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幸田露伴の「努力論⑦ 凡庸の資質と卓絶した事功・接物宜従厚」

凡庸の資質と卓絶した事功

 何事に依らず人が或る時間を埋めて行くには、心中にせよ或いは掌中にせよ、何かを持っていなければ居られない。まるで空虚で居ることは出来るかも知れないが、先ず普通の人々には出来ない。そうであれば心中や掌中に何物かを持っている事が常であるならば、その持っているものが良いもので有りたいのは云うまでもない。
 いわゆる志(こころざし)を立てると云うことは、或るものに向かって心の方向を確定する意味で、言い換えれば心の向かうところを定(き)める訳なのだ。であるから、心の執(と)る処のものを、最も良いものにしなければならないのは自然な道理である。従って志を立てる場合は、固いことを欲する前に、先ず高いことを欲するのが必要で、さて志立って後はその固いことを必要とする。
 そうであれば、立てる志は最高が良いかと云うと勿論そうである。しかし万人が万人、同じ志であるという事はあり得ない理屈だ。各人の性格に基づいて、その人が可とする処に心を向けて行くべきなのである。政治上の最高地位を得て最大の功徳を世に立てようとか、或いは宗教上道徳上の最上階級に到達して、最大の恩恵を世に与えようとか、更にまた文教美術の最霊の境涯に到達して、その恩恵を世に与えようとか、それ等は何れも最高の階級に属するもので、方面はそれぞれ変っても立派なことは同じであるが、方向を異にするのは各人の性格から根ざして来るのである。そこで或る性格の人は同じ最上最高のところに志を立てるにしても、或る事には適当し、或る事には適当しないということがある。即ち性格がその志に適応しなければ駄目なのである。
 これ等は最も卓絶した人について云うので、普通の人は性格そのものが、最上最善ではあり得ない。甲乙丙丁種々あるけれども、第一級性格の人もあれば、第二級性格の人も有り、また第三級の性格を持っている人も有る。元来人の性格はそのように段階を区別することは出来ないものである。肉体にも或る人は百八十センチの者もあり、或いは百七十センチの者もあり、また百六十センチの者も多くある。このように身長(みのたけ)にも種々段階があるように、性格にも自然と非常に高い人も有り、中位の人も有り、更に低い人も有る。そこで第一級の性格の人は、第二級の性格の人が志望するような事は自然に志望しない、第二級の性格の人は、第三級の性格の人が志望するような事は自然に望まない。それが実際社会の状態であって、各人の性格に基づくのだから致し方がない。たとえば此処に美術家があるとすると、古今絶無の第一位の人になろうとする者もあり、昔の人に比べて誰位になれれば満足と思う者もあり、それよりも低い古人を眼中に置いて、それ位で満足であると思う者もある。また更に低くなると、ただ一時代に称賛を博(はく)して生活状態の不満さえなければ、それで満足とする者もある。このように人々の身長の高さに種々あるように、人々の志望の度合も、性格に応じて自然と高低が現われて来る。
 中には又、非常に謙遜の美徳をその性質に備えている為に、自己の志望よりも自己の実質の方が卓越しているくらいの人もある。そういう人は先ず稀有であって、事実に基づいて云って見れば南宋の岳飛(中国、南宋の武将)は、歴史上の関羽・張飛( 共に中国三国時代の蜀漢の武将)と肩を並べれば満足であると信じたが。岳飛の為した事は関羽や張飛と肩を並べるどころではない。むしろ関張よりも偉いくらいである。諸葛孔明は、管仲(中国春秋時代、斉の政治家)、楽毅(中国戦国時代の燕国の武将)などの人々を自分の心の目標としていた。けれども孔明の人品業績は決して管仲楽毅の下には居ない。この二人のように謙遜の美しい性質を有した人は例外的であって、多くの人々は百を得ようとして十を得、十を得ようとしてその半(なかば)にも達しないで終る。それゆえ志(こころざし)は性格に応じて、出来るだけ高いことを欲する。大きな志望を懐(いだ)いても、三十、四十、五十とおいおい年を取るに従って、遂には街中(まちなか)に朽ち果てて終るのが常であるから、人は少しでも高い志望を懐かなければならない。
