幸田露伴の小説「幽情記⑫ 桃花扇」
幽情記⑫ 桃花扇
孔云亭(こううんてい)の「桃花扇伝奇」は、洪稗畦(こうはいけい)の「長生殿伝奇」と並ぶ清(しん)初期の戯曲の代表作である。「桃花扇伝奇」は、明(みん)末期の事を記述して作中人物に皆実在の人物を配置し、世の人々に親近感を抱かせて当時の評判となり、それ以降もいろいろと取りざたされて今に至っている。
しかしながら伝奇はもとより正史ではなく実記でもない。物事を借りて情を描き、情に由って物事を生じ、物事を綴(つづ)り合わせ文を飾る。即ち架空な事を用いて興味ある事を生じようとする。それなので、「桃花扇伝奇」は多く実在の人を用いて実際の事を題材にするが、しかしその内容は必ずしも悉くが本当の真実だけではなく、自然と作者独自の解釈が在るのである。左寧南(さねいなん)が使い走りの身分から侯恂(こうじゅん)によって抜擢されるところや、阮大鋮(げんたいせい)が金を出して伎女を身請けし侯方域(こうほういき)と結婚させようとしたようなことは必ずしも事実では無い。作者がたまたま侯方域の作る「李姫伝」や「父に代わって左良玉に与える書」等の文をそのまま記して、実際の事としたものである。侯方域の文章が、自画自賛すること甚だしく事実に相違することを考慮していない。ただ無論これは孔云亭の罪と責めるものではない、「桃花扇伝奇」を読む人が、「桃花扇伝奇」は実在の人を用いて実際の事を題材とするとはいえ、その内容は必ずしも悉くが、本当の真実だけでないことを知れば、それで宜しいのである。
「桃花扇伝奇」の女主人公の李香君(りこうくん)は実在の人である。しかしながら、「桃花扇伝奇」中の脇役である卞玉京(べんぎょくけい)や宼白門(こうはくもん)や鄭妥娘(ていたじょう)等に比べて、容色や技芸が群を抜き才知が飛び抜けて勝れていたということもない。「桃花扇伝奇」の主人公である侯方域の「李姫伝」によってそのことはしるだけである。もし「桃花扇伝奇」が無ければ、人は或いは玉京や白門や妥娘を主人公にして香君を同輩として述べたかも知れない。香君の人となりを推測するが善い。
李香君の同僚として「桃花扇伝奇」に出る三人の美人、卞玉京や宼白門や鄭妥娘は明末の金陵の名妓である。玉京は秦淮(しんわい)の人、書を知り、琴を能くし、小楷(しょうかい・小文字の楷書)を巧みにし、洋画を能くし、虎丘(こきゅう)の山塘(さんとう)の地に住む。竹の簾(すだれ)は昼光を遮り、檀(たん)の机は塵も無く、両目は深く澄んで、日々筆墨(ひつぼく・書や詩文)に親しむ。詩人の呉梅村(ごばいしん)と夫婦の契りを結んだというのは事実では無いが、鏡中に見る花のように実際には無かった縁(えにし)を、梅村は詩によって玉京の面影を伝える。梅村に琴河感旧(きんかかんきゅう)の四律があるが、その序の詩の句に云う、
予(よ)もと恨人(こんじん)なり、
心を往事に傷ませる。
江頭の燕子、旧塁都(す)べて非にして、
山上の蘼蕪(びぶ)、故人安(いずく)にか在る。
久しく鉛華の夢を絶つ、
況(いわん)や搖落の辰(とき)に当るをや。
相遇いて則ちただ楊柳を見るは、
我もまた何ぞ堪えむ。
別をなして已に応に桜桃を見るべきも、
君また未だ嫁せず。
琶を聞かんとするも、而も響かず、
団扇(だんせん)を隔てて以て猶憐れむ。
能く杜秋(としゅう)の悲しみ、
江州の泣(なみだ)無からんや。
(私は元来が感傷家なので、当時の事に心を傷めている。長江の上に燕が飛んでいた防禦の砦も全て役立たずに終わった。山上の香りよい女(おんな)葛(かずら)や昔の女性(ひと)は、どこへ往って仕舞ったのか、艶事は絶えて無くなる。まして今は落葉の時。たまたま互いに遇っても、ただ枯れ柳を見るだけとは、私がどうして堪えられよう。別れて以来何年も桜桃の花を見たが、君は未だ嫁いでいない。琵琶を聞きたいと思ってもその響きは無く、団扇で顔を掩って、なお憐れむ様子。誰か能く(杜牧の詩に歌われた)杜秋娘の悲しみや、白楽天の(琵琶行の詩の)涙の無い者がいるだろうか。)
