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幸田露伴の論語「一貫章義②」

 子曰。
 子曰(いわ)く。

 子(し)は馬融(中国後漢の学者)の解説のように男子の通称であり、ここでは孔子(中国・春秋時代の思想家、儒教の祖、孔丘、字(あざな)は仲尼(ちゅうじ)。孔子、孔夫子、夫子と尊称される、子や夫子は先生を意味する。)をいうことは勿論である。「曰は、口に従う、乙の声、口気の出ずるに象(かたど)る」と許慎(中国後漢の学者)の『説文解字』が説く通りである。子曰は、孔子が言われるには、と云うのである。子曰が、全て孔子なのは『論語(理仁篇)』である。『論語』は、概言すれば劉向(中国前漢の学者)が言うように、全て孔子の弟子が孔子の善言を記したものであり、詳説すれば柳宗元(中国唐の文学者)の言うように、孔子の弟子の曽子の弟子である楽正子思の徒が記録編纂したもので、また孔子の弟子の有若(ゆうじゃく)の弟子等が記したところも有るので、単に子曰とあれば孔子で無ければならない、そう考えられるのである。

 参乎、
 参乎(しんや)、

 参は孔子の弟子曽子の名である。参、字は子与(しよ)、魯の南部城の人で、「孔子より若きこと四十六歳」と『史記』に見えている。孔安国(中国前漢の学者)の言葉に拠れば、参は曽点、字は晳(せき)という者の子であり、晳もまた孔子の弟子であって、孔子門下のおける曾子の先輩でもある。晳は『論語(先進二十五)』に見えて、同門の子路(しろ)・冉有(ぜんゆう)・公西華(こうせいか)と共に、孔子の傍に座して各自がその希望する志(こころざし)を述べた時、晳は「暮春の、皆が春服となる好い時節に、今年初めて冠者となった青年五・六人と、童子六・七人を連れて、沂(き)の温泉に浴し、舞雩(ぶう)の辺りの涼風に吹かれ、歌を詠じながら帰って来たい、と思います。」と言って、孔子に「吾は点に賛成する。」と言わせた高明な人であった。曽参は父とは性質が異なっていて、父のように聡明な人では無かったが、いかにも篤実な人で、『論語』・『礼記』・『孟子』・『孝経』にしばしば見えている。その人柄はそれらを読んで知ると善い。
 孔子からは、「参は魯(ろ)なり」と言われたことが『論語(先進十七)』に見える。魯とは鈍(どん)とか遅鈍(ちどん)のことで、キビキビした敏捷な人で無く、おっとりと薄のろい人だった。しかし魯鈍遅鈍な代りには、自然(おのず)と確実質樸なところが有って、「吾は日に吾身(わがみ)を三省(さんせい)する、人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、伝えて習わざるか」『論語(学而四)』と自ら言ったほどで、聡明であっても最後は空疎に終わる人と違って、聡明弁才は足りなくても、「その誠を尽すことは終始異(かわ)り無く、外はその力を尽して怠ること無し」と慶源の輔氏が言った通り、如何にも手厚く、ジリジリ押しに、弛み無く学問に進んだ人である。やり始めは集中して努力するが、後には次第に怠けてしまうことを、「誠を尽すに終始に異(かわ)りが有る」というのである。曽子にはそのようなことが無いのであった。三省の言葉からも曽子の学問の様子が覗い知られるが、第一に「人の為に謀って忠ならざるか」とある。人の為に謀る以上はもちろん忠であるべきである。忠とは「己(おのれ)を尽す、これを忠という」と朱子は解説している。自己の心の有る限りを尽すのが忠である。ところが自己の為に謀る場合には、吾が心の有る限りを尽すが、人の為に謀る段になると、なかなか吾が心の有る限りを尽すということは出来ないもので、我も人も内省して見ると分ることであるが、先(ま)ずは好い加減にしていることが有るものである。好い加減にすることは不忠なのである。人の為に謀って忠であるか不忠であるか、そういうことを省みることも知らないで済ませているのが無教養な者の常態であるが、既に教(おしえ)を受けて成程と合点していても、誰もが忠には成り難いものである。あやふやなものである。恐らく曽子といえども学問の始めに於いては、忠でない場合も多かったことであろう、それを「日に省みる」とある。そこが曽子の学問態度の篤厚なところで、何とも感心するところである。忠・不忠、これはもちろん心中の消息であるが、その心中の微妙なところを省みるところに、曽子の徹底的に学問に努める態度と、存心(正しく心を保つ)純粋なところを看るべきである。
 「朋友と交わりて信ならざる乎」とある信とは、朱子が「実を以てする」と解説している。忠は心性上について言う、信は事実上について言う。心中に在る場合は忠、行為する場合は信、忠も信も異なったものでは無いが、内に在るところの忠がそのまま外に伝わる、それが信である。俗に「うそをつかない」ことを信と心得ているが、「うそをつかない」ことも信には相違無いが、それだけでは信の本義を尽してはいない。言葉だけのことで無く、心の忠がそのまま外に顕われたのが信である。これがまた出来そうで出来ないことである。何も歯に衣(きぬ)被せずにボキボキと物を言うのが信という訳でも無い、そう云うことは気質の粗(あら)い人には訳無く出来ることだが、それは不信では無いとしても信とは云えない。信は誠であって、日が日々に昇る、月が夜々に現れる、潮がその時々(ときどき)に進退する、そのようなことを信というので、言葉だけで無く行為に於いても、吾が心の誠、即ち忠を行うのが信なのである。換言すれば忠の具体的のものが信で、信の抽象的なものが忠である。忠は微妙で、信は明確である。であるので、人の為に謀る上で忠か忠でないかと反省することは大切なのである。友と交わる上で信か信でないかと反省することは当然なのである。忠信はただこれ一線の左右、一体の表裏、一象の上下である。
