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幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話・金光明最勝王経③」

 仏教の中で政法を説くものは別にもあるが、この経や法華経や仁王護国般若経などは国家に関することを云うところがある。そのため我が国に於いても、天武天皇の九年夏には、早くも布帛(絹布)を都の二十四寺に施して、金光明経を宮中で読ませ、講席を設けられたことがある。持統天皇の八年夏には金光明経を天下に配賦されたことが有り、文武天皇の慶雲二年四月には詔(みことのり)があって五大寺で金光明経を唱えさせたことがあり、聖武天皇の天平十年夏には天下に金光明経を唱えさせたことがあり、同十三年には金字金光明最勝王経を天皇自らが写し取られて、各州に七級の塔を構築してこれを安置し、僧寺に金光明四天王護国の寺と名乗らせて経を講義させたのである。俗に云う国分寺と云うものは実にこれから起こる。以後この経が尊信されることの長かったのも、皆この経を信奉することは正信であって、正信は国家を安泰隆昌にする本(もと)であるとされたことにある。阿弥陀を信頼することが行われて世を被(おお)うようになり、また他面ではこれに反して日蓮が法華経を強く顕揚護持してからは、何時とはなしにこの経を云うものは少なくなったが、それでもなお尊信する者は絶えていない。この経の流通分の中に属す大弁才天女品十五の一や二などは、却ってその威力を発揮している観がある。長者流水品第二十五や捨身品第二十六などは味わい深いものがある、殊に捨身品は阿難陀が大地が裂開して忽然と湧き出した七宝の塔の中から取り出した、未だ開花しない白い蓮華のような舎利を仏にお渡しし、仏が過去世において大車国王の第二子(第三子?)の摩訶三埵(摩訶薩埵?)が大竹林で乳虎のために身を捨てた因縁を説くもので、寿量品第二に於いて憍陳如が仏舎利を求めて、梨車毗の童子がこれを斥けた話と呼応して、甚だ妙趣あるものであるが、今は殆んど忘れ去られているようだ。弁才天女は技芸と福徳を与えると云うので竹生島や厳島の伝説が生まれ、殊に平清盛が大福徳を得たことは人々の噂に上って信奉する者が多くなった。法華経に普門品があって観世音が大いに親しまれるように、金光明経には弁才天女品があって大いに人に仰がれ、知らない者は金光明経と云えば弁才天女の経のように思う者もある。ただ世には別に弁才天女経が数部あって、宇賀神のことなどにも関係づけているが、それが偽経であることは明らかであり信じることはできない。宇賀神の像(かたち)は蛇体のように見えるが、実は宇賀御魂(うかのみたま)であって、我が国の神の倉稲魂命(うかのみたまのみこと)が稲を司る福神であるところから、両部習合の説が行われていた頃に生まれたものであろうから、弁才天女については唯この金光明経の説く所から考えるべきである。弁才天女は金光明経を護持する天女であって、十羅刹女や鬼子母神は、法華経を唱える者を悩ます者があれば直ちにその頭を七ツに引裂いて捨てて呉れると云って、その獰猛な威力を用いるが、弁才天女はその優美な徳力を用いて金光明経を唱える者を守護すると云うのである。

注解
・天武天皇:第四十代天皇。
・持統天皇:第四十一代天皇。
・文武天皇:第四十二代天皇。
・聖武天皇:第四十五代天皇。
・阿弥陀:阿弥陀如来。西方極楽浄土に住み一切の人々を救うとされる仏。
・日蓮:日蓮上人。鎌倉時代の仏教僧。日蓮宗の宗祖。
・流通分:経典の分類(序分・正宗分・流通分)の一つ。序分は序説の部分、正宗分は本質を説く部分、流通分は経を流通(流布)する部分。
・竹生島:竹生島は琵琶湖北部にある無人島。島内の宝厳寺には弁財天堂があり弁財天が祀られている。
・厳島:厳島の大願寺の本堂にはり弁財天が祀られている。
・平清盛:平安時代末期の武将。平氏の棟梁。
・観世音:観世菩薩、仏教の慈悲の精神にあふれた菩薩。
・弁才天女:仏教の守護神である天部の神の一つ。女神と云われている。
・宇賀神:日本で中世以降信仰された神。財をもたらす福神として信仰される。
・宇賀御魂:日本神話に登場する女神。「古事記』では宇迦之御魂神、「日本書紀」では倉稲魂命と記されている。
・両部習合の説:とは、仏教の真言宗(密教)の立場から神道を解釈した神仏習合の思想。宇宙は大日如来の顕現であり大日如来を中心にした金剛界曼陀羅と胎蔵界曼陀羅として表現される。金剛界と胎蔵界の両部の曼陀羅に描かれた仏菩薩を本地と本地とし、日本の神々はその垂迹であるとする思想。
・十羅刹女:法華経陀羅尼品に登場する十人の天部で女性の鬼神。法華経を守護する。
・鬼子母神:法華経を守護する天部で鬼神。

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