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幸田露伴の「努力論⑨ 疾病の説」
疾病の説
疾病(しっぺい・病気)は生物には無くすことの出来ないものである。甚だ稀には生に始まり死に終わるまで病気に罹ること無く、世に生まれ世を去る者も有るだろうが、それはその事について考える必要もない程に稀有なことである。植物と最下等動物とは此処では論じない、高等動物と目されているもの特に人類に在っては、男女を問わず病気なしに終始する者は、甚だ少ないというよりは寧ろ絶無と言っても差支えないくらいである。であれば、疾病の為に大なり小なり、長い間なり短い間なり、人類が或る影響を受けることが普通である以上は、疾病という事について多少の思考をすることは、大げさな事では無く妥当な思考である。物好きでもなかろう、不必要でもなかろう。
疾病ということは学者のようにその定義を論じる段になれば、随分面倒なことであらう。どこからどこまでが平常状態で、どこからどこまでが疾病状態であるか、専門の知識が相応に有っても異論の起きる事を考えると、容易に一言する事は出来まい。しかし生理学・病理学・健全学・解剖学等の精細な論議に立入ることを避けて、常識的に疾病を論じた方が、医師・衛生学者・解剖学者・生理学者等が支配している専門的な知識を持たない一般人に取っては、むしろ実際に近くて却って利益もあろうし、正しい解釈にも近づこうというものである。普通に疾病というのは人が器質に異常を現し、機能の不全を現す、また換言すれば生理状態に欠陥を生じ、若(も)しくは欠陥を示しつつある場合を指すのである。何れにせよ疾病ほど人世に取って不幸を為すものはあるまい。自分の疾病、自分の近親朋友の疾病、ないし一面識のない人の疾病もみな直接間接に不幸を為すのである。自分が健康を失うのは勿論不幸である。愛児が病(や)むのも勿論不幸である。同じ町内に赤痢患者が出て、同じ市内にペスト患者が出るのも、我が不幸であることは明らかである。この道理からしてみれば、北極圏内の住民やアフリカ内地や南洋の住民が一人病(やまい)を発しても、厚い薄い深い浅いに差はあるが、我々に取って悲しい不幸なことであることは争えない。小さな心の利己主義から云っても、優しい心の博愛主義から云っても、世の中から疾病というものを無くしたいと思わない人はいないだろう。
であるのに、矛盾に満ちた人の世は如何なる時に於いても、人の望(のぞみ)に適(かな)った無病の世というものを実現した例を見せていない。歴史は常に疾病によって幸福が毀損され不幸が惹起されたことを記して、その全紙を埋めていると云っても宜しい程である。疫病流行の事実は措いても、智勇善良の人々の損耗は断えず疾病の為に促がされて、そして常に社会は大不幸を受けているのである。その一点から論じても、どれほど疾病が人間に災(わざわい)しているか分らないくらいで、たとえ医術が進歩したの、衛生設備が完全に近づいて来たのと云っても、今日(こんにち)なお我々は常に疾病の為に直接間接に悩まされ抜いているのである。
疾病の絶滅は不可能であるかも知れない。しかし我々はこれを可能とし、我々の理想が実現される時は即ち疾病が絶無となるものとして、疾病の駆除に努めなければならない。これは良くできない事にしても欺(あざむ)くことの出来ない願いではないか。
疾病絶滅の道は、決して一様ではない。多様である。
試みに之を説けば、一ツは社会的であり、一ツは個人的である。個人的の方は多く云わない。社会的方法が具備しなければ或る一個人が仮に無病であっても、社会の不幸は継続するのであり、そして一個人の幸福もまた破壊される理屈である。社会的な駆病法も多様である。最も簡単でしかも有効な方法は病者隔離法で、未開人さえ昔から実行しているが、それより進んで強制種痘や検疫制度の充実、消毒方法の完備、下水処理の完備、飲料水の水質管理、都市村落の自然や人為の健康的な建設配置、空気調和の充実、光線や気流に対しての善処等、およそ疾病の既発や未発に対して取るべき万般の手段を尽す等、一々枚挙するに堪えないことである。これ等の事のうち直接疾病に関することは低級な衛生法で、疾病絶滅には効果が少ない。直接には疾病に関係しない部分の事、即ち水・空気・光線・地物等に関する研究や設備は高級な衛生法で、これ等の事が十二分でなければ、疾病絶滅を実現するのは甚だ遠いのである。
