日の行くこと一舍にして人の気の行くこと一周と十分身の八」と説いている。営衛の気のことは、昔の医道に在っては甚だ重要のことに属しその言は理解できるが、肝気・肺気・腎気などと気の一語を乱発多用すること機関銃から弾丸を飛ばすように、風気・寒気・熱気・燥気・湿気等を説き、陰気・陽気を説き、天気・地気を説き、金気・土気・木気等を説き、天運の浩々(こうこう・広大)から神経の微々(びび・微小)まで、その間には気象の事、臓器の事、気息の事、何もかも気の一語に取り尽して、そしてこれに宗気だの元気だの邪気だのということをさえ加えるに至っては、衆語を纏めて説明することは到底不可能であって、古医書に見えるところの気の一語は多義多方にわたっているので概言することはできないというのが正当である。これを詳言して或いは分け或いは合せて、某々の気の義は何、某々の気の意は何々と、煩わしさを厭わなければ出来ないことはないが、強いてこれを努めても労多くして功少なしである。
 気に気息の義、即ち「いき」の義のあるのは普通の事である。前の条(くだり)に挙げた「にほひ」の義などもこれに通ずる事で、物の香(かおり)は即ち物の吐くところの「いき」である。呼気・吸気・出気・入気は即ち「いき」で仙人の餐芝服気(さんしふっき)といい、道家の導気養性といい、『亢倉子(こうそうし)』の「気を嚥み神を養い、思を宰(さい)し慮(りょ)を損し、逍遥軽挙す」といえるのも、『抱朴子』にいえる郗倹(ちけん)が空冢中(くうちょうちゅう)に堕ちて、大亀が口を張って気を呑むのを見てこれを学んだ事や、(史記亀策列伝、早くも人が亀の気を引くことを学ぶことを書し、蘇東坡の雑著、遅れて同様の事を記している)「気を吸して以って精を養う」と『関尹子』の言う気も、「彭祖(中国神話中の長寿の仙人)は閉気して内息する」と言う気も、「気を食う」と言う気も、「気を呑む」と言う気も、この気を「いき」とだけ粗解しては妙味を殺(そ)ぐが、それでも大略「いき」と解して差支えない。人の気があるということは即ち人の生が存在するということで、気が絶えれば即ち生は絶えるのである。この点に於いて邦語は言霊(ことだま)の幸(さき)わう国の語だけに甚だ面白く成立っていて、気の「いき」は直ちにこれ生の「いき」であり、生命の「いのち」は「いきのうち」である。気息の古邦語は「い」で、「いぶき」は気噴(いぶき)であり、病癒(やまいい)ゆの「いゆ」は気延(いは)ゆの約、休憩の「いこふ」は気生(いきは)うである。言説する義の「いふ」は気経(いふ)であり、鼾声(いびきこえ)の「いびき」は、気響(いひび)きの約である。萎頓困敝(いとんこんぺい・へとへとになる)の「いきつく」は気尽(いきつ)くで、奮発努力の「いきごむ」は気籠(いきご)むである。現に「生き」は「いき」にして「生命(いのち)」は気(いき)の内なので、気の「いき」の義は一転して人の精神情意とその雰囲気の義となる。人の気が盛んに騰(のぼ)るのを「いきる」といい、物の気の騰るのも「いきる」という。「いきり立つ」は即ち人が意気壮烈なので、「いきまく」は即ち人の気が風動火燃しようとするのを云い、「いきざし」は心が向い目指す所を心ざしと云うのと同じく、人の意気の向うところを云う。「いきほひ」は気暢(いきおい)もしくは気栄(いきはえ)の義、「いかる」は気上(いきあが)るの義で、古書の『挙痛論』に、「怒るときは即ち気上る」とあるのに吻合(ふんごう・ぴったり合う)しているのを見ても、地に彼此(かれこれ)れの別があっても人に東西の差の無いことを思う。憂悒(ゆうゆう)の義の「いぶせし」は気噴狭(いぶせま)しの意で、憂える者の気噴(いぶき)が伸びやかでない様(さま)の実際に副(かな)っている。これも「悲しむ時は即ち心系急に、肺(はい)布(し)き葉(よう)挙(あが)って上焦(じょうしょう)通ぜず」と『挙痛論』に説けるのに応じている。「いきどほり」は怒りを発せず、気が滞(とどこお)り徘徊(もとほり)して已まない「いきもとほり」の約であろう。厳(いか)し・厳つい・厳めし、啀(いが)むの類の語も、深く基づくところを考えれば、みな気息(いき)に関係しているのかも知れない。これ等の語は気の「いき」の義であることを表わすと同時に、気息に掛けて人身状態を表わしているので、実に気息は人の心理や身状と離れない関係があるからである。気が有るは即ち生があるので気を失えば即ち死ぬことは、韓嬰(かんえい・前漢、『韓詩外伝』の著者)の伝を待たないでも自然と明らかなことである。
