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幸田露伴の史伝「頼朝⑧機運」

 機運

 頼朝は実に大磐石である。千貫万貫万々貫の大盤石である。この大盤石が転げ出した為に、山河は忽ちその観を改めたような状況に成って居るのである。それほど頼朝を衝き動かして揺らぎ出させたのは、決して一人や二人の力ではない、種々の人の様々な力が加えられた挙句の某月某日に平家打倒の勢いが生まれ、その大運動を開始したのである。頼朝に強大な力を加えた者は、前に長田庄司父子があった。後にはサテ誰がいただろう、或いは人は文覚上人が頼朝を動き出させたように云う。ナルホド文覚もいわゆるクソ豪傑肌の男で源平盛衰記などを見れば、何処から拾って来たのか分からない髑髏(ドクロ・頭蓋骨)を義朝の髑髏だなどと云って、頼朝を激動させて挙兵させたと云うのだが、自分が流罪になった二十年も前に打ち首になった義朝の髑髏などを、ワザワザ捜し出してハルバルと伊豆まで持って来るなどと云う事が、有りそうな事か無いかを分からない頼朝でも有るまいから、たとえ文覚が手品使いのような事をしたとしても、そんな下らない事で、ムムッと身を震わせて一大事を思い立つと云うような茶番を頼朝がする筈が無い。また文覚が院宣を頂いて来て頼朝に与えたとも云うが、文覚は皇室に不敬を働いたから流罪になった身であり、たとえ多少の縁故や便宜が有ったとしても院宣などと云うものがソウ容易に頂けるものでは無い。まして院宣を頂戴したのであれば、吾妻鏡の劈頭にその院宣をこそ載せるべきなのに、そのようなものは影も形も無くて、以仁王の令旨が載っているところを見ると、その作り話であることが分かるのである。しかし頼朝は最も古い流人であり、文覚は中央から来た最近の人・・「勧進帳」の日付に拠れば治承三年「百練抄」に拠ると承安三年で、その間に六年の差がある。事実から見れば承安三年が真に近く、情から見れば治承三年が真に近い。この件は追及しない。・・で有って、伊豆に居た当時の人では都の事情に詳しい者は文覚が第一であった。そこで、頼朝は蛭ヶ小島に蟄居して居ても乳母の妹の子の三善康信と云う者から、一ト月に三回づつ京都かの様子を手紙で受け取っていた程の抜け目の無い人であるが、以仁王の令旨を頂戴した後か前か分からないが、とにかくその前後に文覚を尋ねて、朝廷の有様や平家の有様や世情人心の状況などを聞き質したに違いない。またその時にバクチ好きの文覚がアレコレと説き立てて、何としても頼朝に挙兵させようとした事も疑いない事であろう。ただし、文覚が院宣を頂いて来た云う事は無論事実では無いが、頼朝が皇室の御意向を窺い知ろうとした事は有ったかも知れないので、或いはその役目を文覚が務めたのかどうか、それは測り知れないのである。頼朝の父の義朝が平治の戦で敗れたのは、盟主の信頼がその器で無かったからでも有るのは勿論であるが、皇室の御同情が寧ろ平家方に有って天子が六波羅へ御動座された為に、一族の頼政さえ離散して仕舞って、見かけ上は自分等が純然たる朝敵の立場になって、ついに義朝は、家重代の家来筋の長田庄司のような憎むべき奴にも、朝敵誅伐の名義の下に斬られて、死に首を万人に嘲笑されつつ獄門台に晒されたのである。以仁王の御令旨を奉じて平家と戦うことは負けても買っても快心事で有るが、負ければ無論だが勝っても時日は永くかかる。その間にモシ皇室の御同情が自分の方に無くなれば、父の轍(てつ)を踏むことになるのである。辺地の蛭ヶ小島に居るので朝廷の様子は分からないが、皇室と平家は御縁続きになっているのである。清盛の横暴や平家の跋扈が甚だしくて、皇室の御嫌忌を買っていることは推測できるのでは有るが、実際の皇室の御意向が以仁王の御令旨のようなもので有るかどうか、それを窺い知る必要が十二分に有るのである。そこで文覚の外戚に前兵衛督光能と云う者が居て院の御近習であると云うので、それらの便宜を頼って内々に皇室の御気色を伺い奉った、と云う事も或いは有っただろうと思われるのである。頼朝は皇室を尊崇する事に於いて中々深く心掛けて居たので、「千葉広常を殺したのも、広常が粗暴で朝廷を崇敬する事を知らなかったからである。」と自分から云ったと云う程であるから、院宣頂戴の件は疑わしいけれども、文覚に頼って密かに皇室の御気色を伺った事は或いは有ったであろうし、且つまた文覚が頼朝の利益になるようにそれらの情報を多少潤色したり誇張したりして語ったようなこともキット有ったことであろう。頼朝は勿論以仁王の令旨を奉じて挙兵したので有って、この令旨をもたらしたのは叔父の源行家である。石橋山の戦でも以仁王の令旨を秋風に吹き靡かせた源氏の旗の上に付けて、中惟重に之を持たせているのである。であれば、文覚が頼朝を挙兵させたなどとは云えない事で、頼朝が文覚を動かして之を駆り使っていたと云った方が宜しいのである。別に縁もゆかりもない文覚上人が、得体の知れない髑髏などを持ち出してウシウシと嗾(けしか)けたところで、牙をむくような頼朝では無い。文覚の手柄は頼朝の為にラッパを吹き太鼓を鳴らしてお披露目をしたことである。それなら、頼朝を動き出させた者は何かと云うと、それは無論、木曽義仲以下の諸国の源氏を動き出させたのと同じもの、即ち以仁王の令旨に他ならないのである。なお拡大して之を云えば強い平家の圧迫に堪えかねて挙兵した事に他ならないのである。しかしそれは頼朝に限らず誰にでも通用する全体の論である。そこで、特に頼朝を動かした事はと云うと此処に伊東祐親と云う者が居て、非常な力を加えて頼朝をついに動き出させたのである。大凡の事実は人が知っている事で有るが、その核心は祐親が頼朝の子を殺した事なのである。元来この伊東祐親と北条時政は何れも源氏の御家人なのであるが、平家の武威が盛んになって世を治めるようになるにつれ、何時となく大番を勤めて平家の御家人のようになって、その命令に従って日を送っていたのである。これは伊東や北条ばかりでなく、平治の乱で義朝が亡びてからは、畠山でも大庭でも熊谷次郎直実でも岡部六郎太忠澄でも渋谷庄司重国でも稲毛三郎重成でも股野五郎景尚でも瀧口三郎経俊でも斎藤別当実盛でも誰も彼もが皆平家に従って居たので、その中には段々と平家の恩を着て、その為に平家に背けなくなった者も有り、それほど深い恩を着ていない為に心中では今も源氏を慕っている者も有り、各自の境遇や性質によって段々といろいろの差があったが、とにかく一時は皆平家の命令に従ったのである。