疾病は個人の所有のようでもある。しかしそれは確実に社会の共有である。故(ゆえ)に疾病絶滅を計画する上に於いては、社会が単に社会的、個人が単に個人的では成就しない。社会は個人を見ること全社会のようにし、個人は社会を見ること自己のようにしなければ、病根はどちらかに存在し、輪番に芽を出して永久に絶滅しないだろう。社会が一個人を、その一個人である故(ゆえ)を以って軽視したなら、疾病は必ずそこから発芽して、そしてタンポポの種子のように風に乗って飛散伝播するだろう。個人が自分の身体以外には痛痒を感じないからと、社会への影響を軽視したなら、社会はその人の為に恐るべき害を受けよう。病者にとっては消毒薬を満たした壺の中に痰を吐くのも、路傍(みちばた)に痰を吐くのも、それ自体は何等の差はないといえども、社会がこの為に受ける差は決して少なくない。故(ゆえ)に意識および感情に於いて個人と社会との連携という事は、疾病絶滅の道に於いては甚だ大切な事であって、この事が成り立たたない限りは、疾病というものは決して絶滅しない。個人は社会に対し、社会は個人に対し、相互に明確厳正な意識と温良仁愛の感情とを持って、必ずその為にすべきことを為(な)し、必ずその為にしてはいけないことを為さないことの徹底がなければ疾病は絶滅しない。南京虫は物の隙間にその生を保つ。疾病が個人と社会の隙間に、その生存と繁殖との地歩を占めていることは、隠すことが出来ない。
以上に説いたように、第一に社会的、第二に個人対社会と社会対個人的、第三に個人的、この三方面に於いて疾病の絶滅を計画する念慮と施設が十二分であったなら、永い歳月の後には、十二分の学術および経験の効力によって、或いは人間は疾病を絶滅出来るかも知れない。がしかし、それは理想郷の事で実現は難中の難でもあろう。
疾病の絶滅は実に希望するところであるけれども、それは広大永遠の問題で、僅かな時間で之を論じるのは、一掬(ひとすく)いの水で大火に対するようなものであるから、それはしない。ただ我々はこの疾病常有の世界に処してどのように疾病を観るべきであろうか、又どのように疾病に対処すべきであろうか。それを試みに考えてみよう。
誰しも疾病を好む者はいない。しかし冷静に観察すると疾病にも自然に二途の来路がある。一ツは招かずして得た疾病、一ツは招いて得た疾病である。不行跡から淋病を得、暴飲から心臓異常を来たし、無茶な行動から筋骨を挫くようなことは、招いて得た疾病である。知らない間に空気から結核菌を得、水や野菜から十二指腸虫卵を得、アノフェレスから瘧(おこり)を得るようなことは、招かずして得た疾病である。しかし誰しも自分で意識して疾病を招く者はないから、厳正に論じたら一切の疾病は招かずして得たものであろう。また反対に論じたならば、避け得る筈の疾病を避けることをしないで之を受取ったことは、之を好まないとしても自分で招いて得た疾病だと言ってもよいだろう。けれどもそれ等の論は何れも中(あた)っていない。自分で病因を造ったものを自分で招いた疾と言い、自然に得たものを招かずして得た病というのに不思議はあるまい。