 で、人の心身に係わる或る意味を表わすことに於いて、漢字の気の字も、邦語の「いき」という語も、気息の義から一転再転三転して、甚だ含蓄の多い字となり語となっている。色・酒・財・気と連ねて言うときは、気一字でも気息の義ではなく、威張ったり怒ったりすることの方になっている。「いきの荒い」と言うときは、気息の荒いというよりは勢いが烈しいということになっている。酔って凶暴になるのを古い語に「さかがり」というのも、酒気騰(さかいきあがり)の約である。神気・血気・才気・真気などと云う語は姑(しば)らく措いても、『老子』の「気を専(もっぱ)らにして柔を致す」と云い、「万物陰を負いて陽を抱く、沖気(ちゅうき)以って和を為す」といい、『孫子』の「気を併せ、力を積む」といい、『張耳』の「客等が生平気を為す」といい、『関尹子』の「豆(うつは)の中に鬼(き)を摂し、杯の中に魚を釣り、画門開くも、土鬼語るも、みな純気の為す所なり」といい、『荘子』の「座を安くし気を定む」といい、「静ならんを欲すれば即ち気を平らかにし、神ならんを欲すれば即ち心を順にす」といい、『管仲』の「人足らざれば即ち逆気生ず、逆気生じてそして令行われず」と言った類は、みな気息の義から出たものにせよ、気息の義即ち気なりとしては意義を失う、それらの気の義は人の心が或る作用を為すものと見る含蓄の甚だ多い語として見るのが至当である。
 しかしこの条(くだり)では気息以上に及ぶ気の事を説きたくないから、それ等は措いて猶少し気息に関した事を語るなら、「道者は気を足に引く」といい「猿は寿八百、好くその気を引く」と云える類は、大体気息の気と解釈して良いようだが、猶かつ気息の義のみではない。踵(きびす)に於いてする真人の気息のことは『南華真教』(『荘子』)その他の道教に見えているが、それも気息の義だけと解しては通じない。「おきなが」の術は道家から出たものか、日本古伝であるか明らかでないが、「おき」は気息(いき)で養生全命の道であるとされているもので、道家の胎息内息、仏者の調息数息の道に似ている。これも心理と気息とを合わせて処理するところにその術の核心は有ると思われる。いわゆる「おきなが」は単に気息長(いきなが)としては面白味を幾分か失う。この頃行われる腹式呼吸等の説は、突然として新出したものではない。それに類した事は二三千年の昔から行われており、医家・道家・仏家の間には歴々とした存在の跡を認め得る。「いくむすび」「たるむすび」「いくたま」「たるたま」の教えは日本の神伝であろう。そしてその教えに連なって気息に関する事の存在しているのも神伝であろう。いきが単に鼓肺運血の事を為すだけでなく霊妙な作用があることは、昔から伝わっていることで、『延喜式』にしばしば見える呴(く)の字や、『江家次第』に「人形(ひとがた)をもて呴(いきか)けさしめ給う」と見える呴の字は、『老子』に早く見えた字であるが、呴嘘祓禊(くきょばっけい・暖かい息を懸ける、禊とお祓い)の道は必ずしも支那伝来でなく、日本神伝に自然とそういうものが存在していたと思われる。気息の道を以って正を保持し邪を駆逐し、病を厭い寿を全(まっと)うする事は、仏家にもまた存在していたことで、吹気(すいき)・呼気(こき)・嘘気(きょき)・呵気(かき)・熙気(きき)・師気(しき)の六気(りっき)は天台宗の智者大師が示した六気である。