 「伝えて習わざるか」とは、朱子の「伝えるとは之を師より受けることを云い、習うとは之を己に習熟することを云う」という解釈が実に優れている。『大戴礼記』に曽子の言葉の「旦(あさ)には為すべき仕事に就き、夕には一日の仕事を終え、明日に備えて反省し、有意義に生涯を生きて、天命に安んじて死につくならば、己に与えられた仕事を守り得たと云うことができよう」とあるのが見えているが、全くここと同じことで、旦夕(たんせき)の文字が形容的に入っているかいないかの差だけである。習うは邦語「ならう」と読んで、「ならう」は真似をすることであるが、「習は数飛也」と『説文解字』に見えているのが本義である。「鷹乃(すなわ)ち学習する」とあるように、幼鳥が飛び初めの時に、しばしば羽搏くのが習うである。それなので、習は重也(じゅうなり)積也(せきなり)とも読み、易(えき)にある習坎(しゅうかん)の坎(かん)は「かさぬ」と読む。之を師より受けても、自分で之を実際に重ね重ねて習熟しなければ、実際に真を得ることも無く、業は怠(おこた)り荒(すさ)んでしまうのである。しかるに曽子は「伝えて習わざる乎」と日々に自ら省みたのであるから、習わないことは無かったのである。
 曽子はこのような人で、自ら治めること誠実篤実、弛み無く道を学んだ人であった。その才能は顔回などには及ばなかったが、孔子門下の最も良い弟子として、正しく師の道を伝えた人と云われている。なお曽子の学問をして道に進んだ様子や、その風格を窺い知ろうとするならば、『論語』各篇の曽子に関する条文、『孟子』のその条文、『礼記』の中の曽子問・檀弓等の篇、『大載礼記』中の篇第四十九から第五十八迄の十章を読めば、古(いにしえ)の人の事は知り難いとは云え、凡(およ)そは推知することが出来る。特に『曽子』は漢の時は十八篇あったというが、今は八篇を失っており、朱子は「その言葉や内容は、論語や孟子や礼記檀弓篇等の記載と相違が甚しい」と云っているが、別に又、「記すところ甚だ通じないが、日常行動の実際については詳しい」とも評している。明の方考孺(中国明代の儒学者)は、「曽子十篇は、曽子が著したものではないが、格言や正論がその間にバラバラに述べられていて、言説に於いて最(もっと)も備わる、思うに門人弟子の伝聞が、そして漢儒の手で成るものなり」と評している。その第十篇天円に於いて、地の円(まるい)ことを説いていることは、人に奇異を感じさせるが、地の球体であることを説くものは、思うにこの書と『周髀』とが古い。そこで清の梅文鼎(中国清代の天文家)は、「地円の信ずべき、大載礼記に曽子の説有り」と云っているが、それ等の事はさて措(お)いて、『曽子』十篇は、曽子とその弟子の公明儀・楽正子春・単居離・曽元・曽華の徒が、立身孝行の必要、天地万物の道理を論述したものであるから、曽子を考える上では読むべきもので、漢人の手に成るという理由を以て捨てて取らないのは、過厳な論である。この『曽子』の十篇、第二篇は立孝、第四篇は大孝、第五篇は事父母、と皆孝行の道に関して言っているところを看ると、曽子がどんなに孝行の道に深い人であったかが覗われ、『史記』の作者が「孔子は曽子が孝行の道をよく理解していると思い、故にその学問を授けて、孝経を作らせた。」と記したのもうなずかれる。また現存の『孝経』を見ても、諸書に見える曽子孝行の事実に照らしも、真(まこと)に純粋温良の人であり、魯鈍で才は鋭くなかったにしても、また大器大才の人では無かったにしても、人の子として無上に美しい子であり、しかも常に親に仕えて不足の無いことを念(おも)って已まない、少しの「うそ」も「油断」も無かった人だったことが知られる。
 こういう人であったから、人の弟子としても弟子として美しく、我意などの無い、瓶から瓶へ水を注ぐように師の教(おしえ)を濁さず散らさずに伝え受けた人であった。孔子の弟子の優秀な者七十余人、その中には種々の偉材も有ったが、顔回(がんかい)を除いては曽子が思うに最も能く師の教(おしえ)を伝え受けた人で、であればこそ、孔子の孫の子思も曽子に学んで孔子の教を得、孟子もまた子思に学んで道統(孔子の道)を得られたのである。
 宋儒(宋時代の儒学者)が「道統」の説を出してから、孔子の道にもまた仏家の衣鉢相伝のようなものが有るように見られ、いわゆる「道学」だの、「伝授」だの、「心法」だのと、何か特別に霊妙なものが有るように思われて、之を尊奉する者や、之を嫌う者が現れたが、道統などと言わなくとも、孔子の道は孔子がしばしば自ら言われたように古聖先王の道であることは明らかで、曽子がこれを伝承し、子思がまた曽子より受け、孟子がまた子思より受けたことは確かな史実であるから、曽子が孔子の道に於いてどのような位置に在ったかは、自然と明らかなのである。
