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幸田露伴の小説「利休の妻」
利休の妻
方丈の小室に天地の粋を凝らして、一炉の火香に心身の春を呼ぶ、茶道の宗匠の平生は清くまた物寂れている。塵の無い閑庭に僅かに落葉があり、経路の石は露に湿って幽かに苔が生えている。桐の下蔭、椎の葉越し、海少し見える夕月夜の幽趣を味わって、古釜に静かに起こる松の声、浪の音に、会心の笑みを洩らす自身で点(た)てる茶の興趣。詩にあらずしてこれ詩、歌にあらずしてこれ歌である。おもむろに独自の境地を拓き開いて、先人未到のところに到ろうとする。床の間の花を観て破顔する時は迦葉(かよう)の心を超え、羅国香(らこくこう)の香りに粛然とした折は香厳童子(こうげんどうじ)の悟りを探る。煩悩を断たずに悟りを実証する維摩居士(ゆいまこじ)の洒落をここに体得して、俗人の世に住んで不背実相と天台の立義を身に体す。これ仏にあらずしてしかも仏、これ祖にあらずしてしかも祖である。であれば一字一句の推敲に苦心すること無かれ、一器一物の取捨に風雅の思いに気を揉み、長短高低の塩梅に励むは、声調・情意の鍛錬に思いを焦がすことと異ならず、これには鬼才も血を吐き、大匠も神経を痛めている。坐禅の痛棒に肩骨を痛め熱喝に肝を破ることは無いが、深夜の雪中に坐す僧堂での工夫、暁天の雲下に励む叩関(こうかん)の瓦礫、世の執着を断って世界を刷新する意気はこれにもあり、少しの違いにも納得せず、啐啄(すいたく)が少しでも合わなければ、或いは非とし、或いは非とされる。茶泡を軽く結んでこの中に詩情と歌情とを結び、熱湯を烈しく沸(たぎ)らせて、その間に仏意と祖意とを沸らす。李白や杜甫(共に詩人)の胸中に凡鳥は入ること出来ず、胸中は李杜自身が知るのみ。百丈や雲門(共に禅師)の頭上を青蠅がどうして見ることができよう、百丈雲門も自ら見ることは無かろう。劣る者の望みは満ちやすいが、良工は常に心苦しむ日々、利休は先刻よりひとり寂然として、炉前に坐したまま暫し動かず、眼は一つの香炉に注がれている。
侘びて趣きある一室の中は清らかに片付いて冗物無く、床の間の白玉椿は清々(すがすが)しく白い一塊の雪を想わせる。花の風情を主人は顧みること無く、塵一つ無い室内に画がゆったりと懸かっている。簾(すだれ)越しの和(やわら)かな日光で紙窓の程良く明るい数寄屋に居て、置いては取り、取っては復(また)置いて、眺めては味わい、味わっては眺める。香炉は何時の時代の名工が造ったものか。釉色(ゆうしょく)麗らかに照って青空の春の影を浮かべ、香炉やすらかに生まれて名工の心の象(かたち)を結び、汲めども尽きない趣きが溢れ立ち昇るように見える。見られる香炉、見る利休、香炉は無言の妙威を保ち、利休は不説の密意を含む、香炉も語らず利休も語らず、絶えまない釜の沸音(にぎおと)は大河の潮衰えて浪が次第に収まるような響きを曳いている。その時襖が音しずかに開いて、利休の妻がそっと席に着く。夫妻既に老いたけれども、なお連れ添って松柏のように変わらずに同じ楽しみを交わす。優婆塞優婆夷(うばそくうばい)、情愛更に真(まこと)なり。「お静かでございましたが、何事かお考えごとでもおありですか?」と問う。香炉の烟(けむり)は鶴の羽に墜ち、微風は巌(いわお)の蘭を動かす。「事というほどの事のないが、今朝人から戴いたこの香炉を見て」と云う。一啜(いってつ)味わいを解すべし、七碗の古人おろかなり。夫の言葉を聴くと同時に、宗恩は素早く眼を香炉に留めて、春の宵の淡い星の光が花の梢を撫でるように、柔らかく見つめた。
二人の間に香炉一つ、碧い青磁の上に四つの眼は注がれ、一体の形の上に二つの心は纏わり留まる。あれこれと思案をめぐらし時は経て、雪は昼になって溶けて草の緑・石の白があらわれる。無言の中にも気持ちは通じる。宗恩は顔を夫の方に向けて、「釉といい、形といい、心よい作ですこと、しかし、この脚は一分ほど高く見えませんか」と云う。正に痒いところに手が届く、麻姑(まこ)の爪。その時、利休はにこりと笑って、其方(そなた)もそう思うか、我もそう思った。一旦切って仕舞うと再び接ぐことが出来ないので、この工人の技を惜しんで暫くは躊躇(ためら)っていたが、確かに一部ほど高過ぎる」と云う。一分である、ただ一分である、解らない者は云うほどの事でないとするが、鍼治療に使う針の扱い、包丁の刃のさばき、のように極めて微妙なものである。甘くてもいけない、辛くてもいけない。料理人の心は甘辛の調和を尋ねる。遅いも負け、速くても負け、韓信の心は遅速の適否を図って苛立つ。三百余処どこにでも石を置くことは出来るが、棋聖は必ず同じところに石を置く。極致はただ一つ、妙着は二つ無し。利休も笑えば、宗恩も笑み、花は無くても薄霞、山河に春渡る、何んとは無しの温かさ。老夫婦の清い仲は美(うる)わしく明るく、打ち解けた心と心。「では、玉師に磨(す)らせましょう」と、器はついに一分磨らた。孔明周瑜、手を開けば同じ火字なり、一分と違わない趣味の眼の、高さと高さは相会って、夫であり、婦(つま)である。
(大正二年一月)
注釈
・迦葉
釈迦の十大弟子の一人
・羅国香
香木六国五味の一種、羅国(タイ,ミャンマー産)の香木
・香厳童子
楞嚴経にある話、香巌童子は香の香りを鼻に出入りさせ観察することで悟りを得たという。香巌童子叙述自身得悟の縁。
・維摩居士
古代インドの商人で、釈迦の在家の弟子。
・不背実相
裏の無い真実の姿
・雲下に励む叩関の瓦礫
「雲門の関」という禅の公案、難関とされる。雲門の関を通過してしまえば、別天地、悟りの境地に至る。
・啐啄
「啐」はひなが卵の殻を破って出ようとして鳴く声、「啄」は母鳥が殻をつつき割る音、内と外からとの同時の働き。
・百丈・雲門
中国の禅僧、百丈懐海・ 雲門文偃
・優婆塞優婆夷
在家の信者、男性は優婆塞、女性は優婆夷
・一啜味わいを解すべし、七碗の古人おろかなり
茶は一口すすって味わいを理解すべし、七碗も飲んだ古人(中国・唐の詩人、盧仝)はおろかである。
・麻姑の爪
麻姑は、中国の仙女。爪が鳥のように長かった。
・韓信
中国秦末から前漢初期にかけての武将。
・孔明周瑜、手を開けば同じ火字なり
「三国志演義」では、蜀と呉の軍が魏の軍と対峙した時、蜀の孔明と呉の周瑜が戦いに勝つための計略をお互いに掌に書き、見せ合う名場面でのこと。掌にはお互い「火」という文字を書き、二人の計略は一致する。