それなので、斎藤実盛は悪源太(源義平)十六騎の一人で源氏の古強者であったが、大蔵の合戦では平家方に立って死んでおり、大庭景親は石橋山の戦で頼朝を恐ろしい目に遇わせており、熊谷や股野はその戦いで頼朝方を悩まして居り、瀧口経俊などは頼朝の使いで安達盛長が尋ねて行って、「今度平家退治のために挙兵するについてはお味方に付くよう」と説得した時に、「人も貧乏になると途方もないことを考え出すものである、今の頼朝公の分際で平家の世を取ろうとは、富士の山と丈比べをして、猫の額の物を鼠が取ろうとするようなものだ」と嘲笑って、しかも石橋山の戦では頼朝に矢を食わせたので、頼朝もどれ程忌々し口惜しく思った事だろう。・・矢の篦(へら)に瀧口三郎経俊とあったところを鎧に刺さったまま残して置いて、後に治承四年十一月二十六日に瀧口の母が命乞いに来た時に、その鎧を出して黙って見せて遣った云う事である。・・そう云う訳で北条でも伊東でも、別に頼朝を悪くは思っても居ないが、今は日陰の謹慎の身なので、たとえ主人筋であっても正しく罪ある流人で有って、二人は之を監督する役を平家から命じられて居たのであった。蛭ヶ小島と云うところは北条から直ぐ近くのところで、伊豆の中央を北へ流れて沼津の近辺へ落ちる狩野川流域の原木村や四日町村や寺家村などと云う村々を通っている三島道の東に当たり、韮山町からは申(さる)の方位に当たる四日町村の中の土地なのである。時政の家も矢張り今の四日町村の中に在って蛭ヶ小島の西である。義時の家は狩野川を隔てて時政の家からその又西の南江間村なのであった。狩野川が還流しているので島と云い、草蛭が多かったので蛭の名が付いたと云われている。永歴元年に十四で蛭が小島に落ち着いてから、治承四年に三十四で挙兵するまで、二十年の間の頼朝の生活はどんな様子であった有ったろうか、今詳しく想像することは出来無いが、ある旧記に「蛭が小島の地、もとは大蛭島と小蛭島と和田島の三島が有って、頼朝は初め大蛭島に住んで居たが、余りに蛭が多いので小蛭島に移り、また山木判官に詫びて和田島で耕作していたのでその畠を「ほむ山畠」と云う」と、伊豆の萩原と云う人が記している。そうすると頼朝は鍬や鋤を使ったりして農作業をしていた事になるが、侘しくは暮らして居ただろうが、安達盛長や小野成綱や鬼武などが随従していたので、そんなに悪戦苦闘の朝夕を送っていた訳では無いらしい。尤も蛭ヶ小島の西の原木村の餅売り婆さんが、常々頼朝に餅を贈った(売れ残りかも知れないが)ので、頼朝が世を得てからその老婆の願いを聞いて一寺を造営して与えた。それが即ち原木村の宝樹林成願寺で近年まで寺にお婆さんの像が有ったと云う事であるから、餅売りの婆さんに餅を献上されるようでは余り立派な生活ぶりでは無かったことと想われる。頼朝は前にも云った通り神仏を尊ぶ念(おもい)の深かった人なので、流人の所在無さからとは云え日々経を読んだり仏を念じたり神を拝したりして、一ツは先祖供養の為に、一ツは我が減罪生福の為にしていたので、三島明神や伊豆山権現や箱根権現等には何度となく参詣して、特に伊豆山の文陽坊覚淵とは師弟の約を結び、三島権現には世を得た後も年に四度の参詣をしようとしたが、行程も近く無く沿道の民にも迷惑であると思って、安久村の由緒正しい農民七人を選んで輪番で代参させ、征夷大将軍の装束に左折金烏帽子を与えて頼朝の名を称(とな)えることを許した、と云う程である。それ程であったので「源平盛衰記」には、治承三年三月に平重盛が、夢で三島明神の御前に法師の頭が懸け晒されてあるのを不思議に思って古老に問い質すと、「この首は平家の太政入道清盛と云う者の首である。当国の流人の源頼朝がこの御社に千夜の通夜をして祈り申す旨を明神が御納受されて、備前国の吉備津に命じて清盛を討たせて、懸け玉えるものである。」と云ったところで眼が覚めた、などと云う事さえ載っているのである。このように神仏を尊崇した以外に、武芸や文学をも学び修めて居たらしい。頼朝の筆跡と義経や義仲の筆跡を比べて見ると、他の二人の筆跡は如何にも気短のように見え、頼朝の筆跡からは心静かに落ち着いて書を読み字を習った様子が見える。武芸を誰に学んだかは分からないが、石橋山の負け戦で頼朝の射った矢が百発百中して、しかもその矢が矢羽まで入るほどであって、大庭の軍勢を散々と射殺したと云うから、武芸も安達盛長や小野成綱を相手にして学んだに違いない。且つ頼朝と云う人は物を訊くことの好きな人で、僧の西行に武芸の経験を語らせたり、大場景義に保元の戦の経験を語らせたり、人にその知識や経験を披露させて、之を尊重し之を取り入れた形跡を多く遺しているところを見ると、どうも総じて学問好きな人であったらしいので、書籍などこそ多くは読まなかったが、二十年間において学び得たところは多かったものと想われる。人に遇って物を尋ねる人は知識や芸能の習得に努める人で、人に遇って物を尋ねない人は石コロが水に落ちたように世を経る人であるから、「吾妻鏡」などに時々見えている頼朝が物を尋ねる事は、正しく頼朝が武芸や文学に興味を持つ人である証拠と云ってもよいのである。伊豆山の文陽坊覚淵や専光坊良暹や京都から来ていた邦通などから文学を吸収し、伊豆や相模に武士からは武芸を吸収したのに違いないのである。後に木曽義仲が京都で失敗したのは無学であったためで、頼朝が功業大成したのは学問が有ったためだと云ってもよいような気がする。サテ頼朝はこのように奉仏敬神の行いと文武の習得に長い月日を励んでいたので有るが、その間に何時の頃からか散位の三善康信の便りを月に三回得て、京都の様子を細大漏らさず知っていたので、八月十七日に決起して山木判官を血祭りにしたのも、六月十九日に康信からの特別な使いが有って、「高倉宮の令旨を受けた者は追討されるようで御座るゆえ、早く奥州などへ御逃げ為(な)さては・・」と云う知らせが有った為で、そこで二十四日から安達盛長や中原光家を使者として密かに御家人や旧知を集め出したのである。法華経の千部読誦の祈願が満たないのを苦にして、文陽坊覚淵に問うたのは七月五日であり、そして盛長や光家を使いとして御家人を集めている事が、駿河の目代の長田入道から既に平家の耳に入って居る事を、佐々木秀義の報告で頼朝が知ったのが八月九日であって、ついに挙兵したのが同じ月の十七日である。