 宋儒の言も決して斥けるべきでは無いが、やはり孔子の教(おしえ)から展開したものであるが、それは展開したものなので、本(もと)のままのものでは無いこともまた否定できない。例えば大乗仏教が仏教で無いことは無いが、大乗の経論は仏教から展開したものであって、それは展開したものなので、本のままのものでは無いのと同じことである。宋学は宋学で、強い主張も有れば効能も有る、それは別論すべきであるから、今は曽子の人なりと、その孔子の道の教(おしえ)の上でどのような位置にあったかということを、史的事実だけで語って済ますのである。
 参乎の「乎(や)」は、語の余りである。字の上の「ノ」は声上って越揚する形に象(かたど)る。気の欝結を伸び広げるのが「兮(げ)」であり、兮の上のノは徐諧が「声気が上出(じょうしゅつ)して尽きるなり」と解説している。之を疑う詞(ことば)も乎であり、之を呼びかける詞も乎である。呼は、乎(や)といって呼びかけるので、乎に口を加えて呼びかけの字義となったのである。ここは「参や」と孔子が名を言って呼びかけられたのである。参の音(おん)はシンである。陸徳明(中国唐の儒学者)は音をサンと読んだが、曽子の名の音は唐の時から是(これ)と確定出来なかったのだから、今は『説文解字』が音をシンと読んだのに従って置くのを可とする。

 吾道一以貫之。(吾が道は一(いつ)以って之を貫(つらぬ)く。)

 吾は我なりと『釈詁』に見える。吾と我、双声で同義である。ただ後世は我を主格とし、吾を所有格として用いる傾向が有るが、古(いにしえ)は必ずしもそうではない。しかしここは所有格として用いている。次の道の字にかかって「吾が道」と云うので、即ち孔子が自ら言われたのである。
 道は『釈名』に、「一達これを道という」とある。一達とは長い道の枝道の無いのを云うのである。二達は岐(き)であり、四達は衢(く)であるように、細かく言えば一達が道であるが、普通に言えば必ずしも一達だけが道では無い。道は「踏」であって、人の踏むところの意味である。また行は道なりと『鄭箋』にしばしば見えるように、行と同じ意味で、行を「みち」と訓(よ)み、「みち」を道として通じるのである。それなので道の字は、今は「首」に従い「辵(ちゃく)」に従っているが、古(いにしえ)は「行」の字の中に「首」の字を置いた「衜(どう)」の字の方が多く用いられている。行は道路の象(かたち)である。それは四達の衢に象(かたど)ったものである。首は人の首で、人の首の向かうところを表わして行字の中に首字を置いた衜は、道の意味であり道と同じ字なのである。辵を『説文解字』では、乍(たちま)ち行き乍ち止まるなりと解釈しているが、それは辵字の下半分の止を止まると解釈したからの誤りで、止は足である。足は止まるものでもあるが、行くものでもあるから、何も辵を乍ち行き乍ち止まると解釈しなくてもよい。辵字の上半分の彳(てき)を『説文解字』では小歩也と解釈しているが、これも小歩としなくともよい、歩とするだけで十分である。彳の反対の亍(ちょく)が「歩止」であるから、彳は歩でよい。辵は彳に従い止に従うのであるから、その字義は歩に従い、足に従うので「行く」と云うほどの意味である。辵に従う字の多くが歩行に関しているのを見ても、その字義が行にあるのを知ることができる。辵の用いられた例は今の書には無く、ただ漢の時の本の『春秋公羊伝』には、辵階而歩と春秋宣公六年の文にあったと云うが、今の本には躇階而歩とある。躇(ちょ)には躊躇の意味もあるが、そこは何休(中国後漢の儒学者)の解説にある通り、躇は超遽(ちょうきょ・超あわただしい)のように、「次との間に暇(いとま)が無い」で、辵にせよ躇にせよ、『玉篇』が「走る」なりと訓み、『廣雅』が「犇(はし)る」なりと訓んだように読まなければ通じない。このように辵に従う道も、行に従う衜も、首が向かうところを示し、人の行く所が即ちそれであることを表わしている。そこで道路の字義から引用して「道理」の道となり、「道術」の道となり、「道義」「道徳」の道となったのである。であるから、老子(中国春秋時代の哲学者)が、「大道は極めて平らかなのに、なぜか人々は径(こみち)を好む。」と云っているのも、道路の道と、道術の道とを、同じ意味にとらえて、径の「小みち」というのを用いて、暗示的に表現している。また、董仲舒(中国前漢の儒学者)が、「道とは由りて治(ち)に適(ゆ)くところの路なり」と云っているのも、「由りて」「ゆく」「路」の字を用いて、道路の道のように大道の道を説いているのである。
 道の字義は凡そこのようであるが、さてここに孔子が「吾が道は」と言われた道は、即ち孔子が常に由るところのものであり、取るところのものであり、従うところのものであり、行うところのものであり、正しいとするものであり、之を古今に照らして古今之に違(たが)わざるものであり、之を天地に徴(てら)して天地之に通ずるものであり、礼楽であり、術芸であり、その小は喜怒哀楽の感情が未だ発生しない平正な心の景象から、その大は国家天下の甚だ顕著な営為に至るまでのものであり、心象から事相に及ぶ一切、即ち孔子が之を包み、孔子が之に包まれ、孔子がその中に融け、孔子がその中に融かされ、孔子とそれとが渾然となって互に体(本体)となり用(作用)となり、瞬時も離れないものが即ち孔子の「吾が道」である。このように言うと抽象的になって終って、道は具体的なものでないように聞えるかも知れないが、孔子が道と言われるものは道教や仏教が言う道とは異なっている。