吹気は吹いて冷やかにする気、呼気はダン気、嘘気は出気、呵・熙・師三気は『科解』にも全くこの字体無しとしてあり、全く字の態(てい)を以って義としないとあるから、ただその帯びる声を取るので、呵気は「かー」という声を帯びた気、熙気は「きー」という声、師気は「し」という声を帯びた気をいうのである。そしてその調子は、呵は商、吹呼(すいこ)は羽、嘘は徴、熙は宮、師は角であると伝えられている。これ等の六気を以って治病保身の法を説いているのであるが、この気が「いき」の義であるのは疑うまでもない。およそこの条(くだり)に挙げたところは、気の「いき」として理解すべきものがあることを言ったのである。
 以上に挙げた以外に、百姓怨気なしといえる怨気、争気ある者は与(とも)に弁ずる勿(なか)れと云える争気・憤気・怒気・喜気・妬気(とき)など人の感情として理解すべきものも有れば、老子が孔子を評して驕気(きょうき)ありと云った驕気、「陳元龍は湖海の士、豪気除かず」と許汜(きょし・中国後漢時代末期の政治家)が評した豪気・老気・高気・福気などの邦語の「ようす」に相当するようなのも有り、村気・工気・匠気・乳気などの、田舍くさい・職人くさい・乳くさいと解釈して適切なものもある。気の語の用い方は区分し総合して説けば幾様(いくよう)にも分けられて中々際限がない。なので、気の根本の義及び用語例の列挙や分類はこのくらいで止めて、人の気分気合の上にかかる気に就いて語ろう。
 人には器と非器とがある。人の器と非器とを合わせて一ツの人が成立つのである。臓腑から脳髄・骨骸・筋肉・血液・神経・膚髪(ひはつ)・爪牙(そうが)等に至るまで、眼で見ることができ手で触ることができ空間を塞いでいるもの即ち世の、呼んで身とするものはこれ器である。その人の器の破壊されない存在は即ちその人の存在である。また眼で見ることのできない手で触ることのできない空間を塞ぐことなく存在する名づけ難く捉え難いものがある。世は漠然と之を心と呼ぶのであるがこれ即ち非器である。非器が損傷されない存在は即ちその人の存在である。この器分と非器分とを合わせて呼んで人というのである。真実をいえば器も非器も仮の名である、身も心も便宜上の呼称である。人というものをXとすれば、身はXより、料簡・感思・命令等を為すものを除き去ったものを仮に名づけて身というのである。数式にすれば、
X=人
X―(A+B+C+……………)=身=器
というに止(とど)まる。心はまたいわゆる身を人から減じ去ったものをいうに過ぎない。之を数式にすれば、
X―{X―(A+B+C+……………)}=心=非器
というに過ぎない。そして両者を合わせて、
X=X―(A+B+C+……………)+X―{X―(A+B+C+……………)}
というに過ぎない。数の誤りはないが表示式が長くなるばかりでXがどう処理解決されたというのでもない。従って心も身も尚かつXを脱し得ない数式で表わされているに過ぎない。たとえA・B・Cより進んでD・E・F・Gと既知数を多く増したところで同じ事である。しかし便宜上から器と非器とを分かち身と心とを分かって、呼称を便利にしているのが自然の勢いなのである。
 器分を離れて人は存在しない。非器分無しでも人は存在しない。器分を離れたり非器分を離れたりして人が存在するということは、詩境以外には想像することさえ甚だ難しいのである。キリスト教の霊魂や小乗仏教の我体は、器分と分離した後尚(なお)審判を待ったり、六道に輪廻(りんね)したりしていること、提灯から脱け出してローソクが猶光っているようで、またランプが壊れて終(しま)って芯も油壺も別々になっても猶光りが存在するようで、また電球が砕けてしまっても猶光が存在するようなことである。それは実に玄妙でもありまたそういう理屈も存在する。しかしそれは圏外の玄談である。世人の間でも死んだ人には幽霊があり生きている人には生霊(いきりょう)があると言われている。それも実にそうで幽霊も無くはない生霊も有ることである。が、それらは現実の話では無いのである。有ると思っているものが実は無いものだという理由を話さなければ、無いと思っているものが実は有るものだということを示すことは難しい。神の道を棄てて動物の道を真とし、卓絶した知見を排除して、普通知識を以って一切を律する多数本位の今日の世の中では、身を離れて人が存在するなどということを思う者はいない。心が無くても人というものが成立つなどと思う者の無いのは知れきった事である。