ただここに注意すべきは、世人の多くが招かずして得た疾病であると思っているのにも、その実は招いて得たと同様な事情が甚だ多く内在していることである。不学者の解釈に偶然という語が多いのと同じく、疾病に関する知識の少ない者には何の理由か分からなくても、知識ある者の眼から観る時は、明らかに招いたと同様の事情で疾病を得ている者が多いということは争えないことであるから、自分で招いた病であると認める病者は少なくても、自分が招いている疾病は比較的に世に多いのである。伝染性の熱病を発する空気が多い卑湿地に入って病を得たり、ジメジメした土地に遊んで瘧(おこり)を得たり、水辺に長居してリュウマチを得たりするようなことは、公務であれば是非も無いが、そうで無ければ自分で招いたと云われても仕方ない。大阪の住吉だの、茨城、埼玉の某地などは十二指腸虫の巣窟で、そこの野菜や井水を飲食すると危険至極で、その附近に同患者の多いことは争えないことである。しかし知識が無ければ之を飲食してその病を得よう。もし病を得たらそれは全く、自分で招いたのではないが自分で招いたのに近いだろう。ドイツの医者コッホは京都に在った時、そのホテルの下を通る多くの荷車が何を積んでいるかと問い、そしてその物の用途を知った後は、日本の野菜を食わなかったということである。避けるべきと思って之を避け、自分で病を招くことをしなかったのである。このような点から考察すると、我々が知識の欠乏から、自分で招いて病を得ていることは、決して少なくはないのである。飲食被服の不注意、これ等からだけでも我々はどれほど多く病を得ている事だろう。労働・休息・睡眠・空気・光線、これ等の事に関して無知な為だけでも、我々はどれほど多くの疾病を招いているだろう。未成年者・被保護者・官公務に服する者・これ等の人々以外の者の疾病は、自分で招致することもまた多いことだろうと思われる。
真に自分で招かずに疾病を得ているものの大部分は、不幸にして強健でない体質を享(う)けて生れて来た者である。提督ネルソン(アメリカ独立戦争、ナポレオン戦争などで活躍したイギリス海軍提督)が兵学校の身体試験に落第した虚弱者であったことと、その後、強健な好提督となったこととは、ともすれば先天の欠陥を後天の工夫で補い得る事の例に引かれる話であるけれども、千百年に一人の人を例に取って来て、百千万人を論じようとするのは失当でかつ酷である。もし世に悲しむべき人があるとすれば、不幸にして良くない体質を享(う)けて生れ来て、そしてその為に疾病の擒(とりこ)となっている人である。これは全く自ら招かずに病を得ている人である。
自分で招くのと自分で招かないのとに限って論じれば、自分で招いて病を得た者は自分で省察を加えて、同じ事を繰返さないようにしなければならない。自分で病を招くのは自分に対して愚である、自分の父母に対して不幸で不徳である、子女や目下に対しては不慈である、その事情によって軽重の差は甚だ大であるが、要するに社会に対して負債を負う者のような位置に立っているので、極言すれば一ツの罪である。酷論には違いないが、一ツの罪である。
さて自分で招かずに疾病に悩む者は元より罪はない。しかし実に不幸の頂点に在るものだ。父母はこれに対して悲しみ、目下はこれに対して憂い、社会はこれに対して負債を負う者のような地位に立っている。宿命説のようなものが真理であるかの様子を示すのも、実にこのような人が世に存在する以上はまた已むを得ないことである。自分が何等の原因を作ったので無く、ただ単に父母の悪血を遺伝し、ないしは虚弱の体質を遺伝して、そして一年中薬に親しむというような現実を受けていることは、実に同情に余りあることである。本来の道理から云えば、社会は悪事を犯した者を刑務所に収容するよりも前に、このような不幸な人にそうあるべき施設を提供して、そしてこれに十二分の療養を加えて良い訳である。であるのに、悪人は直接に我々に危険を及ぼすという理屈から、之を刑務所に置き衣食を支給しているのであって、そして不幸な病者には尚(なお)租税を課してその膏血(こうけつ)を絞り取り、それを以って凶悪の人を養っているのである。奇妙と言おうか残酷と言おうか実に間違い切ったことである。先天的に悲しむべき体質を享(う)けて来ている人が社会からこのような待遇を受けていても、今日(こんにち)までのところでは誰も熱心にその誤りを指摘する者が無かったため、社会の重い、重い、圧力の下に圧し潰されて、あたかも丈の低い草が丈の高い草の為に、太陽の光線や熱や空気の清さやなにもかも奪われて、残念ながら萎縮し枯死し腐って仕舞うような、悲惨な状況の下(もと)に廃滅して仕舞っているのである。
