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幸田露伴の評論「時代の新旧と順応不順応」

時代の新旧と順応不順応

 およそ一国には一国の姿があり、一地方には一地方の姿がある。それと同じように一時代には一時代の姿がある。その一時代の姿を勢いから云う時は時代の大勢と云い、内容から云う時は時代の習俗と云うのである。そもそも時代の連鎖は前も遠く後も長いものであるから、実を云えばそれほど力のあるものでもなく、又、細かく云えば時々刻々に変化しているものである。しかし、その時代に在る人々にとっては甚だ勢力のあるもので、よくよく超脱的な人か豪快な人でなければ、それに囚われて仕舞うものである。
 そこで多数の人は、意識しなくても常に時代に順応することが賢い道であると思い、自然とそのように傾いて行くものである。そして、努めて社会に順応して時代の寵児に成ろうと欲するもので、自分がそのように成ったらどんなに幸福だろうという思いが、多くの人の心の底に湧いているものである。それも無理のないことで、もし時代に逆らって時代の反逆者になったなら、多数の人の感情や意識に逆らった訳であるから、多くの人から圧迫を受け侮辱され鞭撻され、或いは黙殺される運命になるのは当然だからである。しかし、その時代が必ずしも最善であるか最美であるか、又、その時代の大勢の人間が辿っている道が何時も善いものであるかと云うと、それは決してそうでは無いだろう。時代の大勢だからそれが善であり、美であり、真であると云うのなら、何時の時代も最良の時代であるはずである。が、それは決してそうでは無いのである。天地の運行に春夏秋冬があるように、時代の大勢には善悪盛衰があるものである。或る時代は善く或る時代は悪い傾向にあったと云うのは、歴史を顧みれば自然に生じる批判である。これは欺くことの出来ない事実である。であれば、今日(こんにち)の時代の大勢はどうかと云うと、一ツの川にも古い水は流れていないように、昔の歴史の上に、昔の時代を批判するような明らかに認められる先例は無い。昔にも今日のような時代が在ったとは云えないのである。それなので此の時代の渦巻きの中に入って居る我々が今日の時代について、直ちに正当な批判を与えることは困難である。無意識の内に今日の人は今日に順応しようとする傾向を持っているから、例えば今日の時代が甚だ悪い傾向にある時代だとしても、これを悪い時代だと認識することは甚だ難しい情況に在る。
 サテそういう理由であって見れば、今日の時代を歴史上の或る時代と同じようだとして批判することも出来ないし、自己の観点から批判することも不可能な事情に在る。しかし、今日の時代の大勢が必ずしも真善美とは云えないのは前にも述べた通りであるから、今日の時代の大勢を批判しようとする時には、自ら批判できる道理があるに違いない。即ち、マズ自己の心中に無意識に有している此の時代に順応しようとする感情をしばらく脱却して、あたかも過去の時代を今日の我等が批判するような位置に立ち、そして、この性質はどうか、この傾向はどうか、と考えることが出来れば、今日の時代を批判することも稍々(やや)正しいであろう。廬山(ろざん)の山に居ては、その山の真相は見えない。山から離れた地点に立って初めて山の全体を見ることが出来るのである。これと同じように、今日の時代の大勢の輪の外に出なければ、今日の時代が上っているのか下っているのか、又は盛んであるのか衰えようとしているのか、爛(ただ)れて正に滅びようとしているのか、屈して正に伸びようとしているのか、を見ることが出来ないのである。
 ただ、時代の外に立つようなことは非常に困難なことである。ある地方に日食がある時に他の地方にも日食がある訳では無い。甲の地方では皆既日食でも乙の地方では五分(ごぶ)日食で終ることもあるのである。このような道理で、時代の大勢というものは或る土地の或る人々には同一であるが、他の土地の人々には必ずしも同一では無い。共に同一の暗黒の中に居ると云うこともあり得るが、サテ又それ程の暗黒の下に立たずに済んでしまっている場合もあるのである。しかし甲の地方の人は皆、同一の暗黒の下に居る、そういう場合を同分妄見(どうぶんもうけん)と云うが、この同分妄見を脱すると云う事はその地方の人にとっては非常に困難である。たとえば今、物質主義が人間本来の欲求であると云うような、時代の思想が起きていると仮定すると、その輪の中に居る人は誰も彼もが皆、云わず語らずに物質主義を謳歌している訳である。その中に物質主義を謳歌しない人が居るかと云うと、有り得ることは有り得るが、大部分は謳歌していることになる。物質主義の可否や善悪は別にして、このように同じ様な感情を持ち意見を持つのが即ち同分見(どうぶんけん)で、その見(けん)が妄見である時、それは同分妄見に墜ちているのである。しかし、妄見であっても同分見の時にあっては、誰が之を妄見と云うことが出来るであろう。多数と云う事が絶対的で強力で真であるとする時には、寧ろそれは妄見と云うよりは真見とされるであろう。それなので、同分妄見の誤りほど恐ろしいものは無いのである。山賊の群れの中では人の財物を盗むことは差支えの無い行為となっている。却って盗むことの非を云えば誤りとされるのである。明治以前の我が国の既婚婦人は歯を染める習慣であった。その場合に染めない婦人が在れば社会は之を嘲笑し罵倒し侮辱していたのである。眉を落とすのが既婚婦人の印となっていた時代に於いて眉を落とさなかったら、矢張り侮辱や嘲笑を受けたのである。同分妄見の例もそれと同じである。それは外形上の事であるが思想上に於いても同様である。明治以前に於いて婦人は夫に絶対的に服従すべきものとされていた。今日から見れば変であるが、その当時はそれで社会の安定は保たれ、社会組織もそれが当然だとしていたのである。今から顧みれば、それは同分妄見に陥っていたのであると、今の人は誰でも思うことであろう。