 一生を委ねる事業は暫くさしおいても、日常些細のことでもやはり同じである。娯楽でも何でも心中や掌中に持つものは、願わくは最高最善のものでありたい。ある人は盆栽を買っても安いものを買い、鳥を飼ってもイヤなものを飼い、園芸をしても拙劣なものを作り、その他謡曲にしても、和歌にしても、また三味線にしても、種々の娯楽をするにおいて、いずれも最低最下のところで終る人がある。また或る性格の人は、種々の楽しみの中で、「盆栽は好むが他は好まない。盆栽でも草の類は沢山あるが、自分は草を措いて木を愛す。また木にも色々あるけれども、自分はザクロを愛玩する。その代りザクロに於いては誰よりも深く玩賞し、かつザクロに関する智識と栽培経験とを誰よりも深く広く持って、そして誰よりも良いものを育てよう。」とする者がある。些細のことであるが、ザクロに於いて天下一になることを欲して、最高級に志を立てる者がある。そういう人がもし他の娯楽に心を移したなら良い結果は得られないが、このように決意して変心しなければ、第一になることは出来ないまでも、その人が甚だしい鈍物(どんぶつ)でないならばザクロに於いては決して平凡な地位では終らない。ザクロの盆栽造りに於いては他人が及ばない位の高度な手腕をその人は持ち得るようになる。それは最高に志望を置いた結果で、凡庸の人でも最狭の範囲に最高の処を求めるならばその人は比較的に成功し易い。
 近頃ある人がミミズの生殖作用を研究して、専門家に利益を与えたという事が新聞に見えた。これは誠に興味ある事例で、ミミズのような詰らないものにしても、その小範囲に永年月の間、心を費やせば、その人は特に卓越した動物学者でないにも拘わらず、卓越した学者にすら利益を与え得ると云うことになって、永い間の経験の結果は、世の学界に或るものを寄与貢献したということになったのである。実に面白いことではないか。
 人々の身長(みのたけ)の高さは大凡定まっているのであるから、無暗に最大範囲に於ける最高級に達することを欲せず、比較的狭い範囲内において志(こころざし)を立てて、最高位を得ることを欲したならば、平凡の人でも不知(しらず)不識(しらず)のうちに、世に対して深大な貢献をなし得るであろう。何をしても人は良い。一生瓜を作っても、馬の蹄鉄を造っても、また一生杉箸(すぎばし)を削って暮しても差支えない。何に依らずそのことが最善に到達したならその人も幸福であるし、また世にも幾らかの貢献を残す。いたずらに第二第三級の性格であることを顧みないで、第一級の志望を懐くよりも、各自の性格に適応するもので最高級を志(こころざ)したならば、その人は必ずその人としての最高才能を発揮して、大なり小なり世の中に貢献し得るだろう。

接物宜従厚

 「物に接するに宜しく厚きに従うべし」というのは黄山谷(中国北宋時代の書家、詩人、文学者)の詩の句である。人の心持ちは当然温(あたた)かであるべきである。
 人の性情も多種である。人の境遇も多様である。その多種な性情が多様な境遇に会うのであるから、人の一時の思想や言説や行為もまた実に千態万状であって、本人といえども予想し見通すことの出来ないものが有るのは、聖賢ではない身の避けがたいところである。であるから、人の一時の所思や所言や所為を捉えて、その人の全体であるかのように論議して批判するのはもとより当を得たことではない。だが是(ぜ)を是とし非(ひ)を非とすることが、不当だとする理屈はこれまた更に無い。故(ゆえ)に是を是とし非を非とするのもまた実は閑事(ひまごと)で、「物言えば脣寒し秋の風」という一見解は此処では取らないで差支えはないが、ここに当面の是を是としないで非とし、非を非としないで是とするようなことが有ったならばどうだろう。その人の性情境遇がそうさせたにしろ、これを可とすることは断じて出来ないのである。ましてその性情がねじくれていて辛辣で、自分は世に認められず、思い通りにならず、そして不平満々、ガツガツした状態に在る者の、過激な言葉や噂などから生じた論議批判などは、問題とするに足りないことは勿論である。従ってこれを断固排斥すべきであるのもまた勿論である。性癖はどうにもならないが、人は成るべく「やはらかみ」と「あたたかみ」とを持ちたいものである。仮にも助長の作用を為して剋殺の作用は為したく無いものである。