それなのに文覚の頂いて来た院宣は七月六日光能奉とあるから、これ等を見てもその虚談であることが分かる。後の事はしばらく措いて、こういう風に頼朝は蛭ヶ小島に居たので有るが、伊東祐親もまた北条同様に頼朝の監視者で有ったから、伊東と蛭ヶ小島は余り遠くない事も有り、頼朝が時々に伊東に来ている事は表向きはともかく、北条も伊東も元は御家人であった関係上などで、咎め立てする事も無く自由にして置いたらしいのである。イヤ咎め立てどころか頼朝の境遇を気の毒に感じて、せめて憂さを散じ気を晴らすように、少しは自由な行動を勧める傾向が有ったように思われるのである。それで、頼朝は蛭ヶ小島を離れて祐親の居る伊東に居たことが有るのである。伊東の地は山を背に海を前に平地もまた少なく無く、山間の窪地である蛭が小島などとは比較にならない程の好い土地である。なので、何時から何時まで居たかハッキリしないが、頼朝が従者と共に伊東に居た日は少なく無かったのである。そのうちに「春も闌(たけなわ)になれば北側の枝にも花は咲く」道理で、十四で伊豆に来た流人の頼朝も男盛りになって来た。仏を念じては父や鎌田の後世を弔い、神を拝しては我が身や一族の前途を祈っている間に、人が実を結ぶ準備の美しい花が咲く時になって、人生が春の風の暖かさに蒸されて心が和らぎ燃える年頃になった。そこで頼朝は因縁有って祐親の三番目の娘のお八重さんと恋に落ちたのである。祐親の三女が八重子と云うのは古い書にも見当たらないのであるが、伊豆に今なお存在する伝説が有って、伊東の竹の内の音無しの社にある音無明神の・・祭神は不詳だが・・相殿は八重姫と云う事である。頼朝と八重子の情交は、頼朝の方から仕掛けた事か、八重子の方から仕掛けた事か、中に入って取りもった者が居た事か、一切は不明不詳であり、また単に人情だけの話であったか、伊東祐親が伊豆の豪族なのでその縁者となって、力を借りようと云う思いが頼朝の心の底に有ったのか、それ等もまた一切不明不詳である。しかし、頼朝のように小さくない人物と云う者は、恋なら恋で馬車馬のように恋に走り、欲なら欲で馬車馬のように欲に走るというような浅はかな事をするものでは無くて、何をするにも目を塞いでするのは慌て者のする事で、頼朝などは左右を見て地道を踏む人であるから、嘘でも何でも無く、恋の情の傍らに伊東を力にしようと云う考えも交って居て、伊東を頼みにしたいと云う心の欲の側に遣る瀬無い恋の情を湛えていた事なのでも有ろうか。何れにしても初恋のことなので、野心の為ばかりで伊東の娘のところへ通ったのでは無いことは明瞭である。イヤ頼朝自身、貧を歎いて家運の再興を願っていた事は、それは片時も忘れては居なかった事だろうが、如何に英雄でも豪傑でもソウ先の先まで考えては居なかっただろうから、何も利益を考えての打算から通ったのでは無く、むしろ自然な人間の情欲の発動でそういう事になったのである云った方が当たっているだろう。どんな英雄でも豪傑でも根本は人間であるので、恋に偉人凡人の隔ては無いだろう。伊東の岡村と云う所の日暮の森と云うのは、頼朝が八重子に会うために社の下蔭で思いを懐いて待ち暮らした所だと云い伝わっている。伊東の邸は日暮の森からは東に当たる高台で、矢張り岡村の内の原田と云う所で、物見塚と子神家と榎ノ木家と堂ノ家と云う四つの家の内がその所だと云う事であるから、日暮の森から見える所である。音無の森は松川の西岸で、日暮の森と伊東の邸の間に在って、伊東の邸の方から川の方へ下って来ると丁度そこが音無の森なのであるが、頼朝は八重子とその森で会ったと云われている。十一月十日に初めて会ったと云う訳でも無いだろうが、十一月十日の夜が森の神の祭典であって、その祭りには口をきいたり灯を点したりすることが禁じられ、近傍の人家も至って静かにして、参拝者も勿論提灯などを用いないで、社殿で村人が御神酒を頂戴するのも暗い中で無言で行うため、順々に尻を摘まんで神盃を渡すのである。その為に尻摘祭りの名さえ有ると云うことだ。それからまた伊東から川奈と云うところへ行く道筋の逆川と云う地の左側に甘酒屋が在る。それも頼朝と八重子が何やらしたと云うので、「恋の甘酒」などと土地の人が洒落を云っている。大体この頼朝と八重子の事は正式のものには出ていないで、「源平盛衰記」や「曽我物語」に出ているだけなのであるが、実際にあったことには違いないので、ソウで無ければ「吾妻鏡」に出ている「祐親法師は武衛(頼朝)を誅し奉るを欲す」と云う事は根拠のない事になって仕舞うのである。何故かと云えば祐親は頼朝を預かっている者なのであるから、無暗に之を殺そうとする理由は無いのである。殺さなければならない事情が有ったので殺そうとしたのである。即ち頼朝が娘の八重子と通じて子まで設けたので、平家に対して異心の無いことを明らかにして我が身の難を免れるために、頼朝を殺そうとしたのである。それでは、頼朝と八重子との間の事を推測できるものは無いかと云うと、いろいろ広く捜索して見ると、直接の証拠となるものは無くても大いにその間の事情を窺えるものがある。ソモソモ頼朝が蛭ヶ小島に流された最初から挙兵するまでの二十年の間の、頼朝の生活と体面を支えていた者は誰だったかと云うと、比企の尼なのであった。この事は「吾妻鏡」に出ているから間違いないのである。比企尼は即ち武州比企郡の少領(次官)であった比企掃部允の妻で頼朝の乳母なのである。頼朝の乳母はこの尼と瀧口三郎経俊の母の二人であって、経俊は前に述べたように頼朝に対して無礼千万な振る舞いをしたのであるが、比企尼の方は吾が乳を与えて育てた頼朝が年少にして流人となって、誰一人親切に介抱する者の無いのを見て慨然として優しい心根から頼朝を庇って、二十年の間というもの武州の比企郡から糧米を仕送っていたのである。それなので、頼朝が挙兵しようとした治承四年の頃には、もう掃部允は死んで仕舞っていたのにもかかわらず、平家方の長田入道はこの掃部允と北条時政が頼朝の尻押しであると、平家の侍大将の藤原上総介忠清に報告しているほどである。比企尼は実際に頼朝の為に大いに肩を入れていたのである。この比企尼に娘が三人いた。その長女の婿は頼朝の流人生活の傍らで親切に、そして忠実に仕えた大功臣の安達盛長その人である。