 器分は非器分を離れて存在出来るだろうか。また非器分は器分を離れて存在出来るだろうか。器分即ち非器分で身即心ではあるまいか。非器即器で心即身では有るまいか。昔の人は或いは身を外にして心があることを思い、或いは心を外にして身があることを思い、身心を分離し得るように考えた者もある。その思想の由来は、人は死んでも身は猶存在しているが、思い考え命令をする根本のものがないことを見て発したのだろう。また身が少しも動かないのにその思い考え命令をする根本のものの働きに似た夢というものを認めたことより発したのでもあろう。また身の欲する所と心の欲する所が相反するような場合、即ち欲と道義心とが相争う場合などを省察した結果から発したのでもあろう。しかし死の場合は身が猶存在しているのに心が遊離するのではない。死ぬ時には身もまた破壊されないで存在する訳にはいかない。或いは心臓鼓動が力尽き若(も)しくは障害により、或いは脳血管の破れにより、或いは不時の失血多量により、或いは呼吸器障害もしくは欠損により、或いは脳の血液供給が得られないことにより、或いは体温の昂騰(こうとう)により、その他種々の器分の破壊が生じることによってその死を招く、破壊欠損が生じると同時に死ぬのである、稀(まれ)には非器分が大打撃を受けて死ぬことも有るが、しかしその死と同時に器分の或る物が破壊欠損されるのは疑えないことである。死の因、死の縁は種々無量であるが器分の破壊欠損なしに死ぬということはない。ただその外の皮膚形骸が破壊欠損されないで身は猶生きているようで、心鼓休み呼吸停止になり心神が去るのを見て、非器分と器分とが分離できるように考えたのであろう。そして稀に有る蘇生者の談話は非器分の遊離を思わせ、また他世界の存在をも思わせるのに与(あず)かって力があっただろう。ただし蘇生者が多く他世界の話をすることは、例えば智光の古談ではその人が真に死んでいないで不完全ながらも脳作用が継続していたことを証明するものであり、また微量ながらも脳に向って血液が供給されていたことを語るものである。夢は心理及び生理の併合作用である。もしくは生理より惹き起こされる心理作用であるとして差支えない。身の欲するところと心の欲する所とが相反する場合も、詳しく省察すれば碁の争いのようなもので交替闘争である、同時闘争では無い。一室一主である一室二主では無い。猶詳しく省察すれば転々して休まない一ツのサイコロが或いは一を示し或いは六を示しているようなもので、本(もと)はこれ一物体である。瞬時に於いては二者相対していないのである。このように見ると身心は分けることができない。
 しかし我身を見ると我が得たものでは無いようなものが有り、我が意識しない運動が行われているのを覚える。肺臓・心臓・胃・腸などは、我が生を得た後に運動しているので無い事は明らかである。爪・髪などが、我に属してはいるが、我が考え思い命令をするものとは甚だ遠い距離にあることも明らかである。髮などは死んだ後も尚その生長を続けるのである。これ等の物は我の部分のようで、また外物のようで、庭前(にわさき)の松柏や路傍の石粒と同一視は出来ないけれども、しかしまた我と相遠いことを覚える。このようなことが昔の人に身心は分離して考えるに至らせた一端でもあろう。肺臓・心臓などが我々に近いことは、髪や爪とは大いに異なっている。しかし我々は我々の肺臓や心臓がどんな状態をしているのかも解剖学の図画や模型または他人の実物を目にすること以外には知らないのである。