「そこに身をまかせているが意識しない、之を道という」と荘子の指した道や、自然や無を道とした老子の道や、虚無寂滅を道とし、法爾(あるがまま)を道とした仏家の道や、それ等と同じものとして孔子の道を理解しては良くない。道教や仏教の道は天理を言う傾向がある。孔子の道もまた天理を認めないことは無い。その天を言うに当っては、もちろん道の本原に及ぶが、孔子の道は多く切々と「人」の上に就いて言われているのである、随って「事」上に之を認めようとするのである。そこで礼と云い楽と云って礼楽を重んじるのであり、仁と云い義と云って仁義を称(たた)えるのである。孔子のいわゆる道は空虚に属するよりも実事に属す方が多い。孔子の孫で、曽子の弟子の子思が、「性(本性)に率(したが)う、之を道という、道を修める、之を教(おしえ)という」『中庸(一章)』と孟子(中国戦国時代の儒学者)に伝えられて以来、孔子の道も多く心性上のもの、形而上に属するものと思われ、孟子も性善説を主張し、その後、程子や朱子も多く心性上に論述されたことが多かったために、いわゆる宋学を学ぶ人は、そういう部分に力を入れて研究したので、儒教も道教や仏教のように心性上のことを語るもののように看做(みな)される傾向があるが、孔子の道は勿論「人」の上に就いての道であるから、心性上の事を大切にされたことは勿論だが、孔子の道は決して虚礼三昧のものでは無い。その道は、史により・文により・礼により・楽により・事(現象)に即し・実(実際)に即して、事上に理(道理)を合せ、理上に事を合せて、事と理が一体となり、偏りなく、偏頗無く、向上済世することを趣意とされたのである。「述べて作らず」と云われた「述べて」とは何かと考えるとき、「古(いにしえ)の聖人の、堯や舜を道の宗祖とし称え述べて、周の文王や武王の政治を正しいとし手本とされた。」『中庸(三十章)』のがそれであることが分る。「信じて古(いにしえ)を好む」と云われた古は、皆これ空理では無く物事上のことであることが分る。孔子が老子に物を問われた時、老子がどのようなことを孔子に告げたか。「吾これを老子に聞く」と孔子が言われた事は、葬送の時に日食に遇った時の対処、幼児の死に棺衣を用いること、昔に魯公の伯禽がやむなく三年の喪中に戦争をしたこと等、皆これ物事上のことである。孔子の教(おしえ)を受けて成った者七十二人、何が成ったのであるか。六芸(礼・楽・射・御・書・数)に通ずるとある、六芸は皆これ物事上のことである。壁を前に坐禅して悟りを開くような、虚霊の沙汰ではないのである。今の言葉で言う哲学というものが孔子に無かったことは無い、勿論孔子には孔子の哲学があったのは疑い無いが、孔子の哲学はいわゆる哲学者の哲学とは大いに違っていて、物事と行為に即している哲学である。致知格物(実際の物事によって知を深めること)から修身斉家治国平天下(身を修め家を斉え国を治め世を平らかにすること)に至る「実」に伴う道、いや実即ち道、道即ち実の孔子の道は、楽も失われ、礼も欠けてしまった後世においてはその全体が得られなくて、わずかに宋学(朱子学)がその「実」の失われた残りの部分を恢復したが、理上の論議を精しくしたので、孔子の道もまた空中を模索し探し当て、これでは無いかと感じて悦ぶようなものになってしまった傾向があり、また清儒の学(陽明学)は、医者が薬性を精しく知ろうと自ら山林を駆け巡って種々の草木を吟味したが、結局は病者を治す良法を得られずに終わって、孔子の道の甚だ遠いことを思わせて止んだ。孔子の道は決してその様な頼りないものでは無い。小面倒なものでも無い。時代の大勢とは相容(あいい)れ難くも有っただろうが、確(しっか)りとした、そして整った、博大な、空疎でない、文明的で人道的な世界の成立を目的とした、「物事」に伴い「実地」を遺(わす)れない立派なものであったと考えられる。
 管子(管仲:中国春秋時代の斉の政治家)は斉の祖である太公望の治国の方法を継承して斉を再興したが、管子は経済・産業・軍事を多く配慮する太公望の道に由ったので、孔子よりも物事上の配慮が広く、孔子は魯(ろ)に生れ周公(中国古代の周の政治家)を崇拝したので、文明的・道義的・礼楽的を治国の方針とする周公の伝統に属する孔子は、「軍事のことなどは知らない。」『論語(衛霊公一)』というように自ら言われ、経済の事なども「節度」を重んじ、民力を暴使しないことを大切とする位の、大綱的消極的な教(おしえ)に止まり、管子が「塩」を説いたり、「物価」を説いたり、「鉱山」を説いたような物事上の説などは、論語その他の何の書を見ても見当たらないのである。これによっても孔子の道は、事に疎(うと)く実に遠いように思われるが、決してそうでは無い。ただ太公望や管子は「物」や「力」を優先し、周公や孔子は「礼」や「楽」を優先されたのだが、事上に注意されたことは同じである。管子は富強を主とし、孔子は文明を主とされたのである。礼は履(り)である、履行である。文明の履行で無くて礼が何であろう。礼は皆事である、空疎なものでは無い。孔子が礼を語ることが多いのをみても、孔子の学、孔子の道が、事を離れないのは明らかである。後人が書斎で机に対(むか)うことを以て学問とするようなことは、孔子の学問の一部分にこのようなことが有るとするのは可だが、孔子の学問や道がそういうものであるとしては間違いである。孔子の高弟七十二人、樊遅(はんち)がその中に在るかどうか確かでないが、樊遅かつて穀物の作り方について教えを請い、次に野菜作りについて教えを求めた『論語(子路四)』。