それから二女の婿は河越重頼であって、それから三女の婿は誰だと尋ね質して見ると忽ち頼朝と八重子の関係が、ベールをめくるようにハッキリするのである。第三女の婿は誰有ろう八重姫の兄、即ち伊東祐親の二男の伊東祐清なのであった。頼朝はこのように比企尼の恩やその婿の安達盛長の忠義に依って苦しい二十年を過ごして来ているである、後に弟の範頼は安達盛長の娘を妻にし、義経は河越重頼の娘を妻にしている。即ち頼朝の弟たちは比企のお婆さんの孫を貰って居るのである。比企能員は比企尼の家の跡取りなので随分と当時は光り輝いたであろうが、後に北条時政と争って滅ぼされて居るのである。比企氏は北条氏と争って負けて歴史上で不利な立場にあるが、以上の関係や頼家の縁に連なっている関係から、北条氏に取っては大対抗者で有ったのである。それはサテ措き、前に述べたような訳で、頼朝に随従した盛長の妻はサゾ頼朝の為にすすぎ洗濯もした事であろう、朝夕の床の上げ下ろしや三度の食事の世話もしたであろう。その妹が伊東祐清の妻で伊東の邸に居たので有るし、また伊東は頼朝の旧御家人なのであったから、女同士は近しく睦み合う仲であり、男同士は婿同士であり主従でありするので、頼朝も伊東の邸へ行き、祐清夫妻も盛長の処即ち頼朝の許へ往来したことで有ろうから、何時となく頼朝と八重子は顔も見覚え声も聞きなれた事だろう。二人の間に恋は自然と生まれたのか、或いはまた盛長夫妻や祐清夫妻などの取り持ちがあったのかは分からないが、何れにしても八重子は頼朝の子を設けたのであった。世に子ほど可愛いものは無いのである。慰めるものの何も無い流人の頼朝は、妻を得て、子を得て、初めてこの世に日の光を見た心地がした事であったろう。しかもその子は男で有ったので、千鶴と名付けて限りなく寵愛したと云う事である。ところが是は全て祐親が大番を勤めて、京都の六波羅に伺候していた三年の間にあったことで、大番の期間を過ぎて家に帰って見ると、ある日三才ばかりの男の子が下女に付き添われて庭の花を摘んでいるのを見つけた。怪しんで之を質すと、祐親のその時の妻は八重子には継母であったから堪らない、止めるのも聞かずに娘が流人の頼朝と通じてコウコウだと訴えたので、祐親は一徹短慮の頑固老爺だからカンカンに怒って、商人や修行者が婿なら仕方ないと堪忍もするが、今時「世に無い源氏」を婿にして平家の咎めを受けては伊東の家の滅亡であると云うので、無情にも松河と云う川の奥の鎌田と云う所の轟ガ淵に錘を付けて投げ込ませて仕舞ったのである。轟ガ淵は、今はその悲惨な事実によって稚児ガ淵と呼ばれているが、山蜘蛛ガ淵とか思ガ淵とも云われていて、時勢の推移は面白い。頼朝の愛児を殺した流れは、今は水力発電所の水力となって伊東の町の夜を照らして居るのである。千鶴の抛り込まれた時はもう三才で物心も付いていたから、どんなに泣き叫んだ事であろう。鎮守(鎌田村来宮神社)の社前の樟の樹の枝を手に持たせたまま水に投げ込んで仕舞ったところ、その樟の枝を持ったまま川奈港の北の富戸村の海岸に流れ着いたのを、村人の生川某と云う者が憐み葬って小祠を建てて若宮と名付けたという言い伝えがある。その手に持っていた樟を挿し木にしたら根が生えて生えたと云われて居るので、真偽は分からないが、富戸の三島明神の相殿はその不幸な子であることだけは事実である。何れにしても残酷な事である。しかしここにまた、極めて奇妙な伝説が有るのであって、伊豆にはこの話は伝わっていないのであるが、千鶴は死んでいないと云うのである。それは当時千鶴を将(まさ)に沈めようとした時に、通り掛かった行脚の僧がこれを見るに忍び無く思い、伊東の家臣には千鶴が死んだことにさせ、笈の中に千鶴を蔵(かく)して出羽国へ行き之を養い育てたと云い、出羽の本堂内膳はその子孫だと云うのである。徳川時代は名門や高貴な家柄の子孫を高家と呼んで之を優遇している。サテ高家と云う程でも無いが、高家のように優遇して高家の次に置いている者を交替寄合と云っている。山名主水助や木下内匠助や最中出羽守や竹中民部や生駒徳太郎などは皆交替寄合なのである。この交替寄合表御礼衆の中に本堂と云うのが居る。所領は常陸だが本国は出羽で、家の紋は正しく源氏の笹竜胆である。その本家筋は即ち千鶴の子孫だと云う事であるが、何か由緒来歴の有る事でもあろうか、幕末の本堂内膳と云う人の妻は日向の飫肥城主の伊東修理太夫と云う大名の出であって、この日向の伊東は即ち伊東祐親一族の工藤佑経の子孫なのであって、家の紋は九曜の星と庵(いおり)に木窠(もっこう)であるから、それらの縁の結び具合さえ由緒があり気である。千鶴が助かったか助からなかったか今は明らかに云えないが、後に頼朝が奥州の藤原泰衡を征伐した時に、三浦義村など七騎が阿津賀志山を越えて先陣したが、その七騎の中に河村千鶴丸と云う十三にしかならない少年がいた。頼朝がその敵陣に在って奮戦して河村千鶴丸と自ら名乗ったと云う事を聞いて感じ入り、之を呼び出して面前において元服させたと云う事である。これも千鶴の二字が何となく響くような気がする・・以後は省略する。・・伊東祐親は頼朝の子を殺しただけでは安心できない、既に子を殺して問題が発生した以上は、むしろ頼朝をも殺して仕舞った方が後腐れが無い訳である。殺しても平家の敵の流人の事なので、公的には都合はどうにでもなる。と思ったから頼朝を襲おうとしたのである。ここで考えるのは頼朝の居所である。伊東の館の中に居たとは思えないのであるが、当てに出来ない日義本の「曽我物語」に、北ノ小御所と出ているだけでそれ以上は分からないのである。音無の森や日暮の森と伊東の邸の位置関係から、伊東邸の北の網代寄りの方に小さな家でも有ってそれに居たものと想われる。同じ本に北条の頼朝の居所を東ノ御所と書いてあるところを見ると無論当てには出来ないが、北とか東とかあるのは伊東の館や北条の館からの方角であるらしい。そしてまた、小さな家であっても別館を建ててその中に居た事も、情理上ソウあって当然なことである。祐親の邸から幾らも離れていない鎌田村に居た鎌田俊長と云うのは、石橋山の合戦にも頼朝方となって出ている人で、しかも「豆州志稿」には鎌田政家の子と出ているので、鎌田は頼朝にとっては最も親しい家来筋なので、或いはその辺に住んで居た事かと初めは一寸そう思ったのであるが、鎌田には男子が無かったので、自然とそうは思えなくなった。