幸田露伴の小説「暴風裏花②」
費宮人は年はたった十六でありました。宮廷に奉仕していたのですから何れ相当な家の者でしょうが、その出生地や父母は分りません。まことに端麗で、そして心の香りが外に発して自ずから人を襲うものがありましたので、天子が周皇后に仰せられて、公主の侍女にされていました。公主も大層これを憐れまして、頼もしくもまた好もしくも思(おぼし)召されました。その中にも凶賊どもの勢いが盛んなことを天子がご心配されるご様子を拝見して、費宮人は年若い婦人の身ながらも深く心を傷めておりました。王承恩と云う者がいましたが、これは宮中の役人で、天子様近くに仕えている者でして、即ちいわゆる宦官(かんがん)で、宦官と云うと奸佞(かんねい)な者のように聞えますが、この王承恩は立派な人でありまして、明史巻の三百五にその伝が出て居りまして、清朝になってから地六十畝を賜って祠(ほこら)を建てられて忠を顕彰されたほどの忠臣です。その王承恩に向って費宮人は外の様子を尋ねました。すると王承恩は年僅か十六才の花のような宮人が賊の事などを問うものですから、「御身は禁中深きところに居たまう者、賊の事など問われるのも及ぶまい」と云いました。すると宮人は、「まことに仰せのように深禁の居る者でございますれば、能く外の事を知って予め計りもうけねばと存じまして」と云いました。そこで承恩は、「ハテ不思議なことを云う人かな」と思いましたが、その後、賊の勢いは愈々盛んに、天子は愈々御心を悩まされると、費宮人が承恩に外の事を問うことが愈々多くなりました。承恩は、「どうして小生にだけそのようなことをお尋ねなさるのか、他の人々にもお尋ねなされては」と云いますと、費宮人は「他の人々は皆、心に君恩を念じておられる方は多くございません。卿の忠誠心の深いことを頼りに、しばしばお尋ね申すのです」と答えた。承恩は聞きどころのあるその答えに、「以前、御身は予め計りもうけると云われたが、どのように計られるのか」と尋ね返しますと、宮人は思案深げに、「もし不幸なことが起きた時は、計りごとはただこの生命(いのち)を捨てるばかりでございます。ただ、生命を捨てるのは一ツですが、徒死(あだじに)はすまいと思うばかりです」と答えました。承恩は信じられず思って、「昔の人が云うには、生きてる人を死なせて、復(また)生き返らせて、生きてる時の言葉と食い違わなければ信と云えると云うが、御身はこれができますか」と云い返した。その時に費宮人は凛然と眉を揚げて、「ただ云うだけで何になりましょう。結果は後日わかりましょう」と云いました。
魏宮人と云う者も同じく一宮女でありましたが、費宮人よりも少し年長で、この人もまた美しい人で、費宮人と仲が良い人ですが、その言葉を聞いて、「貴方の計りごとは甚だ難しい、私にできるとは思えないので、万一の時には身を捨てて志を遂げるだけです」と云った。承恩はこれを聞いて、費宮人の思うことが何事か知らないが、費宮人も魏宮人も世に稀な心の持主であることを感じました。
運命の歯車は物恐ろしい軋り声を立てて刻一刻と回転して来ました。甲申三月十九日と云う日は何と云う恐ろしい日でありましたろう。殺人鬼王の李自成は官軍を打ち破り打ち破って攻め入って来ました。忠義の人々も今は大抵が討ち死にしました。勢いは既に去って宮城の守りも力及ばなくなりました。賊は飛梯(飛び梯子)を架けて西直門・平則門・徳勝門の三門を乗り越えて踏み込んで来ました。王承恩は宦官の身ではありましたが、大砲を放って一旦賊を打ち鎮めておいて、取って返して御前に出ました。他の宦官や親侍は皆自分の身の計りごとをしているだけでした。