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幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話・餅④」

 
 文がここに至るまで、晋の時代に餅の類で出て来たものは、安乾・粔籹・糺耳・狗后・剣帯・案成・餢飳・髄燭・曼頭・薄壯・起溲・湯餅・牢丸の、全部で十三である。文はこれ以降その製作状態につて述べる。今はその全部を載せることはできないが、その大概を記そう。「重羅の麸、塵飛雪白」とあるので、重ねた絹の篩(ふるい)で麦粉を細かく篩(ふる)うのである。「膠黏筋䵑」とあるので、或いは溲ね或いは縒るのである。肉は即ち「羊膀豕脅、脂膚相半」とあるので、羊や豚の肉を脂肪も皮も細かく裁断して、「臠すること蠅首の如くする」とあるので、大層微小にして餡とするのである。「薑株葱本、萃縷切判」とあるので、薑(ショウガ)と葱(ネギ)を切って加えるのである。「辛桂挫末、椒蘭是灑」とあるので、香味料を粉にしてふりかけるのである。「和塩漉鼓、攪合膠乱」とあるので、塩を加え、味噌やたまりの類を加えて、それから「火盛湯湧、猛気蒸作」とあるので、勢いよく蒸し立てて料理人の手際宜しく、雋味(しゅんみ・旨味)は内に和し、䑋色(じょうしょく・艶色)は外にあらわれ、「柔如春綿、白若秋練(春の綿のように柔らかく、秋の練絹のように白く)」、気は勃鬱として揚がりひろがり、香は飛散し、そして遠く拡がり、道行く人も舌なめずりをして涎を垂らすことになると云うのである。これによって晋の時代のいわゆる餅というものをが、どのようなものかを思い知ることが出来て、我が国の「もち」というものとは大いに異なることを合点することが出来る。
 束皙の「餅賦」はおよそこのようである。そして「晋書・束皙伝」は記す、「嘗て勧農や餅の諸賦をつくる、文頗る鄙俗、詩人之を薄んず(かつて勧農や餅の諸賦をつくる、文章すこぶる鄙俗、詩人これを軽視する)」と。勧農の賦はさておいて、「餅賦」の文章が卑俗なことは反論できない。しかしながら文章や詞賦は、実際を重視すれば文章は細かくなり卑俗になりやすい。これに反して実際から遊離し、現象を加工し、幽玄縹緲に努めれば、文章はおのずから高華妙明になり易い。すなわち世の物事を理解しない人は外面を見て上下を判断する。これもまた矮人観場・瞽者摸象の妄論と云うのみである。束皙が「玄居釈」のような文を作れば人はこれを賞賛し、「勧農賦」や「餅賦」のような文を作れば世はこれを不足とする。これが世の通弊である。特に晋の時代の人は老子や荘子のような玄虚な言を好んでする。この当時にあって食味の細部を語り餅餌の詳細を説く。皙が世俗の認めるところとならなかったのも仕方がない。しかしながら、偶々(たまたま)書いた一二篇の賦によって史伝上で貶(けな)される。皙もまた苦労して罪を得るというべきか。後世から観るとこれもまた笑いごとである。事実を記す者は卑俗とされ、虚構による者は高遠とされるのが支那文学の常道であるが、このため支那における実際社会の生活や文明の詳細は支那文学では知り難く、また支那の学者や文人も世間の実相からかけ離れた者が多いことになる。支那文学に携わる者は、先ずこのような見方をもって支那文学を語るべきである。
 餅を売る者は当然のこと大商人ではない。我が国で云う「小まえ(小商人)」のことである。「三輔旧事」に云う、「太上皇、関中を楽しまず、高祖は豊沛の屠児、沽酒、売餅の商人を徒して、立てて新豊県をつくる、故に一県に小人多し」と。ここで云う小人は小まえの者ということで餅売り商人等を指して云うのである。「抱朴子」は云う、「奔王の世、餅を売るの小人、皆等級を得る」と。この小人もまた小まえの者という意味である。君子小人のもともとの意味は善人悪人を云うのでは無くて、君子は命令を発する人、人を率いる人を云い、小人は小まえの者を云う。魏の鐘繇は「公羊伝」を好まず「左氏伝」を好む。左氏を太官とし公羊を売餅家としたのも、売餅家などは小まえの者なので、公羊を小まえの者と貶したのである。「水滸伝」で餅売りの武太朗が美人の妻を西門慶に奪われる話も、小まえの者が金満家に屈するところを巧みにえがいたのである。武太朗が売る餅は「もち」ではなく、前述からも明らかな「餅(へい)」として理解すべきである。この話のもとは寧王の故事にもとづく。

