幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話・餅①」
餅
我が国で「もち」というのは、糯(もちごめ)を蒸して、これに杵と臼の働きを加えて塊(かたまり)のような形にしたものを云う。「もち」の語は黐(とりもち)と関係し、粘ることでその名を得ているのであって、支那(中国)の餅(へい)とは大いに異なる。餅(へい)は麪(めん)すなわち麦末(ばくまつ・麦粉)を捏(こ)ねて作られた物である。「急就篇」に餅餌(へいじ)麦飯(ばくはん)甘豆羹(かんとうこう)の句がある。顔師古(がんしこ)が注記して云う、「麪(めん)を溲(こ)ねて而(しこう)して之を蒸熟す、則ち餅(へい)となる、餅(へい)の言(げん)は并(へい)也、相合并(あいがっぺい)する也、米を溲ねて而して之を蒸す、則ち餌(じ)と為る、餌(じ)の言は而(じ)なり、相黏而(あいねんじ)する也(麪を捏ねてこれをよく蒸す、すると餅に成る。餅の音(おん)は并(へい)である、合わさりあうのである。米を捏ねてこれを蒸す、すなわち餌(じ)に成る。餌の音は而(じ)である、ねばつき合うのである)」とある。王応麟(おうおうりん)が補注して云う、「説文(せつもん)に餅(へい)は麪餈(めんじ)なり、麦末(ばくまつ)之を麪(めん)と云う、周礼の注に餈(じ)とは乾餌(かんじ)之を餅(へい)にするを謂うなり、合蒸(ごうじょう)するを餌(じ)と曰(い)い、之を餅(へい)にするを餈(じ)と曰う(説文解字では餅は麪の食べ物である、麦粉を麪と云う、「周礼」の注では餈とは乾餌を餅にしたものを云うのである、蒸し合わせたものを餌と云い、これを餅にしたものを餈と云う)」とある。であれば則ち餅(へい)は麦粉で作るもので、今のビスケットのようなものである。変化して「うどん」や「そうめん」・「にゅうめん」・「まんじゅう」・「すいとん」の類を云うのであって「もち」ではない。餌(じ)こそ「もち」と読むべきなのである。しかしながら我が国の「倭名抄」では既に餅(へい)を「もちひ」と読んでいるので、今では「もち」と読んでも間違いではない。却って餅(へい)は「もち」ではないなどと云うのは甚だ通用しない論であろう。
ただ「倭名抄」の現存本は、狩谷棭斎が大いに考証に努めて多くの乱脱な個所を校正したといえども、なおその乱雑さはどうすることもできない。餅(へい)を説明して毛知比(もちひ)と読み、「釈名」を引用して溲麪を糯麪とし、また突然に胡餅を挙げてこれを解釈し、また突然に殕の字を挙げてこれを解釈するなどは、おそらく源順(みなもとのしたごう)が記した「倭名抄」の原書はこのようではないのであろう。飯餅(はんべい)の類を挙げて、挙句には捻頭(ねんとう)などの些末なものにまで及んでいるのに、毛知比に当たる餈(じ)や餌(じ)などの字を挙げていないのは、思うに原書には餅の字の前後に餈の字が挙げられてあったが、それが脱落したのであろう。殕の字もまた餅の字の下に付記されていたのではなく、別に一字として挙げられていたのであろう。
