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幸田露伴・支那(中国)詩話「蘇東坡と海南島」

蘇東坡と海南島

 宋の詩人も多いが、その中で偉大なのは蘇軾(そしょく)、字(あざな)は子瞻(しせん)であると云うのに異議は少ない。ただの大詩人と云うだけではまだ不足を感じるほどの人であるから、大詩人と云われても云われなくても彼にとっては、頭上の片雲その去来に任す・・だけのことで、何でもないのであるが、その詩人的性格や詩人としての業績が後の人に彼を大詩人と云わせていると云って宜しいのである。
 彼が自ら東坡居士と号した(名乗った)のは、年四十七才の黄州に居た時に、任地の東坡の地で雪堂を築いたことに始まるが、その後は他人も自分も東坡と呼び、終には若い時分のその人をも東坡と称すようになって、詩人としてはその名で一生を通したのである。
 東坡の六十六年の生涯で運命が彼を大厄に陥れた時が二度ある。一度は未だ東坡と名乗っていない四十四才の時で、元豊二年二十八日に在任地から御史台の吏官の皇甫遵と云う者に召捕られて、その八月十八日に御史台の監獄に打ち込まれた時である(詩案の獄)。罪名は天子(神宗)を誹(そし)り恨んだことで、詩にその証拠があると云うのであった。沈括と云う、これも相当な学者であり、詩文の才能もあり、その著述も現存しているが、その沈括が東坡と同じ役所に在って東坡の詩を指摘したのに端を発して、何正臣や舒亶や李定や李宣之等が政治上で意見の異なる邪魔物である東坡を叩き落そうというところから、東坡の詩篇を穿鑿して束になって攻撃したためである。そこでこれを救おうとして、当時勢力のあった太子少師致仕の張方平や吏部侍郎致仕の范鎮等が天子に上書したり、弟の轍(てつ・字は子由)が自身の職を返納して兄の罪を償おう願い出たりしたが、すべてそれ等の事は取り上げられず、張璪と李定が詔(みことのり)を得て尋問をすることになり、その年の十二月末まで獄に置かれたのである。もちろん東坡に罪があった訳では無いが、政治上の反対派が東坡の詩を中傷し罪を着せ、そしてまた張方平や司馬光や范鎮などの東坡の詩を得た人々をも関連させて陥れようとしたのであったが、幸いに宮中から仁慈聡明な御沙汰があって、それらの中傷ごとは行われず、終に馮宗道と云う者が宮中より派遣されて事案は覆されて、東坡は獄を出て黄州圑練副使に左遷されただけで済み、また関係者も小罰を得ただけで事は済んだ。しかし一時は東坡も動揺して獄中で死を覚悟し、弟の子由に寄せる二詩を作って獄卒の梁成に託したほどであった。

  百年未だ満たず、先ず債を償い、
  十口帰する無し、更に人を累わす。
  是処青山骨を埋むべし、
  他事夜雨独り神を傷ますむ。

の句があった。五十にもならずに前世の債務を償って死に、十人もの家族を人手に任せざるを得ないことを悲しむ上の二句と、是処青山の句は明らかに分かるが、他事夜雨独傷神の句は普通一般に解釈しても好いが、また別に自ずから深い意味があるのである。それは蘇兄弟が天性の詩人であって、そしてまた互いに兄弟の情が深かったことに因るもので、二人が東坡二十六才で子由二十三才のまだ若く意気軒高として、これから将(まさ)に世に出て功を立てようと、都に上って制試の試験に応じた頃のことだったが、懐遠駅で一夜物淋しい風雨の声を聴いた。その時東坡は韋蘇州の詩を読んで、

  那(なん)ぞしらん風雨の夜、
  復(また)これに対牀して眠るを。

という句を知って、初めて離合の感慨に触れて、兄弟仲良く一緒に日を送るこの楽しさは人生の幸福であり、この和易閑適(わいかんてき)は何事にも換えられない。しかし、世に立ち功を立てようとすれば、官途に奔走し東西に別れるのは自然のことであり、これもまた人間の自然の在り様である。が、しかし、早々に峻険な路を退いて、清淡閒遠(せいたんかんえん)な生活を送って、共に煕々雍々(ききようよう)の生活を送りたいものだと兄が言えば弟も頷く。この善良で淡泊な性質の二十六才と二十三才の両青年詩人は旅館の一室で、秋の夜の雨声を聴きながら、お互いの顔を視て、お互いの目を視て、おとなしい、やわらかな、清らかな、淡い感情を取り交わした。馬肉で悪酒を飲んで泥酔し怪気炎でも挙げるのを誇りとしても不思議は無い年頃の二人が、淋しい客窓の風のためとは云え、またこれも善良淡泊な詩人韋蘇州の詩に動かされたためとは云え、このような感想を語り交わしたことは、何と品格ある、清らかな、美しいことであろう。
 この時のこの感慨は不思議と二人の間に永く共有されたのである。そこで東坡が初めて鳳翔府の人となって、嘉裕六年の十一月十九日に任地に向って出発した時に、送って来た子由と鄭州西門の外での別れに馬上で詠んだ詩に、

