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幸田露伴の小説「幽情記⑬ 幽夢」

幽情記⑬ 幽夢

 中国・宋の詩人では、蘇東坡や黄山谷以外では、陸放翁が勝れている。その詩は雄大なところや厳粛なところは少ないが、真情の流露して出来る自然なその詩は入りやすく学び易いように思われて、後の低俗な者の拠りどころとなった為に、放翁も同じように軽視されているが、これは濡れ衣というものである。真似する者の醜態によって放翁の美が損なわれることは無い。
 放翁、名は游(ゆう)、字(あだな・通称)は務観(むかん)、越州山陰の人、「埤雅(ひが)」や「礼象」や「春秋後伝」等二百四十二巻の書を著わした儒学者陸佃(りくでん)の孫である。陸佃が貧困の中で勉学に努め、灯りの油も買えずに月光の力を借りて書物を読んだことは、後の人の深く感じ入るところである。陸佃は王荊公を師としていた。しかし荊公が新政を布こうとすると、「今の法が悪い訳ではありません。ただ、施行が法の当初の趣旨に外れる為に、人心を乱しているのです。」と云う、その見識を窺い知ることが出来る。哲宗が位についたために荊公一派は駆逐され、荊公は死去する。その時陸佃は諸生を率いて哭(こく・大声で泣き悲しむ儀式)して之を弔う。その情誼に厚いことは尊敬すべきものがある。陸佃の子は宰(さい)、字は元鈞(げんきん)もまた学問の人で、父の遺志を継いで「春秋後伝補遺」を著わしたという。放翁はこの宰の子である。母はどのような人であったか知らないが、しかし詩を理解し文を好んだことは疑いない。なぜかと云うと放翁はその母が秦少游(しんしょうゆう)を夢に見て生まれたので、秦少游の字(あざな)を名とし、その名を字(あざな)としたことによっても推測することが出来る。秦は観、字は少游、放翁は游、字は務観である。少游はおよそ放翁の祖父の陸佃の頃の人で、才知勝れた正義の人で、好んで兵書を読む。しかもその才能と性質は玲瓏(れいろう)として甚だ詞章に巧みで、王荊公に、「その詩は清新で、鮑照や謝霊運に似る」と評され、蘇東坡には、「その賦は俊逸で、屈原や宋玉に近い」と云われ、死んでは東坡に、「哀しいかな、世にこのような人がまたと現れるであろうか」と嘆かせた。才能の勝れることこのようで、詩の麗しいこと並び無く、当時の一美姫に見る前の恋にあこがれさせ、会った後は思い死させたとの話さえ伝わる。であれば放翁の母が淮海先生(少游)を夢に見たというのも、「淮海集」が日常から母の寝室に在ったことを思われる。生まれ変わりと信じることはできないが、性癖や才能はよく似ている。少游も詩を善くし、放翁も詩を善くし、少游も軍事を喜び、放翁も軍事を喜ぶ、慷慨の気、風流の情、思えば両者は似ている。まことに奇異の因縁である。
 放翁はこのような家に、このような母から生まれる。そのため十二才で既に詩文の才は人の認めるところとなる。その初期においては秦檜(しんかい)に憎まれて官職に着くこと遅く、晩期には韓侘冑(かんたくちゅう)の巻き添えになって批判されて故郷に帰る。宋の衰退期にあって、或る時は王炎のために進取の策を陳(の)べて、ひそかに天下国家の経営に意(おもい)を馳せ、また或る時は金(きん)との和睦に際して健康や臨安の地勢を論じ、また或る時は高宗帝の為に家臣の珍品買いを弾劾するなど、忠義の心の浅くない人である。ただし生まれついての詩人なので一日として吟じない日は無いことで、その風雅の心の醇厚なことが分かる。文字の礼法に拘(こだわ)らなので頽廃放恣(たいはいほうし・不健全で気まま)であると批判されて、自ら放翁と称したことなどにも、その心の大きなことが分かる。范成大が蜀の長官になると参議官としてこれに随い、蜀の風土を楽しんで留まること数年、終に一生において作ったところの詩稿に剣南の名を用いる。いかにも詩の世界の人であると言える。
 放翁が若く、まだ放翁と名乗らなかった務観の時の事、母方の血筋を引く唐氏を娶(めと)って妻とする。夫婦の語らい濃やかに、仲睦まじく暮らしたが、嫁姑の間は難しく、折り合い悪く、親を尊び孝行を重んじる当時の風習によって、截(た)ち難い恩愛の絆を稜(かど)のある冷たい義理の刃(やいば)で截(き)り放し、終(つい)には唐氏を離縁する。夫を失った妻の日月はもとより黒かろうが、妻を無くした男の酒茶(しゅちゃ)もまた味が無かろう。
 唐氏は人の勧めを断り難くまた他家へ嫁いで行ったが、務観は猶も侘しい日を重ねる中に、花は情(なさけ)あるように憂愁の家にも咲き、蝶は心無いようだが無聊(ぶりょう)の人にも訪れる。やもめ男に春が来た。鳥の歌、風の光、人皆そぞろ浮き立つ季節にあって、垂れ籠めているよりは、昔の夢を水に流して、新しい楽しみを季節に得ようと、あちらこちら歩いた末に沈氏の花園に入った。園は禹跡寺(うせきじ)と云う寺の南に在って、花樹が深く蔭を作って、亭(あずまや)が趣味好く配置されて、まことに人の心を伸び伸びとさせる。務観も流石(さすが)に楽しく思いノンビリ逍遥していると、フト緑や桃の紅の彼方に人影が見えて、その姿かたちは朧気ながら正(まさ)しく吾が前の妻である。忘れもしない人を思いがけず見ては男でも胸の波が騒ぐものを、まして女は面(おもて)に火さえ燃えようではないか、唐氏はハタと驚いて、足下も覚束なく木蔭に姿を消した。心懐かしい昔の事、面映ゆい今の思い、問いもし問われもし、語りもし語られもしたいは互いの胸に余るほどだが、縁(えにし)の断えた仲、契(ちぎり)の破れた間(あいだ)であれば、魂は惑い乱れ、腸(はらわた)は結ばれて、しかも女は新しい夫に伴われているのであれば、言葉を出すことも目を向けることも出来ない。ただ僅かに、夫に事情を語って酒肴を務観に贈り届けようとの、心の奥の情を見せて、悄然(しょうぜん)と沈園を去って行った。花香(かこう)は酒に入り柳色(りゅうしょく)は卓(たく)に迫り、女の情けに春を愛でる杯を挙げながらも、独り吾を相手の恨みは自然と長く、務観はしばし恨み悲しんでいたが、思い余って釵頭鳳(きとうほう)の詞(うた)を作って園の白壁に書き付ける。

