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幸田露伴の小説「伊舎那の園」

伊舎那の園

 この頃少し華厳経を調べて居りますが、その中に婦人に関する面白い話を三つばかり見受けました。この伊舎那(いざな)の話もその一つで、善財童子という者が五十三人に就いて法を聞くという巻の中に収められています。話の大体はこうです。
 善財童子が海幢比丘(かいどうびく)という僧のところで法を問うと、比丘は証得の法を語った上で、サテ私の言わんと欲するところはこれだけであるが、お前がこれ以上のことを知りたいのであれば、ここから南へ行くと、海の果てに一つの城がある。その城は円満光と呼ばれ、城の王の名は妙円光と云う。この円満光の東に普荘厳(ふしょうごん)と呼ぶ一ツの大きな林があって、その林の中で、仏道に就いた妙円光の夫人の伊舎那優婆夷(いざなうばい)が修道済度して居るから、そこへ行くがいいと云いました。そこで、善財童子は厚く海幢比丘に礼を述べ、心に十分の希望びを抱いて、これから南を指して訪ねて行ったのであります。
 訪ねて海の果てにくると果して城があり、城の傍には思った通り普荘厳園と云う林がありました。園の周りは立派な垣根がめぐらされ、その中にはたくさんの美しい樹木が立ち並んで居ます。木は何れも若く艶やかで、葉は照り輝き、それぞれの色を放って、光輝は十方に香っています。これらの樹の中には摩尼王樹(まにおうじゅ)とかその他いろいろの名前の樹があり、あるいは宝音楽樹などと云って、風のまにまに天の音楽を奏でているものもあり、皆それぞれに珍しい、また美しい様子をして居ります。地には汚れなく、美しい建築があり、麗しい水を湛えた池があり、岸辺や水底には宝石や黄金の砂が敷かれ、道は七宝で作られ、さらにその道の境には様々な宝石が用いられています。道は緑に柔らかく、空気は穏やかで、小流の中には小鳥がわが世を楽しむかのように遊び戯れ、清らかな水中には蓮華が咲いて居ります。見ればその傍らには、荘厳幢(しょうごんどう)という殿堂があって、七宝で飾り、帳(とばり)や垂布(たれぎぬ)の類も人間世界にはない美麗を尽して、その上にただよう雲の色までもが他と異なって照り輝いています。そしてその中では上の者も下の者も共に悦び楽しんで、威儀を正している中に、伊舎那が黄金の座に坐し、真珠の飾りを施した微衣美服を纏って居ました。この伊舎那の周りに集まって居るあらゆる東西南北の人々は皆、心身に病ある者は心身の病を忘れ、邪見ある者は邪見を棄てて、障害ある者は障害を除き、執着を忘れ、あらゆる惑いや苦しみを去って清浄な心になって、円満な境地に居るのであります。善財童子はこれを見て讃嘆し、伊舎那の足を頂礼合掌して、サテ、私は未だ至らぬ者でありますが、海幢比丘からこの譜荘厳園に貴女が居られることを聞いて訪ねてまいりました。ぜひ私の為に法を説いて下さいと頼みました。
 そこで、伊舎那が答えて云うには、私はただ一つの法門を説いているだけであるが、我が名を聞いて我を思う者、我を慕う者、我に随従する者は、一人として棄てない。しかしもし善き友の為に摂受(しょうじゅ)することなく、また正しき神の守るところとならないような人であれば、我に近づいて多くの時を経ても、終に我を理解することは出来ない。もし我を理解できた者は、それは即ち善の道を見て退くことのない人である。私の許へあらゆる東西南北の者が集まって来るが、我は常に善の道を離れないから、我と共に居る者は皆この普荘厳園に楽しく住んでいるのである。であればこの園に入る者は皆同類行門をして、不退転の境地に入るのである。我等は燃灯古佛以来、その次の仏の時にも又その次の仏の時にも、このような同類の行門を習得して来たので、常に善に向って居るのである。私は一人の衆生を教える為に善の心を起こしもしなければ、また百の衆生の為に菩提心(発心)を起こしもしない。千の衆生の為に起こしもしなければ、また数えきれない者の為にも起こさない。三千大千世界の為に起こすのでもない。それはつまり衆生の為であって、残し余すことが無いようにする為である。この道理で、或る国、或る時代の為に善の心を起こすのでは無くて、全ての国、全ての時代の為に起こすのである。それなので私の願いには限りが無い。全ての衆生、全ての大虚空が尽きないゆえに、我が願いも尽きないのである。そしてただ、私はこの解脱(げだつ)の心を知るだけである。この心に住んで、この普荘厳園で全ての有縁の者と、不退転の心で善に向って居るばかりであると答えられました。これを聞いた善財童子は涙を垂れて、このような思惟を抱かれるとは誠に有難いと云って、頂礼し讃嘆いたしました。
 伊舎那優婆夷の話は大体以上の通りですが、私はこの伊舎那の同類行門と云うことが如何にも女性らしい、奥ゆかしい説であると思うのであります。即ち我は或る衆生、或る時代、或る国と限られたものの為に菩提心を起こすのではなくて、全ての衆生、全ての時代、全ての大虚空の為に起こすのである。それなので我を思い随従する者は、決して誰も棄てない。と云うところは即ち普遍の愛であります。しかし、それは同類でなければならない、我に縁のある者でなければならない。善の心を起こす者でなければならない。でなければ永劫に我を見、我と共に鳥鳴き花歌う普荘厳の楽園に住むことは出来ない。と云うところに、如何にもこの同類行門と云うことの、ハッキリとした徹底した面白味があります。この話は結局、善に志す人の生活は永遠に美しく、また人は究極のところ善を欲することになると云う意味なのであります。
 (大正四年五月)

注釈

・比丘:男性の僧
・証得の法:悟りを得る法則、方法
・優婆夷:在家の女性信者
・修道済度:道を修めて人を救うこと。

・帳:張りめぐらされた幕
・頂礼合掌:仏教における最敬礼。自分の頭を相手の足につけて拝礼し合掌すること
・法門:仏門
・摂受: 摂引容受の略語。 心を寛大にして相手やその間違いを即座に否定せず反発せず受け入れ穏やかに説得する。
・行門:自力修行の法門のこと。
・燃灯古佛:釈迦が悟りを開いて釈迦仏となるであろうと予言した仏。
・三千大千世界:一人の仏が教化する世界。
・解脱:俗世間の束縛・迷い・苦しみからぬけ出し、悟りを開くこと。


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