  亦知る人生の要(かなら)ず別(わかれ)有るを、
  但恐れる歳月の去って飄忽(ひょうこつ)たるを。
  寒灯相対す畴昔(ちゅうせき)を記(しる)せよ、
  夜雨何の時か蕭瑟(しょうしつ)を聴かん。

の句がある。寒灯夜雨の一聯は、正に懐遠駅のことを云っているので、結末の、

  君この意を知る、忘れる可からず、
  慎んで苦(はなは)だ愛す勿れ高官職を。

の二句になって、全ての意味を露わしているのである。
その後歳月は早々と経過して、煕寧十年七月に兄弟は百余日相追随することが出来た末に逍遥堂に会宿(相宿)した。子由にその時の詩が二首あり長い前書きがあって、「逍遥堂に会宿して前約を追感し、二小詩を作って之を記す。」とある。

  逍遥堂後千尋の木、
  長(とこし)えに送る中宵風雨の声。
  誤り喜ぶ対床旧約を尋ねると、
  知らず漂泊して彭城に在るを。

 詩の意味は未だ旧約(退隠後の共同生活)を果たさないことを遺憾に思っているのである。

  秋来東閣涼なること水の如し、
  客去って山公酔いて泥に似たり。
  困臥してこの窓呼べども起たず、
  風は松竹を吹いて雨淒々。

 詩意は前詩と同じで、情態は更に多いのである。
 東坡この時四十二才、彼の詩の前書きに、「子由まさに南都に赴こうとする。余と逍遥堂に会宿し二ツの絶句を作る。之を読むに殆んど悲しみに堪えない。」とある。宿願の未だ果たさないことを悲しんでいるのであるが、自身は納得し且つ子由を慰めての詩に、

  別期漸く近く聞くに堪えず、
  風雨蕭々已に魂を断つ。
  猶勝る相逢いて相識らざるに、
  形容変じ尽して語音存す。

 初老であるからではあるが、風雨蕭々とする中、まことに淡い悲しみが遠く響いている。しかし、この時は東坡も子由も男盛りである。人生に何物かを与えないではいられない時期である。この年に東坡は、当時の一大人物であり、棟梁の士であり、一方の旗頭であった張方平に代って、その筆太の筆を用いて、「兵を用いるを諫むるの書」を作った。文は本集に載せられて現存するが、実に言い難いところを云って、明らかに年壮気鋭の天子には気に入らないに定まっていることを、云わなければ気が済まないので云ったものであり、張方平にとって命がけの上書であった。この張方平の上書は不首尾に終わったが、後になって天子はその言の正しいことを知ったのであるが、当時は天子も大臣も張方平の言を認める事はなかったのである。それなのに敢て上書を奉じて朝廷を震撼させたのであるから、その文を書いた東坡が憎まれない筈はなかった。後の大詩人陸放翁は、「東坡が張方平に代って書いた兵を用いるを諫むるの書は、日や月と光を争う」と評しているが、実に堂々として且つ峻烈で、云わんとするところを云い尽くしている。それだけの文書を書いたのであるから、反対側の人々の大反感を招いたのは当然で、これ等のことが積もり積もって詩案の獄は起こり、東坡は死地に置かれようとしたのである。
 東坡の獄中の詩にある夜雨の二字を、これらのことを知って読むと、夜雨の二字は実に等閑(なおざり)にはできない。琴弦の一弾、諧音相通ずるものが有るのである。
 サテこの大厄が過ぎた次の大厄は、元裕八年の年五十八才の時に、都を出て定州の知事となってから始まり、五十九・六十と次第に誹謗排斥され、紹聖四年の年六十二才の時に海南島の儋耳に流罪となり、六十五才の元符三年までの孤島に沈淪した数年であった。厄の始まりは元裕八年九月で、それからは墜落に次ぐ墜落で、悪運重重して恐るべき運命の翻弄に遇ったのであるが、東府雨中別子由の詩こそは、不思議なことにまた夜雨対牀の因縁をなしているのである。東府は朝廷に連なる東西二府の東府であるが、子由はこの時執政であったから東府に居たのであった。雨は偶然に降ったのであろう。桐も偶然に在ったであろう。

庭下梧桐の樹、三年三たび汝を見る。
  前年汝陰に適く、汝の秋雨に鳴れるを見き。
  去年秋雨の時、我は広陵より帰えりぬ。
  今年中山に去る、白首帰ること期無からん。
  客去って歎息する勿れ、主人も亦是客。
  対牀定めて悠々、夜雨空しく蕭瑟。
  起って折る梧桐の枝、汝が千里の行を贈る。
  帰来知る健やか否なるか、忘れる莫れこの時の情。

 白首帰ること期無からんの句は、何と悲しい響きを伝えていることだろう。対牀夜雨の一聯は何十年前からの幽玄な音を伝えている。この時は都の官人で無く地方官になっただけの、まだ瑞明殿学士、兼翰林侍読学士、河北西路安撫使兼馬歩軍都総管知定州軍州事、上軽事都尉、賜金魚袋という身分だから、さほど叩き落された訳では無いが、これからはズンズンと下り坂になって恐ろしい大厄に遇うのである。今語ろうとしたのは、この詩人が海南島の儋耳に流罪となるまでの間に如何に辛い目に際会して、そして詩を作ったかと云うことである。
(昭和十四年三月)

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