幸田露伴の随筆「些細なようで重大な事」
人間には色々な仕草があるが簡単に言えば、事に対処するのと、物に接するとの二ツになる、事に対処するというのは、そこに生じて来た或る事情に対して、どう自分の態度を執るか、了見を定めるか、口を利くか、身体を動かすか、知恵を回らすか、力を用いるかという事である。
事に対処するのは、非常に多端である。何故ならそこに生じる事情は、際限もなく種々様々な形で現われて来るから、これに対する道も決して一通りや二通りではない訳で、大体は道理の正しさに従い、人情の美しさに従うべきではあるが、そうは云っても一様には言い切れない。或る時は手強く、或る時は誠実一方に、また或る時は都合に従うのが良い場合もある。
そこで、それは今しばらく置いて、物に接する場合について言えば、一体この物というものは事と違って生きていない。事の方は事情であるから、千差万別で限りなく、変化百端動いて止まらないものであるが、物の方は、これも万物と云って際限もなく数多いものであるが、はるかに静的である。
例えば、ここに茶碗がある、茶卓がある、土瓶がある、鉄瓶があるというように、これ等の物も実に測り知れない数であるが、とにかく我が心以外の物であって、いわゆる物質という言葉で表されるもので、その一箇一箇は固定している。勿論、物質も変化しないことはない。水は湯となり氷となるが、人生の事情が多端錯雑、変幻極まりないのに比べてはるかに簡単であり、したがって物に接するのは、事に対処するよりも単純であるが、それでも真に物に接することに徹底するには、大分の知慮分別と、鍛練修業が必要である。
しかし、物に接する事がよく出来ないようでは、世に立ち人事百般に対処することが、出来ない訳であるから、我々は先ず物に接するところから鍛練修業を積んで行かなければならない。それなのに多くの人は、接する相手の物が、口も利かなければ抵抗もしないので、勝手にこれに接して、自分を非なりとしないのが常である。これは詰らない事である。小学・中学程度のこともよく出来ないのに、それより高等な事がよく出来る訳はない。物に接することも出来ないのに、巧みに事に対処しようとするのは、イロハも知らないくせに難しい字を書こうとするようなものである。
例えば、我が帽子・我が衣服などは我が物であるから、どう扱っても良いようなものではあるが、これを正当に扱うにはやはり心の持ち方の良否があって、それによって違った結果が生じる。例えば帽子を冠るにもリボンの結び目を左にして冠るべきか右にして冠るべきか、そのどちらかが正しければ、どちらかが間違っている。それをどちらでも構わないとすれば、それは物に接する道を失った訳である。袴(はかま)をはき付けない人が、袴をはいて袴腰を前にしたという笑話がある、袴の事は誰でも心得ていて、誰でも正当な接し方をするものであるが、さてその他の物に接するとなると中々そうはいかないもので、どうも帽子を逆さに冠ったり、袴を逆にはいたりするような過失に陥り勝ちなものである。
そういう事は何でもない、些細な事であると思うけれども大変に大切な事で、その正当を得ると得ないとは、その人の心の有様を語っているものである、その人の事業が順当に行くか行かないかを語っているものである。些細と見るのは間違いである。もし袴を逆にはいたり、刀を右に差したりして、それで何でも構わないと云って居る人があれば、明かにその人の心には欠陥がある。そういう人は朋友としても余り有難くない人である。ましてそういう人に使われたり、そういう人を使ったりするという事は考え物である。何故かと云えば、その人は横紙破りで、我ばかり強い性格を示しているので、平たく言えば非常識な人間であるからである。
帽子や袴の事は誰でも知っていて、そんな事をする者はいないが、一段進んで見るとそれに似た事で色々と接し方がある。例えば、日本家屋の部屋というものは大抵が方形または矩形で、丸いのや三角なのは殆んど見当らない。それなので、その部屋の中の色々な物の置き方も俗に云う畳の目なりに置けば具合が良いのである。であるのに、四角の火鉢一ツ置くにしても、また机や本箱やタバコ盆その他のものを置くにしても、畳の目に沿うように置かない人が中々多い。そうすると、室内は次第に乱雑・混乱・不体裁となって、不便を生じるものである。そういうところに気がつかない人は、誠に善い性格の人でも、その人は物に接する道を工夫した事も修業した事もないという事になる。混雑や不体裁や不便宜で良い道理はない。
これはただ、物の置き方の話であるが、物の積み方もそうで、小さい物を下にして大きい物を上に積んではその結果は甚だ宜しくない。これ位の些細な事は考えるまでもなく誰でも知っていることであるが、実際は小さいものの上に、大きな物を重ねるようなことを屡々(しばしば)するものである。そうして菊判の本の下へ文庫本をしまっておいて、俺の本が無くなったと言い出すようなことが往々にして有り勝ちである。これは真に些細な事であるが、こういう些細な事から時々大きな事が起るものである。
これ等は物の扱い方という迄であるが、さてまたその上で、物を扱うについての心がけと云うものがある、この心がけの段になると、中々出来ている人は少ない。物を扱う心がけに於いては、何処までもその物を愛し、重んじ、その物だけの道理や、強さや、必要さなどを発揮させるのが本当である。この心がけが足りないと、その物の効用を発揮させることもなく、その力を出させることもなく、その美しさを保つこともなく終らせて仕舞うという事になる。
例えば一本の筆でも、これを扱うに正しい使い方でしなければ直ぐに用立たなくなる。一挺のナイフでも、林檎を剥(む)いたまま拭(ぬぐ)わずに置けば直ぐに錆び腐って使えなくなる。一ツのノコギリでも、素人というものは使って減らすより、扱い方が悪くて使えなくする方が多い。一ツの茶碗、一ツの土瓶でも、扱い方を知らないと直ぐに廃物となる。鉄瓶のような堅いものでも水が大量に入っているのを、五徳(ごとく・鉄瓶を熱源に据える置台)の上に手荒く置くようなことをすれば、やはり破損して水が洩るようになる。一丁の墨、一箇のペンもその扱いように依っては充分に役立つものも、直ぐに役立たずに終ってしまう。機械のようなものは扱い方の如何、接する心がけの良否によって非常な差を生じる。時計などは、捲くべき時間に必ずネジを捲き、これを正常に扱えば、十年十五年は楽にもつものを、或る時は捲き、或る時は捲かず、或る時は手荒く取り扱えば、直ぐ壊れて使えなくなる。時計より一段と精密な船舶用のクロノメーターに至っては一段の心がけが必要である。もしクロノメーターが狂えば、大海の中で船の位置を知る事が不可能になる。クロノメーターの価は些細なものであるが、濃霧の中で船の位置を測定する事が不確実では、一大事を惹き起さないとも限らない。エンジンなどは尚取り扱いが重大で、飛行機の墜落の大部分はエンジンの故障から生じるのである。
であればどのようにして、物に接すべきか。
それには、その物を愛する、この心がけが最も重要であって、これは仁である。
その物を理解し、正しく取り扱う、これは次に大切な心がけであって、これは義である。物に接するにも仁義が第一である。
(大正十五年二月)