悪人を処刑するということが復讐の意味でない以上、即ち社会の安静を保つ為という文明の精神から出て、そしてその為に多大の智慮と施設と費用を消耗して、完全な刑務所を建てている道理から推せば、先天的に病身を持つ人に対しても、同じく社会の安静を保つ為に、その病者を社会が扶養して十分の配慮と施設とが尽されて、十分の費用が投じられた完全な施設の内に、その健康が回復される迄は収容して置いて当然の道理である。それが出来ないまでも少なくとも租税を免じて社会的負担を軽くし、国家的社会的重圧を虚弱の身の上に加えないようにするのが有るべき道理である。であるのに、今日の社会組織では、盗賊にはお膳立をして飯を与えて、裁縫をして衣服を与えて、一坪幾らという立派な居宅に住わせて、髮も刈ってやれば入浴もさせ、堂々とした多数の役人をその看護者として付随させ、医師にその健康を保たせ、宗教家をその話し相手とし、その人自身の生産力によって自分を支えるべき労苦を免れさせて、国家の扶養、換言すれば良民の膏血(こうけつ)を以ってこれを扶養しているのである。そして先天的に不幸の体質を享けて病魔の手中に囚われている病人に対しては、その病人である故(ゆえ)を以って与えられるべき斟酌というものが少しも無く、税務署はその滞納の場合には鉄の定規が決して曲がらないように、租税を厳取するとはそもそも何という事であろう。医を業とする者、看護を業とする者、神仏の霊験を説く者等は、人の為に報酬的に働き、飲食衣服その他の材料や便宜を提供する者は、それでなくとも疲弊する病者の膏血と、交換的に各般の事を実施するのが現社会の実相である。これ等は是非もない事ではあるが、無資力な不幸な人に取っては実に情無い事ではないか。社会が目覚めなければ仕方ない事であるが、先天的病弱者は確かに社会から誤った待遇を受けている。過去世(かこぜ)の因果であるとか宿命であるとかいう思想の勢力が無くなれば、先天的病弱者がこのような冷酷な社会に対して、怨嗟の声を放っても決して無理だとは思われないではないか。
自分で招く自分で招かないに関係なく、病は明らかに現在に於いてその人が幸運でないのみならず、また将来に於けるその人の幸運をも障害する。人の希望を破り陽性の者には自暴自棄の凶悪な思想や行動を起こさせ、陰性の者には怠惰・萎靡・悲観・絶望観・欲死観等を生じさせ、一切の不幸を連続的に招く。特に青年期に於ける疾病は、甚だしくその人に躓(つまづ)きや懊悩や悲哀を惹き起こさせる傾向がある。病者がこのようになるのは少しも無理はない。希望の大きな者、功名心の強い者、聡明の者が青年期に病を得る時はいよいよ益々苦悩する。かかる人は病の為に身を苦しめられるだけでなく、また病の為に自分で心を苦しめて、二重の苦痛を負うのは実に気の毒であり、かつその心を苦しめることが、病の為にしばしば不利益を来たす原因となり、治療すべき病も不治に陥り、軽かるべき病も重きに陥る原因となる。しかし病者に対して「君よ、心を苦しめてはいけない」と制止したところでそれは無効に終る。ただ病者に対して深厚な同情を与えることが、病者の周囲に在る者の最善である。病者に対する同情は座骨者に対するギプス繃帯のようなもので、薬剤や手術のような働きはしないけれども、外に在って不知(しらず)不識(しらず)の間に病者を助ける。病者に対して他人の為すべきところは実にこれのみで、干渉がましい事などは寧ろ避けなければならない。しかし病者自身に在っては、病の為に悲観に陥り意気消沈に陥るのは、仕方ないことではあるけれども、余り意識過剰になって苦悩するよりも、寛やかに心を持ち伸び伸びとした考えを懐き、天もしくは神、仏もしくは運命と云うようなものを信じて、それに任せるのが最も宜しいので、また最勝者の存在を認めなくても安心を得られる人はそれはそれで良いのである。