 喩えを用いてこれを説明しよう。人は皆容易に私の意見に納得するだろう。助長とは読んで字の通りで助け長じるのである。剋殺は剋(さ)し殺すのである。ここに一ツのアサガオの苗が芽を出したと仮定すると、これに適度の量の適温の水を与え、或いは汚泥、或いは腐魚、或いは糠秕(こうひ)、或いは燐酸石灰等の肥料を与え、その蔓(つる)を絡(から)ませる篠竹や葭等で、支柱を設けて地に倒れることのないようにして、丁寧にその虫害を防ぐようなことは即ち助長である。理由無くその芽を摘み去り、その葉をむしり取り、その幹茎を踏みにじって地に倒し、瓦礫を投げ捨てて、傷つけるようなことは剋殺である。牛・馬・犬・豚のようなものに対しても、これを愛育し長成するのは助長である。草木や動物に対してだけでなく、一机(き)一碗(わん)・一匣(こう)・一剣(けん)に対しても助長剋殺の作用は有るのであって、これを撫でさすり愛玩すれば、桑の机ならその机は次第に桑の特質である褐色の艶(つや)を増して来て、最初のただ淡黄色であった時よりもその優麗を加えるものであり、楽焼の碗ならばその碗は次第に粗面のところも手に触れて不快の感を起させなくなり、黒漆(くろうるし)の匣(はこ)ならばその匣は次第に漆の異臭も消えて、浮光も無くなり賞すべき古色を帯びるようになり、剣はまたその手入れを怠らなければ、その利(きき)を加えないまでもその鋭さを保って錆の生じることもない。このようなことは皆助長の作用である。これに反して机を汚して拭わず。あるいは小刀で刻んだり錐で穴をあけたりしてこれを傷つけて顧みず、碗は汚れて洗わずこれを衝撃して傷やひびで醜くし、匣を毀損し剣を錆だらけにするようなことは剋殺の作用である。古人の書画等に対してもまたそうであり、故紙や書物の断片の将(まさ)に廃棄されるところを救い、これを新装し再生するようなことは助長であり、心無く埃まみれに放置し、鼠や虫の害に遭わせたり,濡らしたり焼け焦げを作ったりするようなことは剋殺である。
 以上の例に照らせば不言の裏(うち)に私の心は自然に明らかであるが、まさに一切の美なるもの用あるものに対しては助長の念を懐くべきであり、決して剋殺の事を為すべきではないのである。助長を心がける人の周囲には花は美しく笑い、鳥は高らかに歌い、羊は肥えて、馬は逞しく、器物什具は優雅に観えるが、これに反して剋殺を平気でする人の周囲には、花も萎み枯れ、鳥も来て啼かず、羊痩せ馬衰え、鼎(かなえ・脚付の器)は脚を折って倒れ、弓の膠(にかわ)は剥げて裂け、甕(かめ)の口は欠け、鐺(こじり)の耳は取れ、雑然とし紛然として散らかり放題の状況になる。
 人の性情は多種であるから、自分では無意識に剋殺の作用を敢えてして憚からない者がいる、その人は必ずしも狂人ではないのであるが、思うにそれは幼時の躾(しつけ)がそうさせたので、その習慣がその人に禍(わざわい)するとは言えないが、その習慣が決してその人を幸福にするとも言えないのである。世にはまた一種ひねくれた性質から好んで剋殺の作用を為し、朱を名画に加えたり指で宝器を弾くようなことを敢えてして、しかも意気は洋々、眼はランランとさせて、自分で傲る者も有るが、これ等は真(まこと)に無知蒙昧の愚か者というべき者である。何等自分が得するところも無いだけでなく、実に人を傷つけ世を害するものであって、このような人に因(よ)って我々はどんなに多大の損害を受けているか知れないである。雪舟(室町時代の水墨画家)は唯(ただ)一人であり尾形乾山(江戸時代の陶工)は唯一人であるが、雪舟の画を破り棄てる人、乾山の皿を毀損する人は、何十人何百人何千人と有る理屈であるから、剋殺を躊躇(ためら)わない人ほど実に無価値な者は世にないのである。哲学的に論じたならば剋殺もまた進化の一作用であるから、剋殺を平気でして躊躇(ためら)わない人もまた進化の作用を助けているには違いない。このような人があって、未来の為に路を開くのであると論じれば論じられないものではないが、それは超人的の議論であって、実際の社会とはかけ離れているのである。美なるもの用あるものを傷つけるよりほかに能力の無い人ほど哀れで悲しい人は無いのである。人まさに助長を心掛けて剋殺を憚からなければならない。