農耕の道を自分が先ず之を学んで之を知って、それから民を教え導こうとしたのであろうが、如何に身辺雑事に多能であった孔子に対しても、このような問いは真(まこと)に不当である。しかしこのような産業に関する事を求めても、その教(おしえ)を得ることが出来ると思ったから樊遅は求めたのであろう。そこに孔子の道が、常に道理に適うだけでなく、物事にも切実なことが窺い知れる。そうで無ければ樊遅の器(うつわ)は小なりといえども、このような物事上の学問を孔子に対して何で一度(ひとたび)請い二度(ふたたび)云うことが有ろう。孔子の道、その心は一つであるが、その現れた事実に就いて観れば、千緒万端に及んで、各々成っているのである。ここに吾道と言われたのは、形而上・形而下・心象・事相の一切にわたっての道である。孔子の信奉するところの道、即ち古聖先王の道、古聖先王の伝えられた道、即ち孔子の道なのである。
 「一以貫之」の一を、数の一として解釈してももちろん不可では無い。ただそう読むときは、吾道は「一以て之を貫く」と訓読すべきである。それで良いのである。しかしながら後の文に、「曽子曰く、先生の道は忠恕のみ」とあって、忠のみとか、恕のみとか、または誠のみとかであれば、一とあるのに能く対応するのであるが、忠恕と二字を以て答えているので、対応しない感じがしないでもない。そこで数の一としては読まない説も起って来るのであって、従ってまた貫も「貫く」と訓まないことになる。阮元(中国清代の考証学者)はここの一を「専」又は「皆」と訓み、貫を「行」と訓み、「吾が道はもっぱら以て行う」と訓んでいる。阮元は大儒で、しかも古(いにしえ)に精しい人であるから、即座に之を否定するのは良くない。「一」を「専」と訓むのは、『管子(心術篇)』に、「執一之君子」とあるところの注に見え、『淮南子(説山訓)』に「一、情専也」とあり、『後漢書(馮縕伝)』にも「一、猶専也」と見え、『荀子(大略篇)』の「君子一教、弟子一学、亟成」の注に見え、『春秋穀梁伝(僖公九年伝)』の「台明天子之禁」の注、『礼記(表記)』の「欲民之有台」の注、『礼記(大学)』の「台是皆以修身為本」の注にも見えていると説明し、また「一」を「皆」と訓むその証(あかし)は、『大載礼記』の「衞将軍文子、則一諸侯之相也」の文章、『荀子(勧学篇)』の「一可以為法則」の条文、『荀子(臣道篇)』の「喘而言、臑而動、而一可以為法則」の条文、『呂覧(貴直篇)』の「一若此乎」の条文、『後漢書(順帝紀)』の注等に在って、何れも一を皆と訓むのである。王念孫(中国清代の学者)は、『広雅』で貫は「行也」と注釈している、『荀子(王制篇)』に「為之貫之」とある貫も、「為す」即ち「行う」の字義である、『漢書(谷永伝)』に「以次貫行、固執無違」とあるのも、『後漢書(光武十王伝)』に「奉承行貫」とあるのも、皆「行う」と訓むべきである。『爾雅』に貫は「事也」とあるが、「事とする」と「行う」とはその意味が近いので、「事」も之を「貫」といい「服」といい、「行」も之を「服」といい「貫」というのである。と解釈して一以貫之を「一以て之を行う」と訓んでいる。
 阮元は、「吾道一以貫之」を「吾道皆以て之を行うなり」と読んで、その意味は、「吾が道は皆行動に於いて之を見る、単に文字の学問を以て教(おしえ)とするのでは無い」としている。王念孫も手堅い学者である。王念孫と阮元の解釈は大体同じであって、孔子が「参や」と親しく呼びかけられて、「吾が道は専ら皆之を行う」にあると示されたと云うのである。前に述べたように、道は勿論行に従うものであり、行くは即ち行うことであるし、また先王の道に従うのが孔子の道であり、道は行動を離れて存在するものではなく、事の上、即ち行の上、実の上から離れないものであり、特に孔子の道は道教や仏教の道とは異なり、虚無的・霊秘的では無く、全て実践的で人間的なものであるから、このように語られたのも当然である。
 しかし王・阮二氏よりは遙に古い邢昺(中国北宋の学者)の解説書では、貫は「統」なりと訓んでいる。皇侃(中国南朝梁の儒学者)も、「貫くは統(す)べる(統一する)がごとき也」と訓んでいる。そして邢昺は、孔子が曽子に語って、「我が行うところの道は、ただ一理を用いて天下万事の理を統一するなり」と言われたと、「理」の一字を用いて解説している。理の字をここに引き出さなくともよいと思われるが、古註の意味は一を数の一と解釈して、そして貫を統べると訓んだところに、自然(おのず)と理を含んだところがあり、王・阮とは異なる読みかたをしているのである。王・阮の解釈は、「之を経旨に求めて皆甚だ合す」と劉宝楠(中国清の考証学者)が言っているように、意味は能く通じているが、孔子の言葉の調子に合うのは、どちらかといえば古註の方が勝(まさ)っているようである。ただし古註は余りに簡単なので、学者に明白に識得・感得させるには不足があるようで、劉宝楠に「一貫の字義、漢より以来その解を得ず」と言わせている。