疾病は人の免れないものである以上、たまたま疾病を得たとしてもそう急に驚くことも愁えることも無い訳である。生命ある以上は寧ろ疾病を予想すべきであって、そしてその予想に基づいて第一には病に罹らないことに努め、第二には病に罹かった時どうすべきかを考えて置くことである。病に罹らないことに努めるのは、第一に自分の健全に努め、次いで自分の近親者や他人に病が混ざらないように努めるべきであるが、自分一個の力では自分すら完全に保護することが出来ないのが、人間の真相であり実際であるから、病に罹らないことに努めるにも単独的にするよりも相互的にしなければその目的は達せられない。即ち夫婦間で云えば夫も自分が病まないように注意し努力するは勿論であるが、妻もまたその夫の健康を保たせる為に十二分の注意と努力とを取らなければならない。妻も自分が病まないようにするのは勿論であるが、夫もまた妻の健康に関して十二分の注意を払い努力を敢えてしなければならない。どんなに明眼の人でも我が眉を見ることは難しい。拙技(へた)な碁客(ごきゃく)も傍観者の時は、時に好着手を見出すものである。正しい意味に於いて仲良い夫婦に、互いに健康な者が多いことは世上に多い例である。そして不幸にもその一方が欠ける時は、残された他の一方が健康を損ない易い例も世に多いことである。これは悲哀が人を弱くすることも実際ではあろうが、真の愛情から成立っている保護者が亡くなり、真の親切な助言者監督者を亡くすことが、病魔の侵入する隙を多く与えることもその一因である。世間に体質が良好な為に健康を保ち得て、幸福に生活している人も甚だ多いだろうが、良い妻・良い夫・有難い父母・優しい兄弟・孝行な子女の為に、健康の幸福を得ている人もどれほど有るか知れない。長寿の人を観るによい子よい孫を持つ人が多い。その反対に立派な体質を持ちながら不健康な人を観るに、多くは不良な妻や夫を持ち、または幸に善良な夫や妻を持ちながら、之に聴かずに却って不良の朋友などに親しむところの者である。これ故(ゆえ)に疾病は相互的に予防しなければならない。一家は一家で申し合せて、互に注意し合って病魔の進入を防がなければならない。一兵卒の怠慢もしばしば強敵の襲来を招く理屈であるから、全軍が注意しなければ堅守の効果は収め難い。主人の勉学も過ぎては、睡眠不足より脱力を生じ脱力より感冒を招致させるから、細君は之を優しく制さなければならない。細君が自分を大事にすることが薄いのは美徳だが、これも度を過ぎさせてはならない。暑熱・寒冷・雨雪・飲酒・日光の直射・異常な食物・甚だしい飢え・飽食や浴後の薄着(うすぎ)・皮膚の不潔等がすべて病因となることは、尽(ことごと)く自分の判断と他の批判と、即ち一個的および相互的の注意によって之を避けなければならない。ただこれは平常に於いての健全学と衛生学との知識によってであって、如何に相互的であっても、若(も)し既に病んで医療を要する場合になっては、素人が医師の領分を犯して、治療上の指摘や干渉などをするのは却って危険で不可である。
平常状態を維持しようとするのも病を退ける大道であるが、守れば足りず攻めれば余りある理屈であるから、病むまいとするよりは平常状態以上の健康を得んと努めるのも、甚だ有効な事である。体力を普通の人より卓越させようと、希望を燃え立たせて生活することは確かに有益である。普通であることを願っていては、時には普通であることすら能(よ)く出来ないかも知れないが、普通に卓越することを願ったなら、或いは普通位には出来るであろう。毎朝一回歯を清めて口を清めることは普通の人のする所であるが、毎食後に歯を清めて口を清めたならば、その人は必ず普通の人よりも虫歯その他の口内の疾患を遠ざけることが出来るに違いない。胃の弱いことを悲しむ人は多くあるが、普通の人より強い胃にしたいと望む人は少ない。しかし、それは不心得であろう。普通の人よりも強い胃を得ようとして努力して当然ではあるまいか。十を願って五を得(え)、百を得んとして五十を得るのが人事の常である。運動することに努め規則正しくすることに努め、努め努めて止まなければ胃は必ず強くなろう。