 紅酥(こうそ)の手、
 黄藤(こうとう)の酒、
 満城の春の色、
 宮濇(きゅうしょう)の柳、
 東風(とうふう) 悪しく、
 歓情(かんじょう) 薄し。
 一懐の愁緒(うれいうれい)、
 幾年の離索(わかれわかれ)。
 錯(さく)、錯、錯。
 (美しく艶やかな手、黄藤の酒、街は春の気配に満ち、柳の緑は家々の垣根に沿う、春風は往時を偲ばせて憎らしく、恋心は果敢ない。憂いの心を懐いて何年別れ別れで居ることか、アア、間違いだ、間違いだ。)
 春は旧(むかし)の如く、
 人は空しく痩せたり。
 涙の痕 紅(くれない)潤(うる)んで 鮫綃(しろきうすもの)透る。
 桃の花は落ち、
 池閣(ちかく) 間(しずか)なり。
 山盟(さんめい)は在りと雖も、
 錦書(きんしょ)も託(ことづけ)け難し。
 莫(ばく)、莫、莫。
 (春は昔と変わらず、人は空しく痩せて、頬紅を濡らした涙の痕が、添えられた薄絹のハンカチに沁みている、桃の花は散り落ちて池畔の高殿は静かに建っている。(結婚時の)盟(ちかい)の思いは今でも在るが、この思いを託すことは難しい、アア、空しい、空しい。)