 焦循(中国清の考証学者)も堅実な学者だが、貫は「通」なりと訓み、貫を通の意味に取って、自他共に天下の善に従うことを一貫の意味としている。その言葉に云う、「孔子言う、吾道は一以って之を貫くと、曽子云う、忠恕のみと、であれば即ち一貫は忠恕である。忠恕とは何か、己を尽して他に対することである。孔子は言う、恕は優れた知恵である。舜は好く民に問いて民の意(こころ)を察す、民の意の悪を抑えて善を賞揚し、その善悪両端の中間の妥当なところを民に用いる。孟子は云う、偉大な舜は大いに勝れたところが有った。自分に善いこと有れば人と共にし、人に善いことあれば人に従い、人の善言を取り入れ楽しんで、善を実行した。舜は天下の善に従った。これ真(まこと)に一以て之を貫くである。一心に万善を容(い)れる、これが偉大な理由である。」と解説している。又云う、「それなので、人に技量有れば之を採用する、これは国を保つ基本である。自分の知らないところは、人が之を教えてくれる。これが賢者を挙げる要点である。之を知るを知るとし、知らないを知らないとする、これが学問を勉める要点である。己に克てば則(すなわ)ち我意は無くなる。我意が無ければ則ち天下を容れる量がある。天下を容れる量が有れば、善によって善を行い、そして天下の善は揚(あ)がる、善によって悪を正せば天下の悪は隠れる。貫は通である。いわゆる神の恵みを通じ、万物の情を同じくする。ただ事々に己から出ることを欲すれば、我意が生じる。我意が生じれば人と同じず、人と異なる。人と異なれば、一(個・我意)に執着するなり、一以て之を貫くことが出来ない」と。これは「一以貫之」を読んで、「一以て之を通ず」とするもので、焦氏の説は、貫によって百千万の善を通じる「通」の意味合で大精神・大作用・至善・至徳を認め、それが即ち孔子の「吾道」であるとしているのである。それなのでまた云う、「孟子云う、人が斉(ひと)しくないのは人の情である。斉しくなければ、即ち己の性情を天下の性情の手本には出来ない。即ち己の習うところ・学ぶところ・知るところ・能くするところを以て、天下の習うところ・学ぶところ・知るところ・能くするところの手本には出来ない。それなので、聖人の知らないことを人が知ることも有り、聖人の出来ないことを人が出来ることもあり、己の欲するところも有り、人もまた各々欲するところが有り、己の能くするところも有り、人もまた各々能くするところの有るを知る。聖人はその真心(まごころ)を以て、人々の本性を発揮させ、人々の資質に因って之を教育し、人々の才能に因って之を用い、そして人々と共に天地自然の恵みの中に包まれ、中和を得、天地は安定し、万物は生育する」と。自他共に善に従うことは、いかにも先王聖人の道に違い無いから、焦氏の説はもちろん経旨に合致しており、かつまた後の曽子の語の「忠恕」にもよく響応していて説得力があるが、要するに貫を通と看(み)たところから思い付いて、筋道が通るように解り易すく説明しているのである。
 但し、焦氏が自他の習う所・知る所・学ぶ所・能くする所・技・事に説き及んでいるのは、決して不可では無いが少し説(と)き過ぎていて、「吾道一以貫之」の言葉の調子から外れ気味なのは免れない。一に執らわれることは、一以貫之と異なることは勿論だが、一以貫之に対して「執一」を挙げ「我意」の働きなどを説き出したのは、どうも少し説き過ぎていると思われる。方向は好いが、行き過ぎるということもある。「一心に万善を容れる」と、「容」字を用いているのも、舜の「大」の理由として適当であるが、一以貫之の場合は、その外面から語るよりもその内面、即ち中心に就いて語った方が適切ではないか。容の字を用いるよりも、貫の字そのままで解釈した方がどうも自然である。焦・王・阮の解釈は皆可であるといえども、用いた字と説義に非は無いが、能く言葉の調子に適(かな)っているか否かといえば、古註の解釈の方が却って適っているように思う。
 朱子はこれを解説して、「聖人の心は、渾然とした一つの道理(仁)で、あらゆる物事に適応する。その作用の有様は物事それぞれで、同じではない。」と云っている。『朱子語類』では、「貫は穴あき銭の貫(さし)で、一は縄索である」と語っている。貫は元来『説文解字』に「銭貝の毌(かん)也」、「物を穿(うが)って之を持つなり」とあって、元来「毌」が本字で、物を穿った形に象(かたど)り、「貫」はその貫(つらぬ)かれる物、即ち貝を添えた後出の字である。「串」という字も毌と同じ字で、「毌」の同音同義の字である。それらを考えて貫の原義を覚るべきである。貫を邦語では「ぬく」又は「つらぬく」と訓む、ぬきとおす又は連ねぬくの字義である。貫が貝に従ってから、名詞としての邦語の「銭さし」の字義となって、『史記』や『漢書』の「貫朽(く)ちて校(かぞえ)られず」の貫(さし)がそれであり、「さし」は刺すものの語意であり、緡(さし)・繦(ぜにさし)・椶索(すさく)、即ち貫(さし)であり、縄索を意味する。『書(太誓)』にある「商罪貫盈」の解説に、「商の紂王(ちゅうおう)の悪業は、その物が縄索の貫(さし)に在るとすると、その悪業で貫はすでに満ちている如くなり」とあるのが貫字の古く用いられた例である。貫盈(かんえい)・盈貫・満貫・皆物が多く一杯になったことを云うので、そこに「連ねぬく」ところの形象をみるべきである。『易(山地剥)』に「貫魚」の語あり、『三国史』に「魚貫」の語があり、また貫の同音同義の字に串字があるのを見ると、貫は一ツの物を刺し通すのも貫であるが、銭貫(ぜにさし)のように一ツの物で多くの物を刺し通すような場合を貫という方が多いように思える。『広雅』に貫は「累也」とあるのもその形象を語っているのである。