盲腸のように生活状態の変化した今日の我々にとって、何の用もなさずに却って病気を与える以外には作用の無い物が体内に存在していることは、我々が考え、思い、命令をするものから言えば、摘出し駆除したいと思われるものである。これは我の中の矛盾である。腸の無用の長さなども我々が爪を剪(きる)ように容易に短くできるなら、或いは之を短くしようとするだろう。これも我の中の矛盾に近い。このように我の中に我の取得で無いようなものがあり、また矛盾をさえ感じるものがあるくらいであるから、仮に我を分けて二とし、身と心とにし、器と非器とにするに至るのも無理はない。このように見ると身心は分けて取り扱うべきである。
 身心は分けて考えるべきであるようである。しかし、詳しく考えると一分の器を減じる時は一分の非器を減じ、三分の身を減じる時は三分の心を減じ、全分の器を減じれば全分の非器を減じるに当たる。即ち身心は分けることができないことを思わずにはおれない。両腕を切り落し両脚を切り去っても生命が存在する以上、心も欠けずに存在しているようである。しかし腕と脚を失った上に、心の中で腕や脚の働きに用いた把握歩行等の事に就いての心作用、即ち命令その他の権力は失われているのである。例えば一国の当主が或る郡県を失ってその国が小さくなったようなものである。また眼を失ったと仮定すれば視界は滅し、鼓膜を破ったとすれば聴界は亡び、嗅覚の障害を得れば香(かおり)の世界は消滅する。ここに若し人があって、手脚(てあし)無く、眼(まなこ)無く、鼓膜(こまく)無く、嗅覚無く、そしてまた生殖能力を除去されたとしても、生命の存続だけは保ち得るのである。しかしその人の心は、心の伝達の器、及び心の接受の器の大部分を失っているのであるから、仮に身心を二つの異なったものとしてもその心の作用、及び作用を惹き起こす因(もと)を欠いていて、つまりは普通人の心の二分の一、ないし三分の一、ないし四分の一しか力も無ければ実質も無いことになる。若し極端に想像して頭骨内の物だけで生存している人が有り得たとした時、さてその人の心はどうだろう。自意識は猶存在するだろうが外界を認めることも外界に認めさせることも不可能になっては、有っても無いようなものだろう。記憶は心内のものと普通の人は考えている。しかし記憶もまた或る器分即ち脳の或る部分に刻印されて存在しているものであることは、負傷によって脳を欠損した人が記憶を失くすことによって明らかである。淫念も心内のものと普通の人は考えている。しかし淫念もまた或る器分即ち生殖系器の発達に伴って萌(きざ)し来るもので、造精器の摘出によっては殆んど滅亡するものである。フレノロジストの主張のように、脳の或る部分が或る才能或る情感の寓居(よりどころ)であるか否かは未確定といえども、要するに器分と非器分との間には脱し難い連鎖があり、器分が一を減ずれば非器分が一を減じ、器分が一を増せば非器分が一を増すことは争えない事実である。
 もちろん我々の生存を便宜にする為に、複雑霊妙な応酬作用や代償作用が行われるのであるから、器分非器分の増減関係は必ずしも正比例的にのみには発生しない場合がある。しかし大体に於いて、仮に器分非器分の二ツを立てれば、器分と非器分とは相応交和しているものである。たとえばここに一空瓶があるとすると、その瓶内の空間の立方積はその瓶内に充ちた空気の立方積と同じである。二者即一、一者即二、身心と分け、器分非器分と分けるのもつまりは仮の名である。今も猶飢えに備えて食溜めをするエスキモー以外の人類の盲腸は年々に縮小しているのである。切り取らなくとも長い間には消滅するだろう。双生児を生むことが減って婦人の複乳はその痕跡すら滅多に見なくなっているではないか。我々の腕力は原始時代には驚くほど大であったに疑いないが文明の進歩と共に衰えて今のようになったので、稀(まれ)に見る怪力の所有者は発達の新現象ではなくむしろ旧現象の残存というべきものだろう。