何れにしても鎌田俊長は頼朝の住居を襲って之を殺そうとしたのである。ところが伊東祐清は妻の縁で比企尼から頼朝援護の頼みを受けている事も有り、且つそれでなくとも罪の無い人を殺すのに同意できない、しかしながら親の命令に背くことも出来ない、そこで密かにこの事を告げて頼朝を逃がしたのである。頼朝は既(すんで)の事に父の義朝と同様に家来筋の者に討たれて仕舞うところであったが、祐清の為に助かって命からがら逃げたのである。安達盛長や小野成綱を後に残して、サモサモ頼朝がまだ居るように装って、大鹿毛と云う馬に跨り鬼武を従者にして北条時政の許に逃げたと云うのが、「源平盛衰記」や「曽我物語」の文面で、走湯山へ逃げたと云うのが「吾妻鏡」の文面である。走湯山即ち伊豆山へ逃げたのが実説か、北条の許に逃げたと云うのが実説か、詳しくは分からない。しかし「吾妻鏡」は実録だ実録だと云うが一概に信じるわけには行かない。総てその時代に出来たものが、その時代に出来たというだけで信用出来るものならば、明治の新聞は明治に出来たので全て信用できる事になって仕舞うが、そんな馬鹿な理屈がある訳のものではない。その時代のものはその時代に親しいだけに、或いは一方だけの話を詳しく知って他の一方の話を知らず、或いは双方の話を知っていても自己の偏った考えを差し挟み、甚だしくは讒訴や中傷を加えて捏造したり事実を隠滅したりして、その結果甚だしく偏向した誤った記事が出来る。政治上の二団体が争う場合など、大抵は双方で嘘ばかり云っているのである。「吾妻鏡」はどうも北条氏が勝利者になっているので、北条氏に有利になるよう書かれていないか。或いは初めはそれほど北条氏に有利に書かれて無かったのが、後になって改ざん訂正されたかどうかも分からないのである。イヤもう一歩進んで、「吾妻鏡」は北条氏の祐筆(書記)が記したもので、それに他者の記事を混入したものであると云う人も居るくらいである。そのため頼朝に対して同じくらい大功績の有った比企氏一族に関しての記事には、どうも信用できないところが有るようである。それから北条氏と同様に頼朝の監視に当たっていた伊東氏の記事にも何故か知らないが明らかに間違いがある。マズ第一に祐親の二男の名は、祐兼か祐忠か祐氏か助長かはたまた祐清で有ったか不明であるが、祐泰でなかった事は確実で、それは祐親の長男が祐泰(河津祐泰)であるので同じ名を二男に付ける訳が無いからである。であるのに、「吾妻鏡」では曽我兄弟仇討の文面で祐親の長男を祐泰として居ながら、二男の名を祐泰と記しているのは考えられない間違いである。また仮に祐清(仮に二男の名をここでは祐清とする。)が頼朝を逃した時を、即ち祐親が頼朝を殺そうとした時を安元元年九月の頃と記しているが、安元二年十月に祐親の長男の祐泰は大見や八幡に殺されたのであるから、祐親が頼朝を殺そうとした時には祐泰はまだ生きていた事になる。生きていたなら祐泰が何とか云いそうだけれどもトンと消息が無くて、まるで居ないようなのが実に不思議である。しかも祐泰が殺されたのは奥野の狩の帰り道であって、その奥野の狩には頼朝も参加して居るのである。イヤ奥野の狩は頼朝を慰めるために催されたと云うでは無いか、それでは何が何だか甚だ辻褄が合わない。祐親が千鶴を殺して猶も頼朝を殺そうとした時に、モシ祐泰が居て頼朝を殺そうとするなら、恐らく頼朝を逃すことも無いだろうし、頼朝を殺そうとしないなら、恐らく父を諫めるであろう。且つまた、奥野の狩には祐親も主人役として之に参加して居るのであるから、前年の九月に殺そうとした頼朝を狩に招く理由は無いのであって、たとえ強いてこのような事が有ったとしても、頼朝が招きに応じて狩場に赴く訳は無いので有る。憶測するに安元元年は治承元年の間違いであり、治承元年であれば「真字曽我物語」に治承元年とあるのと矛盾しないのである(しかしそうすると、祐泰が殺された時は祐親は大番で京都にいた筈でチト不都合であるが、「祐親法師は頼朝公を誅殺しようと欲す」と云うのであるから、祐親が頼朝を殺そうとしたのは入道した後の、即ち祐泰が殺されてその菩提を弔うために剃髪した後のことに間違いないようである)。「吾妻鏡」がどのくらい信用してよいかを論じるのが目的では無いので、頼朝が殺されかかったのが安元元年でも治承元年でも別に差し支えないが、「真字曽我物語」が頼朝と政子が通じたのを安元二年三月半ばと記して居るのは笑うべき自己矛盾で、恐らく「吾妻鏡」を参考にしたことによる間違いであろう。政子が頼朝に恋文を貰ったのは二十一だと云うから、安元二年ではまだ十九であって、治承二年で無くては二十一にならないので、この点に於いても自己矛盾を再度起こしている。前後の事情を推測すると、どうしても安元二年の十月に祐泰は死んでいて、治承元年の八月か九月に頼朝は祐親に殺されかかって北条へ逃げて、治承二年の春の政子二十一の時に、頼朝と政子の情交が成り立ったものと見てもよさそうである。サテ頼朝が伊東から逃げた時は、伊東から宇佐美を通り浮橋峠を越えて南条から北条へと、時政の許に逃げたものか、伊東から網代・熱海を通って一度伊豆山へ逃げてから北条の方へ行ったものか、伊豆の人の間に遺っている伝説では浮橋越をしたようであるが、しかし網代道の方にも頼朝の何とやら清水などが有って、コチラを通ったと云う伝説が無い事は無い。どちらにしても闇の夜道をアタフタと逃げ出したのでは、木の根につまずき、石に滑り、魂も砕け散る思いでホウホウの体だっただろうと思われる。まして「曽我物語」や「源平盛衰記」の記事では、大鹿毛(馬)に跨り鬼武と云う童子を従えて逃げたと云うのであるから少しは景気も好いけれど、伊豆に残っている伝説では馬に乗っているどころか、徒歩でハアハア云いながら逃げたらしいので、方言で榊のことをシバと云うのだが、宇佐美の外れに「頼朝の隠れシバ」などと云うのさえ残っていて、「頼朝公はこのシバの下に隠れて、雨に遇った鶏のように暫く坐って息を休めて御座ったのである。」などと云われて居るのである。大鹿毛に跨り鬼武をお供にしたと云うよりも、徒歩で向う臑や膝ッ小僧に傷を付け、樹の根に生爪を剥がして、ハアハア云いながら逃げたと云う方が本当かも知れない。とにかくこの夜逃げは実に辛かった事だろう。