揚雄の「方言」では、「餅これを飩と謂い、或いは之を餦を云い、餛を云う」とある。餺飩や不扽や䬪飩も文字が異なるだけで総て餅の属である。「枕草子」の「ほうとう」は餺飩(はくとん)の音移りしたものなので、もちろん麪(めん)の類である。餫飩や餛飩や餫屯も文字が異なるだけで総て同じ物で、麪を薄くして肉を包んで煮たものを云う。「水滸伝」で水賊が宋江に「板刀麪か混沌麪か」と迫る場面があるが、そのまま水中に投げ込むぞと餛飩にかけてふざけて云った言葉で、麪の字でその物の何であるかが分かる。我が国の「うどん」は餫飩の音がそのまま移ったものであろう。餫は喩郡切、音運である。饂飩の字面はまだ見ていない。ただ「齊民要術」でいう水引餛飩というものは、「すいとん」とは関係しない。「そうめん」が索麪の音の移ったものなのは明らかである。およそ餅や麪の類の我が国の語は多くは支那の語の音をそのまま移している。「ついし」は䭔子である。「ひちら」は饆饠である。「てんせい」は黏臍である。「せんべい」は煎餅である。「ふと」は餢飳である。「へいだん」は餅餤である。「あん」は餡である。このようにして彼我・古今・転化・引伸して、おのずから錯雑・混淆・推移することを免れず、終には麦粉で作る餅(へい)を訓(よ)んで糯米(もちごめ)から作る「もち」とし、「形は偃月(えんげつ)の如し(形は弦月ようだ)」と顔師古が云った餛飩、「空中に餡を嚢み、弾丸の如し(空中に餡を包んで、弾丸のようだ)」と「正字通」が云う饂飩の音を「うんどん」と読んで、そして今は「うんどん」を麪(めん)の糸状をしたものを指して云う語とし、餡は本(もと)は音韻で餅(へい)の中の凹ませたところへ入れた雑味のことを云うのだが、今は「あん」と読んで小豆を砂糖で甘く煮たものを指す語となった。文字言語はその本来の性格からして引伸・開展・変転するものなので、強いて古(いにしえ)を是として今を非とし、本(もと)を執って末(すえ)を斥けるのは無益で間違った見解である。しかしまた、文字言語の今の用と末の義だけを知って古の用と本の義を忘れ、妄解断行して可とするのも有害で不適な見解である。支那の書物に於ける餅の字を、我が国の「もち」とするなどは些細なことではあるが、不適当であると云えよう。(②につづく)
注解
・「急就篇」:中国・前漢末に史游が作ったと云う漢字の学習書。
・餅:へい、小麦粉をこねてもちのようにまるく平らにつくった食品。
・餌:じ、もち、団子。
・麦飯:むぎめし。
・甘豆羹:かんとうこう、甘い豆スープ。
・黏而:捏ねた団子。
・顔師古:中国・唐の学者。「急就篇注」の著者。
・王応麟:中国・南宋の儒学者・政治家。
・「説文」:説文解字のこと。中国・後漢の許慎の作った最古の漢字字典。
・「周礼」:儒教経典の一ツ。周公旦が作った周の制度を記録したものと古来信じられてきたが、実際は前漢末期に古伝承を集めて編纂されたものらしい。「儀礼」・「礼記」と合わせて三礼と称される。
・「倭名抄」:和名類聚抄。平安時代中期に作られた辞書。源順の編纂。
・狩谷棭斎:江戸時代後期の考証学者。
・「釈名」:中国・後漢末に劉熙が著した辞典。
・飯餅:ご飯を水でといた小麦粉の生地と混ぜて焼いたもの。
・捻頭:古代の菓子。小麦粉を練って頭をねじった形に揚げたもの。
・揚雄:中国・前漢末期の文人・学者。中国・漢代の方言辞典である「方言」の著者。
・水滸伝:中国・明の時代に書かれた小説。
・水賊:湖や河川で活動する武装集団。
・宋江:水滸伝の登場人物。
・餫は喩郡切:餫は喩郡の反切で表わす発音ということ。反切とは漢字二字を用いて別の漢字一字の発音を示す方法。反切の上字が声母を示し、反切の下字が韻母と声調を示す。ここでは喩(yu)+郡(gun)=餫(うんyun)となる?。
・「齊民要術」:中国・北魏の賈思勰が著した華北の農業や牧畜や衣食住の技術に関する書。
・「正字通」:中国・明末に張自烈によって編纂された漢字字典。