仮に分けて名付けた心が身に先立てば身は心に随って後を追って次第に一ツとなり、身が左の方へ進めば心も左の方へ伴って行き、心身一即二、二即一の妙趣を不断に繰返すのである。仏教渡来以後、邦人の身体は必ずその思想と共に変化したのは疑いない。生臭(なまぐさ)を食うことを忌(い)むようになって、邦人の思想は身体と共に変化したのは疑いない。現代の青年の思想が旧来に依らないのを驚くより前に、その父母等が昔は牛肉丸という丸薬によって稀(まれ)に牛肉を味わい、家猪(ぶた)・野猪(しし)・野獣を甚だ稀にかつ密(ひそ)かに食い、シャモやカシワの鍋屋さえ甚だ少なかったほど、肉食をすることが極めて稀であったその昔に引替えて、仮名垣魯文(かながきろぶん・江戸末期から明治初頭にかけての戯作者)の安愚楽鍋(あぐらなべ・魯文の滑稽本)時代から次第に盛んに前代人の卑しみ嫌ういわゆる二足四足を食って、その後に生み出した子が現代の青年である事を思わなければならない。身心は二即一である。身が既に変わって来ているのだから思想が変わって来るのも当然である。西洋思想の伝播の故(ゆえ)だけではないのである。アサガオの色は土壌のアルカリ分酸分の多少によって異なって来る。人の思想の傾向は、食物によって体が変り、体が変ると同時に変って来る。「養(よう)は体(たい)を移す(栄養は身体を変える)」とは古賢の説くところだが体移れば思想も移るのである。仏陀は生臭を禁じている。「生臭を喫すれば悪魔その唇を舐める」とまで説いている。戒律が煩瑣で過酷で禁則が細々(こまごま)しているのも、つまりは身心不二の故(ゆえ)に、身を如法(にょほう・教えのとおり)にするには心を如法にし、身を不如法にする時は心を如法にすることができないからである。形式と精神とを分離して考えるのは形式を破棄するには好都合であるが、口に精(栄養)を取り粗食をやめて内(自分)を尊んで外(形式)を忘れて、先ず律儀(りちぎ・義理)を破るのは大坂城の外濠を埋めたようなものである。明治以前の旧思想旧感情の外濠は既に埋められている。現代青年をどんなに咎めても、真田幸村(さなだゆきむら・大阪夏の陣)や後藤基次(ごとうもとつぐ・大阪夏の陣)の余命は幾らも無く、いろいろの立派な由緒ある古いものは新時代には高塚となって遺(のこ)るだけだろう。余談に渉ったが心・身・器分・非器分の別は実に仮の名である。
 仮の名ではあるが、東といい西という名目のあるのは便利である。器分と非器分とを仮に立てておくのも甚だ便利である。さて既に器と非器とを分ければ、器は単独の器でなく非器は単独の非器でない、或いは器が非器を率い、或いは非器が器を率い、或いは器と非器と一ツにして分けられない状態となり、或いは器と非器と二ツにして相対するような状態となり、或いは器が非器を超越し、或いは非器が器を超越し、その他千様万態の様相を生じる。この器と非器との交渉のところを気と名づけるのである。その気の象(かたち)を某の気某々の気というのである。体に体格があり性に性格があると仮定すれば、体格と性格との交渉のところを気というのである。体格はもと仮定である、体は時々刻々に変化する。性格はまた本来は仮定である。性は時々分々秒々に変化して行くものである。器も瞬間々々に変化して行き、非器も思い思いに変化して行き、掲諦(ぎゃあてい)の一声が地に落ちて死に絶えて本(もと)に還えるまで、移り遷(うつ)り変り易(かわ)って止まないのが人である。この人の未だ死なないのを気が存在するといい、この気の痕が無いのを死というのである。まさに為そうとするものを生気といい、為さないのを死気といい、為そうとして為していない、為そうとしないで未だ為さないのを余気という。一気が存在すれば気の象(かたち)があり、気の象があれば、善と悪と正と偏と吉と凶と純と駁(ばく)と生と死と陰と陽と、種々般々の差別がある。普通生理と普通心理との会、異常心理と異常生理との会、普通生理と異常心理との会、異常生理と普通心理との会、みな之を気という。