承恩は悲憤の涙ながらに「御運は既に迫って居ります。今は此れ迄と覚えましてございます」と申し上げました。流石(さすが)に豪傑の血を継いでいる天子でありますから、承恩に命じて宮中を見苦しくないように取り片づけさせられて、周皇后と、「この世限り」のお言葉を交わされました。宮中の人は御二方を環(めぐ)って裂帛(れっぱく)の声を発して悲しみ歎きました。皇后はそこで物静かに縊死され、袁貴妃もまたつづいて自縊されました。天子は御剣を抜かれて、お情けをかけられた嬪妃数人の何れも黄泉に御供致したい申す者を刃(やいば)され、それから御最愛の公主を召されました。公主のお年は僅かに十五、花の蕾はなお若く、春の風は今や寒く、天子は御涙の声を曇らせ給いて、「爾(なんじ)は年十五なり、何とて不幸にして我が家に生まれたるや」と仰せながら、左の袖に御面(おんおもて)を掩(おお)い給いて、右の御手(おんて)に刃を御揮(おふる)いになりました。わずかに公主の左の御臂(おんひじ)を傷つけ給われましたが、御手は震え剣を揮うことが出来ないので、公主に自ら処する道を諭されるにとどめて、皇帝は承恩を随えて南宮に至り、萬歳山の寿皇亭に登って自縊し給われました。承恩は正(まさ)しく天子の御果(おんはて)を見届け奉りた後に、「この世の御奉公もここに終わった」と、自分もまた帝の右の方に、少し下がって同じように世を去って、帝の御後(おんあと)に付き従ったのでした。帝がこの時自ら衣襟に書されて、自分の徳の薄いことを責めて、祖宗に見(まみ)える面目の無いことを云って、「一身を賊の分裂に任せ、民人の一人をも傷つける無かれ」と云い給われたことは、実に史を読む者に涙を落させるものがあります。
サテまたここに、承恩と同じ宮中の役人で尚衣監の何新と云う者が走って宮中に入りました。その時すでに帝は南宮に去り給いてそこに居られなかったが、公主が地に倒れ給いて他の宮人は悉く散ってしまって、費宮人だけが公主の御傍におりました。そこで何新は費宮人と共に、気絶しておられた公主を介抱すると、公主はやがて意識を取り戻されましたが、「父皇(ちちぎみ)が我に死を賜いたるに、我は何として敢て生を偸(ぬす)もうぞや、かつ賊が至らば必ず尋ね求めように、我が隠れ通すすべはあるまい」と云われました。これは如何にも道理千万で、しかも賊は尋常の賊ではない。鬼のような夜叉のような賊である。なまじ生き恥をかくよりは死んだ方がよいと思われたのは無理は無く、皇帝が剣を揮われたのも実に死を暗示されたのでありました。何新も行き詰まって言葉が無くなりました。その時、星の眼(まなこ)に不屈の意気を含んで、予(かね)てから深く思いめぐらせていたもののように、静かに口を開いたのは費宮人でありました。「恐れながら公主の御装束を婢(わたくし)に賜りとうございます。さすれば婢が賊を欺き、公主を安々と落ちさせ給うように計らいましょうに」と云いました。何新は進退窮まったところに路を得た思いがしました。そこで公主に勧めましたから、公主もやむなく衣を費宮人に授けて泣いて別れ給いました。費宮人の涙の目と公主の涙の目、涙眼相見て言おうとして言葉を知らず、何新はただ慌ただしく公主を背負い参らせて宮中を出ました。