なので、その恨めしい悲しい辛い夜逃げの道すがら、「南無八幡大菩薩、仰ぎ願わくば、頼朝に冥助を与えたまえ、たとえ広く東国を心のままにする事は叶わないまでも、せめて伊豆一国の主となって、憎い祐親法師を引捕らえて、愛児の恨みを報わせ玉え、頼朝の願いが拙く賤しくて、神恩が叶い難ければ、御本地は弥陀如来でおわしますれば、速やかに命を召して後世を助けたまえ、」と祈ったと云う事であるが、思えば実に尤もな事である。その夜の明け方に伊豆山へ着いたか北条へ着いたかは不明であるが、とにかくその後は蛭ヶ小島に居たので、やがて安達や小野も伊東を出て例の通り随従した事だろう。祐親の方では頼朝に逃げられて仕舞って、少し後腐れが残ったような気持もしただろうが、機会があったら片付けて仕舞おうと心の内で思って居た事だろう。また祐親は厭がる八重子を無理やり江間次郎と云う者へ嫁入りさせて仕舞った。この江間次郎はどう云う人か不明だが、江間と云うからには江間の地の人であろうから、そうすると頼朝の居る蛭ヶ小島とは狩野川を挟んだ極く近い地の住人である。特にこの江間次郎とお八重さんとの間に出来た子を、後年に北条義時が烏帽子子(えぼしご)にしているところを見ると、北条に少しは因縁の有った仲と見える。頼朝にして見ると我が子は殺され自分は殺され損なって居るのだから、お八重さんが眼と鼻の先の地侍に嫁にされているなどとの、人のそのような噂を聞いた時の心持はどのようなものであったろう。十三の時に源内兵衛真弘を真っ二つに斬った気象である。オノレ祐親メと思わなかった事は無かったであろう。しかし頼朝はモウ十三では無かったのである。ズッと育って年を取っていたのである。年を暦の一年一年で勘定しないで、心の錬り具合で勘定すれば、祐親よりも頼朝の方がズッと年を取っていて、祐親などは頼朝の目には青二才に見えたかも知れないのである。青二才でも子供でも憎い奴は憎いに違いない。しかし頼朝は京都以東を支配するようになってからも、長田庄司父子を直ぐに捕えて打ち首にはしなかった恐ろしい人なのである。何でも直ぐに石を置きたがるケチな碁打ちでは無くなっているのである。安達盛長や小野成綱を助太刀にして祐親の首を取りにでも行ったら、却って祐親の為に討ち取られて仕舞ったかも分からないのである。とにかく頼朝は牙を噛んだかどうかは知らないが、ウムッと堪えて仕舞ったのである。お八重さんは可哀想に想わない人に添わされたのである。厭だったに違いないから、厭だ厭だと云い張ればどうであったか。頼朝が天下を取った暁には大した事になったであったであろうが、厭々ながらも父の命令に従ったところを見ると、その気立ても思い遣られる。サゾ優しい女らしい親孝行の人であったらしい。北条の娘の政子も親の約束で山木判官のところへ無理やり嫁に遣られたのである。しかし政子は恐ろしく気の強い女であったので、頼朝と出来ていたものだから一ト晩も山木の館に居ないで、婚礼のその晩に山木の館を逃げ出し、夜道を草の露を分けて伊豆権現の文陽房覚淵の許へ山越えをして辿り着いた。そしてそこから文を遣って頼朝を呼び寄せた。頼朝もソウなって仕舞っては今更仕方ないので、安達盛長や小野成綱をはじめ頼みの者を呼び集めて、それと伊豆山の宗徒を力に山木判官の来襲に備えたのである。そのようなイキサツが有ったので挙兵の時には真っ先に山木判官を血祭りにしたのであるが、気の毒なのは山木判官であった。政子はこのような女だったので二位の尼将軍と成ったが、お八重さんの方は政子に比べて遥かにおとなしい女だったので、後世から見るとチトお人好しグウタラに見えるが、一体にこの頃は名家の女性なども夫に別れると、二度三度と嫁に行くのは何でもない普通のことで有って、貞女を立てるなどと難しいことを云うのは、徳川時代になって浄瑠璃が盛んになってからである。常盤御前は清盛に仕えた後は又々他の人に仕えている。巴御前は義仲と別れてからは和田義盛に添っている。安達盛長の妻は以前は惟宗広言の妻である。伊東祐清の妻は後に平賀義信の妻になっている。河津祐泰の後家は十郎・五郎を連れ子にして曽我祐信の妻になっている。土肥遠平の妻は前は即ち工藤祐経の妻なのである。再嫁は別に何とも思われなかったのである。伊東祐親は一体に我意の強い人で、工藤祐経に与えた我が第二女を祐経と仲が悪くなったので無理に取り返して仕舞って、それを土肥遠平に嫁入りさせたのである。八重子もまた姉の例に従わされて仕舞ったのである。祐親は二度までもそう云うことをした頑固な老人であったから、工藤祐経に恨まれて自分も矢を受け、倅の祐泰も射殺されたので有って、曽我兄弟の健気な仇討な為にその仇であった工藤祐経を憎むのであるが、根本の原因は祐親の悪行から全てのイザコザは起こったのである。その代わりにまた祐親は意地の張った男らしい良いところもあった男で、頼朝が政子の件で伊豆山に立て籠ると、戦いが始まったら退治して遣ろうと云うので一族を従えて熱海路へ出て来たり、また石橋山の合戦の時には、三百余騎を率いて頼朝陣の後ろの山に陣取って、頼朝を襲おうとしただけでなく、治承四年十月十九日には頼朝の勢力が大いに強くなっていたが、それに屈せずに今の手石港即ちその時分の鯉名の港から船を出して、陸路は源氏の勢力で塞がっているので海路から平家の維盛勢に付こうとしたのであるが、運悪く天野遠景と云う者の計略にかかって生け捕りにされたのである。ところが祐親の一番上の娘が三浦義澄で、三浦一族は頼朝に取っては無類の忠義を尽して居ることもあって、一トまず義澄に預けられたので、義澄はその内に何か折に命乞いをしようと思って居たところ、寿永元年に幸いに政子懐妊の風説が有ったので、義澄が命乞いをすると、頼朝も深い怨みが有るがどうも仕方ない。「それでは連れて来い、面前で赦して遣る」とのことであった。そこで義澄は使者を遣って御所で待ち受けて居ると、祐親は頼朝の前に出るのが厭であったのか、その二月十四日に腹を切って仕舞ったのである。考えて見ると愛すべき好いところのある人なのであって、清盛を少し小さくしたような法師なのである。こう云う親に強制されたのだから八重子も敵わない。特に婦人の再縁は何とも思われて居なかった時代であるから、厭であったろうが江間次郎を夫に持ったのである。この八重子に就いては性質も行為も何も知るところは無い。ただ父の祐親と祐清の性質は知れているのである。