 「月やあらぬ、春はむかしの、春ならぬ」と詠んだ人の歌にも似た、大層あわれな意(こころ)の中(うち)を思いやるだけでも堪え難い。やるせなく思い乱れた味気なく淋しい錯莫としたありさま、これを何んと云えよう。この人のこの詞(ことば)はその時のその心を表わして、尽していると云えよう。であれば、後(のち)に陽羨(ようせん)の萬紅友(ばんこうゆう)もこれを評して、「この詞の精粋な麗しさは、俗手の能くするところではない」と云う。紅友また評す、「この詞は、前に手と酒と柳の字を用いて、後に旧と痩と透の三ツの去声の字を用いる。何んとその作法に厳しく細心なことか」と。即席の作ではあるが、才人の真情から出た心の香(におい)は素晴らしく、声の響きも自然と清(すず)しい感じがする。唐氏はこの詞を得てどれほどの涙を流したか知らないが、まもなく満ち足りない思いを抱いて亡くなったと云う。
 沈園での出会いは、どれほど深く詩人の心に沁み入ったことであろう、沈園の主はその後替わったけれども、務観の恨みは長く遺(のこ)って尽きなかった。後にまた禹跡寺に登って眺望した詩を作り、云う、

 落日に城の南 鼓(こ)角(かく)哀しみ、
 沈園も 復(また)、旧(もと)の池台に非(あら)ず。
 心を傷ましむ 橋の下の春の波の緑、
 かつて驚鴻(きょうこう)の影を照らせるを見来れり。
 (落日の町の南に、時を告げる角笛(つのぶえ)の音も哀しく、沈園もまた昔と同じでは無い。心を傷ませる橋の下の春の水の緑の波も、嘗ては美しい彼女の姿が映るのを見せたものだが。)

と。驚鴻とは言うまでも無くその人を指す。物移り景色が遷(かわ)るのは世の習い、さしも優雅な沈氏の園も、月日を替えて衰え廃(すた)れれば、吟情は寂しく動いて、またまた詩がある。

 楓の葉は初めて丹(あか)くして 檞(かしわ)の葉は黄ばみ、
 河陽(かよう)の愁いの髩(びん)は 新たなる霜に怯(おび)ゆ。
 林亭に旧(むかし)を感じて 空しく首を回らすも、
 泉路 誰に憑(よ)りてか 腸(はらわた)を断(た)てるを説かむ。
 壊(くず)れし壁の酔題(よいしふでのあと) 塵漠々たり、
 断(ちぎ)れし雲の霊夢(はかなきゆめ) 事茫々たり。
 年来の俗念 消除(しょうじょ)し難し、
 回向す 蒲龕(ほがん)に一炷(いっちゅう)の香。
 (楓の葉は赤く色づきはじめ檞(かしわ)の葉は黄ばみ、昔の河陽長官(潘岳)が愁いたように、白髪の増えることを恐れる。林の中の亭(あずまや)に昔をしのんで空しく思い還しても、誰を頼んであの世の人(前妻)にこの断腸の思いを伝えたらよいのか、壊れた壁に残る酔って書き付けた昔の筆の跡は塵に汚れて読み取れない。ちぎれ雲となった果敢ない夢のように、昔の事が朦朧と残る。永年の俗念は消し難く、回向して蒲龕(ほがん)に手向ける一本の香。)

 壊壁断雲の対句、アアまことに悲しいではないか。しかも詩人の深情はついに之にとどまらず、その人が死んでも猶これを忘れず、その園が荒れてもこれを懐かしみ、その時の人と園は共に皆雲烟の彼方に消えて、今は尋ねることもできないが、情魂詩魄の漂う夢の中で、沈氏の園に再び遊び、消え残る灯火の中で一人悲しみ、覚めては後に、二章の詩をつくる。

 路は城南に近くして 已(すで)に行くを怕(おそ)る、
 沈家の園の裏(うち) 更に情を傷ましむ。
 香は客の袖を穿(うが)ちて 梅の花在り、
 緑は寺の橋を蘸(ひた)して 春の水生ず。
 (道が城南に近づくと、最早行くことを躊躇(ためら)う気持ちになる。沈園の中に入り更に心を傷ませる。梅の花の香は私の袖を穿ち、緑は寺の橋を浸して春の水を生じる。)

 城南の小陌(しょうはく) また春に逢う、
 只梅花を見るのみにして 人を見ず。
 玉の骨は久しく成りぬ 泉下の土と、
 墨の痕は猶し鎖(とざ)す。
 (城南の小道に春は再び来たが、只梅花を見るだけで、あの人は居ない。玉の骨は泉下の土となって久しく、書き付けた墨の痕は壁の塵となって猶も残る。)