 以上は動植器物に対しての言(げん)であるが、私の本意は庶物に対してでは無い、実に人の悪でない思想や言語や行為に対しては、むやみに剋殺的の思想や言語や行為をしないで、助長を心掛けるべきであると思うからである。ここに人があって或る一事を為すことを欲すと仮定すると、その事が不良であったり凶悪であったり狂妄であったりすれば止めるが、少なくともそうでない以上はこれを助長してその志(こころざし)を成功させるべきではないか。たとえ我がこれを助長するのを好まなくとも、なんで傍からこれを剋殺して、その志が成らずその功の遂げられないことを望むような行為に出る必要があろう。であるのに、世間には自然と過激で奇異の思想を懐き、言語を弄し、行為を敢えてする一種の人があって、是を是とし非を非とする以上に、不是を是とし、不非を非とし、それを以って快事とするような行為に出る者があるのは悲しむべきことである。人あるいはこのような者は世に存在しないと云うだろうが、実際は動植器物に対して助長を心掛けず剋殺を憚からない人が少なくないように、人の善や人の美に対してもこれを助けようする者は比較的少なく、之を毀損し之を傷害しようとする者が決して少なくないのである。
 過日の事であったが、私は山の手の名を知らない一坂道に於いて、転居の荷物を運搬する一大八車(当時あった、人力運搬車)が、積荷が重くて人力不足の、加えて路面が渋っていて登り悩んでいるのを目撃した。その時に坂下より相伴(あいともな)って来た二人の学生のその一人はこれを見て忍び難く、進んで車後より力を貸したので、車はかろうじて上(のぼ)ろうとして動いたのである。であるのに、他の一人が声高くこれを冷罵して、「止めろ、偽善家」と叫んだので、車を押した学生は手を離して駆け抜けて仕舞って、既に車より前に進んで居た冷罵者に追い着いて、今まで同様に相並んで坂を上って行ってしまったのである。車夫は忽ち助力者を失った為に、急に後へ引戻され、事態甚だ危険な様相を呈したが、幸いに後から来た二人があって、咄嗟(とっさ)に力を貸したので無事を得たのであるが。私は坂上より差掛ってこの状(さま)を見て、思わず肝を冷して心を寒くしたのであった。この事は真(まこと)に一小事で語るに値しないのであるが、これに類した事は世に甚だ少なくないのである。一青年が力を貸して車を押したのは、いわゆる思い遣りの心とでも言おうか、仁恕の心とでも言おうか、何にせよ或る心の発動現象であって、儒学者的に称賛するには値しないが、その行為は決して不良でもなく凶悪でもない。私に言わせれば、他の一青年がその心の発動に対して剋殺的の言語を出すには及ばないことである。否、むしろ助長的の意義ある言葉を出してその心の発動を遂げさせても可であり、又その学生も協力して労を分かっても不可で無いと思う。であるのに、冷罵を加えて「君なんぞ自ら欺(あざむ)くや」と言わんばかりに刺笑(ししょう)した為に、一青年の心はアサガオの苗が、ただ一足で踏み潰されたみたいに忽ちその力を失い、突如として車を捨てて走るに至ったのである。これを目にした私は後になって之を思い之を味わって、悲しみに心をいためたのである。我々もまた、時に彼(か)の冷罵を加えた青年のような行動を、無意識の間にすることが無いとは限らない。そしてその為に、自他に取って何等の幸福をもたらさずに、却って幾らかの不幸を、自他に贈っていることが無いとは限らないと思わずにはいられなかった。
 動植器物は愛すべき、用いるべきであり、殺したり壊したりしてはならないことは自明の道理である。人の善を成して美を為すことに於いても、また助長的態度に出なければならないことも自明の道理である。他人が宗教を信奉するのに出会い、これを嘲笑するのは科学を悦ぶ者の免れないところであり、他人の科学を尊信するのを見れば、これを罵詈するのは宗教を悦ぶ者の免れないところである。しかし人の性情は多種であり人の境遇は多様である。自分の是(ぜ)とするところだけを是としては、天下は是でないものが多くて堪えられないのである。故(ゆえ)に少なくとも不良で無く凶悪で無く狂妄で無い限りは、人の思想や言説や行為に対しては、少なくとも剋殺的で無く助長的で有るべきである。まして多く剋殺的な者は、その人のひねくれた性情と境遇の不満に基因することが、実際世界に於いて甚だ明らかに認識されている、と云っても大きな誤りではないのである。(努力論⑧につづく)


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