普通の人が自分の身体に対する注意に甚だ疎(おろそか)であるのは実に愚な事である。胃弱を患う人がタカジアスターゼを服し、クミチンキを服し、ペプシンを服し、粥(かゆ)を煮て吸い、フランスパンを買って食らい、押し麦を食らうのを見ることは多いが、咀嚼時間を長くして丁寧に咀嚼することが少ないなどはその一例である。ただ単に薬剤に依存し、軟らかい食物に依り縋(すが)るようなことをしないで、合理的に胃弱を普通の胃に、普通の胃を強健な胃に、一歩一歩進むようにと心掛けたならば、その効果は決して少なくはあるまい。薬物と医療だけを尊んで、健全法と心掛けの道とを尊(たっと)ばないのは今の人の欠点である。物を尊んで心を尊ばず外を重んじて内を重んじないのは確かに今の人の欠点である。
君の鍋で粥を造るだけでなく、君の口腔で粥を造れ。君の薬箱から消化剤のジアスターゼを得るよりは君の体内からジアスターゼを得よ。逃げ腰になっていて城が守れた例は聞かない。造物主が我に与えた根本のものを考察して、それを空しくしないようにすれば、即ち自然に順応してそして自然を遂げる訳である。飲食に就いて例を取った因(ちなみ)にもう一度飲食に就いて云うと。君、飲食する前に君の眼を閉じてはいけない。君の眼は忌(い)むべき飲食物を視れば君に之を取るなと教えるだろう。また君の鼻を塞いではいけない。君の鼻は忌むべき飲食物を嗅げば君に之を取るなと教えるだろう。また君の舌を騙してはいけない。君の舌は忌むべき飲食物に会えば君に之を取るなと教えるだろう。君の歯を用いよ。君の歯は物を咬み咬み之を破砕して物の分子の間に君の唾液を混入して嚥下と消化を容易にするだろう。君の口腔を無意味のものとしてはいけない。暫く食物をここに留(とど)めて、胃に於ける消化作用の準備をする必要あればこそ、喉頭以外に存在する空間なのである。君の知識を疎(おろそ)かにしてはいけない。君の知識は飲食に就いて他の諸機関が出来ない最適な判断をするだろう。胃は君の思い通りには動かないものであるが、しかし分泌は感情に影響されるものであるから、胃に取って不適当な感情を持って胃を苦しめてはいけない。その時には胃は十二分にその胃液を分泌して、その作用を以って完璧に消毒と消化を為すだろう。胃病患者が食物について恐怖する時は、胃液の供給は滞(とどこお)っていよいよ消化不良を起こすのである。未(いま)だ病まない人は造物主が我に与えたすべてのものを適当に用いれば、胃を病むこともないのではあるまいか。他はこれに準じて知るべし、である。我に筋肉あり筋肉も用いるべし、である。筋肉の運動を疎かにすれば筋肉は日に日に衰えて身体は虚弱になる。我に呼吸器あり、呼吸器も酷使しないで適当に用いるべきである。呼吸の不調は恐ろしい病と関連する。このように身体諸機関を偏りなく用いたならば、身体の調子は整って健康に成れるだろう。
疾病は実に忌むべきである。しかし疾病が人に存在するのも或いは意義あるように見える。艱難がその身に在る者は、却ってその志(こころざ)すところが成るという道理は昔の人も言い切っている。また病というものが全く無かったら、人は道を思い道理を観ずることも或いは少ないかも知れない。病が我々を啓発することは決して少なくない。このように考えれば自分で招かない病に苦しむのも必ずしも不幸とは云えない。しかしこれは、道理はそうであるにしても、病者に対しては云うに忍びないことである。例え世の文明が呼吸器病者神経系病者に負うところは甚だ少なくないにせよ、願わくは一切の人が無病息災、長寿幸福になることを祈らなければならない。(努力論⑩につづく)