 このように、今日の多くの人が有している思想や感情も、他の人から見れば愚にもつかない同分妄見に陥っているかも知れないのである。ただ同分と云う二字を頂いているから、今日の我々は今日の思想や感情を正当だと思っているのである。コウなると誠に時代の大勢に順応していると云う事は頼りないものである。時代の大勢と云うことは弱い多数と云う事である。多数は必ずしも真では無く、善では無く、美では無い。算数には間違えやすい問題がある。誤りを含んだ問題をクラスの生徒に出題した時に、百人中九十九人までが誤った答えを出す場合も多い。或いは又、百人が百人まで誤った答えを出して、そして、その答えが一致していた時はその答えが正しいように思うであろう。しかし、ソウ思っても算数の答えに真は一ツしかない、他の答は誤りである。百人の答えが一致したからと云っても、同分妄見の産物である答えでは何の価値も無いのである。よく在る例であるが、算数の先生は間違え易い問題を出して生徒の実力を試す場合がある。そう云う時によくよく優れた生徒で無いと正しい答えを見つけ出すことは難しいものである。それと同じように此の実世界に於いても、多数の人が陥りやすい間違えを含んだ実際問題が沢山ある。そして、真の思索力を持っていない者の中には、その誤りに陥っても自ら之を正しいとしている者がいる。このような時に、算数問題では問題を出した先生によって誤りを知ることが出来るが、実際社会の問題に対しては同分妄見を正すことは出来ない。タマタマ多数の意見と異なる意見を云う人が居ても、同分妄見に蔽われている人は同分妄見であることを悟らずに、却って異見を抱く者を誤りとするであろう。そこで他の時代がやって来ない内は同分妄見は中々破れないのである。宗教の立教者などは決して時代に順応して現れた者ではない。いつも時代に対して異なった立場に立って現れた者である。階級思想の妄見がインドを蔽っていた時に、平等思想を以って立ったのが釈迦では無いか。神に奉仕する道が形式に流れた時に之を排して立った者がキリストでは無いか。利益論が天下を風靡し功利主義だけが輝いた時に之を排して立った者が孟子では無いか。今日の人は今日の時代の思想に反した思想を持って現れる者があれば、必ず時代錯誤であると云って之を侮辱する。しかし時代錯誤が絶対悪なら昔から偉大な思想を抱いて時代に反して現れた人はいつも時代錯誤者である。しかし、その時代の錯誤者が必ずしも誤った意見を持っていたという訳には行かない。モシ時代錯誤を絶対悪としたら、世の中には何等の進歩も変遷も無くなって仕舞う訳である。つまり時代と違う、或いは時代に合わないと云うことは、無意味に下すような評語ではないのである。このような精神思想が今日の時代に於いて最も正しいと思っているところへ、その反対の意見を掲げてこのような精神思想は最も不可であると云う主張者が現れた時、成程、それは時代錯誤者に違いない、違いないがその意見が直ちに時代錯誤だからと云って誤りとは云えない、寧ろ時代に順応する考えだけを抱いている者こそ、自身の衷心の叫喚を聞かない者で、時代の奴隷と云っても可(よ)い人々である。時代の奴隷は時代について云々する権利を持たないと云ってよい。古臭いことを持ち出して新しい時代に嵌(は)めようとするのは時代錯誤である。しかし新しいことが非であるとはどうして云える。キリストが持ち出した教えは決して新しいものでは無かった。寧ろ、古い古いものから積もった塵埃(ちり)や黴(かび)を振り落としたものである。孔子や孟子が持ち出したものもまた古臭いものであったが、しかし、それはその古いものから積もった垢や塵を落として示したものである。釈迦の教えも矢張り拘留孫仏(くるそんぶつ・過去七仏の第四仏)以来のものであった。古臭いと云うのは実はそれに積もった塵埃や垢や黴であって、取り出したものは古いと云うよりは未来永劫まで存在する常住のものであったのである。古臭いのはいろいろの時代が付けたものである。即ち時代時代の人々が服従していた時代の大勢こそが、積もり積もれば古臭い悪臭を発するものであったのである。
 今の世ばかりではない。いつの世でも時代の大勢と云うことを尊重する人々は非常に多い。そして、それらの人は知らず知らずのうちに時代の奴隷になっている。これ等の時代の奴隷は元来が奴隷であるために少しも真の意見や生気を持たないのである。時代の奴隷を脱却した後にこそ、その人一個の存在価値があるのである。真骨頂の在る者はマズ時代の奴隷の醜態を脱して、その後に自己の衷心からの声を聞くが善い。我々は、疫病流行の時に疫病に罹かるように、その時代時代のペストやコレラやチブスや疱瘡(ほうそう)に罹ってはならないのである。同じチブス菌に冒されると同じような症状を呈する。或る時代の或る思想にかぶれれば、かぶれたような同じ状態になるのである。その時代の波に訳も無く漂(ただよ)わされる醜態を脱して、自己の真の存在を成り立たせるが善いのである。時代の大勢に順応するのは利口なように見えるが必ずしもそれが真の利口なことかどうか、賢いことかどうかは別問題である。千万人と云えども我行かんと云う意気が衷心から発するのでなくては、それは流行に目を眩まされて財産を失う類である。時代は広い、時代は大きい、時代は強い、しかし、それは永久に比べれば一毛のようなものである。永久の真善美は必ずしも時代に伴って居るものではない。
(大正九年二月)


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