祐清は実に美しい性質の人で、頼朝の危難を救ってこれを免れさせたことは前に記したが、それで頼朝は命を拾ったのであるから、祐親と共に捕えた時に頼朝は祐清を賞しようとしたのであるが、「父既に御敵であります、その子としてどうして賞を頂けましょう、御仁慈(おなさけ)として釈放賜りたい、父の遺志を継いで平家に味方したいと存じます。」と云ったと云う事である。それで実際に頼朝の褒賞を辞退して、釈放されたのを幸いに平家の軍に従って頼朝軍と戦うのも如何なものかと思ったのか、義仲軍と戦って斎藤別当実盛と同様に篠原の戦で死んでいる。兄の河津祐泰の仇の大見成家と八幡行氏を討って取ったのもこの祐清であって、この人は実に勇気あり正義あり、しかも情のある優しい、伊東一族では第一の人物で、平重盛を小さくしたような人である。祐親入道さえ無理を押し通そうとしなかったならば、祐清は家柄もよし、また比企尼との関係などもあって、鎌倉ではかなり用いられた事であろうが、惜しい武士を烈しく回転する時勢の車の歯の間に、ムザムザと殺して居るのである。お八重さんはこの人の妹で有ったから、ただモウ素直で優しい誠に女らしい女であったろうと想像されるばかりである。想像であるから余り当てには出来ないが、ピンピンと跳ねる女では無かったことは、親の命令に従って江間次郎のところへ行って、そしておとなしく半生を送ったことでも推測できる。その淑やかで素直なお八重さんと、三才の千鶴と、物優しくて義理も人情も知っていてしかも勇気ある祐清と、我が乳母である比企尼の三女で祐清の妻、即ちお八重さんの嫂の女性と、それから比企尼の長女の夫で忠義で親切な吾が郎党の安達盛長と、之に加えて小野成綱や童の鬼武などの間に在った頼朝は決して不孝ばかりの人では無かった。盛長や成綱のような郎党を持っただけでも人生の一大幸福で有って、世が進み人騒がしくなった二十世紀の世などでは、富貴な者であっても一人の盛長や一人の成綱を得る事さえ最早難しい傾向にある位である。ところが内にそのような得難い誠実な郎党が居て、外には祐清のような人を親類として、おとなしい八重子さんや三才と云えば片言を話すだろう可愛い千鶴が居て、衣食は比企尼から送って来ると云えば、流人とはいえその幸福は決して低くいものでは無い。野心さえ無ければ実に十二分に幸福な境遇である。仮に祐親入道が祐清のような気持で頼朝を遇して呉れたならば、当時の頼朝に取ってそれ以上の幸福は無かったであろう。父の恨みも晴らしたいと思ったであろう、源氏の家運も挽回したく思ったであろうが、これだけ幸福であったら、よくよくの好機会が無ければ動けそうもない事である。たとえ叔父の源行家が以仁王の令旨を伝えて来ても、たった四十六騎三百人程度(石橋山の戦いの時)しか集められなかった状況では、天下をかけての争いは始めなかったかも知れない。まして以仁王の令旨を奉じて起った源頼政は、一敗地にまみれて脆くも平等院の扇の芝の露と消え、予期した諸国源氏の蜂起も無く中心が瓦解したのであるから、頼朝の決起も実は好都合な状況には無かったのである。それで八月十七日の挙兵も実は止むを得ず手を出したような形跡さえ有るのである。妻子に親しみ周囲に恵まれ一家春のような中に安座して、平和の裡に年月も忘れて過ごすことは、実に多くの人の願いなのであって、それが人間の本性に根差した真正の姿なのかも知れない。火を放ち人を斬り流れを乱し陣を衝き、或いは死の山や血の河に駆け入り、或いは霜の野や月の夜に苦労し、功名の為、意気の為に、林野に鳥や獣も穏やかに眠る真夜中の、夢さえ能く結ばずに、焦り廻り狂い廻り馬鹿げたことをするなどは、寧ろ人間の願望の変態だろう。頼朝の功名に燃えた心は強かったに違いない。しかし八重子と千鶴と一緒に平和に生活したならば、或いは蛭が小島で気楽に暮らして老死したかもしれない。日々に千百遍の念仏を唱え、心経を誦して普門本を読んで、月々に三島明神と二所権現を拝して、菩提心と功名心に交った祈念を神仏に捧げながら、穏やかに一生を終えて仕舞ったかも知れないのである。しかし平家の暴虐には世も人もウンザリしていたのである。頼朝が起っても起たなくても機運の風は吹き渡っていたのである。春天に笑いを含んで勇ましい声を挙げて啼こうと云う鳥は、アチラの林にもコチラの森にも沢山居て、皆その翼を鼓し羽を振るって舞い上がろうとしていたのである。祐親が残酷な事をして頼朝を憤激させ、せめて伊豆一国の主となって祐親法師の首をと八幡大菩薩に祈願させたのも、実に不思議な因縁で、この願いが叶わないなら頼朝の命を召し玉えとは、願いもまた凄惨極まるではないか。これほど迫り迫られれば決起しないではいられない。そこで頼朝は挙兵したが、それも矢張り機運がソウさせたのである。決起するより他に路は無かったのである。雉と云う鳥は犬に追われても飛ばない。犬がユックリ追うと雉もユックリ逃げる。犬が素早く追うと雉も素早く逃げる。草むらの中を追われて逃げられるだけは走って逃げる。しかし一旦進路が窮まって犬の一躍に遇えば忽然と舞い上がるのである。頼朝は殆んどこの雉のようであった。祐親入道の為に平和な生活から駆り出されたのである。子は殺され婦は奪われ自分もまた襲われようとしたのである。ただ飛び上がる迄である。思えば祐親に苦しめられた時の頼朝ほど世に不幸な人が二人と有るだろうか。父の義朝は人も有ろうに家重代の家来筋の長田父子に殺され、子の千鶴も人も有ろうに家重代の家来筋の伊東祐親に殺されて居るのである。人の世に於いて、我の尊い者は父より尊い者は無いのである。我の可愛い者は子より可愛い者は無いのである。この尊い者を家来筋の者に殺され、この可愛い者を家来筋の者に殺され、そして我が婦を奪って他人へ与えたのも家来筋の者であり、しかも、流罪に苦しむ此の我をも殺して草莽の枯骨としようとするのも家来筋の者なのである。酷薄な人情、危険な世間、これが福の無い汚れた世の実相であって怪しむに足りないとは云いながら、深い憤りや猛烈な怒りは大猛火となって紫炎を放ち紅光を飛ばして、この憎むべき恨むべき世界を焼き尽くさないでは居られないでは無いか。以仁王の令旨を得て頼朝がマズ手に唾をして立ち、諸源氏が競い合って終に平家一族を倒したことは、実にその様な気運に有った事とは云いながら、頼朝が永い辛抱の間も隠し持っていた一点の星火が、祐親入道に摘出されて薪を添え油を加えられて、焼天の炎が挙がったことに本づいている。