と、これは思うに玉京と梅村とは、互に思い合っていたが、その事が叶うことなく、戦乱に遇って離れ離れになること五六年の後に、玉京が白下(はくか)から来たと聞いて、尚書の某公が梅村に会わせようとしたが、玉京は乗って来た車を再び引き返して去り、病気に託(かこつ)けて出て来なかったので、梅村がこのように歎いたのである。玉京はその後、数ヶ月して黄衣を着けた道士の装いで、下女の柔々(じゅうじゅう)に琴を携え随わせて梅村を訪れ、琴を弾いてさめざめと泣いて、中山府の故第(こだい)の女は入内の選に当った者でさえ未だ宮中に入れずに居て、戦乱の為に不幸に陥っていることを語り、「私達の没落は当然で、誰を怨むこともありません」と云った。梅村の詩集に、「女道士卞玉京の弾琴を聴く」という長篇はこの時の作である。玉京はそれから二年を過ぎて一諸侯に嫁(か)したが意に染まず、柔々を後添えに薦めて自分は暇を取り、髪を下ろして全くの女道士の境涯になった。呉中の良医である保御氏を頼って、戒律を厳守すること十余年にして亡くなる。錦樹林と云う原野を墓所として娑婆苦を脱し、五感満足の楽を享(う)けたと云う。玉京の厭離穢土(おんりえど)欣求仏地(ごんぐぶっち)の情(こころ)はどれ程のものがあったであろう。三年の努力によって舌(ぜっ)血(けつ)で法華経を写し、自ら文を作ってこれに序す。この事は保御の冥福のために行ったことではあるが、道心の厚いことを知ることが出来る。梅村集に錦樹林玉京道人の墓を過(よ)ぎるという詩があり、
恵山々下 茱萸(しゅゆ)の節、
泉響 琤琮(そうそう)として 流れて尽きず。
但(ただ) 鉛華を洗いて 愁いを洗わず、
形影 空潭(くうたん) 離別を照らす。
(恵山の下は茱萸(ぐみ)の季節、その中に泉の響きは錚々として流れは尽きない。ただ化粧を落とし道人とは成ったが、愁いは残る。人気(ひとけ)のない淵は離別の悲しみを映している。)
という冒頭の四句から、
紫台一たび去って 魂何(いづ)くにか在る、
青鳥孤飛(こひ)して 信(まこと)に還えらず。
唱(とな)える莫(なか)れ 当時の渡江の曲を、
桃根桃葉 誰に向ってか攀じむ。
(旧居を去って、貴方の魂は何処に行ったのか、貴方は孤(ひと)り飛んで行き元の所へは還えらない。歌う莫(なか)れ当時の渡江の曲を、愛する人は誰に向って行ったのか。)
という終わりの四句まで、辞(ことば)はまことに麗しく、情(こころ)はまことに哀しい。桃葉は王献之(おうけんし)の愛人で、桃根はその妹である。献之がかつて渡し場において歌って桃葉を送ったことから、後の人はその地を名付けて桃葉渡と云う。その地は風流の郷(さと)に属し、また玉京の旧居に近いのでそう云ったのであろう。玉京の入道を送る詩は梅村だけでなく周肇(しゅうちょう)にも七律詩がある。玉京の人となりはこのようである。自然と文人詞客から愛重されたのであろう。
宼白門もまた美を以て当時鳴らした名妓である。朱保国公が白門を納(い)れる時は、甲士五千人を共に添え、赤い紗灯(しゃとう)を光り輝かせて白昼のようであったと云う。朱の愚かさには呆れるが、白門が重んじられたことが想像できる。さぞかし当時の男子は朱の仕業(しわざ)を壮として、女子は白門の栄光を大としたことであろう。清の軍が南下して天下はついに平定される。明の諸官は没落し、朱家も大いに衰えて、家の歌姫を売ることになって、白門もまた出されることになる。その時白門は朱に云う、「私を人に譲られても、得るところは数百金にすぎません。しかし私を放して南京へ帰して頂ければ、一ト月の間に万金を得て御恩に報います」と云えば、朱も仕方なくその意に任せたが、白門は元の地に帰って程なく万金を得て朱に贈ったと云う。姿色才芸、当時の花形であったことが想われる。梅村が白門に贈った詩の句に、「一舸(いっか)西施(せいし)、計(はかりごと)おのずから深し、」と云うのは、まさにこの事を指して云うのである。
玉京と白門の二人は「桃花扇伝奇」においては脇役に過ぎない。可もなく不可も無い。鄭妥娘などを作者はこれをノロマだと云い、醜愚極まりない女だとしている。何んでこのようにしたのか作者の意(おもい)が分らない。妥娘、名は如英、才思は風流、詩を能くし、手から片時も書を離さず、朝夕に香を焚いて誦唱すると云えば、その人となりが分ろう。玉京や白門に風雅の情(おもい)が無いとは云えないが、詩文集を成してはいない。妥娘は詩文の才能が最も豊かである。如皐(じょこう)の冒伯麐(ぼうはくりん)はかつて妥娘と馬湘蘭や趙令燕や秦朱玉の作を集めて、「秦淮四美人選稿」を選集する。妥娘を丑(もう・愚か)とするとは孔云亭も実に妄(もう)である。妓女子は論ずるに足りないと云えども、これを侮蔑し欺くとはどういう意(こころ)か。詩人は敦厚を尊ぶべきで、孔云亭の心構えもまた浅いと云える。私は作者が妥娘を酷評することに疑問を感じている。
(大正五年七月)
注釈
・洪稗畦:洪昇、中国、稗畦と名乗る。中国・清の戯曲作家。
・伎女:中国における遊女もしくは芸妓。
・双眸:両目
・尚書:文書をつかさどる大臣
・厭離穢土欣求仏地:穢れた国土を厭い離れて浄土仏地に往くことを欣び求める。
・王献之:中国・東晋の書家。
・赤い紗灯:赤い薄絹を張った灯籠。
・一舸西施、計おのずから深し:一人の美人(白門)の計画は深い。