費宮人の心の中はただ公主を落とし参らせてその御身の安全を計るだけでは無かったのでした。公主の御衣裳を賜ってこれを身につけた費宮人は、花のように鮮やかで雲のように麗しい錦繍(きんしゅう)を纏って、スックと立ち上りました。首尾よく何新の背に負われて公主は落ちられたであろうか、国丈の邸に何新は向かわれたが今はどの辺りを渡らせ給うか、御福薄かりし両陛下・袁貴妃・王太監や日頃見交わし呼び交わした宮中の人々の、生別・死別、ソレを思いコレを思うと、心は車のように転がり身は石のように冷えて、我知らず星のような眼で天の一方を見遣り唇を緊しく結んで憤怒と悲哀に顫(ふる)えましたが、その時ドッと大歓呼の声が聞こえました。憎むべき凶賊李自成の大軍隊が今や宮城の西門である承天門から、凱歌の大波を漲(みなぎ)らせて侵入して来たのでありました。
李自成の賊軍はついに抵抗者を全滅にして、完全に宮城を占領する勢いになりました。そこで自成は意気揚々と入城して来たのであります。賊軍が一斉に声を挙げて歓んだその勢威は、天風が秋に吹いて、海潮が陸を呑むように、防ぐことの出来ないものでした。
この有り様を感知すると、悲しく清(すず)しい声を振り絞って大いに呼ばわったのは魏宮人でありました。梨の花が冷たい夕べの雨に遇ったように、青味を帯びるまでに凄まじい白い顔面(おもて)に厳とした意気を漲らせて、予ての覚悟に従って、今や生死の関を超え、斃(たお)れてしかも屈しない精神上の勝者であろうとするのでありました。「凶賊は今や既に大内裏に乱入して居るのでござりますぞ、方々(かたがた)よ、禽獣にも等しい凶賊どもが乱入致さば、我等どうして身を全う出来ましょうや、逃れる道も無い中、あさましい者どもに辱めを受けて生き永らえて何としましょうぞ、早く、早く、御覚悟なさりませ」と教え諭しました。声は寒夜の星の下に黄金の鈴を振るように、心は烈炎の火の中で善財童子が身を躍らせようとするようでした。そしてその手本を示すように、自分自身が真っ先に奮い立って身を躍らせて御溝(ぎょこう)に飛び入りました。これを見て宮中の美人たちも、「まことに魏宮人の云われるとおり」と思いましたから、桃も李も梅も海裳も皆これまでと、魏宮人の行為に倣って身を捨てて心を全うしてしまいました。その人数はおよそ三百人ばかりで、御溝はそのために、とりどりの美しい衣服に紅(くれない)乱れ、翠(みどり)乱れて、蘭や麝香(じゃこう)の香り幾日か漂ったと云います。まことに悲しくもまた恨めしい物語ですが、この魏宮人が河に投身したことは、明史の巻の三百九にも、「宮女魏氏河に投ず、従う者二百余人なり」と記してあります。如何にもその時の宮城の有様は惨憺たるもので、悲惨の極みであったと思われます。象と云う獣は永く人に愛育されますと、能く人の情を覚りまして、自分も人と共に悲喜するものでありますが、この時宮中の像房に永く飼われていた象の数匹は、涙を流して哀吼(あいこう)したと云うことが、史上に記されています。虚では無かったでしょう。象さえ悲嘆の涙を流したほどの宮中の状態は、まことに思いやられたことです。
この悲しい憤ろしい情けない状況を、ジッと堪えて見送っていました費宮人は、魏宮人等の最後を見終ってから、自分は自分で思うところが有りますから、宮中の御庭の空井戸の中に潜み隠れました。一時の混乱の中で無駄死をしないようにとの配慮からでした。
勝ち誇った李自成はその時、氈笠(せんりゅう)と云いますから毛氈で出来た笠を冠りまして、褾衣を着て、烏駁馬(うはくば)と云いますから、黒色にさし毛のある馬に乗って、そして誇り高ぶって承天門から入りました。そして、止せば良いのに自分の弓術を自慢して承天門の額を射ったりなどして、後の人に笑い卑しまれたりしていますが、とにかく威張り散らして乗り込んだのであります。そして皇帝や皇后やその他の貴い人々を拉致しようとしたのですが、人々は皆既に不名誉に生きることを敢てしませんでしたので、明の高官の人々は范景文をはじめとし勲戚や劉文炳以下の名のある者四十余人、皆国難に殉じて節義に死していますから、やや手持無沙汰でありました。しかし、隅々まで捜索させますと、宮中の空井戸の中に荘厳(りっぱ)な服装をした人が居るというので、それとばかり引き揚げさせました。