ソモソモ怒りの火が内に発すれば慈悲の涙は外に乾く習いで、伊東を逃れた後の頼朝の心は全く壊れたのである。悲しいかな、画にして見れば角が生じたのである。大望の他には何も無くなったのである。北条の娘に艶書を贈ったのも意図が有ってのことで、少しも愛情有ってのことでは無い。感情的に恋をしたのでも無ければ、肉欲的に婦人を求めたのでもない。ただモウ北条を縁者にして味方にしようと云うのであった。その証拠に伊東の八重子は継子で有った為に不利があったと悟り知ったので、北条の二女は美人で無く長女は美人と聞いていても、二女は継子で無く長女は継子だと云うので、長女では無く二女に当てて恋文を贈ったと云うでは無いか。その情に遠く事を急ぐ様が想われるのである。継子には母親の冷遇反発が有るが援助は無く、従って父の意向は想わぬところへ逸れて仕舞う。伊東の悲劇なども八重子が継子で有った為で、モシ八重子が継子で無かったならば、母の取り成しや舵の取り方によっては、仮に祐親が自分の婿にするのを悦ばないとしても、千鶴を淵に投げ入れ、頼朝を襲って討とうすることは無かったと思われるのであった。そこで継子の縁に連なることの危ういことが身に沁みたことであろうが、しかし純粋に色恋だけのことであれば、継子かどうかは問題で無いハズであるから、美しい娘の方へ文を付けそうなところを、何でも好いから継子でない方へ手を出しにかかったところに、その心中がうかがい知れるのである。即ち北条を縁者にして何かの折には力になって貰おうと云うのだ。ところが「運命の計らい」はサテモ不思議に巧妙で、その恋文の使いを云い付けられた安達盛長がツクズク考えるに、北条の二女は不美人なので将来の夫婦仲が心配である。一旦縁を結んでから我が君が之を捨てたりなされては、北条もまた敵になろう。それより継子でも美しく賢い方が将来は安心だ。具合の悪い事も起こらないであろうと云うので、信盛が途中で思案して二女への文を長女の方へ贈ったのだと云う事である。実に盛長は怪しからんことをしたものである。それで、頼朝と政子の交情は成り立ったのであるが、政子はその事情、即ち自分のところへ来た文では無いと知りながら、それにも関わらず自ら進んで源家嫡流の君の内室となることを名誉として、その一生を捧げたのであろうか。また二女は自分のところへ来た頼朝の文の有った事を知っていたであろうか、これ等の事情は甚だ不明で有るけれども、彼の有名な政子が妹の夢を買った話は、いささか此の辺の消息をそれとなく伝えているようである。即ち実は二女への恋文であることを二女も政子も知っていて、二女は政子が頼朝と通ずるのを妨げないだけでなく、却って自分も助かるような気持ちがあって、スラリと頼朝を政子に譲って仕舞ったのではないだろうか。実現していない事は全て夢なのである。夢を売った。夢を買った。などは甚だ佳趣がある。しかもまた、政子は自分から進んで頼朝を譲り受けたのでは無いだろうか。また頼朝が二女へ付文をしながら、見当違いの長女の政子と契りを結んでしまって、何も云わずに済まして居るところなどは実に奇妙である。もちろん政子は美しく怜悧でしっかり者であって、そしてその政子が自分から進んで遣って来たのであれば男冥利で、後には引けないところから頼朝も承知したのだろうが、二女へ付文をして長女で済ましてして平気で無頓着で居たところなどは、確かに政子が気に入ったからであろうが、頼朝の超常識も甚だしいと云いたい。政子が後年頼朝を、少しの油断もしないで、柱に括り付けた猿のようにしておきたがる様子が見えるのも、最初がこう云うイキサツで出来た仲なので有るから無理も無いのである。北条へ移ってからの事はさて措いて、とにかく伊東を出てからの頼朝は、モウ八重子を日暮の森に思い、千鶴を前庭の花の間に見て悦ぶような人では無くなって居たことは、政子の件でも凡そ推測できるのである。サテそれから時政が政子を山木判官へ与える約束をした事や、政子を山木へ遣った事や、政子が伊豆山へ逃げた事や、頼朝が政子と共に伊豆山に籠った事など、機運は刻一刻と迫ったのである。そこへ源行家が以仁王の令旨を持って来る、平家は諸国の源氏の殲滅を密かに企てている。機運の鞭は内からも外からも頼朝を打って決起させた。そこで頼朝は決死の覚悟で挙兵したのだ。巨石は転げ出し、山木判官はいい面の皮で第一番に圧し潰されて仕舞ったのである。それ以後はバリバリガラガラと、木曽も圧し潰す、平家も圧し潰す、奥州も圧し潰す、義経・範頼・行家も圧し潰す、優しい性質もチラチラ見えないのでは無いが、人を殺すことを草を刈るように行う人になって仕舞ったのである。しかし頼朝がそのような人にならなかったら、頼朝のしたような事業は成らなかったかも知れないから、頼朝が八重子と千鶴と睦まじく暮らすことを許さなかったのも、頼朝の大きな頭に角の有るようにしたのも、機運がソウさせたのであると云おうか、春の鞭は優しいその日光の線である。その鞭を加えられれば野も水も総て春となって、草の香り花の香り、鳥の声、蛙の声、総てが春になるのである。秋の鞭は冷ややかなその風の声である。その鞭を加えられれば加えられたところは総て秋となって、稲は朝日に黄ばみ、柿は夕陽に赤らむのである。頼朝に加えられた機運の鞭は祐親入道が手にして居たのである。そして頼朝を酷く打って機運に乗じさせた観がある。祐親がモシ頼朝を殺そうとしなかったならば、頼朝は時政を頼らないのであって、頼朝が政子と通じる事も無ければ、山木判官を討って挙兵することも無く、頼朝が挙兵しなければ義仲も義経も時の声を挙げることなく、平家も急には瓦解しなかったのである。しかしそれも推測に過ぎない。事実はこのようにして、機運はこのようにして動いたのである。そして頼朝は遠慮なく挙兵して手腕を振るって日本の歴史の一大転回を成し遂げたのである。法華経八巻一部を読誦するには、能く勤めても一日はかかるのである。頼朝が覚淵に教えを受けた時は既に八百部に達していたと云う。ソモソモ頼朝は何時頃に妙経千部読誦の願いを立てて、何時頃から之を読誦し始め、行き先の分からない運命の闇の中に在って、祐親入道に報復する機会が来るのを待ちつつ居たので有ろうか。
(明治四十一年九月)

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