気は心を率(ひき)い、心は気を率い、身は気を率い、気は身を率い、外物は気を率い、気は外物を率い、他気は気を率い、気は他気を率いる。内に省(かえり)みるも、外に対するも、学を為すも、事に従うも、情を御するも、智を役するも、芸に遊ぶも、神に仕えるも、道に殉じるも、悪に堕ちるも、人間一切の事象は全て気の働きがするのである。この気を徐々に良くしてゆくこと、之を気を錬(ね)るという、錬りに錬ってこれ以上錬る必要がなくなることを、気を化すというのである。(関尹子に行気・煉気(れんき)・化気の説があるがこれには関係しない)人の気に就いての言説はこれに止めておく。
 人を器非器と仮に分けるように天地宇宙を器と非器とに分けることには無理がある。しかし人も本(もと)は器非器二即一である。或いは器だけとも観じられ、或いは非器だけとも観じられる。唯物論も唯心論も、その通じる処を既知とし、その通じないところを未知とすれば皆成立ち得る。否(いな)、そのような説を立てなくとも本(もと)は自然に即一である。それを仮に分けて、身心の二、器非器の二にするのである。天地宇宙にその心とか非器分とかいうものが、存在することを認めること、我々の心から非器というものを認めるようなことは、我々の感覚にはない。しかしキリスト教の神の思想は、天地宇宙を人格化して、あらゆる見ることができるもの触ることができるものをいわゆる物質を身とし、神を心としているのに近い。キリスト教以外の思想でも宇宙には不可知の大主宰者がいるとする思想は皆不知不識(しらずしらず)の間に宇宙を器とし、そして非器のものが在って之を総べて統合するもので、自然に我々の思議の及ぶ限りの範囲を我々の身のように取扱い、そしてその中心を漠然と想像して之に主宰者・造物主等の名を負わせているのに近い。換言すれば宇宙全部を、我々そのものを拡大したように取扱っているので、人の免れることが出来ない人中心の論が最大に発展したものである。正直な思索や直覚の最大輪郭がこのようになるのは人がすることだから不思議はない。この宇宙の主宰者、宇宙の心という様なものが有るか無いかはここでは論じないとして、宇宙がこのように生き生きと活動しているにつけて、宇宙を器分と非器分とに仮に分ければ、日・月・水・陸等は器分で、一切の運行活動の由(よ)って生じる根本のものは非器分で、二者の交渉がある間がこの宇宙の存続で、その関係の破壊がこの宇宙の死滅である。そこでこの宇宙が存在し生息する間はそこに気というものが存在することを認めて、地に地の気有り、天に天の気有り、水に水の気有り、草木に草木の気有り、一切万物に一切万物の気が有るとする。北に北の気有り、南に南の気有り、高山に高山の気有り、深谷に深谷の気有りとする。時季は手にも捉へ難く眼にも見難いものである。しかし時季というものが存在してそして運行する以上は、何物が之を運移流行させているか知らないが時季にも時季の気有りとする。すべて運動し作用するものを、その当体と本因とに分ければ、その当体と本因との相交渉する所を気と名付け、運動有り作用有るところを気有りとする。
 気と気との親和・協応・交錯・背反・衝突・相殺・相生・反発・掩蔽(えんぺい)等の種々の状態、一気の生・少・壮・老・衰・死等の種々の状態、一日の人の気・一日の時の気・一節ないし一年・十年・百年・千年・万年・万々年の気・一人の気・一交友団の気・一階級間の気・一職業団の気・一国の気・一人種の気・一世の気これ等の或いは短・或いは長・或いは小・或いは大での気の種々状態を観察し、判断評価し、導入し、運用し、精選し、丹精し、浄化し、精錬して、そしてその微小なものは、一瞬の心懐を快(こころよ)くし、一事の功を成し、一心の安を得るより、その大なものは天下万々年億兆の気を一団の嘉気とするに至る。之を気の道と言うのである。
(明治四十五年七月)


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