 どれほど忘れがたい深い情懐(おもい)であったことか。世にもあわれな物語となった。
 相思相愛の仲を放翁の母に逐(お)われた唐氏の事と関係が有るか無いか知らないが、「剣南詩稿」巻十四を読むと、夏の夜の舟の中に水鳥の声が甚だ哀しんで姑(こ)悪(あく)と云うように聞えて、感じて詩を作ると題した篇が有る。水鳥は即ち姑悪鳥(こあくちょう)で、また姑獲鳥(こかくちょう)とも云う。鳴く声によって名付けられたと言われている。上代(かみよ)に婦人が居て、その姑(しゅうとめ)に虐(しいた)げられて悲観して死に、生まれ変わってこの鳥になったという。来元成(らいげんせい)に句があって云う、「その尊(そん)を改めず称して姑(こ)という、一字を貶(おとし)めて名付けて悪という」と。放翁の詩に云う、

 女 生まれて 深閨(しんけい)に蔵(お)る、
 未だ曽て檣藩(しょうはん)を窺わず。
 車の上って 天とする所に移れば、
 父も母も 它門(たもん)となりぬ。
 妾(しょう)が身は 甚だ愚かなりと雖も、
 亦知る 君が姑(しゅうとめ)の尊きを。
 牀(しょう)を下る 頭鶏(とうけい)の鳴くに、
 髻(かみ)を梳いて 襦裙(じゅくん)を着く。
 堂上に 灑掃(さいそう)を奉じ、
 厨中に 盤さんを具す。
 青々 葵莧(きけん)を摘み、
 恨むらくは美なる熊蹯(ゆうはん)ならざるを。
 姑の色 少しく怡(よろこ)ばざれば、
 衣袂(いぺい) 涙の痕 湿める。
 翼(こいねが)うところは 妾(しょう)が男を生まんことを、
 庶幾(こいねが)わくは 姑も孫を弄せん。
 此の志 竟(つい)に 蹉跎(さだ)たり、
 薄命にして 讒言(ざんげん)を来たしぬ。
 放ち棄てられしは 敢て怨みざれど、
 悲しむところは 大恩にそむけること。
 古き路 陂沢(ひたく)に傍(そ)い、
 微雨(こさめ)ふりて 鬼火昏(くら)し。
 君聴けや 姑悪の声、
 乃ち遺(さら)られし婦(おんな)の魂なる無からんや。
 (娘は深窓に生まれ育って、未だかつて外界を知らない。車に乗って夫のもとに嫁げば、父も母も他家(よそ)の人となる。私は甚だ愚かと云えども、貴方の姑(おかあさま)の尊いことは知っている。寝床を下りて一番鶏の声を聞けば、髪を梳いて着物に着替え座敷の掃除をして、台所では食事の支度をする。青々とした野菜を摘んでは、熊の掌(て)ほど美味しくないのを残念に思う。姑(おかあさま)の顔に悦びの色が無い時は、着物の袂(たもと)も涙の痕で湿りました。願うは私が男の子を生んで姑(おかあさま)が孫をあやせるようになること。この願いはついに叶うこと無く、不幸にもお小言を受けました。離縁されたことを怨みはしませんが、悲しいのは大恩に背いた事。古い道は沼地に沿って小雨が降り、鬼火がチラチラして道は暗い。貴方聴いて下さいな姑悪の声を、あれは離縁された妻の魂では無いでしょうか。)

 反復してこれを味わえば、惻々(そくそく)の情、綿々(めんめん)の恨み、自然と人を動かすものがある。あるいは唐氏の当時の面影がこの中に在りはしないか。
 昔の人が早婚なのは日本も中国もそうであった。放翁の年二十の頃はすでに唐氏を得ていたかどうか知らないが、「剣南詩稿」巻十九に、「余が年二十の時に嘗て菊(きく)枕(ちん)の詩を作り、すこぶる世の評判となる。今秋たまたま再び菊を採って枕嚢(ちんのう・枕)を縫わせた。凄然とした感がしたので詩を作った」として詩が二章ある。云う、