賊兵は空井戸の底から、錦繍を身に纏い、珠玉を飾った、端厳美麗な気高い若い姫君を引き上げましたから、ビックリいたしました。言うまでも無くそれは公主になり代わった費宮人でありました。費宮人は地上に現れると、少しも怯(ひる)み臆することなく、威厳をもって、「卑しき者ども無礼をいたすな、退(の)け、我は長公主なるぞ」と云って退(しりの)けました。賊どもは更に驚いてこの事を李自成に報告しました。自成は喜んで宮殿に引見すると、実に立派な姫君でして、その豊麗秀美なことは玉のよう花のようでありましたから、涎を垂らさんばかりに悦喜して、心中では早くも之を納(い)れようかと思いました。
しかし、この自成と云う者は乱暴至極な者でありますが、それでも矢張り盗賊どもの総長となって万々人の頭となりましただけ、中々偉いところがありまして、その伝の中に、「酒色を好まず」と書かれているほど、自分の凡人的感情を制することを敢えてする者でありまして、そしてまた平常は「脱粟粗糲、その部下と甘苦を共にする」と記されて居りますように、現在の人々が云う玄米飯などを食べていた男であります。かつまた、ナンボ何でも田舎のヒツジ飼いであった者が、今や一天万乗の皇帝の上に登ったものですから、自ずから気が咎めて、幾らクソ豪傑でも何だか目に見えない神の怒りを受けているように感じていたのです。それに一ツは非常に用心深い、疑い深い、自分の味方でさえ信じない男ですから、その為もあったのでしょう。長公主を自分のものにすることを止めまして、そして最初から今度の戦いまで大功の有った羅将軍と云う者に勲功の賞として賜ることにしました。羅将軍というのが、自分の大切な片腕であった事は云うまでもありません。
費宮人は仕方ないことに、羅将軍に貰われることになりました。喜んだのは羅将軍で、美しい美しいしかも天子の姫君を我が妻とする幸運に接したのですから、相好をくずして李自成に感謝しました。そして費宮人を引き取って下がりました。
費宮人はあくまで長公主に成り切って居りました。溶ろけるようになって自分を大切にかしづく羅将軍に対して、「闖(ちん・李自成のこと)の命なれば躬(み)もこれに違(たが)うことは敢えてするまい、されども将軍、卿も思いはかられよ。躬は運拙くて亡びたとは申せ、皇帝の子として生まれたり、皇帝亡せたまいて、その祭りさえ未だ設けられていない、卿は能く事を取り計らいて、礼儀を欠くことなく祭りを設けて先帝を祭り奉り、また先帝に御従い申した王承恩をも祔祭して、威儀を正して礼を尽さるべし。さすれば躬も卿の人としての高義を感じ、躬もまた能く卿に従わん。礼儀を欠いて躬を強い給えば、不甲斐なくはあるが躬も皇帝の後である、さのみ(無暗)には侮り給うなよ」と辞色凄婉に情理を尽くして言いました。で、羅将軍は愈々喜んで、これは美しいのみならず、尊いのみならず、かつ立派な人が吾が一生の伴侶としたと思ったので、李自成に申し出て事々を巧く取り計らって、先帝の祭りを設けて王承恩まで祔祭するなど、すべて費宮人の満足するように計らいました。
祭りの式日になりました。費宮人は泣いて先帝と皇后を拝し終わりまして、それから忠臣王承恩をも拝しました。そして「王公よ、王公よ、卿は能く死してそして復(また)生きて、吾が言の真(まこと)なりや否やを見たまえ、吾将(まさ)に日頃の言を履行せんとする」と云いました。