 唐の寧王は富貴にして色を好む。寵伎数十人を有し猶足りないとする。売餅者に妻あり、色白く美人である。王は一目見て思いを寄せる。よって強くその夫に言い遣ってこれを求め、寵愛すること朋輩をこえる。一年経って女に問う、お前はまだ餅師を思かと。餅師を呼びよせ女に見(まみ)えさせる。女は旧夫を堂下に見る。見詰める眼から涙は頬を垂れ、情愛に堪えられない様子。その時の王の客座には十数人、皆当時の文士である。心打たれない者は無い。王は命じて詩を賦させる。その時、王維、字は摩詰、若くして既に詩才文名は世に高く、しかもまた画を能くし、琵琶を能くし、風流で心広く温かい、当時における優秀な人である。王維の「息夫人」の詩がまず出来て、云う、

 今時(こんじ)の寵を以(も)つ莫(なし) 忘れ難し異日の恩 花を看る満眼の涙 楚王と共に言わず(現在の寵愛よりも、忘れ難い昔日の恩愛、花を看る眼に涙を満たし、楚王と言葉を交わそうとしない)

 座客の中、あえて言葉を発する者無し。王もまた感悟し、そして女を餅師にかえしてその行いを止める。この事は孟棨の「本事詩」に出ている。後にまた李商隠がこの事を詠んで、悲しくも美しい故事となったが、「水滸伝」はこれを翻案して淫婦が旧夫を殺す悽惨醜悪な話とし、「金瓶梅」はこれを敷衍する。王維の詩は好い、「水滸伝」「金瓶梅」は酷毒に過ぎる。

注解
・矮人観場:背の低い人が能く見えないので前の人に舞台の様子を訊いて理解した劇。
・瞽者摸象:盲人が撫でて理解した象のかたち。
・「三輔旧事」:三輔地方(関中・長安周辺)の出来事を著わした書。趙岐らの撰。
・太上皇、関中を楽しまず・・:倅の劉邦(高祖)が漢の国を立てたので、長安の都の宮中に移り住んだが、以前の沛県の豊の生活が懐かしく、楽しくなかった。そこで高祖は豊の屠畜の少年や酒売りや売餅の商人を集めて新豊県をつくった。
・「抱朴子」:中国・晋の葛洪の著。内篇20篇、外篇50篇が伝わる。 とくに内篇は神仙術に関する諸説を集大成したもので、後世の道教に強い影響を及ぼした。
・鐘繇:中国・後漢末期から三国時代の魏の政治家・書家。
・「公羊伝」「左氏伝」:孔子の編纂と伝えられる歴史書「春秋」には、「春秋公羊伝」「春秋左氏伝」「春秋穀梁伝」の三つの注釈書がある。
・「左氏伝」:『春秋左氏伝』は、孔子の編纂と伝えられている歴史書『春秋』の代表的な注釈書の1つで、紀元前700年頃から約250年間の魯国の歴史が書かれている。通称『左伝』。『春秋左氏』『左氏伝』ということもある。現存する他の注釈書『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』とあわせて春秋三伝と呼ばれている
・王維:中国・唐の詩人・画家・書家・音楽家。
・息夫人の故事:蔡の哀侯に息夫人の美しいことを吹き込まれた楚の文王は、息国を滅ぼして息夫人を妻にしたが、息夫人は文王と口をきくことは無かった。という故事。
・「本事詩」:中国の詩に関する逸話集。中国・晩唐の孟棨の著。
・李商隠:中国・晩唐の政治家で詩人。
・「金瓶梅」:中国・明代の長編小説。


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