 黄花を採り得て 枕嚢(ちんのう)を作る、
 曲屏(きょくへい) 深幌(しんこう) 幽香を閟(ひ)む。
 喚囘(よびかえ)す 四十三年の夢、
 灯(ともしび)暗くして人無し 断腸を説くに。
 (菊の花を採り集めて枕を作る、折り屏風の厚い帷に幽香が漂う。想い返す四十三年前の夢、断腸の思いを説いても、灯は暗くあの人は居ない。)

 叉

 少日(わかきひ)曽(かつ)て題しぬ 菊枕の詩、
 蠧編(とへん)残藁(ざんこう) 蛛糸(しゅし)に鎖(とざ)さる。
 人間万事 消磨(しょうま)し尽す、
 只有り 清香の旧時に似たる。
 (若い時にかつて書き付けた菊枕の詩も、虫に食われて文字は蜘蛛の巣に隠される。人事は消磨し尽くされて、只有るのは、あの時に似た清らかな香りだけ。)

 その昔の菊花の枕は、唐氏の細腕で裁縫されたものと思われる。
 放翁の薄倖はこれだけでなく、その後、蜀に行く時に或る宿に泊まると壁に詩が書いてある。筆遣いは正しく女性で、詩も悪くない。

 玉の堦(はし)のもとの蟋蟀(こおろぎ)は、清(すず)しき夜に鬧(さわ)ぎ、
 金(こがね)の井のほとりの悟(きり)桐(のは)は 故(ふ)りし枝を辞(さ)る。
 一枕凄まじく凉(さみ)しくして 眠り得ず、
 灯を呼びて起ちて作る 秋を感(おも)う詩を。
 (床下の下のコオロギは、涼しい夜に騒ぎ、黄金の井戸のほとりの悟桐は古い枝を落とす。眠ろうとするが寂しさ凄まじく、眠れないので灯りを点けて秋を思う詩を作る。)

とある。どのような人が書いたのかとこれを問えば、身分の低い宿の娘だという。美しいかどうかは知らないが、その才を愛してであろう、放翁はこれを納(い)れて妾(しょう)として召し使う。詩人と才女との唱和の朝夕、かりそめの談笑も趣き多いことであったろう。しかし明るい月は雲を呼び、好事は魔を惹いて、唐氏の後の夫人は嫉妬が深く、半年ばかりで之を逐(お)い出す。「剣南詩稿」巻二十五に載せる。妾を逐うにあたって生査子調(せいさしちょう)の詞を賦して別れると。詞(うた)に云う、

 只知る 眉に愁いの上るを、
 識らず 愁いの来たる路を。
 窓の外に 芭蕉あり、
 陣々たり 黄昏の雨。
 暁に起きて 残妝(ざんそう)を理め、
 整え頓(ととの)えて 愁いをして去らしむ。
 合(まさ)に春の山を画くべかざり、
 旧に依りて 愁いを留めて住(とどむ)れば。
 (何故か知らないが愁いが眉に上る。窓外の芭蕉の葉には、黄昏の雨が陣々と降り注いでいる。朝早く起き身仕舞いをして気を整え愁いを払うが、正に春の山のような眉は描けない。今までどおりに愁いの雲が去らないのであれば。)

 芭蕉を打つ黄昏の雨音の悲しさに、愁いは眉の上に来て、身仕舞いをしても眉を画けば、春山(しゅんざん)の青き辺りに愁いの雲は再び留まる。想えば女の明け暮れの情景が浮き出して見える。前には唐氏を失い後にはこの女性を失う。放翁はまことに艶福の無い人である。
 放翁の言葉に、「一言をもって身を終るまで之を行うものは恕(じょ)であろうか、これは孔門の一字銘(いちじめい・優れた一字)である」と。恕とは現在の日本語に云うところの「おもいやり」である。一字銘の言葉とは云い得て素晴らしい。思うに放翁は深く恕字について悟るところがあったものと見える。
(大正四年八月)

注解
・秦少游:秦観、字は少游、号は淮海居士。中国・北宋の詩人、政治家、蘇軾の門下。
・秦檜:中国・南宋の宰相。金との講和を進め和議を結ぶ。
・韓侘冑:中国・南宋の外戚、官人。
・王炎:中国・南宋の詞人。字は晦叔。号は双渓。
・健康や臨安の地勢を論じ:
・高宗帝の為に家臣の珍品買いを弾劾する:
・范成大:中国・南宋の詩人。
・月やあらぬ春はむかしの春ならぬ:古今和歌集・在原業平の歌


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