祭りは済みました。羅将軍は目出度い日を待ちかねていました。やがて遂にその日が来ました。羅将軍の同僚等は歓喜して、大いに御目出度の音楽などを催して羅将軍を祝福しました。将軍は痛飲して、大酔(たいすい)して内に入りました。費宮人はまた筵を具して羅と杯を挙げました。そして頻りに羅に大杯を以って飲まさせました。将軍は天に歓び地に喜びました。そして、「こんな喜ばしいことは無い。ただし、吾(われ)が御身を得た以上は、謝恩の上奏文を上(たてまつ)って闖王に御礼を申さねばならないが、愧(はず)かしいことに吾が部下には文才のある人が無い。これだけが今の吾が心にかかる」と語りました。
すると費宮人は機を得て直ちにそれを掴みました。「それほどのこと、何の難しいことがありましょう。才拙いけれど、それほどの文は難なく躬が草します。卿は先ず寝室に入りて憩(やす)み給え、躬もしばらくして奏文を草して卿にお見せしましょう。」と云いました。そこで羅将軍は喜んで寝室に入りましたが、喜びの酒に酔い、心は楽園に漂っているので、忽ち雷のような鼾をかいて前後を忘れて眠りに落ちました。
費宮人は別に謝恩の文を草するでも無く、少時(しばらく)して、侍女等を退かせて灯を掲げて独座しましたが、周囲の物音も絶えて、一室はただ美しい灯が華やかに照らすだけなのを見て、玉で削ったような繊細な白い指で、錦衣の下から光かがやく匕首を取り出して抜き持ちました。羅のいぎたなく寝むる顔を確乎(シッカ)と見据えました。柳の眉が少し昂(あが)って、星の眼キラリと輝いた途端、青蛇のような匕首は羅将軍の首に咬み入りました。流石(さすが)に千軍万馬の間に往来した羅将軍です。十二分に刺されはしたが、刃を払って躍り上がりました。鮮血は滝のように迸り、費宮人は突(つ)と身を退きました。羅は憤怒に燃えて掴みかかろうとしましたが、如何に豪勇でも冷静に確実に頸脈を刺し切られていたので何とも力及ばず、屡々(しばしば)起きようとしては屡々倒れて、そしてついに倒れ終わりました。物音を聞きつけて部下どもが駆け付けましたが、扉は堅く閉じられていたので急には入れませんでした。無理に扉を破って中へ入ろうとした時に、宮人の声が聞こえました。「李自成をと思っていたのに、李自成を誅(ちゅう)せなかったことは、アア、これも天命か、憾(うら)めしい。」と云うのでありました。部下どもは愕然として急いで闇を破って入りました。灯火は何事もないように明るく照っていました。その光の前に美しい装いをして、雲の鬟(びんつら・髪を中央から左右に分けた髪型)、花の顔(かんばせ)、端然として言葉も無く費宮人は座っていました。驚いてよく見ますと匕首は深く喉に刺さって、すでに事切れていました。
李自成はこの事を聞いて、流石に凶猛獰悪の男でも舌を巻いて心を寒くしました。やがてまた感歎しない訳にはいかなかったのでした。そして遂に礼を以って之を葬り、しかも、公主は既に死したものと思って復(また)索(もと)めませんでした。
フランス革命の時にも、獰猛なマラーが一女子のために殺されたことは、革命史を読む者の驚嘆するところですが、この費宮人の事は明史には出て来ませんが、陸士雲の文や毛西河の言によって私はこれを知りました。思うに事実無根の話ではありません。李自成のような凶賊の魂も一婦人のために奪われたかと思うと痛快であります。誰が「弱い女性が何を出来よう」と言えましょうか。王承恩の忠魂もまた地下で之を知ったなら驚き嘆じて、その言葉を空しくしたことに感服したことでありましょう。
(大正十五年十月)