 孔子の道は、孝・弟・忠・信のようにその徳目も多い、親・義・別・序のようにその教目も多い、進・退・座・起・冠・婚・喪・祭のようにその礼目も多い、楽・政・詩・書・射・御・飲・食・言語とその行うべきもの、習うべきものも極めて多い。曽子は一々之を学び之を行っている。試みに『礼記(曽子問)』を読んで見れば、如何に曽子が師に対して事細(ことこま)かに、その道を失うまいと心を用いていたかが窺い知れるだろう。『論語(郷党篇)』を読んで見たならば、如何に孔子が実際生活の瑣細なことにも、その道を実践していたかが窺がえるであろう。孔子の道は、空理的・論議的・心悟的・抽象的・哲学的・神秘的・宗教的なものでは無く、具体的・実際的なものなので、これを一々末端に就いて言えば千万端である。曽子は温良貞順の性質で、日頃からその実際の一々に就いて精察もすれば篤習もし、そして反省もすれば努力もして、之を究め尽そうとしている。しかしながら、未(いま)だその道の本(もと)が一ツであることを知らない。そこで孔子が、その道の千万端なものが本(もと)は一ツのものであることを示されたのである。朱子はこの意味で、「曽子はその用(作用)に於いて、すでに物事に従って精察し之を実行する。但し、未(いま)だその体(本体)の一ツであることを知らない。孔子は、曽子が久しく努力を積んで将(まさ)に得ようとしているのを知り、以て呼んで之を告げる。曽子は能くその指(しめ)すところを黙契(もっけい・無言のうちに合点)し、速やかに応答して疑い無き也」と説明している。道の体だの用だのと云うと、哲学臭く、道学臭く、仏学や禅家の話のように聞えて、孔子の道にその様なことは無い筈だと思う人も有るだろうが、それは朱子の言葉尻に拘(こだわ)って、真の意味を理解しないものである。礼だの、用だの、所得だの、黙契だのという言葉を忘れて、孔子と曽子のこの一場の受け答えの光景を考える時は、朱子の説明が如何に能く説明し得ているかが、合点されるだろう。
 『朱子語類』に、「曽子が未だ一貫の説を聞かない時は、人の臣としては敬に留意し、人の子としては孝に留意し、人の父としては慈に留意し、人々と交っては信に留意することを知り、敬とは何か、孝とは何か、慈とは何か、信とは何か、その一ツ一ツの実際を理解し、その後その一ツ一ツの実際を思い描き、事細かに考察を加えて、その一ツ一ツの手本を得て、些(いささ)かその一ツ一ツを知る。一貫の説を聞くに及んで、言下にその実心を会得し体認して、即座にまるで家屋の床に散らばる穴銭を、一條の縄で全て貫通して纏めるように、日頃の幾多の工夫、幾多の事を皆この実心によって修得する。」と説いている。また、「聖人が物事に対応するのに、各々別個の道理が有るのではない、曽子を見ていると各々別個の道理が有ると思っている様である、それなので孔子がこのように告げる」と。この言葉の意味は、聖人の物事への対応は、一ツ一ツの物事に対し、コレはこうアレはあれと夫々別箇の道理によって、種々様々な扱いをするのでは無い。若しや曽子は各々別個の道理があると思っては居ないか、と孔子が「吾が道は一以って之を貫く」と告げられたというのである。これと同じ意味で、また「彼は、聖人があらゆる物事に適切に対応するのを、これが全て一貫の説の実心がもたらすものと知らず、聖人が之を告げるに及んで正に之を知る。全てこれ此の一箇の実心の大本(おおもと)から流れ出ることで、木の枝葉の良好は、根上(ねうえ)のこの実心の生気が流注し貫くことによるようなものであると知り得たのである」と説かれている。散銭と縄との喩えは貫の字について説かれて甚だ優れているが、この枝葉の良好と根の生気との喩えの方が説き得ていよいよ優れている。これに由って如何なる人も一貫の趣旨を理解できるであろう。銭(ぜに)と縄とでは、銭は縄では無く、縄は銭では無く、貫くものと貫かれるものとが異なっているが、枝葉と根とでは、枝葉中に在るものと、根上のものとが相通じて離れず、万事に適応するものと一貫するものと、此(これ)は即ち彼(あれ)、彼は即ち此で、同じものであることが自然(おのず)と見えて、実際に即して能く道理を語っている。これで吾道一以貫之は明らかである。
 今の流通本は皆、「一以貫之」とあるが、皇侃の解説書では、「一以貫之哉(かな)」と哉の一字が多い、哉は「言の間也」と『説文解字』にある。「言葉が少しく駐まる也」と解釈して適当なところの語助である。「野(や)なる哉由(ゆう)や」「是(これ)有る哉子(し)の迂(う)なるや」の類は両者の間に在るが、「我それを試みん哉」のように語末に置かれるのもある。歎詞・問詞として用いられる場合もあるが、何れにしても大概は前言のままに少し駐(とど)めて前言の意味を安置するのである。それなので此処に哉の字が有っても意味は別に無い、一以て之を貫くかな、と云うだけである。

 曽子曰、唯。(曽子曰く、唯(い)。)

 前の孔子の言葉を、如何にもそうですと、曽子が言下に合点して、一点の疑点無く「唯」と応じたのである。唯は『説文解字』に「諾(だく)也」とあるが、諾は邦語に遷すと、「うん」と云うような気味で、唯は「はい」と云うように少し差がある。『礼記(玉藻)』に「父の命じて呼ぶ、唯して諾せず」とあり、『礼記(曲礼)』に「必ず唯諾を慎む」とあるのも、解説に「返事のこと、唯は諾より恭しい」とあるので明らかである。曽子の日頃の篤学力行は、既に事にも理にも十分に充実して、しかも満足することなく、先王の教や孔子の道の奥義を究めようとしている。それを見て取って、孔子が甚だこれを喜び、一貫の趣旨を告げたので、これは孔子が道の奥義を曽子に授けたということでも無く、また曽子に「汝既に吾が道の全てを得たり」と許可されたということでも無いが、しかしその奥義を授与されたようにも当り、その大体を「汝既に得たり」と許可されたようにも当るので、より詳しく孔子の言葉の調子を味わって見ると、参や、といかにも親しい呼びかけに、和やかで親しい孔子の様子が思いやられるのである。この時堂内には曽子だけが居たのでは無い、他の弟子も幾人か居たのである、その幾人かの中で、曽子を特に呼んで語ったのであるから、この言葉は曽子でない人、即ち学行共に未だ曽子ほどに至って居ない人に対して語ったことでは無いのは明らかである。そこを能く考えると、後人がこの「吾道一以貫之」の孔子の言葉を理解出来難い理由が分る。何故かと云えば、私達は孔子面前の曽子ほどには学も至らず行(おこない)も成っていない者であって、しかも二千年余りも隔(へだた)っていて、ただこれを紙上の文字で見るだけで、孔子の謦咳に接している訳でも無いのであるから、その語をただ文字に縋(すが)って会得しようとしても無理なのである。それを強いて「読書力」位の小さな錐や小刀で、刺したり切ったりして理解しようというのは、初めから間違ったことで、そもそもまた自らの実力を知らないというものである。曽子は曽子だけに出来上がっていたのであり、孔子はそれを認めていて、参や、と呼んで語ったのである。そこで「吾道一以貫之」と云われた途端に、曽子は道の何であるかが、後の儒学者が、一が何であるか、貫がどういうことであるか、などと煩わしい解釈を考えて千言万語するようなことも何も無く、即座に感得し、理解し、証徴することが出来て、何の疑うところも無く、「唯」と応答したのである。
 この時の実際は、孔子にして初めて語られることが出来、曽子にして初めて唯と答えることが出来たのである。それなので、曽子以外の人に孔子がこう語ったのではなく、また曽子以外の人はこう答えられるまでに能く覚ることは出来なかったのである。その証拠に門人が曽子に対(むか)って、「何を言われたのですか」と尋ねたのでも明らかである。何を言われたのかと尋ねたのは、「吾道一以貫之」と語られたのが分らなかったからである。誰にでも分る言葉ならば、誰も何を言われたのかと尋ねる訳が無い。誰々がその場に居合せたかは明らかでないが、誰も皆分らなかったのである。聖人の言葉はもちろん混沌とした把握できないものでは無いが、その時その場に居合せた孔子門下の人達にも分らなかったことを、現在の後学の徒が句読訓詁の上や経学や理学の上から明らかに分りたいといってもそれは無理と云うものであり、従って漢や唐以後の学者が人に分らせようとして、啓蒙的にしばしば熱心に解説しても、それはただ皮相を語るに過ぎないのも仕方がない。孔子がこう語り、曽子がこう答えたと理解するよりほか、本当のところは無い。それなので「一貫の語義、漢から以後その解を得ず」と劉宝楠の言ったのは正直であり、載望が、「一は仁をいう、一は万物の従(よ)って始まる所也」などと云って、『春秋(王道)』の語義を用いてここを解説したのは、言はもちろん間違いではないが、適当であるとは云い難いし、一切の解説は説けば説くほど説き過ぎることになる訳である。であれば、ここは寧ろ淡然と平易に、能くその言葉の調子を失わないように自然的に理解するのが適当である。
 しかし、孔子と曽子のこの一場の応答は、決して釈迦が弟子たちを集めて説法したとき、釈迦が何も言わずに蓮華の花の一輪を捻(ひね)り、弟子たちの多くはそれが何を意味するのか分からなかったが、ただ一人、弟子の迦葉だけがその意味を理解し、微笑した。・・という禅家の話のようなものでは無い。孔子が孔子の道の奥義を曽子に授けたと云うのでもなく、また曽子に汝すでに吾が道の全てを得たと許可されたというのでも無い。特に「吾道一以貫之哉」と、「哉」を加えなくとも、孔子の言葉は曽子に対して語られたのであるが、自らに語られたような気味も有って、そこへ曽子は唯というのであるから、師が花を拈(ひね)り弟子が微笑した趣きに似ているし、朱子がここで「黙契」の一語を用いたり、また常に道統だの伝授心法だのと云うところから、何んとなく禅家くさく聞えて、この一貫の趣旨を会得すれば、孔子の道を頓悟即証(とんごそくしょう・合点)出来るように妄推して、頻りにここのところを問題視する人が時に有るが、そう云うことでは少しも無いのであって、孔子の道は明々白々、青天白日下のものであり、幽玄のところは寧ろ無いのであるから、そのような見方でこの章に臨んではならない。

 子出。門人問曰、何謂也。(子出ずる。門人問いて曰く、何の謂(いい)ぞや。)

 子出は、孔子がその場を出られたのである。門人は孔子門下で曽子と同学の者だが、未だ曽子に及ばない人達である。それ等の門人の居る中で、孔子が「参や」と呼びかけて曽子に一貫の趣旨を語られたのである。曽子以外の他の人々は、孔子の言葉も曽子の答えもそこに居て聞いていたのであるが、曽子が「唯」と答えただけなので、自分等には一向分りかねて、そこで孔子が立たれた後、「何を言われたのですか」と曽子に尋ねたのである。「何の謂ぞや」とは、尋ねた言葉である。(一貫章義③につづく)


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